予想もしなかった愛内の言葉に、驚きを隠しながら、蓮見は聞いた。
「マジかよ」
「だからカンだよ、ただのカンだ」
「………」
「捜査一課は、その情報を、薬物対策課には隠してたはずだ。あの時点で、<竜頭>のメンバーが高見沢だけだという確証はどこにもなかったしな。それが――焔村警部に漏れた。薬物対策課で、高見沢の下についてた女捜査官に」
「………それは、」
「ま、そういうことだろうよ、遥泉がうっかり漏らしたのか、女が強引に聞き出したのか、それは知らねぇがな」
「………」
蓮見は黙った、
他になんと言っていいか判らなかった。
頭によぎったのは、数日前に見た、遥泉の暗い眼差しだけだった。
そして、なんとも言えない気持になった。
<竜頭>の摘発。
それは、全てが、焔村警部の――単独調査の結果、ということになっていたはずだからだ。
当時の新聞にも焔村の美談ばかりがあふれ返っていたのを、蓮見はよく記憶している。
「ホントは……右京室長のお手柄だったってわけか」
蓮見はぼんやりと呟いた。
「で、そっちの方は、なんで黙殺されてんだよ」
「一課にしても、情報を漏らしたっていう負い目がある。手柄を横取りされても、それだけは認めたくなかったんだろうよ。それにな、焔村は、当時の警視総監の令嬢だぜ?殉職までした娘の手柄だ。独り占めさせときたいってのが、総監のホンネだろ」
「ふぅん……」
名状しがたい胸の悪さを感じ、蓮見は眉をしかめた。
全て得心できたようで、まだ一点、最初の疑問だけが残っている。
それだけで――果たして高見沢は、右京を殺したいほど恨むだろうか――ということである。
高見沢は右京を殺すために日本へ戻ってきたという。
そして、警察庁は、それを見越し、罠を仕掛けているという。
それが蓮見には腑に落ちない。せっかく海外に逃亡した高見沢が、危険を冒してまで――当時一刑事に過ぎなかった女にこだわる理由が。
「腑に落ちねぇって顔してんな」
「判るか」
「判るよ、ただ俺も、それ以上の詳しい事情は何も知らない」
男はそう言って肩をすくめた。
「真面目に考えると、なんか可笑しい話だろ、死んだ焔村警部は二階級特進、それはまぁ判るとしても、右京サンも異例とも言える特進で、あっという間に警視長だ。なのに、遥泉警視だけがレールから外された」
「………それは、右京室長が薬のルートを掴んで、遥泉は情報を漏らしたからだろ」
「……そうかもな、でも、その右京サンも、役職だけ与えられた後は、出向という形で、さっさと防衛庁へ貸し出された。まるで、厄介払いでもされるように、だ」
「………」
「あの事件に関わった一課の連中の末路は、概ね同じだよ。みんな出世して、翌年には即、異動。で、一課の当時の記録は――多分きれいに抹消されてる」
「何が言いたいんだよ」
「わからねぇか」
愛内は蓮見の頭を小突いた。
「カンはいいのに、理解が遅いのがてめぇの可愛いとこだよ。つまりな、あの事件には裏があって、公にされてる事実以外に、一課の捜査員だけが極秘に指示を受けていた――何かがあったと……俺はそう思ってる」
男はそう言い、蓮見から目を逸らした。
「その指示を遥泉警視は果たせず、右京サンが果たした。とどのつまりは、そういうことじゃねぇのかよ」
―――右京が……果たした……?
