五



「悪い、電池切れだ」
 蓮見の傍に歩み寄ってきた右京は、そう言って、髪をかきあげた。露になった耳元に、補聴器にも似た通信機がついている。
 同じものを、蓮見も自分の耳につけている。
 室内で待機している遥泉と連絡を取るための、通信機だ。
 今、遥泉はその回線を右京にだけ開いているのか、蓮見のそれからは何も聞こえてはこない。
「少し部屋で仮眠する。お前はここで待っていろ」
 蓮見の前で足を止めた右京は、そう言って、再度髪に指を絡めた。
 実際、疲れたような口調だった。顔色もわずかに翳っている。そんな指揮官の姿は珍しい。
「じゃあ、部屋まで行きますよ」
 女の背後に視線を配らせながら蓮見は言った。右京が移動すると、壁際の黒いスーツの男たちも、それに合わせて立ち位置を変えている。
 右京も彼らの動きを確認するように何気なく視線を向け、そして嘆息しながら言った。
「いい、どうせ私が動けば、警護課の者がガードについてくる。ぞろぞろ連れ歩くのも目立ちすぎる」
 そっけない横顔だった。
 まさに、切って捨てるような口調だった。
 しばらく、その意味が理解できずぼんやりしてから、蓮見は間が抜けた声を上げた。
「……はぁ?でも、そんなわけには」
 それでは――まるで、お前はいらないと。言ってみれば解雇を通告されたも同然だ。
「お前まで会場を抜けたら、私がこのまま帰ったと思われる」
「でも、それは」
 それでは――なんのために、ここにいるのか。
「お前一人いようがいまいが、私の身辺に影響はない、そう言っているのが判らないのか」
 しかめられた眉に、はっきりと拒絶の色が浮かんでいた。
 蓮見は言葉を失った。
「部屋には遥泉と国府田もいる、心配するな。いいな、仮眠だ、ここで待っていろ、これは命令だ」


