二


「ほれ」
 投げ出された缶コーヒーを、嵐は少し驚いて受け取った。
「国府田の休暇土産、なんでも新商品のコーヒーなんだと、ここじゃ缶モノは飲めないから、貴重だよな」
 そう言って、獅堂藍は、部屋の隅にある簡易ベンチに腰掛けた。
 ベッドの傍に立つ嵐の背後で、プルタブを切る音がする。
 獅堂藍。
 元、航空自衛隊、百里基地要撃戦闘機のエースパイロット。
 航空学校時代、史上最年少でウィングマークを取得して、自衛隊初の女性戦闘機パイロットになったと聞いている。
 身長が170センチ近くもある長身に、しなやかに伸びた形良い手足。
 凛々しい眉と、真っ直ぐな黒い瞳。
 色白の肌に、薄紅色の唇。
 紅顔の美少年――といった感じの女性である。
 今から約半年前、初めてオデッセイで顔をあわせた時、この人が女性だとはまさか信じられなかった。
 右京奏は、男性にしては綺麗すぎるという違和感があったが、獅堂藍にいたっては、その違和感さえなかったからだ。
 ただ、へぇー、こんな子供でも、パイロットなんかやってるんだ。――と、そんなことを思ったのを記憶している。そして、それが顔に出ていたのだろう。
「自分たちは、空自を代表してここに呼ばれたと認識しています」
 パイロットスーツにサバイバルジャケットを羽織った女は、憤るような目で、右京奏につっかかっていった。
「操縦のことで、今更、こんな子供に教えてもらうことなどなにもない!」
 それが――自分のことを言われているのだと、とっさに嵐には判らなかった。
 嵐の最初の仕事は、フューチャーを搭載した新型戦闘機。そのテストパイロットたちのアドバイザーだったのだ。
 それが、この向こう気が強そうな女――獅堂藍には気に入らなかったらしい。
「では、嵐と擬似ファイトをしてみればいい」
 右京はさほど顔色も変えずにそう指示した。
「え、ぼ、僕がですか」
 嵐は慌てた。
 擬似ファイトとは、コクピット部のみを再現した円状の機械に乗り込み、実際と同じ操作をしながら、コンピュータ画面でドッグファイト――空中格闘戦技を行うことを言う。
 あくまで画面上のことだが、どちらかが相手をロックオン。つまりミサイルの照準に収め、スイッチを押した時点で勝敗が決る。
 擬似とはいえ、実際にGがかかるのだから、たまらない。
 Gの世界というのは、想像以上の重圧なのだ。全身に脂汗が滲み、吐き気と眩暈で死にそうになる。
 三度やって、嵐はようやく一回だけ勝利を収めた。
 三次元を擬似した世界から、気絶寸前で下車した時、気づけば周囲のパイロットたちから拍手が送られていた。
「くそーっ、やられたぁ」
 まるで銭湯から出るような気安さで降りてきた獅堂は、開口一番そう言って、嵐の肩を思い切り叩いた。
「おい、教えてくれ、旋回時の機体のコントロールのことだけどな」
 そしてすぐに真剣な論議が始まった。
 後で聞かされたことだが、例えコンピューターシュミレーシュンとは言え、この女性パイロットが負けを期すことは本当に滅多にないことらしい。
 こと、戦闘機の操縦にかけては誰よりも激しやすく、プライドの高い女。
 最初は怖い人だなぁ、と思った。けれど、すぐに胸を割って話せる相手になった。
 不思議な人だった。人を寄せ付けない厳しさと、反面、人を引き付けずにはいられない魅力を同時に持っている。実際、獅堂の周りには常に人が集まっていた。誰からも愛され、そして慕われている――そんな感じだ。
―――恋……。
 と言ったら、少し語弊があるが、嵐は、この女パイロットが、今は誰よりも好きだった。
 まるで、同じ学校の先輩のように頼りがいがあって、それなのに、どこか無防備な危なかしさがあって――なんだか、目が離せない。
 そして、何より綺麗だった。
 女性的な美貌という意味でなら、際立った美人――というわけでもない。
 けれど、パイロットスーツを着て、ハーネスを締め、ヘルメットを片手に颯爽と空へのステップを駆けていく女は――嵐には、地上のどんな美人より美しく見えた。
「お前の兄貴って、綺麗な奴だな」
 その獅堂が、嵐の背後で呟いた。ごくり、とコーヒーを飲み干す音がする。
「……僕の自慢でしたから」
 すさんでいた心が、少しずつほどけていくのが判る。
 嵐は自分も、プルタブを切った。
