三



―――何者なんだよ、この女。
 蓮見黎人は、手元の書類の位置を下げ、正面のデスクに座る女の顔を伺い見た。
 女――右京奏は、右手の指を顎に当て、少し難しい顔で、卓上のパソコン画面を見つめている。
 半透明の澄んだ瞳。長い睫。
 短いが、きっと伸ばせば綺麗なんだろうな――と思えるような、少し色素の薄い髪。
 すうっと伸びた首筋は、透き通るほど色白で、時折ネクタイを解いた時に垣間見える鎖骨などは、――ちょっと、目のやり場に困るほどだ。
 が、情欲に訴えるものは何もない。
 間近で見ると、恐いような美人だが、人――というより、人形のそれに似ている。作り物めいて――情に訴えるものが何もないのだ。
―――人形の方がまだマシだな。
 肩をすくめながら蓮見は思った。
 そう――喋らないだけ、まだマシだ。いったん口を開くと、この女の印象は最悪なのだ。
 オデッセイ上層に位置する室長専用室。
 警視庁捜査一課から派遣された蓮見黎人の一日は、たいていがここから始まる。
 二十四時間警備だぞ、と桐谷に念を押されたものの、それは不可能だ、とすぐに気づいた。なにしろ寝ないのである、――この女室長、右京奏は。
 深夜十二時過ぎても、平然とパソコンに向かっている。夜間演習に出るパイロットたちの指揮を取る。ブリーフィングに参加する。そして、朝の五時には、大抵室長室に座っている。
 体力には自信があったが、さすがの蓮見も一週間で音を上げた。
 そして右京も、最初の一ヶ月は蓮見を連れまわしたが、
「もう、艦のことは大概理解しただろう」
 翌月の初めに、そう言われ、
「艦にクルーしかいない日は、好きにしろ、傍にいられても迷惑だ」
 きっぱりと言い切られたため、今は蓮見もそうしている。さらに、
「夜は自室で待機していろ、何かあれば連絡する」
 面倒そうにそう言われたため、今では十時を目処に自室に戻るようにしている。
 オデッセイに乗艦してから、早四ヶ月。
 テスト飛行段階も終り、クルーの数も当初の倍に増え、地上から、新しいパイロットたちが次々と新メンバーとして搭乗してくるようになっていた。
 そして、頻繁に、視察隊や取材クルーが訪れるようにもなっていた。国内から、米国から。
 蓮見の主な仕事は、彼らの身分証の照会とボディチェック。そして、対応に当たる右京の身辺警備――それ以外の時間は、他の仕事に回される。
 人手の足りないオデッセイで、唯一軍の階級を得ていない男は、事務に力仕事にと――まるで便利屋のようにこき使われていたのである。
 そして今日。
 午後から来る予定になっている、国内TCCテレビの取材。――その対応が、今日予定されているの蓮見の仕事だった。
 会議室も兼ねた広い室長室で、蓮見は配布資料をせっせと用意していた。こんな事務屋がするような仕事をやらされる羽目になるとは、まさか夢にも思っていなかったが――。
「蓮見」
 こちらを見ないまま、切れの良い、そして冷たい声が、女の唇から漏れた。
「な、なんすか」
 毎度のことながら、名前を呼ばれると緊張する。
 この女が自分に向かって「蓮見」と言う時は、大抵が叱責か、もしくは仕事の話しかないからだ。
「私の顔を見る間があるなら、言われた仕事をさっさとすませたらどうだ」
 顔も上げずに女は言う。
 う、と言葉に詰まる。そう、まるで背中に目でもついてんじゃねぇか――?と思えるほど、この女は鋭いのである。
「……いや、べ、別にあんたを見てたわけじゃ」
「それから、言葉づかいだ、艦内の規律が乱れる、いい加減自覚しろ」
「………………は、い、」
 気をつけてるつもりなんすけどね。
 歯軋りししたいのをぐっと堪え、蓮見は口の中でそう呟いた。
 手元にあるのは、今日配布するオデッセイの設計資料。全文英文のため、蓮見にはさっぱり理解できないが、オデッセイの大概の構造は、さすがに頭入っている。
 この室長室があるのが最上層。そして脳幹とも言えるオペレーションルームや各クルーの私室、休憩室、ランチルーム、ラウンジなどは全てこの階にある。  
 中層には要撃戦闘機の格納スペースと滑走路、整備場、パイロット待機所、ブリーフィングルーム。
 最下層に、この天空母艦の心臓部、フューチャーを稼動させるためのコンピューターシステムが備え付けられている。
 そして、この母艦が打ち上げられた最大の理由――最新鋭のミサイル迎撃装置もまた、最下部に装備されている。