                     六 


「ここで結構だ」
 右京は、背後からついて来る警備課の職員に声を掛けた。
 昨夜から宿泊している部屋の――目の前だった。
「少し疲れたので、休むと伝えておいてくれ、パーティが終るまでには、もう一度顔を出す」
「判りました」
 事務的に頷く黒いスーツ姿の男。耳から通信機のコードが伸び、それが胸ポケットに収まっている。
 警視庁警備課の――要人警備のスペシャリストの一人なのだろう。会場からずっと、無言のまま追尾してきた男は、突然声を掛けられても眉ひとつ動かさなかった。
「ご休憩、ということですね。申し訳ありませんが、このフロアで待機しておりますので、何かあればお呼びください」
 その目に、あからさまな侮蔑が浮いている。所詮女だな――、とでも言いた気な。
 右京はそれを無視して、部屋のカードキーを差し込んだ。
「何かあったら、すぐに無線で連絡してください」
 形式的な声が背中でする。
 頷くだけでそれに答え、扉を開けて、室内に踏み込んだ。
「…………」
 室内のセキュリティーボックスにキーを差し込むまでもなく、照明がついている。
 後ろ手に扉を閉める。カチリ、と無機質な自動ロックが掛かる音と共に、
「……こんばんは、右京警視長」
 静かな声と共に、銃口が向けられた。
 すでに右京は、その人影が誰かを確認していた。忘れられない面影と共に。
 向けられているのは三十八口径の消音機付拳銃、――――正面と、そして左右から。
―――三人。
 素早く室内に視線を巡らす。
 その視界を遮るように、正面に立つ男が、ずいっと前に歩み出た。距離にして人一人分。
「さすがは部下思いの上司だな、右京、まさか卑怯者の貴様が、丸腰でのこのこやってくるとは思ってもみなかったよ」
 かすれ気味の、喉に骨でもひっかかったような特徴的な声音。――夢で、何度も聞いた声。
「………」
 右京は無言で両手を挙げた。
 左右に立つ痩せ気味の男が二人。警備課と同じスーツに同じ通信機を耳からつけた男二人が――すうっと距離を縮めてくる。
 双方から伸びてきた手が、無遠慮に身体をさぐり、銃器を持っていないことを確認される。
 右京は室内の奥に目を向けた。
 応接セットのソファの上に、背中合わせに縛られ、口に粘着テープを貼られた――遥泉と、そして国府田の姿が見える。顔だけこちらに向け、血走った目で何かを訴えている。
―――何故、来たのかと、遥泉はそう言っているのだろう。
 国府田は恐怖のためか蒼白な顔をして、目を合わせる元気も失っているようだった。
 ボディチェックが済んで左右の男たちが身を引くと同時に、正面に立っていた男が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
 正面に立つ男――高見沢玲一。
 元警察庁、薬事対策課長だった現国際使命手配犯。
 彼は耳につけたイヤフォンを指で示し、喉を鳴らすようにして笑った。
「会話は全部聞かせてもらった。ボディガードは、上手く誤魔化せたようじゃないか」
「頭の悪い男だからな」
 右京はそう言って、高見沢の背後にもう一度視線を巡らせた。
―――三人、だな。
 室内にいる侵入者は三人だけだ。そして武器はそれぞれが携帯している消音装置付きの小型拳銃。
「上の様子は逐一こっちに流れてくる、……あんたの後を追ってくる者は、誰もいないようだよ、右京警視長」
「どうやって、ここに入った」
 右京はそう言って、真っ直ぐに男を――高見沢玲一を見つめた。
 黒く日焼けした乾いた肌に、刻まれた深い皺。もともと日本人離れした容姿をしていたが、こうして開襟シャツを着た姿を見ると、東南アジア系の血を引いているようにも見える。
 目は細く、その分左右に長かった。
 水気のない、ばさばさのおかっぱ頭は、白髪だけがひどく目立つ。
 蛙だな、と右京は思った。以前はこの男を見るたびに、蛙を連想していたことを、思い出していた。
 そして、随分老けたな、と、同時に思った。
 あれから五年が過ぎている。この男は、もう四十半ばのはずだ。
「なんだ、その目は」
 男は口元を歪めながらそう言った。
 歩み寄ってくる――息遣いがかかるまでの距離。
 男の左手に構えられた拳銃。それが、いきなり額に押し付けられ、反動で扉に背中と後頭部がぶつかった。
 にじるように顔が寄せられ、男は軋んだ声をたてた。
「お前は、まだ自分の立場が判ってないようだな。ええ?ここで、俺がお前に何をするつもりか、それは判ってんだろうな」
「………」
「俺がどれだけ、貴様を憎んでいるか、右京、それを考えたことがあるか」
 右京は無言で男の全身を観察した。
 だらり、と垂れ下がった右手には、白い筒状の――指の部分がまるでない手袋が被せられている。
 褪せた開襟シャツ。麻のズボンのポケットからは、ナイフの鞘のようなものがのぞいている。
「――その目が、気にいらねぇんだよ!」
 ふいに憎憎しげに歪んだ声と共に、激しい衝撃が顔の左半分で弾けた。
―――銃の背で頬を横殴りにされたのだと……衝撃が去った後に理解した。
 初めて体感する暴力的な痛み。感覚はすぐに麻痺したが口中に血があふれ出すのが判る。
「クソ生意気な女だよ、てめぇは、いっつもいっつも、人を見下したような目で見やがって」
「……自分がいつも人を見下しているから、他人も同じに見えるんだろう…」
 言葉は、再び襲い掛かった銃の鉄槌で遮られる。
「――口のへらねぇ女だよ」
 力任せに額に押し付けられた銃口。最初に殴られた箇所が切れたのか、頬を伝った血の雫がライトグレーのスーツの肩先に沁み込み続けている。
 顔の左半分の知覚がまるでない。そこだけ殺ぎ落とされたような妙な感覚。
 それでも右京はそのままの姿勢を保ち続けた。
「隣に寝室があるから、そっちに連れて行け」
 高見沢は、左右にいた男たちにそう指示した。
 右京は、顔を上げ、近づいてくる二人の男たちを冷静に観察する。
 国籍は判らない――ただ、表情の硬さと頬の骨格は、日本人というよりは中国人に近いような気がした。二人とも黒いスーツを身につけ――胸には、防衛庁の許可証。
 二人の男に両腕を拘束されながら、右京は高見沢を見上げて言った。
「……なるほど、防衛庁の職員を装って侵入したのか」
 片頬をひきつらせ、高見沢は微かに笑う。
「上の連中は、俺をおびき寄せるつもりだったんだろう。防衛庁が介入することを事前に知らされてなかったせいか、現場の警備は大混乱よ。おかげで、しまいの方には、防衛庁の許可証さえ見せれば、ノーチェックだ」
「どこで、その情報を得た」
「あんたを恨んでる筋からだよ、右京警視長」
「………」
「いや、警察の面子のためなら、あんたの命なんか、どうでもいいと思ってる連中かもしれないがな、あんたは見捨てられたんだよ、右京、」
 高見沢は再び近づく。日焼けした腕に顎をつかまれ、そのまま上に向けさせられた。
「五年前の俺と同じよ、貴様は切り捨てられたんだ、右京。上はな、あんたに死んで欲しいのよ、生きててもらっちゃ困るのよ。その理由は、お前が一番よく知ってるだろう?……ええ?」
 嗜虐的な喜びに満ちた顔。右京は目をすがめた。五年前は、間違ってもこんな表情のできる男ではなかった。
「日本に入国してすぐに、この会議にあんたが出るって情報が流れてきたよ。そういや、テレビでさんざんあんたの映像が流れてたなぁ、空の要塞の王様か、随分出世したもんじゃないか。いずれにしても、そんなトラップに引っかかる俺じゃねぇがな」
 男は長い目を細め、くっくっと笑って、手を解いた。
「まさか、当のご本人の部屋に俺が潜んでいるとは誰も思わないだろう?パーティが終るまで後一時間、楽しむ時間はたっぷりあるよなぁ」
「……私は主賓だ、いくらなんでも、一時間もすれば、人が来る」
「その時は、三人ともここで死んでもらうまでよ。さっきも言ったがな、上にもこのフロアにも、俺の仲間が潜んでいて、おかしな動きがあれば、すぐに連絡が入るようになってるのよ」
 それだけ言い捨て、高見沢は顎をしゃくって右京の背後に立つ男を促した。
 背中に回された手をねじり上げられ、肩を押されるようにして歩かされる。
 横を通り過ぎる際に視線だけを向けたソファの上では、遥泉が血管をむき出しにして身もだえしている。殴られでもしたのか、その顔にいつもの眼鏡はない。
 テーブルの上にはパソコンを使った通信傍受機。投げ出されたイヤフォン。
 遥泉が用意した回線を使い、高見沢はパーティ会場にいた右京を呼び出したのだ。
―――行かなければ、遥泉と国府田が殺される。
 高見沢玲一。この男がわずかの躊躇いもなく人の命を奪えることを、右京はよく知っていた。
 遥泉だけなら、まだ別の判断もできた。
 しかし――自分が任命したばかりに惨禍に巻き込まれた国府田だけは、なんとしても救出しなければならない。
「お前らを始末して、俺らはさっさとここを出て行くまでよ、間抜けなボディガードが部屋に戻った時には、無残に犯されたあんたの死体が転がってるって寸法だ」
 高見沢は、右京の傍に歩み寄り、白い手袋に包まれた腕を、ぐっと頬に押し付けた。
 その目に、ぎらぎらとした憎悪があった。
「ただ、犯しても、俺の気持はうかばれねぇ、俺が味わった以上の屈辱を、お前に味合わせてやるからそう思え」


