三



「左利きだったんすか」
 問いかけに返って来る声はなかった。
 蓮見は肩をすくめ、ソファに深く座り直した。
 オデッセイ最上層にある室長の執務室。
 いい加減眠たかったが、今夜ばかりは、ワークホリックの女上司に最後までつきあうつもりだった。
 これで三日。
 スーパー上司、右京奏は、退院して以来、一睡もしていない。
「あのー、一応医者から、しばらく無理しないようにって言われてんですけど」
 左手だけで、少なくとも蓮見の二倍近いスピードでノートパソコンのキーを叩いてる女は、眉ひとつ動かさない。むろん、声さえ返ってこない。
「病院、明日予約入れてますけど、どうすんですかね」
 殆ど投げやりに聞いていた。
「お前が、代わりに行って来てくれ」
 ようやく返事が返って来る。
「というより、うるさい。邪魔するなら出て行ってくれ」
「行けませんよ」
 蓮見は開き直って、両手を頭の上で組んだ。
―――なんだ、聞こえてたのか、と思った。
 少し前なら確実に激怒していた場面だが、もう、こんな受け答えにも慣れてしまった。
「なにしろ、国際指名手配犯が、同乗してんですからね。あんた――室長が寝るまで、ここにいますよ」
 再び無視を決め込まれる。
 蓮見は嘆息して、天井を見上げながら――今日の午後、珍しく遥泉が右京に詰め寄っていた場面を思い返していた。
(あなたは――ご自分がなさっていることを、本当に理解しておられるのか)
(早急に、本庁に身柄を引き渡すべきです。明日にも強制連行されるかもしれない。そうなったら、あなたの立場は)
「……なんで、真宮の兄貴を庇うんですか」
 遥泉の言葉を反芻しながら、蓮見はそう聞いていた。
「室長も警察官の端くれなら理解してますよね、警官の犯人隠匿は重罪ですよ」
「犯人……?誰のことだ」
 返って来る返事はそっけない。
「うちで抱えているのは、あくまで身元不明機のパイロットだ。国籍さえ判らない、この時点で、彼の調査権限はオデッセイにある」
「そんな、子供じゃあるまいし、みえすいた屁理屈を」
 右京は無言で立ち上がった。
 手元のパソコンを、彼女らしからぬ乱暴な所作で閉じている。
「寝る、出て行け」
 蓮見も黙って立ち上がる。
 なんだかもう――どうでもいい気分になりかけていた。
 あんな事件があって。
 病院で――多少なりとも、女らしい姿を見て。
 少しだけ――それは、本当に些細なものなのだが、それまで水と油のようだった二人の距離が、少しだけ縮まったような気がしたのだ。
 けれど、結局、右京奏は、右京奏のままだった。
 いや――真宮楓確保以来の慌しさで、以前よりむしろ冷たくなったように感じられる。
 難題に挑む女の視界に、すでに自分は映っていない。それだけは確かだ。
「戸締りはお忘れなく」
 それでも蓮見は一言言った。
「私の私室には、IDなしには誰も入れない、心配無用だ」
 きびすを返した背が、振り返りもせずに彼女の私室に繋がる扉を開ける。
 確かに女の言うとおりで、このオデッセイで、室長が唯一一人になる空間――バストイレ付きの個室には、誰であれIDカードの認証と、許可なしには入室できない仕組みになっていた。
 内側から鍵が掛かる音を聞きながら、蓮見は大きくため息をついた。
 自分が何に喪失感を感じているのか判らない――それだけに、苛立ちだけがくすぶるように残っている。
 それでも少し前のように、ここを辞めて地上に降りたいとも思えない。
 なのに、右京の態度や言葉には、以前よりさらに強い憤りを感じている。
 感じながらも――冷たくスルーされると判っているのに、それでも妙に絡んでしまう自分がいる。
―――あー、莫迦莫迦しい、どうせ考えるだけ無駄だよ、無駄。
 執務室を出て、すぐ隣りに用意された自室に戻ると、耐えていた眠気が、いきなり襲い掛かってきた。
 ベッドに仰臥し、ネクタイを緩めながら、もう、半ば眠りに落ちかけていた。
―――俺、……そういや、何日してなかったっけ。
 抱きたい。女を。
 右京とは正反対の――可愛くて、女らしくて、それから……。
 やがて蓮見は熟睡していた。――だから、気がつかなかった。
 警報の音で飛び起きた時、一体自分がどれくらい寝ていたのか。 


                  四


「――これは威嚇じゃない、真宮」
 銃を構える細い腕は、少しも震えてはいなかった。
 蓮見は瞠目して、隣りに並び立つ女を見下ろした。
 獅堂藍。
 蓮見の肩先までしか背丈のない女は、まっすぐな目で、構えた銃口を、数メートル先に立つ男に向けている。
「室長を放せ、五秒待ってやる、それ以上は待たない」
「獅堂さん!!」
 悲鳴のような声を上げたのは、捕らえられている女ではなく、蓮見の背後にいる嵐だった。