「でもこう見えて、怒らせたら相当コワイ男なんですよ。きれいな顔して、えげつない復讐をする奴だから」
 さっきまで、自分が考えていたことが、今はむしろ恐ろしかった。
 僕は、何をしようとしていたのだろう。
 楓を連れて――このまま、中国か北に亡命しようと思っていた。
 もし獅堂が来るのが数分遅ければ、袋小路に陥った思考の中、そんなとんでもないことを実行していたかもしれない。
「でも……楓は、きれいな奴です、見かけじゃない、心が――誰よりも綺麗な男なんです」
 嵐は楓を見下ろした。
 そうだ――。
 何も変わらない。
 逃げたとしても、今の現実から逃げられたとしても、何の解決にもなりはしない。
「僕の様子、おかしかったですか」
 獅堂の隣に腰掛けながら、嵐は素直に聞いてみた。
 女は、ちらっと嵐を見上げ、そしてまたコーヒーを口に含んだ。
「まぁ、やばそうな目はしてたよ」
 普段から口数の少ない獅堂は、そのまま黙ってコーヒー缶を手にしている。嵐は、自分もコーヒーを口に含んだ。
「……父さんの、研究してたテーマがあって」
 甘い苦味が喉を潤す。
 何故か、死んだ父の言葉を思い出していた。
「父さんって……亡くなられた真宮博士のことか」
 嵐は頷いた。
 そうだ、これが、僕の原点であり、たったひとつの―――。
 たったひとつの、明日への希望。
「ねぇ、獅堂さん、ある島に、イエローとグリーンとレッドのオストカゲが住んでるんです」
「………は?」
「イエローは繁殖力も旺盛で縄張り獲得率が一番強い。グリーンはそれが中くらい、けれど手堅く縄張りを抑える性質がある。レッドはそんな能力がまるでない代わりに、メスに擬似した特徴を備えている。この三グループが一つの島で、メスを奪い合い、何世代か繁殖を繰り返した結果、どうなると思います?」
「どうなるって……イエローが……え?」
 いきなりの話題の変化に、獅堂は目を丸くして戸惑っている。嵐は笑った。
「じゃあ、こう置き換えましょうか、一番繁殖力が強い蓮見さんと、繁殖力は中くらいでも手堅く縄張りを守る遥泉さん、それから……繁殖力はないけど、メスを騙すことは上手い桐谷さん。三人が、ひとつのテリトリーでメスを奪い合っているとして」
「な、なんだか、笑えない例えだぞ」
 獅堂は、むずかしげに眉をしかめながらも、
「まあ……、普通に考えたら、蓮見さんの子供だけが増えてくんじゃないか?」
「これはね、ジャンケンゲーム的に発展していくトカゲの研究として、実際に論文で発表されている事例なんです」
 嵐は立ち上がった。椅子に座ったままの獅堂は、少し唖然とした顔でそんな年下の男を見上げている。
「当然、最初は蓮見トカゲが縄張りを増やして繁殖していく。けれど、縄張りが広がれば、細かいところにまで目が行き届かなくなり、結果としてメスに擬似した桐谷トカゲにだまされ、じりじりとテリトリーを奪われていく」
「そんなもの、か」
「蓮見トカゲの力が弱くなれば、それにつけこんだ遥泉トカゲが、しだいにテリトリーを増やしていく。遥泉トカゲは真面目だから桐谷トカゲにもだまされない。けれど、遥泉トカゲが増えすぎれば、その活動力の弱さにつけこみ、また蓮見トカゲが息を吹き返してくる」
「……なんだか、わかりにくいな。それで結局、また最初の所にもどって堂々巡りか」
 獅堂は首をひねっている。
 嵐はかまわずに続ける――思いのままに。
「だからジャンケンなんですよ、獅堂さん、ジャンケンに絶対的優位型は存在しないでしょう?グーはパーに負けるし、パーはチョキに負ける、でもチョキはグーには決して勝てない」
「………お前、莫迦にしてんのか、そんなものいちいち説明してもらわなくても、」
「絶対的な勝者というのは、自然界には存在しない――それが、父の研究テーマだったんです。優位種というのは、あくまでその時代、その環境下での相対の結果でしかない。強い種が一時の隆盛を誇っても、次の瞬間、あっけなく他の種に取って変わられるかもしれない」
 獅堂のきれいな眉がわずかに曇る。
「……それは、在来種とベクターのことを言ってるのか」