                   七


 ようやく、通信機から応答があった。
「おう、遥泉か、俺だよ」
 蓮見は周囲の喧騒を遮るように、耳に手を当てながら言った。
 パーティも後半に差し掛かったのか、楽隊の演奏が始まっていた。よくもまぁ、国民の税金使ってここまで派手に出来るよなぁ、と思いつつ、
「ついさっき、室長が部屋に戻ったんだけど、ちゃんとそっちに着いてるかと思ってな」
 わずかな沈黙とノイズ。
「……おい、遥泉」
 警察が使う電波と混じっているのか、意味不明の声が時折聞こえる。
「ああ、戻ってる」
 けれどすぐに、いつもの遥泉の声がした。
 蓮見はほっと肩を下ろした。
「そっか、俺は、ここで待ってろって言われたんだけど」
「お前は言うとおりにしろ、室長なら大丈夫だ」
「………はぁ」
 確かに遥泉の声だ。
 冷静で落ち着いた――いつもの声。
「判ったよ、んじゃあな」
 蓮見はけげんに思いながら通信を切った。
―――なんだ……?
 よく判らない違和感がする。
「君、右京君はまだ戻らないのかね」
 その声は、一瞬自分に向けられたと思っていた。蓮見は顔を上げたが、それは目の前で交わされる、要人たちの会話だった。
―――まだ戻らないのかね。
 そう聞かれているのは、防衛庁の幹部職員らしい。――一応、記憶している出席者の一人。
「少し疲れたと聞きました。まぁ、彼女のことだ、十分もすれば、けろっとして戻るでしょう」
 十分。
 蓮見は、ふと、眉をひそめた。
―――十分……?
 その横を、大勢のプレスを引連れた右京総理大臣が足早に通り過ぎていく。
「どいてください、総理はこれから、大切な会議があるんですよ」
 側近が人ごみを掻き分ける。
 蓮見は腕時計を見た。
「総理、屋上にヘリが用意してあります、急いでください」
「うむ」
 どうしてそんな真似をしたのか判らない。
 蓮見は、プレスの輪の中に飛び込んで、驚く右京潤一郎の腕を掴んでいた。

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