―――それにしても、何やってんだ、あいつ。
 廊下に出た蓮見は、少し意外な気がして、腕時計に視線を落とした。
 遥泉雅之。
 死んでも遅刻とは無縁の男が、もう二十分も遅れている。
―――今日のことは、お前の考えた計画だろうに。
 今日の会議。
 蓮見は、右京に同行して会議室のあるフロアで待機することになっている。
 そして、遥泉は、右京の部屋――正確には、蓮見が寝泊りした部屋で、その間待機する段取りになっていた。
 ホテル内の通信を傍受し、不審な通信を察知したら、それをいち早く、蓮見と右京に知らせる――それが、遥泉の考え出した<自己防衛案>だった。
 会議とパーティが始まれば、蓮見は、右京の傍には近寄れない。
 それを懸念した遥泉が、防衛庁にごり押しして通した警備計画――つまり遥泉は、それだけ右京の身辺を警戒しているし――同時に、まるで警察の警備を信用していない、ということになるのだろう。
「コラ、ここは関係者以外立ち入り禁止なんだよ、ガキ」
 煙草を吸う場所を探してぶらぶらと歩いていると、エレベーターホールの方から、聞き覚えのある声がした。
―――……?
「だーかーらぁ、私は関係者なんですってぇ」
―――この声。
 蓮見は眉をしかめた。
 後の方の声は、明らかによく知った女の声だ。
「だめだめ、許可証がねぇと入れないよ」
「だぁかぁらぁ、持ってるんですってば」
 蓮見は駆け足で声のする方に向かった
 四台のエレベーターが並ぶホールに、二つの人影が押し問答をしている。
「あっ、蓮見さぁん、ひなのですぅ」
 一人は、青い髪を六つに編み分け、オデッセイの制服にミニスカートを穿いた少女。
 オデッセイの女子高生クルー、国府田ひなのだった。
「蓮見さん、蓮見さん?どこいくんです。ひなのですってばぁ」
 咄嗟に他人のふりをしようとした蓮見は、はぁっとため息をついて脚を止めた。
―――誰がこんなの呼んだんだよ。
 国府田ひなの。
 どこから見ても摩訶不思議、何も考えていないようにしか見えないが、実は優秀なコンピューターグラマーで、政府が認定した第二期ベクターの一人でもある。
 右京がじきじきに指名し、周囲の反対を押し切ってクルーに任用したのだが、実の所、こればかりは人選ミスじゃねぇのか……と、蓮見は密かに思っている。
「あれ、蓮見?」
 野太い声が、蓮見の少し上から響いた。
 最初に聞こえた男の声。国府田と押し問答していた男の声である。
「お前……愛内?」
 国府田に気を取られっぱなしだった蓮見は、そこでようやく気がついた。
 どこかで聞いた声だと思った。それもそのはずだ。蓮見にとっては、数少ない友人の一人。
 いがぐり頭のいかつい体格をした男は、黒いスーツを窮屈そうに着込み、凶悪な細目を意外そうに瞬かせている。
「マジかよ、こんな所で再会か、はっちゃん、久しぶりだな」
「その呼び方、死んでもすんなって言っただろうが、薫チャン」
 蓮見は笑いながら、男の傍に歩み寄った。
―――愛内薫。
 名前は愛らしいが、小山ほどもある巨体に、五部刈り頭。だんご鼻に三白眼。
 やくざと紙一重の、なんとも凶悪な人相の男なのである。
 蓮見とは、所轄署時代に一年だけ一緒だった。
 年は愛内の方が少し上で、所属課も違った。けれど、不思議と気が合う間柄で、非番の日など、よく連れ立って飲み歩いたものだ。
 今は――確か、警視庁警備部、機動隊に所属しているはずだ。その関係で、今日の警備に借り出されたのだろう。彼の耳には、イヤホンがついて、コードが胸ポケットまで延びている。
「元気にしてたか、お前、……なんか痩せたんじゃねぇか」
 愛内は細い目をさらに眇めてそう言った。
「まぁ、目茶苦茶神経使ってるからな」
 男の隣りに立った蓮見は、肩をすくめる。そして、呆けたような顔で二人を見上げる国府田ひなのを見下ろした。