「そうじゃないんです。そんなことが言いたいんじゃない。勝ち残る種が、負ける種より勝れているわけじゃない。負ける種が劣っていたわけでもない。ジャンケンと一緒ですよ、相手次第なんです。いや、ジャンケンより複雑で、相手と環境次第なんです。全ては相互作用によって決ってくるんです」
「………」
「この地球上には、一体どのくらいの生命種が存在していると思いますか。億単位の生命種、その一部の種にすぎない僕らは、他種と無関係ではいられない。同じ餌場で餌を求め、呼吸をし、排泄し、死体が土に還る限り、僕ら生命種は、常に相互作用を受けあっている」
「それくらい、知ってるよ、食物連鎖ってやつだろ」
「それだけじゃないんです。知的生命である人は、さらに精神レベルで相互作用を受け合うことができる。二者択一で弱い者が切り捨てられる世界に未来なんかありません。相対的に強い種が、仮に弱い種を滅ぼすとして――その跳ね返りは、必ず生き残った種にも襲いかかる。こう言えば判りますか、この戦いで、結果としてベクターが優勢種になり、やがて在来種が滅んでいくとしても――次世代で別種が現れて、ベクターはあっさり滅んでしまうかもしれない」
「それは――」
「その果てに何が残りますか。潰し合いの終局にあるのは人という種の滅亡だけです。僕たちは、次のステップを登らなければならない。強者生き残りの理論を捨てて、共存の道を探るべきです。精神の相互作用は、肉体にも変化をもたらす。それが――進化の始まりなんです。それが進化の法則なんだ。二者択一で他者の存在を否定するのは、自らの進化を否定することになる。わかりますか、獅堂さん、進化を否定した種に、未来など決して無いんです」
「…………あ、ああ、よく、判った」
「あ、」
「……お前が目茶苦茶頭がよくて、すっごい色んなことを考えてる奴だってことは、……よく」
 瞬きを繰り返しながらそう呟いた獅堂は、呆れたような顔をしている。
 嵐は、自分が一方的に喋りすぎたことに気がついた。
 いつもの癖だ。こんな――状況で、僕って奴は。
 楓のことさえ忘れていた。絶対安静の患者の前で。
「……すいません、……僕……」
 かぁっと耳まで赤くなる。
「なんで謝るんだよ」
 立ち上がった獅堂に、背中を軽く叩かれた。
「いい話だったよ……まぁ、正直半分以上は理解できなかったんだが、」
 声は、ひどく優しく聞こえた。
「……そんなにあれこれ考えるなよ、嵐。前に室長が言ってたよ、今度の戦争でベクターが矢面に立たされたのは、戦争責任をベクターになすりつけようとしてる、政治的な……なんだっけ、政治的な戦略のひとつだって」
「………」
「お前の兄貴は、そのスケープゴートみたいなもんだ。だから、中国軍用機の事件直後、いきなり顔写真が公開されたんだ。頭のいい人は、ちゃんとその辺を理解してくれてる、みんながみんな、ヒステリックになってるわけじゃない」
「………獅堂さんは」
 嵐は、眠る人を見つめたままで言った。
「なんのために戦いますか、なんのために、その手で人の命を奪うことができますか」
 獅堂は黙った。
 その沈黙の意味が嵐には判った。かつて――彼らがテストパイロット時代に遭遇した不幸な出来事を、その顛末を、嵐も当事者の一人としてよく知っていたからだ。
「自分が、信じたもののために、だ」
 女は低く答え、そのまま迷いを押し殺すように口を閉ざす。
 嵐は薄く目を眇めた。
 政治的戦略――確かにそうだ。政府が戦争責任から逃れるための目くらまし。卑劣なベクターバッシング。この論議は、レオナルド・ガウディを中心としたNAVIのメンバーが、連日マスコミやネットを通じて展開している。
 でも―――。
 でも、それでも。
 この戦争で、楓も、そして自分も、間違いなく背負ってしまった罪がある。
「あなたの信じたもののためなら、―――獅堂さん、あなたは人の命を奪えますか。その重みを、その罪を、生涯背負うことができますか」
「………嵐、」
「僕らは科学者だ、直接手を汚してはいない。けれど、僕らが生み出したものは、今、この瞬間にも、沢山の人たちを殺している」
 楓を見つめながら、嵐は言った。
「能力のある者が、傍観して許される時代じゃない。僕は、僕のできることを精一杯やっているだけです。でも、時々恐くなる、――この罪は、……許される時が来るのだろうかと」
 獅堂は何も言わなかった。
