九
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「蓮見、お前は、嵐の家族が殺された事件を知っているか」
嵐と楓。二人の会話に意識を奪われていた蓮見は、はっとして視線を下げた。
右京はキーボードに向かい、何かをしきりに入力している。
「そりゃ…有名な事件だったし」
「幹部が逮捕されたカルト団体は、もともとは中国にある有名な宗教団体がその発祥元だ。……当時は誰も注目しなかったがな」
「……そりゃ、どういうことだよ」
中国。真宮楓。
その――符号は。
「真宮家の殺害を計画したのは高見沢だ。その高見沢は、カルト教団を通じて中国から麻薬を入手していた。そして、その取引に―― 一人の中国人が関与している」
「おい、それが今の状況と何の関係があるんだよ」
「そこまでは掴んでいた。――死んだ高見沢に、そいつの名前を吐かせられなかったのが残念だが」
女は蓮見を無視して続けた。
「嵐は無事だった。彼は、二階にあるパニックルーム……真宮夫妻は、ある程度命の危険を察していたんだろう。嵐は、意識を失った状態で、その部屋から発見された。彼を部屋に押し込んだのは楓で、そして、楓の姿だけが消えていた」
「……それくらいは知ってるよ」
「つまり、楓はそれだけ冷静に行動していたことになる。真宮夫妻殺害の状況を、ある程度目撃していた可能性がある」
「………」
「幹部たちは、楓を殺害して、海中に沈めたと証言している――その楓が、中国共和党の党員になっていた。それをどう思う」
早口で続けながら、右京の手は止まらない。
すでに警報すら鳴らなくなったオペレーションルームのデスクトップ、そのキーボードを猛烈な勢いで叩き続けている。
「おい、もうシステムは」
「少しなら動かせる。ようやく判ったんだ、キーワードが」
「……なんだって?」
「真宮楓が、なんらかの催眠暗示をかけられていることは判っていた。そうでなければ、あの男の傍にいるはずがない。これはもう――最後の賭けだ」
「賭け……?」
―――あの男?
「真宮嵐の証言で、事件の直前、伸二郎氏がケーブルテレビを見ていたことは判っていた。ある種の催眠暗示は、記憶の一部にあるものを利用して行われる、それがこれだったわけだ」
「テレビって」
「楓と嵐の、」
最後にエンターキーを押し、右京は静かに顔を上げた。
「これが、記憶の相違点だ」
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・
十
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国際周波からふいに流れ出した音楽に、真宮楓は、眉をひそめて顔を上げた。
この曲は。
(―――お父さん、こんな日に□□□□はないでしょう。)
(―――ああ、そうだな。)
この曲は。
ひそやかな序章から始まって、やがておごそかに高まっていく音階。
悲痛な、そして胸が軋むほど陰鬱な。
「………あ、」
悲鳴のような合唱が被さる。
(―――お父さん、こんな日にレクイエムはないでしょう。)
(―――ああ、そうだな。)
そうだ、思い出した。
レクイエム――ウェルディのレクイエム。
そんな単純なことをどうして今まで忘れてしまっていたのだろう。
そこで、暗くなった画面。
ああ、テレビが切られたんだ。なのに―――なのに何故、俺の頭の中だけ、音楽は鳴り止んでくれないんだ?
一転して激しく鳴り響くメロディ。まるで魂を揺さぶるように。
「あ……あっ、あっ」
楓は頭を抱えて目を閉じた。
頭の中でベルが鳴る。
一回。
(―――いい、こんな時間だ。危険だから私が出よう。)
インターフォンを取上げる父の背中。
おかしい。
この記憶はなんだ?
(―――ああ、君か……構わないが、……今取り込んでるんだ、外で話をしてもいいか。)
この声はなんだ?
(―――誰?大丈夫なの?)
