八



 自分が使っていた部屋に、背を押されるようにして入った途端、背後で扉が閉められた。
 高見沢は、化粧台の椅子に座り、にやにや笑いながら、銃口だけを向けている。
 右京は視線を巡らせた。
 ついてきたのは、他に、もう一人の男だけ。
 残った男は、隣室で、遥泉と国府田を見張っているのだろう。
 キングサイズのウォーターベッドに、突き飛ばされるように仰向けに倒される。
 右京は逆らわずに言われるままになった。
 無表情のままの男の手に、銀色に底光りする手錠がじゃらり、と揺れている。
 右手首にだけ、手錠がかかり、それは傍のベッドサイドテーブルの脚に括りつけられた。
 ようやく高見沢が、ゆらり、と立ち上がる。
「いい様だな、右京、……ぞくぞくするじゃねぇか」
 ベッド脇に立ち、拳銃を舌先で舐めるようにして高見沢はにやりと笑った。
 右京を拘束した男は一歩下がり、高見沢の背後に立つようにして、再び銃を構える。今の時点で、反撃する隙がないことは、明らかだった。
「すぐにやっちまいたいとこだが、まずは、この手の借りを返さなきゃなぁ……」
 しばらく何かを逡巡するように、手で拳銃を弄んでいた高見沢は、何を思ったか、ふいにそれをベッドサイドテーブルに投げ出し、代わりにそこに置いてあった銀製のランプを掴み上げた。
 カバー部分を振り払い、テーブルの上に電球部分を叩きつけて粉砕する。
 右京の耳元でガラスが砕け、飛び散った破片が頬に突き刺さるのが判った。
 膝が掛かる重みで揺れるベッド。見下ろす眼差し。五年の間に何があったのか、高見沢の目は、すでに理性を保った人のそれではなかった。
「待ちにまったこの瞬間を、たった一発で終わらせるのがもったいなくてなぁ……」
 すうっと持ち上げられた重量のある蜀台が、照明を遮って閃いた。
 次の瞬間、立てた状態で振り降ろされた銀塊が、右京の――右腕の関節辺りで激しい音を立てた。
 ベッドでいくらか衝動は和らいだものの、肘の内側に叩き込まれた槌の威力は想像以上の大きさだった。
「こういうのを、なんとかの生殺しっていうんだよな」
 再度、同じ箇所に打ち込まれる銀塊。
 脳が痺れるほどの激烈な痛みと共に、骨の砕ける不気味な音が鳴り響く。
「っ……」
 さすがに、一瞬、意識が飛びそうになっていた。それを、唇を噛んでかろうじて堪える。
「痛いか、右京」
 もう一度振り降ろされる。
 めきめきと音がする。自分の骨が粉砕される無機質な音。
「泣き叫べ、やめてくださいと懇願してみろ」
 もう一度。
 閉じた唇から声が漏れた。
 肩から先が、もう何の感覚もない。
 血の気が引いた顔を上げると、高見沢は手にした蜀台を投げ捨てている所だった。
「……もう、二度と使い物にならねぇよ。骨が粉々に砕けてるから、切断するしかないだろう」
 まぁ、生きてここを出られればの話だがよ。
 男はそう言って、くくっと笑った。
「……こんな真似をするために、わざわざ日本に帰ってきたのか」
 右京は途切れそうな意識を振り絞ってそう言った。
「それだけだと思うか、ところがそれだけじゃないんだよ」
 高見沢が被さってくる。
 馬乗りになった男は、ナイフを閃かせ、右京のシャツの胸元から、着ているスーツごと、左肩当たりまで切り裂いた。
「おい、あれを寄越せ」
 背後の男にそう言うと、高見沢は右京の顎を掴んで、唇を歪ませた。
「俺は今、中国で薬の売人を任されてるのよ、日本で学んだ豊富な知識は、どこに行っても重宝されるんでなぁ」
 背後にいた男が隙無く銃を身構えたまま、ポケットから取り出し、高見沢に渡した物――。
 先端から雫を滴らせた注射器。
「今度俺は、組織の日本市場参入を任されたのよ、そのために日本に舞い戻ってきたんだよ」