すぐに意味がわからず、蓮見は黙って目を眇めた。
遥泉が出来ずに。
そして、右京ができたこと。
「後は勝手に想像しな、…ああ、わりぃ」
何か連絡でもあったのか、愛内の手が、自分の耳につけられているイヤホンに添えられた。
そのまましばらく無言になった男は、やがてはっと息を吐いた。
「高見沢は間違いなく右京サンを恨んでるよ。警察庁は、今度ばかりは、どんな手を使ってでもあの男を挙げるつもりだ、――何しろ警察最大OB、焔村長七郎のあだ討ちも兼ねてる」
「いい年した男が、そうも過去にこだわるってのが、理解できねぇな」
蓮見は苦笑する。
そして、まだ考えていた。右京にできて、遥泉にできなかったこと。
結果だけを見れば、それはひとつしかない。
「男の遺恨はおっそろしいってことかもな」
そう言いさして背を向けた愛内の脚が、ふと止まった。
「知ってるか、高見沢は、右手の指が一本もないんだとよ」
「……ない?」
「五年前、右京があの男の手を撃ち抜いたせいだろう。あの男は、必ず右京を殺しに来る。エリート意識の強い、ブライドの塊のような奴だった――なにがあっても……生きている限り、諦めたりしねぇと思うな」
・
・
四
・
・
「なんだ」
冷たい横顔にそう言われ、蓮見ははっとして視線を逸らした。
「私の顔に何かついているか」
「べ、別に」
エレベーターの中だった。
ライトグレーのスーツに、淡い色調のネクタイ。
スーツといっても、無論女性が着るようなものではない。男性用の仕立てである。
当然のように化粧気の欠片さえない普段どおりの不機嫌な顔。
「いや……レセプションパーティって、なんかこう」
どう見ても男にしか見えない――室長、右京奏の肩先を見ながら、蓮見は少し口ごもった。
「なんかこうとは?」
「いや、まぁ、着物とか、ドレスとか、まぁ、あんたには似合わないだろうけど」
すぐに言い過ぎたことに蓮見は気づいたが、女の横顔はぴくりとも動かなかった。
「上からは着物を着て来いと言われた、着てもよかったんだが、片付けるのが面倒でな」
「…………は、」
「別に着る服にこだわってるわけじゃない、一番機能性のあるものを身に付けているだけだ」
右京は、それだけ言って、二十三階で止まったエレベーターからさっさと降りようとする。
「ちょい、まっ……あんたが先に降りてどうすんだよっ」
蓮見は、慌ててその肩を押しとどめ、自分が先に降りてから周辺を確認した。
二十三階。
その夜のレセプションパーティ会場があるホールには、すでに沢山の要人たちがひしめいていた。
蓮見は周辺を見回した。
ほぼ、五メートル間隔で、警視庁の私服機動隊が張りついているはずだ。
防衛庁からも、何人か応援部隊が駆けつけている。
「お前、遥泉に渡された、出席者の顔と名前を全部記憶しているだろうな」
右京の背中がふいに言った。
「え、そりゃあ、もちろん、警備の基本です、から」
参加者全ての顔写真と名前の入ったファイルを、ここに来る少し前に遥泉から渡されている。一応、かなり真剣に見たつもりだ。
受付前の人の列から、ふっと、一人の長身の男が抜け出してくるのが見えた。
かなりの長身で、おそらく――蓮見よりも背が高い。
黒の燕尾服に、白いドレスシャツ。
白髪のまじった髪が、まるで英国紳士のような優雅さで、額の上で柔らかなウェーブを描いている。
―――誰だ……?
ファイルにはない顔だった。それだけは間違いない。
無論、事前に渡された高見沢の写真とも違う。
男は、厳しい眼差しをしていた。懊悩している人のように眉を寄せ、ぐっと唇を引き結び、そして――、一直線に右京目指して早足で歩み寄ってくる。
蓮見は、右京の前に身体を割り込ませていた。
男の足が、二人の前で、不審気に止まる。
「失礼ですが、名前を聞かせてもらえますか」
足を止めた男に対し、蓮見がそう言ったのと、
「蓮見、お前、一回死んでから出直して来い」
背後の右京の冷え切った声がしたのが同時だった。
「久しぶりです、父さん」
「元気そうだな、奏」
その会話を聞く一秒前に、ようやく蓮見も思い出していた。
―――テレビと全然ちがうじゃねぇか!