 蓮見は、自分のことを「ひなのはぁ」と、甘ったるい声で呼ぶ、この宇宙人のような女が、実のところ右京より苦手だった。
「おい、さっさと行けよ、室長の部屋に行くんだろ」
「あ、ひなのはぁ」
 少女がいつもの口調で何か言いかけた時。
 エレベーターが開き、そこから長身の男が降りてきた。
 グレーのスーツに、紺のネクタイ。
 きっちりと撫で付けられた隙のない髪型に、薄い縁なし眼鏡。
 表情の乏しい能面のような生白い顔。
 オデッセイのオペレータークルー副室長、遥泉雅之である。
「遥泉さん、遅いですぅ」
 ひなのは頬を膨らませながら言った。
「すいません、下で色々説明していましたから」
 誰に対しても敬語を使う遥泉は、自分より十以上も年下の少女に対しても、その信条を崩さない。
「遥泉警視…ですか。これはまた、お久しぶりで」
 愛内は、少し吃驚したようにそう言うと、即座に姿勢を正して敬礼した。
 未だ巡査部長止まりの愛内にしてみれば、遥泉は遥か上の存在である。――無論、それは蓮見にとっても同様のことなのだが。
「……愛内君ですか」
 遥泉も、すぐに相手を認めたようだった。二人が知り合いだったことに、蓮見は多少の驚きを感じたが、愛内と言う男は一度会ったら忘れられない面構えをしている。物覚えのいい遥泉が記憶していても不思議はない。
「今日のしきりは、警護課ですか、随分指揮系統が混乱しているようですね」
 遥泉は、能面のような顔で愛内を見上げながら、皮肉ともつかない言い方をした。
 警護課。
 警視庁警備部――警護課。
 主に要人警護を職務とする、警備のスペシャリストたちが所属する課である。大きな国際会議の警備は、たいていこの警護課が取り仕切る。
 思いもよらずに嫌味を言われ、愛内は困ったように苦笑を浮かべた。
「もしかして、遥泉警視もあれですか、警護課の許可証じゃなくて、防衛庁の許可を得て入ってこられた口で」
「防衛庁の許可証はここでは無効というわけですか。私と国府田君がここへ来る許可は、大分前から出ているはずなのに、下で、警護課の人たちに捕まって、散々尋問されましたから」
「さぁ、自分らは、上からの指示で動いているだけですので」
 愛内は困惑したように太い首をひねる。
 遥泉の眉が、わずかに動いた。
「……どたんばになって、警視庁と防衛庁の連携が取れていないようだ。どうやら警護課の連中は、防衛庁が、右京室長の警備に割り込んできたのが面白くないようですね」
 そう言い捨てると、遥泉はそのまま国府田を促して歩き出した。
「ヤレヤレ」
 二人の姿が客室のある通路に消えると、愛内はほっとしたように肩をすくめた。
「そういや、お前が女室長のお守りに借り出されてたんだな、蓮見、すっかり忘れてたよ」
「いや、実は俺も、常々忘れたいと思ってんだ」
 蓮見は苦く吐き捨てた。
 遥泉の言った言葉が気になっていた。
――――どたんばになって、警視庁と防衛庁の連携が取れていないようだ……。
 それは、どういう意味なのだろう。
 けれど愛内は、何事もないような顔で、にやりと笑う。
「うらやましいねぇ、始終あんな美女をおがみながら空中旅行か。いっぺんくらいは、やらせてもらえたんだろ」
「莫迦言え、さっきも顔を見ただけで殴られたくらいだ」
 蓮見は、遥泉の言葉の意味を考えながら、ポケットから煙草のケースを取り出した。
「ほっ、きっついねぇ、征服欲をそそられるじゃねぇか」
「俺は萎えっぱなしだ、上にはろくな女がいねぇよ」
 そう言って煙草を口に咥え、火を点ける。そして聞いた。
「……命令系統が混乱してるってのは、本当の話なのかよ」
「みたいだな、少なくとも俺は、防衛庁の横槍のことまでは聞いてなかったし、防衛庁からは苦情がじゃんじゃん寄せられてるみたいだ、話が違うってな」
「………」
