二



「お前が肺がんになって、その医療費を私の税金でまかなわれると思ったら、たまらないな」
 いきなり背後からそう声をかけられ、蓮見はげほげほと咳き込んだ。
「な、なんすか、その婉曲な嫌味は」
 慌てて煙草を唇から離し、自前の灰皿に押し付けようとする――それを、
「いい、まぁ、好きなだけ吸え」
 そっけない声で遮ったのは、第一声で嫌味を言った女――右京奏だった。
 オデッセイの休憩室――別名、蓮見黎人の喫煙コーナー。
 こんなところに室長――右京が一人で来ることなど滅多に無い。というか――初めてだ。
「まだ、こんなところでうろうろしていたのか、シャトルの時間に間に合わないぞ」
 ガラス窓から差し込む夕焼けが、床を、壁を、女の頬を、鮮やかな誹に染めている。
 半透明の瞳はますます透き通り、髪は日差しを受け、宝石を紡いだように美しかった。
「なんとなく……吸い納めを」
 蓮見は、戸惑って、指に絡めた煙草をもてあます。
「おかしな男だな、地上に降りたらいくらでも吸えるだろうに」
 右京は真っ直ぐに蓮見の横をすり抜け、窓際の手すりに手を掛けた。
 なだらかな肩、すらりと伸びた背中から腰のライン。
 思わず目を逸らしていた。
 乗艦した当初は、完璧な体型だと思いながら、その人形にも似た味気なさに、むしろ薄気味悪ささえ感じていた。
 なのに今は――。
「お前みたいな男と、一年近く一緒にいたと思うと、驚き以外のなにものでもないな」
 背中を向けたままで女は呟く。
「あんたねぇ」
 蓮見は朽ちていく煙草を、灰皿に押し付けた。
「最後くらい、嫌味以外のことを言えないんすか」
 昨日、正式に辞令が出た。
 明日付けで、蓮見は、警視庁捜査一課に戻される。
 昨夜、それを自分に告げた右京は、淡々としていたし、蓮見も――唖然としながらも、淡々とそれを受けた。
 自分が降ろされることは、薄々であるが察していた。遥泉もそれとなくほのめかしていたし、戦況が逼迫する中、右京奏の警備役という名目で乗艦した警察官に、もう――本当の意味で居場所がないことも明らかだった。
 辞令を受け取り、室長室を出た時、蓮見は思わずガッツポーズを取っていた。
 そう、これで、約一年に及ぶ屈辱的な忍従と、そして辛かった禁欲生活からおさらばできる。
 地上には全てがある。ここにはない、――全てが。
 なのに、全ての荷造りを終えて、出発直前になっても――不思議と心は晴れなかった。
 今日、午後の最終シャトルで、この艦を降りるのは蓮見だけではないらしい。
 整備士や調理師たちが、荷をシャトルへ積み込んでいるのを見た時、ふと、かすかな疑念が湧いた。
 この艦は――やばいんじゃないのか、と。
 けれど、だからと言って、自分が残ったところで何になるわけでもないし、誰もそれを――蓮見自身もむろん、そんな莫迦なことを望んでいないことは判っている。
 蓮見はあくまで、警察庁からの派遣扱いで、身分は警察官のままなのだ。
 右京や遥泉のように、防衛庁の身分を取得し、軍の階級まで手にしているわけではない。
 残る義務も必要もない。
 なのに、心だけ晴れなかった。
「……嵐の話を、覚えているか」
 右京は背を向けたままで、そう続けた。
「嵐、……ですか?」
 いきなり出てきた意外な人物の名前に、蓮見は戸惑う。
「この間、酔っ払った時に、さんざんお前に講義していただろう。進化の法則は、相互作用から始まるんだと」
「ああ、……そう言えば」
 嵐の誕生日の夜だった。二十歳になった祝いに、特別に振舞われた缶ビール。
 そのたった一本で、嵐の説教魂に火がついて――その情熱を一気に受けたのが隣りに座っていた蓮見だった。
「内容は、あまり覚えてないっすけど、確か、嵐の――死んだオヤジさんの論文がどうとか」