「嵐、お前はひっこんでろ、俺が射撃が下手なことは知っているだろう」
 獅堂は振り返りもせずに言う。
 自分のことを俺と呼ぶ珍しい女は、闇のような黒い眼差しを、目の前の標的――真宮楓に向けていた。
「真宮、自分はお前の頭を狙うので精一杯だ、室長を離せ、でないと、お前の頭を吹き飛ばす」
 室長――右京奏を背後から抱きかかえている男――真宮楓は、それでも怜悧な表情を少しも崩してはいない。
 そして、綺麗過ぎるその目は、銃を向けている獅堂藍にも――そして、その隣りで身構える蓮見にも向けられてはいない。
 ただ、二人の背後にいる、彼の弟――真宮嵐に向けられている。
「……俺は、自分の国に帰るだけだ」
 その唇が低く呟いた。
 少しハスキーかかった、かすれ声。
 初めて聞く、国際手配犯の肉声に、蓮見はかすかな戦慄を覚えた。
 抑揚の乏しい、醒めた口調。まるで――機械が紡ぐ音声のような。
「……もう、俺の用は終った、俺は、俺の国に帰るだけだ」
「お前は、亡命して、日本に帰ってきたんじゃなかったのか」
 獅堂の声を聞きながら、蓮見は思わず舌打ちを漏らしていた。
 不覚にもほどがある。
 まさか――こんなことになるとは、夢にも思っていなかった。
 ほんの数分前、警報で蓮見は跳ね起きた。
 室内のパネルで確認すると、異変は病室――真宮楓が収容されている病室が震源となっている。
 常駐していた隊員たちと共に蓮見が駆けつけた時には、病室は固くロックされ、通常の操作では開かないようになっていた。見張りについていたはずの警備班の連中の姿も見えない。
 喧騒の最中――蓮見は、閃くような不安を感じ、そのまま右京の私室に駆け戻った。
 何かを察したのか、蓮見の背後から嵐と――そして、獅堂藍がついてきたのを覚えている。
 室長室のセキュリティーは、完璧だったはずだ。それを――おそらく、病室にあったコンピュータからハッキングして、こじ開けたのだろう。
 開け放されたままの右京の私室の扉を見ながら、蓮見はそう判断した。
 病室には、警備員と医師が閉じ込められている。今となっては、彼らの身に危害が加えられていないかだけが心配だった。
 そして――逃亡した領空侵犯機のパイロットと、囚われた女は、オデッセイ中層に続く昇降機の前で、ようやく視界に捕らえることができた。
 そこは行き止まりで、即座に獅堂が、携帯していた拳銃を構えるのと、真宮楓が、右京奏に銃口を突きつけたのが同時だった。
 真宮 楓。
 蓮見は、改めて、その男の姿を見つめた。
 オデッセイに収容された時には、衰弱しきっていて、そして、三日間寝たきりだった少年が――。
 今は、背筋をすらりと伸ばして立っている。そして、背後から抱きかかえた右京の耳元に、小型の銃―――おそらく、警備員から奪ったものを突きつけている。
 冷たい瞳には、何一つ感情の欠片も浮かんではいない。
 それは、ぞっとするような美しさだった。
「何もかも、芝居だったってわけか」
 蓮見は言った。時間だ――時間を稼ぐ必要がある。じきに、他の隊員たちがここへ駆けつけてくるだろう。いずれにしても、天の要塞で、この侵入者に逃げ場はない。
「何の目的で、ここへ来た、最初から俺たちを騙すつもりだったのか」
 返ってくる返事はない。
 膝までしかない袷着。むきだしになった素足のせいか、真宮楓――彼は一匹の美しい獣に見えた。
 まるで、猫科の動物のようだ、と蓮見は思った。
 例えて言うなら豹に似ている。切れ上がった怜悧な瞳。鮮紅色の薄い唇。ホワイトブルーの袷着に包まれたしなやかな身体と、俊敏な身のこなし。
 何も答えないまま、美獣は、じりじりっと後退する。
 彼らの背後の昇降機に向かって。
――――どうする、
 と、蓮見は思った。
 少なくとも、この位置で蓮見には撃てない。真宮楓は、右京奏という人の壁で、自分の身体を完璧にガードしている。
 一番肝心なのは、室長、右京奏の身の安全なのだ。
 当の右京と言えば、これまた楓と遜色ないほど落ち着き払った顔をしている。
―――ったく……この女は。
 気が抜けそうだった。
 就寝中を襲われたというから、女らしい寝巻きでも着ているのかと思いきや、普段のシャツに制服のズボン。ネクタイこそ外してはいるものの、仕事途中のビジネスマンのようなスタイルだ。
 ただし、その右腕だけは痛々しく包帯に覆われている。
 この怪我がなければ、うかうかと捕らえられはしなかったはずだが――あの事件で、右京の凄まじい迫力を見せ付けられた蓮見には、それでもわずかに腑に落ちないものを感じていた。
 この女が――こうも簡単に、囚われの身に甘んじるだろうか。
「楓……僕が、わかるか」
 蓮見の背後で、初めて嵐が声を放った。
「俺の国に戻る……って、それは、何処のことを言ってるんだ、楓、……ここは、お前の生まれた国なんだぞ」