不安そうな母の声。
(―――ああ、平気だ、ジェイテック社で一緒だった友人だよ。待っててくれ、すぐに済むから。)
消えていく父の背中。
(―――嵐、楓、少し二階に行っていなさい。)
母の声が、少し恐くなっている。
俺は――俺は、嵐の手を引いて。そう、―――俺は、こんな事態を、どこかで予測していたから。
玄関で、銃声がした。
一回、二回、三回。
その時点で、嵐が異変に気付いて階段を駆け下りようとした。
俺は、嵐のみぞおちに拳を入れて。
俺は――階段を駆け下りて。
廊下を踏み鳴らす足音がして、扉が開いて。
(――――見るな、楓!)
誰の声だ?
誰の声でもない、嵐の声でもない。
(―――見るな、楓。)
よく知っている声。
骨の髄まで聞かされた声。
(―――見るな……楓。)
心の底まで蹂躙した男の声。
(―――見るな……。)
開かれた扉の向こう。
(……真宮博士……)
立っているのは見上げるほどの長身、闇夜のような黒い髪が、ぺったりと額に張り付いている。
悪夢のような――銀色の、双眸は。
「あ、ああああ、あああああああっ」
楓は絶叫した。
溢れ出した記憶と共に―――様々な情景が蘇る。
病室のベッドで。
執拗に皮下注射を繰り返されて。
何度も何度も。
狂うほどに。
銀色の冷たい眼に。冷たい指に。
「いや…だ、いやだ、嵐、」
胃の底からせりあがってくるものがある。
「嵐、……嵐!!」
錯乱する。呼吸が上手く調整できない。苦しい。
バランスを失った機体が旋回する――苦しい。
「嵐、俺を助けてくれ、嵐、嵐、……嵐、どこに、いるんだ……」
<―――楓、しっかりしろ、核が迫っている、楓、僕たちはそれを止められる。そうだろう?>
嵐の声だ。
夢にまでみた、嵐の声だ。
夏の暑さ、襟足をなでる風、嵐の白いシャツ、笑い声、怒った顔。
どうして気がつかなかったのだろう。
ここにいるのは<嵐>なのに。俺が待っていた嵐だったのに。
「嵐……助けてくれ……俺を……」
楓はうめいた。
恐い。
「――助けてくれ、嵐、」
恐いんだ。
自分がわからない、自分がしてきたことが――わからない。
<―――楓、頼む、しっかりしろっ、今は、泣き言を言ってる時じゃないんだ!>
俺を一人にしないでくれ、もう――俺を一人にしないでくれ。
<―――嵐、こっちは任せろ!>
ヘッドフォン越しに、弾けるような声がしたのはその時だった。
楓は震えながら顔を上げた。
誰の声―――だ?
<―――お前らは室長を援護して避難しろ、上は自分がなんとかする。>
女の声――のような気がする。
<―――獅堂さん、無茶だ!>
嵐の声がそれに被さる。
―――上。
楓にもその意味は判った。
核が装填された大陸弾道ミサイルの軌道、高度七万メートル上空のことだ。
<―――獅堂さん、いけない!>
嵐の声はそのまま途切れた。
レーダーが示す嵐の戦闘機が、急旋回して上昇していく。切り離されたロケットの残骸が、炎をあげて落下していくのが楓にも判った。
シドウ……さん?
