四
・
・
＜――日本政府に告げる……＞
　国際周波に合わせたチャンネルに、独特の掠れ声が響き渡った。
　その音声はオデッセイのオペレーションクルー室だけでなく、全ての機体の、全てのクルーに同時に聞こえているはずだった。
　そしてこの戦況を見守る――全ての国家の通信室に。
＜日本政府は、我々の再三の警告を無視して、米軍に協力し続けてきた、我々の内政に、強国の利権を持って介入してきた、それは、主権国家であるわが国のプライドにかけて、許すわけには行かない――＞
「……楓……」
　オデッセイの最下層でシステムの復旧作業をしていた嵐は、通信機から響く声に、全身の血流が止まった気がした。
「真宮……兄か、」
　同時刻、高度四千メートルの上空で、コクピットの獅堂藍も呟いていた。
　音声は、五千メートル離れたポイントが発信源となっている。
　ヘッドアップディスプレイに、×印の赤色のマークが点滅し、それが猛烈なスピードで近づきつつあるのが確認できた。――このまま接近を続ければ、行き着く先はオデッセイの軌道上だ。
　領空侵犯機。
　音声の発信源がそれだとすると――その機体には、おそらく、真宮の兄が乗っている。
「獅堂、行きます！」
　獅堂は叫んだ。
　領空侵犯機が現われた以上、躊躇するものは何もない。トリガーを引き、機体を上昇姿勢に転換する。
＜獅堂、待て！＞
　それに、右京の厳しい声が被さった時だった。
　獅堂の耳にも、いや、この回線を開いているどの機関にも、その運命の声は届いた。
＜……もはや、日本は参戦国と同様の立場にある。たった今、中国政府は核弾頭を搭載したミサイルを発射した。照準は東京、ポイント２３００５、そしてロスアンジェルス４００８５６＞
・
・
　　　　　　　　　　　　　　　　　　五
・
・
　時が凍りついた一瞬だった。
　国際周波チャンネルで流されたそれは、――オデッセイだけではない、世界中の防衛施設で受信されているはずだ。
＜――鷹宮、被害予想空域から至急離脱、安全な場所まで飛べ！＞
　避難シャトル三号機のコクピットに、右京室長の声が響き渡った。
「……了解」
　操縦席にいた鷹宮篤志は、一瞬握り締めた拳を震わせ、それでも静かな声でそれに応じた。
　すでに地上ぎりぎりまで降下しつつあった機体を浮上させ、サングラスの下から、天の高みを仰ぎ見る。
―――獅堂さん……。
　鷹宮は眉をひそめた。
　まだ、オデッセイの傍をうろうろしているはずの――向こう気の強い女のことだけが、気がかりだった。
・
・
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　六
・
・
「獅堂さん！」
　嵐は、レーダーから消えた僚友機に乗るパイロットの名前を呼んだ。
「獅堂さん、お願いだ、答えてくれ、獅堂さん！！」
　リップマイクから響くのは、無機質なノイズだけ。
　獅堂藍から応答はない。
「くそっ、」
　マイクを外して、足元に叩きつけた。
　獅堂さんは死ぬ気だ。嵐にはそれが判った。
　あの人は、核弾頭の軌道上に飛びこんでいくつもりなのだ。フューチャーに取り付けてある推進ロケットを使って――　一度も成功していない、シュミレーションですら五割を切る―――ほとんど不可能なミッションで。
　あの人なら躊躇なくぶつかっていくだろう。あの人なら、獅堂藍というパイロットなら。
　そして、もうそれは誰にも止められない。
　操縦桿を握るあの人は、一度出した答えを絶対に翻したりしないのだから。
　そして、
「それが……」
　嵐はうめくように呟いた。
「それがお前の出した答えなのか、楓！！」
―――それが……お前の……。
　絶望で胸が詰まる。どうしようもない。日本の地上に装備されたＰＡＣ−４は、射程距離が短く、東京の全エリアをカバーできない。サッドの性能は不十分で――テストでも、三分の一が迎撃できずにすり抜けているのが現状だ。
　そして、最後の綱――オデッセイの迎撃システムは完全にダウンしている。
　右京の希望は、最後に外れた。
　中国は――ダイレクトに東京とロスを攻撃する。
　その果てが意味するものは。
「……終わりだ……」
　最後の通告をもたらしたのが――楓だった。
　それが信じられない、受け入れられない。
＜――嵐、希望を捨てるな、まだチャンスはある＞
　頭上のスピーカーから、右京室長の声が響いた。
「……チャン、ス……？」