 日本海上空高度二百キロの位置に浮かぶ、天の要塞、オデッセイ。
 通常、地上、洋上からのミサイル防衛は、高度百キロまでが限界とされている。そして、成功率は極めて低い。戦域高空防空サッドの試射は1995年から始まっているが、いまだに迎撃成功率は、四割を切っている。
 つまり、高度二百から三百を時速四〜五キロで通過する大陸弾道核ミサイルを、地上から確実に迎撃するのは不可能なのだ。
 特に日本は、都市部が密集しており、ミサイル部隊を展開できるだけの場所がない。現時点で列島全てを防衛できないのが現状なのである。
 ミサイルに核が搭載されていれば、落下地点が汚染される。つまり、より遠方で、より高度で、確実にミサイルそのものを粉砕することがミサイル防衛には求められる。
 それを補うために打ち上げられたのが、オデッセイだった。
 人類初の試み――空からのミサイル防衛。
 これにより、高度四百キロまでのミサイル防衛が理論上可能になったことになる。
 これは日本という狭い島国だからこそ、有効性がある<実験>だった。
 さらに、オデッセイが擁する各要撃型戦闘機、フューチャー200、通称F−200式の戦闘機には、内部に加速用のロケットが備え付けてある。
 最悪の場合、高度十万メートルまで上昇し、核ミサイルをレーザー照射により破壊することができるのだ。
 ただし、あくまで理論上のことであり、成功率は、コンピューターシュミレーションでも五割程度。巨額の費用が掛かるため、実技テストは一度しかなされていない。そして、それは失敗に終わっている。
―――よくよく考えてみりゃ、おっそろしい時代なんだなぁ、今は、
 ここに来て、蓮見はようやく実感するようになっていた。
 台湾で米中が激突して、そして横須賀の米国基地から艦隊が次々出航し続け、現地で何百という犠牲者が出ていても、蓮見にとって、戦争とは、遠い世界で起きている自分には関係ない出来事にすぎなかった。
 核が東京に突きつけられている、とテレビで声高に叫ばれても、まぁ、ペトリオットがなんとかしてくれるだろうし、それに核戦争なんて起こるわけねぇだろ、とたかを括っていた。人は――そこまで愚かではないと。
 でも。
「蓮見、偶発的核戦争という言葉を聞いたことがあるか」
 そんな蓮見に、右京は最初の頃、冷然と言った。
「……は、なんすか、そりゃ」
「いかれた指導者が激情に駆られてスイッチを押す、もしくはコンピュータの誤作動、ほんの些細なことから、核の撃ちあいが始まって起こる核戦争のことだ。現時点で核戦争が起こるとしたら、この偶発的核戦争だと言われている」
「……へぇ…」
「米国が一番警戒しているのもそれだ。今の中国には、追い詰められたら何をしでかすか判らない危うさがある」
「そこまで判ってるなら、アメリカが引けばいいじゃないすか」
「アメリカは引かない。引けば、今後アジアの勢力図は大きく変わる。アジアの主導権は、あくまで米国のパートナーである日本が握っていなければならない。それが過去一世紀にわたるアメリカ合衆国の理念だからな」
「そんなに日本が信頼されてるんすか」
「そうじゃない」
 右京の目が、莫迦な奴だ、とでも言うかのように、すがめられる。
「ようは、日本という傀儡を通じて、アメリカはアジアに自国の影響力を残したいんだ。そんなことも判らないのか」
 むっとしたが、右京はそれには構わず、冷たい声で続けた。
「アメリカは絶対に引かない、中国政府も引かないだろう。つまり、この戦争は、間違いなく泥沼になる―――抑止としての核が、息を吹き返さない限りな」
 その時の言葉の意味は、蓮見には判らなかったが、右京もそれきり黙ってしまった。今思えば、右京とまともに会話をしたのは、あれが最初で最後だった。もしかすると、あの会話で決定的に呆れられたのかもしれないが―――。
「室長、例の報告書のことですが」
 扉が開いて、柔らかな声と共に入室してきた男がいた。
 蓮見は振り返る。
 右京の方針で、室長室に入室する際のノックは不要――とされている。合理的な彼女らしいが、それは―― 一応警備担当としては、あまりよろしい方針ではない。
「ああ、蓮見さん、ここでしたか」
 入ってきたのは、遥泉雅之だった。
 オペレータークルーの副室長で、艦内の情報全てを統括している男。