「真宮伸二郎氏は、遺伝子の進化について研究をしておられた。生前の論文を読ませてもらったことがある。彼は――もう何年も前から、今の時代が来ることを予想していたような気がしてならない」
「……今の時代って、米中の戦争のことですか、それとも、ベクターと在来種の」
「どちらも底に流れるものは一緒だ。結局は、異質なものへの無理解と排除、そして強国覇権主義。歩み寄り、理解することを拒否した者たちに、進化はない。進化がないから膠着する。この戦争は――決して終らないだろう」
 女は初めて振り返った。
 蓮見は目をすがめた。
 初めてこの女と――オデッセイで、まともに話しをした時のことを思い出していた。
「あんた……最初も、そんなこと言ってましたね、この戦争は絶対に終らないと」
 すうっと右京の眼差しが細くなる。
「そんな泥沼みたいなものに、あんたはいつまで、足を突っ込んでるつもりなんすか。あんたも――もともとは警察の人間なのに」
 夕陽が、二人の間に濃い影を落としている。
「……嵐の、話は、」
 先に目を逸らしてしまったのは、蓮見の方だった。
 右京の目は、確かな信念を抱いている。信じたもののために闘う眼差しに、――ここから降りる自分が言うべき言葉は何も無い。
「俺には難しすぎて、よく――、進化ってあれっすよね。象の鼻が長いとか、キリンの首が何故伸びたかとか。言ってみりゃそういう話でしょ、それが、相互作用とか、理解しあうとか、そんなものとどう関係しているんすか」
「真宮博士は、ある酵素を三種類の変異種に変異させ、それを一つのシャーレの中に閉じ込め、何十世代にもわたってその繁殖率の増減を調べられた」
 女は静かな眼差しのままで続けた。
「代謝率の高い酵素、中ほどの酵素、低い酵素、この三種をひとつのシャーレで競わせた結果、七割以上の確率で、全ての酵素が生き残っている。その意味が判るか」
「……いや、あまり」
 確か嵐は、トカゲがどうとか、そういう話をしていたはずだ。
「自然界では、強者生き残りという理論は現実的ではないということだ。ある種と別の種が、ひとつのテリトリーを共有する場合、単純にその生殖率、代謝率で、勝者が決るのではない」
「………」
「酵素を例に取ってみようか。普通に考えれば、代謝率の高い酵素だけが生き残るはずだ、そうは思わないか。キリンの首は高い所にある草を食べるために伸びたのなら――そのために、首の短い種が滅んでしまったのなら――より合理的な生物種が生き残る。そう言う結論になるのではないか?」
「そりゃ……まぁ」
「けれど、実際はそうではない。代謝率の高い酵素が吐き出す濃密度の二酸化炭素という恩恵を受け、代謝率の低い酵素もまた、知らず代謝率をアップさせている。そうして双方が生き残る。彼らは少しずつ進化してく、互いに影響を受け合って、――決して強者が弱者を滅ぼすのではない。ウィルスのように、無駄なく単純に増殖していく性質を持つものなら、強者は弱者を食い尽くすだろう。だが、我々人はウィルスではない。それよりも――何億倍も複雑にできている、無駄なものだらけの生物種だ」
「………無駄って、ことはないでしょ」
「たとえば、セックスは生殖するためにある。けれど、人は、それ以外の理由でセックスをする、そうじゃないのか」
「いや、あの」
 蓮見はさすがに赤面した。普通――言うか?こうもはっきり。
「単純に生きて、そして種を存続させるために必要なDNAは、たった五パーセントにすぎないんだ。あとの九十五パーセントは、全く無駄なDNAだ。人と言う種は――そんな、複雑な構造をもっている、……宿命的に」
 女の目は真剣だった。
「けれど、……無駄なものが、結局は種を進化させ、安定させ、存続させている。セックスがコミュニケーションのひとつとして、種の存続に別の形で役立っているように、だ。進化は互いを認めることから始まる………真宮博士の理論を――私も、最近、身近なものとして実感している」