　膝をつきかけていた嵐は、ぼんやりと顔を上げた。
＜―――楓は何故、領空侵犯で撃墜される危険を冒してまで、日本上空に侵入してきた？――お前とコンタクトを取るためではなかったのか。＞
「………僕…と…」
＜―――核の着弾ポイントまで予告したということは、楓自身中国共和党を裏切ったということになる。時間的な余裕がある、ロスはおそらく核の迎撃に成功するだろう、その意味を考えてみろ＞
「………」
＜―――訓練用のＦ２００機が残っている、私なら輸送機でも離脱できる、嵐、行け、お前は――お前たちがこの戦争で死んではなんにもならない！＞
・
・
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　七
・
・
＜―――莫迦野郎、聞こえてるなら返事くらいしろ！＞
　嵐がかろうじて復旧させた防衛庁とのホットライン。
　ノイズと共に飛び込んできた声には、明らかな苛立ちが混じっていた。
「あなたも蓮見も、莫迦野郎を連発しますが、私が女だと言うことを忘れてはいませんか」
　応対する右京の声は、恐いくらい静かなままだ。
　蓮見にはそれが信じられなかった。
　どうしてこの土壇場で、女指揮官は、こうも平静を保ち続けていられるのだろう。
　右京の予測は見事に外れた。
　何が起こったのか知らないが、中国共和党は、核の抑止力よりも、人類共倒れの道を選択したのだ。
―――偶発的核戦争。
　頭のいかれた指導者が最後のスイッチを押す。
　そんな――狂気の、まるで現実味のない展開が、今、現実として、数分後の世界に迫りつつある。
　なのに、右京は冷静だった。
　すぐにリップマイクを手に取り、輸送機に指示を送る口調に、わずかの乱れも興奮もない。
――――何かを……待ってるんだ……。
　蓮見はようやく気がついた。
　この女は――何かを考えている、そして待っている。さきほど推力システム室にいる嵐に向けて言った言葉がそうなら――それは。
　真宮楓という存在なのだろうか。
　嵐が訓練用のフューチャー200でオデッセイを飛び出して行った。それがほんの数秒前のことだ。
＜―――落ち着いてる場合か、いいか、よく聞け、右京＞
　防衛庁から届く声の主は桐谷徹だった。
　防衛庁長官直轄航空開発実施室長――元要撃戦闘機パイロット、桐谷徹一佐。
　室長右京の従兄弟でもある。
＜―――たった今、右京総理から緊急連絡があった。アメリカ政府は、ハワイ沖から、北京に向けて核弾頭を搭載したミサイルを発射した＞
「なんだって？！」
　答えない女に代わり、反応してしまったのは蓮見の方だった。
＜―――最悪のシナリオだ、右京。……ついに全面核戦争へ突入だ。人類は……開けてはならない、パンドラの箱を――――＞
　音声が途切れる。
＜―――嵐！！＞
　開きっぱなしの国際チャンネルから、かすれた声が響いたのがその時だった。
・
・
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　八
・
・
「――楓！」
　嵐は、酸素マスクの下から叫んだ。
　高度六千メートルの上空、被弾したオデッセイが、まだ肉眼で見える距離。
　楓が乗っている――と思われる機体との距離は、もう三千メートルまでしか開いていない。
＜―――嵐、何をやってる、次のミサイルがオデッセイに向けて発射される、ここにいると巻き添えで吹っ飛ぶぞ、とっとと離脱しろ！＞
　耳に直に飛び込んでくる――少しかすれたハスキーな声。
　楓の声。
　嵐はようやく理解した。
　楓は――楓は、
「楓、君は……僕を助けてくれようとしているのか？」
　返って来る返事はない。
　そうだ。
　嵐は自分に言い聞かせた。
　あの時も、楓は僕を連れて行かなかった。楓は右京さんを解放した。
　本質的な部分で――きっと、楓は、昔の楓のままだから。
「……楓、聞いてくれ、僕の命なんてどうでもいい、僕らには力がある、もっと大勢の人を助けることができる、君はそれを、彼に聞いてはいないのか？」
＜―――大勢……？ ヒトと言う愚かな種のことか、＞
　皮肉な笑いを含んだ声がした。
＜―――最後の警告を無視して、自ら核のスイッチを押した奴らのことか、＞
「楓、それは僕らベクターのことでもある、君は忘れている、君自身が彼らと同じ系統種だということを」
　ふっと、息を吐くような笑いがヘッドフォンに響く。