「例年、この会議の警備は警視庁がしきってるだろ、防衛庁に口出しされたくないっつーのもあるんだろうが…」
 愛内はそこで、言葉を濁した。
「遥泉さんも薄々気付いてんじゃねぇかな、……どうも、意図的なもんを感じないでもない」
「なんだよ、その……意図って」
「てめぇで考えな、俺は警視庁の人間だぜ、てめぇの親玉の悪口は言えねぇだろ」
 愛内はそう言うと、肩をゆすって苦笑した。
 ちぇっと舌打して、蓮見は煙草の煙を深く吸い込む。そして――ふと、気がついた。
 愛内と遥泉は、いつ知り合いになっていたのだろう。
 ノンキャリで、所轄署めぐりが多かった愛内が、本庁勤務になった時……。
「愛内、お前……確か、以前、薬対課にいたことがあったよな」
 薬対課。
―――警察庁、薬物対策課。
「ああ、もう何年も前のことだがな、それがなんだよ」
「遥泉とは、その時知り合ったのか」
「……そうだったかな」
「じゃ、奴の婚約してた女も知ってるのか」
「……まぁ、短い期間だったがな、同じ課にいたよ」
「じゃあ、」
 蓮見は生唾を飲み込んだ。
 愛内の眉がかすかに寄せられる。カンのいい男のことだから、蓮見の聞きたいことを察したのかもしれない。
「……高見沢課長とも、一緒だったってことか」
「たりめーだろ、あの男が何年薬対課にいたと思ってんだよ」
 いかつい男は、彼の癖なのか肩を揺すった。
「最も、俺は、高見沢があんな騒ぎ起こす前の年に異動したから―――おいしいとこは見逃しちまったがな」
「……どういう、…奴だったんだよ」
 蓮見は声をひそめて聞いた。
 高見沢玲一。
 五年前まで、薬物対策課の課長だった男。
 今の警察庁で、誰も名前を知らない者がいないほどの有名人。
 当時の警視総監以下、すべての幹部の首を飛ばした男。
 「高見沢は、東大の法学部卒、麻薬取締官時代の実績が買われ、最年少で警視正に就任したエリート中のエリートだ。――まぁ、その記録も、今じゃオデッセイの女警視長にあっさりひっくり返されちまってるんだが」
 愛内はそう言って、からかうような目で蓮見を見た。
「何が聞きたいんだよ、蓮見、今さら国際指名手配犯のプロフィールもねぇだろう」
 男の目がさぐるように細くなる。
「はっきり言えよ、蓮見、てめぇだって知ってんだろ、高見沢が日本に帰ってきて――それで、おたくの室長さんを狙ってる。会議にあの女室長が出席するのは、何もかも高見沢確保のための囮なんだってことをな」


                  三


『現職警察官僚――麻薬密売組織を運営。』
『警察庁激震。日本最大の麻薬販売ネットワーク<竜頭>――トップは警察庁薬物対策課長高見沢玲一警視正(三十九歳)』
『上司の不正を暴いた女性捜査官、銃撃戦に巻き込まれ死亡』
 そんなセンセーショナルな見出しが紙面を飾ったのは、今から五年前のことだった。
 <竜頭>――かつて、日本最大の麻薬密売組織と言われていたグループ。
 東京の繁華街に根深いネットワークを持つ――一<竜頭>――通称、ドラゴンヘッド。
 特長的なのは、ターゲットをやくざに絞らず、一般市民――しかも学生や主婦、そして会社員をその売買対象にしていたことだ。
 学生同士のネットワークを利用して、インターネットや口コミで麻薬を流通させる。
 その麻薬というのが、まるでビタミン剤のような気安さで、服用できるしろものなのだ。
 白いラムネ状で、中には、表面に女の子向けのキャラクターが刻まれているものもある。
 そして、数回服用しても、すぐには中毒症状は出ない、だから――殆どの人は安心する。そして次第に、重症の麻薬依存者になっていく。
 蓮見も、随分多くの被害者に会っている。一度依存すると克服は通常の覚せい剤より困難で、重症の依存者にはなんらかの脳障害が残るという。カルト教団の洗脳によく使用されていたとも聞いている。