「………」
「同じ種で、美しい花とそうでない花があるとする。美しい花は、その外見ゆえに刈られ、やがて絶える。けれど、そうでない花が残る限り、花という種は生き残る。一部でも同じ遺伝子を持つものが生き残れば、何世代か後――再び、美しい花は息を吹き返すかもしれない」
 初めて女の唇に、あるかなきかの微笑が浮かんだ。
「私は、お前を無駄だらけの人間だと思っていた。いや、今でもそう思っている。けれど、お前と会えてよかった」
「…………」
「私は、お前と会って変わったような気がする。それが――進化だ。複雑な感情を持つ人間は、こうやって精神レベルで影響を受け合うことですら、進化への糧にすることが出来るんだ。精神は細胞に、細胞は遺伝子に――何世代か、何十世代か、その先に」
「………」
「……人という種が、この戦争を生き残ることが、できたのなら」
「………」
 ではな。
 そのまま去っていく背中に、蓮見は何も言うことができなかった。
 今ほど頭の悪いことを悔いたことはなかったが――言いたい言葉だけは判っていた。
 俺も、あんたに会えてよかったと。


                   三


「失礼します」
 入室と同時に、室内にいた遥泉が出て行ったので、広いオペレーションクルー室で一緒の時でさえ威圧される女性―――右京奏と、嵐は二人きりで差し向かいになった。
 オデッセイの、ここは室長の私室だった。
 初めて入室したその部屋には、両サイドの書庫にぎっしりと書物とファイルが詰め込まれている。その棒大な量に、まず息を引いていた。
「随分人が減って……」
 右京が黙っているので、嵐は小さく呟いた。整備士たちを乗せたシャトルを見送ったのは、つい十分前のことだった。
「寂しくなりましたね、オデッセイも」
「戦争も、これが本当の終盤だな」
 女は低くそう言うと、腰掛けていた肘掛椅子から立ち上がった。
「嵐、この艦は、数時間後には撃墜される運命にある、お前には、その時に備えろと言ってあったはずだが、準備はできているのか」
「残ったクルー全員を、……」
 嵐は、柔らかなソファに座ったまま、膝に当てた拳を握り締めた。
「十五分以内に退避させることが可能です」
「それから?」
「オデッセイを、」
 嵐は顔をあげ、動かない女の背中を見た。
 白いシャツにネクタイ姿――防衛庁で、最初に見た時には、華奢な男の人だとさえ思えた後ろ姿。
「……オデッセイを、洋上に移動させ、被害を最小限に抑えて、自爆させられます」
 搾り出すような口調で言った。
「……そうか」
 それだけだった。感情があるのかないのか判らない口調。
 けれど、嵐がそうであるように、この冷徹な女室長もまた、断腸の思いであることは間違いないはずだった。
 右京奏を筆頭とする、百名余のクルー。
 ほぼ一年間、彼らはこの空の要塞で過ごした。
 さまざまな大小の問題がそこには頻発し、時には意見や立場がぶつかりあい、人間関係がこじれたこともあった。
 こじれては修復され、そしてより強くなっていく絆。それはまさに、苦楽を共にした仲間たちしか味わえない、ある種至福の時間でもあった。
「日本政府は……本当に、オデッセイを見殺しにするつもりなんですか」
「勘違いするな、嵐」
 うめくように呟いた嵐に、右京の冷静な声が返ってきた。
「この艦は、最初からそのためだけに打ち上げられたんだ。専守防衛で攻撃できないわが国の、最初の防波堤となるために、だ」
「参戦のきっかけをつくるためですか、そんなもののために、僕らはこの一年」
 腰を上げかけた嵐は、射竦めるような視線を受けて、うなだれた。
「行き着くところまで行かなければ、見えてこないものもある」
 頭上から降ってくるのは、諭すような声だった。
「それが人という種の持つ宿命なら、もう、これは止めようがない……時流というやつなのだろう」