＜―――嵐、お前は相変わらずのお人よしだな、目を覚ませ、奴らは俺たちを同種だとは思ってない。ヒトが俺たちに何をした、さんざん利用して――研究と称して身体中をいじくりまわして、挙句、どれだけ迫害を受けたか――お前はもう忘れたのか。＞
「ヒトは僕らを恐れる、それは当然のことなんだ、誰だって異質なものは恐ろしい、理解できないものは恐いだろう？」
＜―――そう、俺たちは化け物だからな。＞
「楓、聞いてくれ」
　嵐は辛抱強く繰り返した。
　この半年――言い続けてきたことを。
「ヒトにとって、僕らは紛れもなく異種のものだ、未知の力を持つものだ。だから恐い、でも、それを乗り越えなきゃ何も生まれない。互いに理解しあう努力をしなきゃ、どんな溝も埋まりはしない」
＜――そうだ、溝は埋まらない、埋まりようがない。奴らが俺たちを拒否しているのだから。＞
「そうじゃない、そうじゃないんだ、僕らは許さなければいけないんだ、許しあいの果てにこそ本当の救いがある、僕らが拒否すれば、悪意の連鎖は決して終らない。―――判ってくれ、楓！」
＜―――終るさ、どちらかが滅びれば、この闘いは永久に終る。＞
「そんなもの未来でもなんでもない、判らないのか、楓、異種のものは共存できる。父さんの研究を思い出せ、二者択一の生き残り組に進化はない、必ず勝ち残れる種なんて存在しないんだ！」
＜―――それでも、少なくとも、ベクターは地上最強の種だ。＞
　嵐は苛立って拳を握り締めた。
「誰がそんなことを決めた、誰がそんなことを証明した、人が最強の生命体ではなかったように、ベクターもまたそうだとは思わないか、たった三世代しか存在しない僕たちが、在来種より環境に適応性があるかどうかなんて、まだ未知数だってことが判らないのか！！」
＜―――………＞
「僕たちは人に影響されながら生きている、人もまた、僕たちに影響されながら生きている、その関係が、新しい進化の始まりなんだ。異種同士の相互作用こそが、生物を次の段階へ導くことができるんだ！」
　嵐は待った、信じて待った。
　この叫びが、魂の半身に届くことを。この審判の瞬間を目前にして。
　これが、紛れもなく最後の――チャンスなのだから。
＜―――そしてお前は、＞
　わずかな沈黙の後、うめくような声がした。
＜―――忘れろというのか、許せというのか、俺たちの両親を殺した奴らのことまでも、＞
　抑制された楓の声に、激しい感情が滲んでいる。
「……楓……」
＜―――他の何が許せても、俺はそれだけは許せない、忘れられない、理解できない！＞
「………」
　嵐は、言葉を失った。
　いつもそうだ。
　いつもここで、会話は壊れる。
　楓は――そこから一歩も進んではくれない。
　あの惨劇の日の、あの瞬間から。
＜―――俺はよく覚えている、あの日は、俺が真宮の家に引きとられた記念日だった。だから、珍しく父さんが家にいて、母さんは晩飯の用意をしてた。＞
「楓……」
＜―――幸せな光景だった……＞
　苦しそうな声だった。泣き出しそうな声にも聞こえた。嵐は耳を塞ぎたかった。
＜―――お前は雑誌を読んでいた、父さんと楽しそうに話しをしていた。俺は台所に立って、ベルが鳴って、……それから、＞
「……楓、もういい、もう何も言うな」
　ヘッドフォン越しに、胸を引き裂かれるような痛みが伝わってくる。
「もういい、僕が悪かった、もう――」
―――何も、言わないでくれ。
　これ以上苦しまないでくれ。
『―――嵐、いいから先を促せ』
　別の回線を通じて声が届いたのはその時だった。声――右京室長の声。
　嵐ははっとして顔を上げた。
『――楓が心を開きかけている、いいから、そのまま話を続けろ』
―――楓が……心を？
＜―――父さんが出た、玄関から銃の音がした、一回、二回、三回、＞
　掠れた声が、累々と続く。
　確かに様子が普通ではなかった。まるで――何か別のものを見つめているような――心だけ別の場所に飛ばしているかのような、虚ろな口調。
「……楓、」
＜―――音楽が鳴っていた――ずっと流れ続けていた。あれは、何の曲だったんだろう……ずっと、ずっと鳴り続けていた。まるで、死んだ者たちを見送るように、父さんが撃たれた時も、母さんが撃たれた時も、＞
―――音楽？
　嵐は、トリガーを握る手に力をこめた。
　音楽？
＜――そして、お前が撃たれた時も、＞
「……かえ……で…？」
　それは――なんの話だろう。