 むろん、薬物対策課をトップとして、警察庁は全力で<竜頭>の摘発にあたった。けれど、まるで警察の動きを読むように、ことごとく捜査は空振りに終わり続けていたのである。
「まぁ、それもそのはずだよ、トップの指揮官が、そもそも<竜頭>だったわけだ、笑い話にもなりゃしねぇ」
 愛内ははき捨てるような口調で言った。
「……焔村ミナト……あの事件で死んだ女警部――遥泉の婚約者のことだけどよ」
 蓮見は煙草を深く吸いながら聞いた。
「その女が、高見沢の正体を突き止めたって、本当なのか」
「ミナトちゃんねぇ」
 愛内はかすかに笑い、何かを逡巡するような目になった。
―――警察庁薬物対策課の女性麻薬取締官――焔村ミナト。
 遥泉雅之の婚約者で、事件で唯一死亡した警察官。
 その女性の写真は、新聞やニュースで何度も見た。
 長い髪をひっつめにした眼鏡顔。遥泉にふさわしい、生真面目そうな女。
 京都大学法学部を卒業したキャリアで、年は遥泉より三つ上――つまり右京と同期入庁だったはずだ。
 前警視総監、焔村長七郎の娘で、薬物対策課でそつなく勤務していれば、間違いなく数年で警視正になれていたはずの女性――だった。
 彼女が――上司である高見沢玲一が<竜頭>だと気づき、説得して自首させようとして失敗。
 人質として高見沢に囚われたまま、車両で逃走中――それを追った捜査一課の遥泉と右京、その他の捜査員と銃撃戦になり、不幸な死を遂げた。
 誤射―――正確には、右京警部の撃った弾道上に、パニックを起こした焔村警部が飛び出してきたことになっているが、結果的に、彼女は同じ警察官、しかも同期のキャリア女性に射殺されたことになる。
 そして、その混乱の最中、高見沢玲一は逃走に成功している。
 蓮見が知っているのは、それだけだった。
「まぁ、ぶっちゃけて言うけどな、なんで右京室長が、いかれた麻薬男にそんなに恨まれなきゃいけねぇのかと思ってさ」
 蓮見は煙を吐き出しながら言った。
「はっちゃんが知らねぇことを、どうして俺が知ってんだよ」
 愛内は皮肉気に笑う。
 蓮見は髪に指を差し入れた。
「そう言うがな。あの女は、俺のことなんか一欠けらも信用してねぇんだよ。何もかも遥泉に相談して、俺は蚊帳の外だ。今だって、何のためにここにいるか、よくわかんねぇくらいだし」
「だったら、ほっときゃいいじゃないか。あの女室長に何かありゃ、てめぇはお役ゴメンだろうに」
「……そりゃ……そうだがよ」
 蓮見は苛立って唇を噛んだ。
 それはそうだ。
 どうせ、信用されていなければ、頼られてもいない。
 ほっときゃいいんだ。ただ――そつなく、言われたことだけやってれば、それで――。
「……右京サンは当時捜査一課だったが、調度ヤク絡みのコロシを担当しててな」
 けれど愛内は、唐突に口を開いた。
 蓮見は驚いて顔を上げた。いかつい男は、当時のことを思い出すような目になっている。
「知っての通り、コロシに薬が絡むと、薬対の出番だろ。一課と薬対は協力しなきゃいけねぇ立場だ。なのに、高見沢と右京サン……これがまた、えらくそりが合わなくてなぁ。まぁ、……気持も判らないではないけどよ――高見沢はエリート官僚の権化みたいな奴だったし、右京は右京で高見沢の面子をつぶすようなことばかりしやがるし」
「俺は高見沢に同情するね」
 蓮見はそう言い、愛内は苦く笑った。そして、すうっと真面目な目になった。
「こっから先は、正真正銘のオフレコよ、しかも半分は俺のカンだ、それを前提に聞いてくれ」
「………わかった」
「<竜頭>の販売ルートを最初に掴んだのは、実は右京サンなんだよ。捜査一課のごく一部の人間は、右京サンの内定を元に、早くから高見沢をマークしてたんだ」

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