「……でも」
 それでいいんですか。
 嵐は叫び出したい衝動を堪えた。それで――それで、本当にいいのか。本当にそれしか、とるべき道はなかったのかと。
「願うのは、この愚かな殺し合いの果てに、人が……立ち止まって足元をみてくれることだけだ、そのための――人が、新しい段階へ進むための犠牲だと思えば、決して安い代償ではない」
「……室長、」
「私は、最初からそう思っていた」
 反論することは、何もできなかった。
 この人は、最初から終焉を見越していたのだ。この人が見つめていたのは、最初から死だけだった。だから――だから、いつでもこの人は強かったのだ。
「真宮楓とは、あれから連絡が取れないのか」
「………」
 嵐は無言で首を縦に振った。
 オデッセイから楓が逃走して――それから何度か、国際チャンネルを経て、会話するチャンスはあった。けれど楓は、すでに頑なに心を閉ざし、弟の声に、耳を傾けることさえしなかった。
「一度離れてしまったものは、」
 嵐は自嘲気味に呟いた。
「もう、元にはもどらないのかもしれませんね、僕と楓もそうだ、行き着くところまで行かないと、お互いの心には、もう触れ合えないのかもしれない」
「諦めるなど、お前らしくないな」
 その声に顔を上げ、嵐は少し驚いた。滅多に笑わない室長の唇に、微かな笑みが浮かんでいる。
「嵐、……実は私は、まだ諦めてはいないんだ」
―――あきらめて…いない……?
「終焉を、救ってくれる存在を、な」
 そのまま再び背を向けた女を、嵐はいぶかしげに見上げた。
「それが存在意義だと思うのは、私の自惚れなのだろうか」
 独り言のような声。
「……室長?」
「お前は、トランスジェニックマウスというのを知っているか」
 ふいにそう言うと、右京は自分の机の方に向かって歩き出した。
「トランスジェニックマウスですか?」
 嵐は戸惑う。
 無論、知っている。
「受精卵への遺伝子導入によって、染色体の一部に外来性の遺伝子を組み込んだマウスのことです……よね」
 マウスの遺伝子にラットの成長ホルモン遺伝子を接続した組み替え遺伝子を作る。それを、マウス胚に導入する。その結果、過剰な成長ホルモンを有するスーパーマウスが誕生する。
 生物の初期胚に、なんらかの遺伝子的操作を加えてから――発生させる。バイオテクノロジーの発生工学で、よく利用される実験の一つだ。
「人は、よりよい環境を求め、機能を求める。それは、いつの時代も変わらない欲求なのかもしれないな」
「………?」
「約、半世紀前のことだ、人は、自らと同じ組織、同じ細胞レベルを持ちながら、人よりさらに勝れた生命体と巡り合った――そんなおとぎ話を、お前は信じるか?」
 嵐は戸惑って目の前の女の横顔を見つめる。
 そして、猛然と考えた。
 この人が、意味のない会話をするはずがない。何か――何かの意味が、そこには必ずあるはずだ。
 トランスジェニックマウス。
 遺伝子を組み替えた動物。
 トランスジェニック……――T。
 T。
 では、Hとは。
「これから話すことは、他言無用だ、嵐」
 嵐は、呆然と顔を上げた。
「私がどういうルートでその情報を入手したのかも、決して探るな。アメリカ政府は、数十年も前から、ある特殊な遺伝子をもつはずの四人の人間を探していた。そして私は、その四人の所在と名前を全て把握している――つもりだ」
 H。
 ヒューマン。
「ベクターとは、そもそも実験の失敗作が市場に流れ出たものなのだ、そう――完全体は、たったの四体しかできなかったのだから」
 嵐は膝の震えを抑えながら、その言葉の続きを待った。
 すでに頭の中に、答えは出ていた。
 TH。
 トランスジェニック・ヒューマン
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