 肩に絡んだシャツを破られる。
 高見沢は舌なめずりでもするように、嬉しげに注射器を構えた。
「致死量すれすれだよ、右京、初めてなら、相当狂うぜ?取り澄ましたお前が淫らに狂う様を、俺は、見たくて見たくてしょうがねぇのよ」
 むき出しになった肩に、鋭い痛みが突き刺さる。
「なるほどね、」
 右京は呟いた。
「何だと……?」
「なるほどねと言ったんだ、耳まで腐ったか、ゲス野郎」
 見下ろす高見沢の目が唖然としている。
「お前はこうやって、焔村ミナトも薬物依存症にさせたんだと思ってな」
「……何が言いたい」
 見下ろすその目に、憎悪の炎がゆっくりと滲み出す。
「そうやって無理に関係を強いて、それでむざむざ死なせた女の復讐か、笑わせてくれる」
「な、んだと……」
「焔村が貴様みたいな外道を本気で好きになったとでも思っているのか、男の身勝手な理屈だな、レイプすれば、女が心まで許すとでも思ったか」
 ヘリコプターの音が聞こえる。
 音は次第に近づいてくる。
「何の騒ぎだ」
 右京に血走った目を向けたまま、高見沢が軋るように言う。
 背後の男が中国語で何かを答えた。
"――――総理がヘリで移動するらしい、特段変わった動きは無い。"
 右京にはそう聞こえた。
 そして、右京は声を張り上げた。
「莫迦げた妄想だな、高見沢、お前はずっと、一人で夢を見ていたんだ」
「黙れ、」
「そんなことにも気づかずに、何をしに戻ってきた、とんだ茶番だ、今ごろ焔村も笑っているだろう」
「貴様……」
 口角に泡を滲ませ、女に馬乗りになったままの高見沢はうめいた。
「貴様が殺したんだ、――俺は知ってるよ、貴様は、最初から焔村を殺すつもりだったんだろうが!」
 拳が頬に落ちてくる。
 骨がきしむような音がして、口の中に新しい血が溢れる。
 折れた歯と共に、それを吐き出し、右京は叫んだ。
 ヘリの音が煩くて――声を張り上げなければ、互いの言葉が聞き取れない。
「暴力が男の特権か、安いものだな、五年で頭まで悪くなったか」
「……右京、」
「貴様の目は死んだ魚だ、腐った匂いで息がつまる」
「…………」
「落ちる所まで落ちたな、高見沢警視正」
「……殺してやる……」
 ぎりぎりと歯軋りがした。
 高見沢の腕が喉を掴み上げる。前のめりになったその肩先が、背後から向けられていた銃口と重なった――その一瞬。右京が待っていたのはその一瞬だった。
 唯一自由になる左手。拳を固め、それを高見沢のみけんの間に突き入れた。
「ぐわっ」
 男はうめき、のけぞって仰向けに倒れる。
 まともに入れば、命さえ無くなる箇所。
 刹那に発射された銃弾が、耳をかすめてウォーターベッドに命中する。
 はじけた皮製のシートから、噴水のように溢れ出す水。
「うわっ、」
「なんだ、こりゃ」
 足元を取られ、一瞬男たちの気が殺がれる。
 跳ね起きた右京は、すばやく体制を整え、高見沢がベッドサイドテーブルの上に置いていた拳銃を掴み取る。ためらわずに引き金を引いた。
 その弾道は、過たず、高見沢の背後にいた男の肩に突き刺さる。
 片腕は手錠で拘束され、まったく感覚がないままだった。多分、今、有り得ない方向にねじれているのだろう。
 慌しく扉が開く。隣の部屋から、もう一人の男が拳銃を構えて駆け込んでくる。
 右京は銃口を男に向ける。重みで判る――残弾は一発。無駄にはできない。
 どうどうと溢れる水が、足元を濡らしていく。
「こ、こいつ……」
 ようやく身体を起こした高見沢が、わめきながらナイフを構えた。それまで、床でもんどりうっていた男は、すでに全身水浸しになっている。
「この女、化け物だ、人間じゃねぇ」
 ヘリコプターの音が激しさを増す。もう、言葉さえ聞き取れないほどに。
 銃を構えた男が中国語で何かを叫んだ。