 猫科の男は答えない。
 冷たい――凍るような目をしている。
「頼む、冷静になってくれ、……これ以上、罪を重ねないでくれ、楓」
「罪…………」
 不思議そうにそう呟き、初めて、美しい男は薄く笑った。
「嵐、俺たちは戦争をしているんだ、」
 低い、けれどよく通るしっかりとした声音。
「戦争で人を殺すのは罪にはならないじゃないか」
 蓮見の背後で、嵐が凍りついているのが判った。
「嘘だ……」
 悲痛な声だった。
「それが、君の本心であるはずがない……楓、君は……」
「……非難がましい言い方はよせよ」
 楓は声もなく、唇だけで微笑する。
 そしてハスキーな声で、淡々と続ける。
「お前だって、戦争に手を貸しているんだ、嵐、日本に手を貸すのは正義で、中国に手を貸すのは悪か、随分都合がいい理屈じゃないか」
「そんなことを言ってるんじゃない」
「じゃあなんだ、ベクターに手を貸すのが悪で、在来種に手を貸すのが正義だとでもいいたいのか」
「楓、」
「お前には失望したよ、嵐、お前は―――俺たちベクターの裏切り者だ」
「楓!」
 右京を抱いたまま、楓はじりじりと後ずさる。
 彼が、戦闘機を収容してある格納庫へ向かっていることは明らかだった。
 けれど、この状況で――右京を抱えたまま、どうやって彼は、この場を切り抜けるつもりなのだろう。
 蓮見は眉をひそめる。
 何かを――待っている、のか?
 けれど楓は、その場にとどまったまま、やはり嵐を見つめながら、ほとばしるように言った。突然、まるで何かのスイッチが入ったように。
「人は増えすぎた――嵐、人という種を、これ以上地上に増やしてはいけない、お前にもそれは判っているはずだ。人が、この数百年、いかに愚かな殺し合いと環境破壊ばかり繰り返してきたか」
 静かな通路に張り詰めた声が響き渡る。
 その異様な迫力に、蓮見も思わず息を引いていた。
「君は……間違ってるよ……」
 嵐は、ただ辛そうに呟く。
 楓は鋭く眉を寄せた。
「間違っているのはお前だ。このままだと、人は必ず地球という環境を破壊し尽くす、俺たちは――ベクターは、彼らを抑制するために存在するんだ」
「な……」
「人と言う種から、この地球環境を守るために生まれたんだ」
「何を、……何を言ってるんだ、」
 憤るような声と共に、嵐が蓮見の隣まで乗り出してきた。
「誰にそんな莫迦な考えを吹き込まれた、楓、そんな区別はどこにもない、そして誰にも決められない!」
「じゃあ人がベクターを滅ぼそうとしているのは、認容するのか?嵐、お前は、忘れたのか、俺たちの両親が、一体誰に殺されたのか!」
 楓の声の、そのあまりの悲痛な響きが、蓮見の胸を衝いた。
 傍らの獅堂もまた、すでに銃口を下している。
「誰に殺されたかなんて……そんなこと、問題じゃないんだ……」
 嵐は再び口ごもり、そしてただ苦しげに呟く。
 蓮見も知っていた。
 彼らの家族は、ベクター弾圧の最先鋒に立っていた過激カルト教団に殺されたのだ。
 けれど、その事件には不明な点がいくつもあった。まず――別の場所に運ばれて殺害されたことになっていた楓が、どうして中国共和党の党員になっていたのか、そこからして、すでに逮捕された幹部の供述と食い違っている。
「問題じゃない?…相変わらず優等生だなお前は、……吐き気がするよ」
「楓……」
「俺は忘れたことなんてなかった、俺は、」
「………」
「お前だけだった、お前のことだけが、この五年間の俺の全てだったんだ……嵐……」
「……楓、」
「お前の居場所か、……そんなくだらないものがお前には大切なのか」
「聞いてくれ、楓」
「俺には、そんなもの必要ない」
 楓の呟きは、ふいに落ちた闇の中にかき消された。
「楓!!」
「くそっ」
 傍らの獅堂が同時に叫ぶ。
 それは蓮見も同様だった。
 楓は、この瞬間を待っていたのだ。おそらく――一定時間後、自動的に照明が落ちるよう、オデッセイのシステムに介入していたのだろう。
 暗闇で再び銃を構える女を、蓮見は咄嗟に壁際に押さえつけた。
「何すんですかっ」
「莫迦、こんな闇じゃ、室長に当たるだろうが!」
「――楓!」
 嵐の悲痛な叫びが、背後から響いた。
「僕にも君が全てだった――僕たちは魂の双子だ、君は僕にそう言ってくれた、僕はそれを」
 拳で床を叩く音――何度も、何度も。
「―――忘れたことなんて、一度もなかったんだ、楓!!」
 闇に返る返事はない。
「莫迦野郎、めそめそしてないで、さっさと電源を回復させろ」
 蓮見はうなだれたままの嵐の頭を叩き、楓と右京が消えた通路の、その反対側に向かって駆け出して行った。


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