男は、現職総理大臣の右京潤一郎だった。
・
・
五
・
・
会場の隅に立ち、蓮見はぼんやりと、目の前で繰り広げられる華やかな賑わいを見つめていた。
無論、右京奏――ともすれば、男にしか見えない女からは、一度も目を離していない。
右京は、その堪能な英語力のせいか、外国の人々の輪にまじり、通訳のように、会話の手助けをしているらしい。
時折、びっくりするほど優しげに笑っているのが、むしろ蓮見には恐ろしかった。
実際、この会場の中で、右京は一番目立っていた。
男にしては美しすぎる。
女にしては凛々しすぎる。
沢山の人が、あいさつを求め、次々に右京の傍に寄っていく。
右京は如才なくそれに応じる――蓮見は、少し嫌な気分になって目を逸らして――そして、慌てて、もう一度女を捕らえた。
官僚――なのである。
ここにいる右京は、オデッセイの女指揮官ではない。
組織の中に組み込まれた官僚の一人なのだ。上司の言葉に逆らわず、上手く立ち回る――役人の顔をしているのだ。
それが、妙にしゃくにさわった。
失望――そう言ってもいいかもしれない。
蓮見は、そんな自分の感情に戸惑った。自分は何時の間にか――あの、むかつく女に、どこかで過大な期待をしていたのかもしれない。
男社会をものともしない豪傑さで。
その頭ひとつで、誰にも服従することなく、迎合することなく、今の地位を手に入れたのだと。
むろん、今の官僚システムで、それが有り得ないことは、蓮見でも知っている。
右京があの若さで、異例の出世を遂げたのは、能力のせいだけではない。総理大臣の娘という立場も利用しただろうし、あるいは――上司に媚くらい売ったのかもしれない。
あれだけの美貌と身体を使えば――。
(――征服欲をそそられるじゃねぇか)
他分、そんな目で右京を見ているのは、愛内だけではない。
―――何、考えてんだ、俺は。
蓮見は、自分の浅ましい想像に、胸が悪くなるのを感じた。
そして、ふいに、もういいか、と思っていた。
このパーティが無事に終ったら、正式に右京に――退艦したいと申し出よう。
おそらく、希望通りに地上に戻してくれるはずだ。間違いなく、自分は、あの女にも、オデッセイにも必要とされてはいない。そもそも何で、警備課でもない自分が、防衛庁に引っ張られたのか――。
全ては、右京の従兄弟である桐谷徹一佐の独断なのだが、何故自分が桐谷の眼鏡に叶ったのか、それがどうしても、理解できない。
「先ほどは失礼したね」
ふいに、背後から声がかけられ、蓮見は眉をしかめて振り返った。
「………」
そして絶句していた。
背後に立っていたのは、総理大臣の右京潤一郎。
十年以上政権を存続させている、美貌の、そして辣腕の政治家。
「君が、蓮見君だろう、話しは桐谷から聞いている」
男は穏やかな声で言った。
その容姿と庶民的な語り口のせいで、就任当時は主婦層から絶大な人気を誇っていた総理大臣。
けれど今は――中国軍用機の誤爆事故以来、政治責任を問う声が日増しに高まり、支持率は急低下。政権交代の日も近いと囁かれている。
「さ、先ほどは、失礼しました!」
蓮見は直立不動の姿勢で、それだけ答えた。
そして、気がついた。
やはり、自分の記憶にある右京潤一郎と、今、目の前に立っている男は、別人のようだ。
随分……痩せた。そして、白髪の量が、大幅に増えている。
だから、一見した時、すぐに気がつかなかったのだ。
「奏のような女は、君から見たら、随分生意気に映るだろうね」
男は緩く腕を組み、蓮見の視線の先――娘の姿をじっと見つめた。
蓮見は――なんと答えていいか判らなかった。
「さっきは面白かった。奏のあんな顔を、……初めて見たな、私は」
男はふいに、口元を緩めた。
「は……?」
「あの子は、自分が同レベルと認めたものしか傍におかない。自分を理解しようとしない他人を、あっさり切り捨てる癖がある」
―――いや、だから俺、切り捨てられてるんですが。
口に出かかった言葉を、喉で押さえ込む。
「それでは、奏自身の成長も止まる、奏自身が、袋小路に追い詰められてしまう……」
「………?」
総理の言葉には、言葉以上の重みが含まれているような気がした。
「だから私は、桐谷に頼んだのだよ、蓮見君。奏の傍に置くのは、あの子が最も嫌うタイプの男で、そして、あの子にないものを持っている者にしてくれと」
「そ……」
そんな理由だったのか。
そんな、莫迦げた基準で俺は―――。
くらっと、眩暈のようなものを感じた。
その基準なら、蓮見を選んだ桐谷の目は間違いなかったことになる。
でも――仮にも自分の娘に、そんな理由で。
「……でも、俺、真面目に役に立ってないみたいです。今は危険な時勢ですし、考えなおされた方がいいかと……」
蓮見は、会場内をめまぐるしく移動する右京を見つめながら、それだけ答えた。
いかに総理大臣と会話しているからと言って、対象から目を離すわけにはいかない。そういう意味では、冷や汗ものの会話だった。
「奏はいつも闘っている、誰でもない、自分自身と」
肩を、ぽんと叩かれた。
―――闘う……?
言葉の意味が判らなかった。
「いずれ、君が、それを判る時が来るような気がするよ。忘れないでくれ、未来は闘ってこそ得られるものだ。希望は人の手の中にいつもある」
「………」
足音が遠ざかる。
蓮見が、思わず右京潤一郎を振り返ろうとした時、人ごみの中から、右京が近づいてくるのが見えた。