楓は目をすがめ、ようやくトリガーを握り締めた。
・
・
十一
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「どうするんだよ」
「……どうしようもないな」
右京は前を見たままで呟いた。
推力をぎりぎりまで維持した状況で、なんとか目的のポイントに辿り着いた、もうそれが精一杯だった。
推力システムは、あとわずかも持たないだろう。
それに。
「お前まで巻き添えにする気はなかった……が、もう言ってみても仕方ない」
北京から発射された最後のミサイルが、オデッセイに迫っていることは、嵐の機体を通じて知らされていた。
迎撃も、そして赤外線を使った囮弾も用いることはできない。
脱出するための避難システムも、すでに稼動を停止している。
太平洋上空三千メートル。オデッセイは、その巨体をくすぶらせたまま、ただ、被弾の時を待つしかなかった。
世界が核の海に飲まれる瞬間を、待つしかなかった。
「……ジャッジメント・ディか」
右京は呟いた。―――審判の日。
数分先の地上は、――かつて誰も体験したことのない世界になる。
「……どうせ、地上に戻っても、桐谷のおっさんに撃ち殺されるだけなんだ」
隣りに立つ男の呟きが聞こえた。
その意味を図りかね、ふと顔を上げた刹那、
両手首をつかまれて、そのまま唇が重ねられていた。
「………」
「……時間がないのが、惜しいけどな」
唇を離した男が、わずかに苦笑して呟く。
今――こみ上げた感情を、どう言い現していいのか判らない。
そのまま、深く抱き締められる。
もう一度唇が重なって、今度は最初から深いキスが、堰をきった激しさで続いた。
「はす…み、」
「……色っぽい声も出せるんじゃないか」
「………」
胸が苦しい。
―――私は、
私は。
「……死なせたく、ない、」
唇の間隙で、右京は小さく呟いた。
「え…?」
「今、初めて後悔している、……私は、お前を、死なせたくない」
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・
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<―――獅堂さん!!>
<―――来るな、嵐!>
<―――嵐!!>
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世界中が三人の若者の声を聞いた。
太平洋上空7万メートルで、小規模の核爆発が観測されたのは、それから数秒後のことだった。
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・
十二
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白い光が目の前で弾ける。
――――死んだな。
と、獅堂は思った。
間違いない――これで、本当に何もかも終わった。
こんな感覚を味わったのは、これで二度目で――そして、最後だ。
空には、天使がいるそうですよ。
あれは、誰の言葉だったっけ。
―――空には天使がいて、その姿を見たものは、二度と戻ってはこれないんです。
ああ、そうだ。そんなロマンチックなことを言うのは、鷹宮だ。
松島の航空学校時代に聞いた言葉だった。
あの時は、笑ってしまったけど、そっか……本当の話だったんだ、あれは。
だって、今、この天空には天使がいる。
大きな翼が目の前にある。
光り輝く――海の色を映した翼が。
―――夢………?
それとも、現実?
すでに愛機は、全ての機能を失っている。
爆発したのが核なら、拡散した放射能で、いや、それよりも衝突時の衝撃で、すでに命はないはずだった。
あとかたもなく、消滅しているはずだった。
けれど、今、感じるのは―――。
後部シートにぶつけてしまった頭の痛みと、そして唇に滲んだ血の味だけ。
獅堂は、ヘルメットと酸素マスクを取り外した。
もう、そんなものは必要なかった。
機体は緩やかに高度を下げつつある。燃えるような朝日。紫と群青に染まる空。ああ、何時の間にか、こんな時間になってたんだな。―――海が間近に迫っている。
獅堂は安堵して目を閉じた。
青い光に包まれて、まるで、抱かれるようにして。
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・
「光の巨人………」
防衛庁の地下壕で、偵察衛星から届く映像を見つめながら、阿蘇通信本部長は忘然と呟いた。
「落下ポイントは、対馬湾沿岸20046地点」
「すぐに行け、周辺に放射能汚染が広がる恐れもある、ただちに住民を退避させろ」
慌しい声が、背後から響いている。
「阿蘇君、彼らは、DNA検査の結果、通常のベクター種と判断されたのではなかったのかね」
非難がましい長官の声も、阿蘇の耳には入らなかった。
男はただ戦慄していた。
核エネルギーでさえ吸収してしまう――未知の光の集合体に。
「北京の核も、不発に終ったそうです。上空七万メートルで、やはり光の集合体に吸収されたらしい」
「米国の反応は、」
「ロスの核は、サッドが無事迎撃に成功。以降、米中両国とも沈黙を守っています」
おおっというどよめきと共に、誰からともなく拍手が起こった。
阿蘇はまだ、目の前の映像に――― 一機の戦闘機を抱いたまま、収束していく青い光に見入っていた。
力を失って浜辺に落ちた――その光は、一人の美しい人になる。
国際指名手配を受けていた、中国共和党の科学者の姿に。
阿蘇は、生唾を呑んで呟いた。
「これが―――ペンタゴンが探していた、最強の生物兵器か……」