 ああ、また余計なことを喋ってしまったな、と嵐は思った。何故だろう。この人の前に立つと、抑えていた感情を開放したくなる。心の箍が緩んでしまう。
「すいません……なんか、僕、」
 背中を再度叩かれ、嵐は、自分の隣りに並び立つ女を見下ろした。
 獅堂は、じっと―――仰臥したまま動かない男を見つめていた。
「……嵐、もしお前の兄さんが目覚めて、そして、ここにいる人たちと信念が対立していたとしたら、―――お前はどうするつもりなんだ」
「僕は、僕にできることをするだけです」
 嵐は静かな気持ちで言った。
「僕は僕の信念に基づいて行動する――それだけです、迷っている暇はない、立ち止まる暇もない。―――だとしたら、それしかできない」
「お前らしい言い方だけどな、―――無理はするなよ」
「………」
「自分は頭が悪いし、気の利いたことは言えないが」
 顔を上げた獅堂はかすかに笑った。そして、少し照れくさそうに目だけを逸らした。
「これだけは忘れないでくれ、お前はもう俺たちの仲間で、大切な………トモダチ……みたいなもので」
「…………」
「お前の居場所はここなんだ、……そこんとこ、外すなよ」
 獅堂さん、顔赤いですよ。
 嵐はそう言って笑い、
 うるさい、そう言って獅堂は、さらに顔を赤くする。
 この瞬間、嵐は、この人が好きだと思った――セクシャルな意味でなく、人間として。
「楓は……」
 笑顔を消し、嵐は、低く呟いた。
「楓は、ここを、――僕と同じように、ここを自分の居場所だと思ってくれるでしょうか」
 軍に入った僕を受け入れてくれるだろうか。
「五年も離れて、正直僕には今の楓が判らない、……同じように、楓も僕のことが判らないような気がする」
 僕を、そしてここの人たちを――受け入れてくれるだろうか。
「オデッセイの人たちは……楓を、」
「大丈夫だろ、そりゃ」
「獅堂さん、」
「莫迦だな、お前が言った言葉じゃないか。進化していくことって、ようはあれだろ、互いを認めることから始めなきゃ何も始まらないって、そういうことだろ?言ったお前が自信なくしてどうすんだよ」
「………」
「まずは目がさめたら、二人で話でもしてみろよ、大丈夫だよ、お前の兄貴とお前なら」
「………」
 ああ、と嵐は思った。
 この人は、僕の話を、深いところではちゃんと――理解してくれている。
「行こう、嵐、早朝フライトの指揮はお前が取るんだろ、少しくらい仮眠しておけよ」
「……はい!」
 僕は、この人に話しているつもりで、自分に言い聞かせていたのかもしれない。
 獅堂の背中を見つめながら、嵐はふとそう思った。
 この人と、出逢い、今、この瞬間、話をすることによって、確かに僕は進化している――そう、これが進化の法則なんだよね、父さん―――。
 人の手では解き明かせない、何億という要素が絡んだ相互作用の果ての。



 静かになった病室で。
 男は静かに目を開けた。
 意識レベルをコントロールする術は、身に付けている。耳に響いてきた懐かしくて愛しい声。
「………最高の覚醒か、」
 男は低く呟いた。
「……相変わらずの優等生だな、笑わせてくれるよ」
 そして、ゆっくりと起き上がった。
 悲しいのとも、憤りとも違う。底の無い喪失感と――虚しさ。
 この二日間、待ち続けた。
 意識の底で、全ての状況と――交わされる会話を認識しながら。
「それが……、お前の答えというわけか、嵐」
 扉の向こうから声がする。
 見張りが交代する時間だと――男は置かれた状況を即座に把握する。
 もう、これ以上、ここに留まる必要はなかった。
(――――君のなすべきことは二つだ、真宮博士)
 ひとつはもう、意味をなさない。
 嵐は俺を選ばなかった。
 俺を――連れ出してはくれなかった。
 この世界から。
 この果てることの無い苦しみの底から。
(――――真宮嵐の確保が難しければ、君には、ぜひもう一人の人物を確保してもらいたい。オデッセイの最重要人物だ、そして、現在右腕を負傷している――確保は比較的たやすいと思う)
 もう――俺には何も無い。
 生きる意味も、目的も。
 ただ――俺を必要としてくれる者たちのために。
 扉が開く。
 男は振り返って身構えた。
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