 振り向いた右京の視界に、機体をひるがえして遠ざかっていくヘリの下腹部。
 同時に、上階から延びてきたロープを伝い、ベランダに飛び降りた男。
 男は窓を蹴破って、砕けたガラスを踏み砕いて拳銃を構える。
「遅いぞ、蓮見」
 拳銃を構えながら右京が叫ぶと、男は――蓮見黎人は唖然とした顔になった。
「私は仮眠と言ったんだ、十分過ぎたら起こしに来い!」
「悪いが、あんたみたいな解りにくい上司、もう二度とごめんだよ、俺は!」
 蓮見はうんざりした顔でそう叫んだ。


                    九


「室長―――っ」
 駆け込んできたのは遥泉だった。
 一瞬何があったのか、蓮見には判らなかったが、開け放たれた扉から隣室の様子を見て理解した。
 自分たちを見張っていた男が、拳銃を持って右京のいる部屋へ行ったので、遥泉は自力で縄を解いて脱出したのだろう。
「私なら大丈夫だ」
 即座に右京の声がする。
 蓮見は、ねじ伏せた男を膝で押さえつけたままで振り返った。調度最後の一人を取り押さえ、後ろ手に手錠を掛けた所だった。
 右京は――床の上に仰向けに倒れた高見沢に、馬乗りになった状態で銃口をつきつけている。すでに女を繋ぎとめていた手錠は、蓮見が撃ち壊していた。
 右京奏。
 それは、目を覆いたくなるような姿だった。
 口から溢れた血のせいか、肩先から胸元まで赤く染まっている。
 顔は青痣だらけで、目の下に鋭い切り傷があり、そこからも細い血流が筋を引いている。
 切り裂かれたスーツの下からのぞく、白い肩。
 だらりと垂れ下がった右腕には、まるで力が入っていないようだった。
「あんた、大丈夫って、……ものすごい怪我、」
 蓮見が、唖然として言いかけると、右京は、振り返りもせずに冷たく言い放った。
「遥泉、蓮見、そこの二人を奥の部屋にぶちこんでおけ、外の者には三分後に連絡しろ」
「………」
 信じられない。
 あの腕はどう見ても折れている。
「蓮見さん、とにかく、言うとおりにしましょう」
 遥泉と共に、黒スーツの男二人をひきずって行きながら、蓮見は自分のカンが外れていなかったことに、ようやく安堵の気持を感じていた。
 何度も耳を見せるように髪をかきあげた右京のジェスチュア。
 あれは、耳につけた通信機を通じて、何か異変が起きたことを暗に示していたのだろう。
 そして、わざと怒らせているとしか思えない口ぶりで。
 仮眠だ、ここで待っていろ――。
 妙に強調した言い方。
 仮眠――右京のそれは、判でついたようにきっかり十分だった。
 わずかな違和感は、遥泉と交わした短い通信で決定的な疑惑へ変わった。
 国府田にさえ丁寧語を崩さない男が――。
(―――お前は言うとおりにしろ、室長なら大丈夫だ)
 頭の良すぎる遥泉のことだから、ぎりぎりまで追い詰められた状況で、何とか異変を伝えようとしていたのだろう。
「莫迦丁寧な言葉も、たまには役に立つもんだな」
「え?」
「いや、なんでもねぇよ」
 隣室へ行くと、国府田がソファにうずくまって、自分の肩を抱くようにして震えている。
 蓮見は初めて、この子供に、年相応の愛しさを感じた。
 こいつだって女なんだ。
 こいつだって――。
 そして、気付いた。
 外に連絡するまでの三分で、右京が何をするつもりなのか。
「おい、あとはお前一人でやってくれ」
 腕を掴んでいた男を床に蹴り倒すと、蓮見はそのまま、今出たばかりの部屋に駆け戻った。
 愛内のくれたヒントを、蓮見は自分なりに理解したつもりだった。
 五年前、遥泉が出来ずに、右京だけが出来たこと。
 それは、焔村警部を射殺することではなかったか―――。
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