 蓮見と同じで、警察庁の出身。階級は警視で、蓮見などから見たら雲の上の存在なのだが、ここは警察じゃねぇんだ、と割り切ってタメ語を使っている。
 が、右京の手前、
「おはようございます、遥泉警視」
 蓮見はわざとらしく敬礼した。
「……?おはようございます…には、少し遅い時間ですが」
 一瞬いぶかしげな目になったものの、男は、ほとんど日焼けしていない面長の顔で、静かに目礼を返してくれた。いつも掛けている縁なし眼鏡、それが、インテリ風の遥泉の容姿にぴったりとマッチしている。
 そして、すぐに、男は右京に向き直った。
「室長、この計算式にわずかなミスがありまして、明日の天候しだいでは、飛行演習の延期をした方がいいかもしれません」
「うん、見せてくれ」
 右京は普段と変わらぬ眼差しで、遥泉から書類を受け取る。その傍らに立ち、忠実な部下は、ボスの返答を待っている。
 蓮見は無言で立ち上がった。いつものことだが、右京と遥泉――この二人の間に流れる空気が、蓮見には妙に居心地が悪い。
 二人は出来ている。
 警視庁にいる頃、当然のように囁かれていた噂が、そんな風に感じさせるかもしれない。
 あの――女を欠片も感じさせない右京が、禁欲的な男物のスーツを常に身にまとう右京が――どんな顔で、どんな姿で、目の前の男に抱かれているのかと思うと、なんとも気まずい気分になるのだ。まるで――想像することそれ自体が禁忌のような。
 遥泉雅之。
 手元の書類をまとめながら、蓮見は男の横顔を伺い見た。
 いかにも警察官僚らしい、生真面目で意思の強そうな容貌。表情を顔に出さない――人間味のない眼差し。目線は蓮見と変わらないから、身長は、かなり高い方になるのだろう。けれど、身体の線は蓮見より一回りも細い。
 人の顔に能面と眼鏡を被せたらこんな感じになるのだろうと――蓮見はいつも思う。
 入艦した当初から、蓮見はこの男が苦手だった。
 むろん、蓮見と同じく、警察官出身だから全くの初見というわけではない。同期入庁で警察学校が同じだったこともあり、顔見知り程度には知っている。当時の遥泉は、全身からエリート光線を発射しているのかと思うほど、嫌味で取り澄ました男だった。――だからむしろ蓮見には、今の遥泉の方が不思議なのだ。
 あのエリート意識むき出しの男が、どうして一つ年下の女上司に、諾として従っているのか。
 右京は、蓮見や遥泉よりひとつ年下だが、入庁は三年早い。
 警察庁初の、飛び級入庁。そして、最年少警部、最年長警視、警視正、警視長――と、次々に既存の記録を塗り替えていった女である。
 遥泉は、最初の所属先で右京の下につき、以後――8年、ずっと女の傍にいるという。
 そして、この男の――婚約者を、右京が撃った。
 死んだのは、当時、警察庁薬物対策課で、麻薬取締捜査官をしていた女――焔村ミナト。
 彼女の名前は、死後五年たった今でも、警察庁では英雄的な響きでもって語り継がれている。死の直前、この女は、日本で最大、そして最悪と言われた麻薬密売組織を摘発したのだ。
 遥泉の大学時代の先輩に当たり、当時の警視総監、焔村長七郎の令室でもあったキャリア女性。一説によれば、右京と出世を争っていたとも言われている。
 それだけの功績と、そして背景――生きていれば、間違いなく右京を抜いただろうとも言われている。
 「……失礼しまっス」
 蓮見はなげやりに敬礼すると、書類を持って退室した。
 二人が男女の関係だとは思えない。それは――なんとなく蓮見には判る。居心地が悪いのはそのせいではない。恋人を殺し――殺され、それなのに平然と向かい合う、この二人の神経が蓮見には理解できない。
 無表情で女を見下ろす遥泉の目が、妙に薄気味悪かった。


                     四


 テレビクルーを乗せたシャトルが到着するまで、あと十分足らずだった。
 ラウンジで、紙カップのコーヒーを口に運びながら、―――どうしてこの手のタイプのコーヒーはどんな豆を使ってもまずいんだ?
 と、蓮見はぼんやり、そんなことを考えていた。
「……一体いつまで、悠長に空に浮かんでなきゃいけねぇんだよ」
 自然とそんなぼやきが口をつく。
 ため息をつきながら、かたん、と飲みかけのカップをテーブルに置き、 胸ポケットから煙草を取り出して唇に咥えた。
 オデッセイは全艦禁煙だが、こうして休憩スペースで煙草を吸う自分に注意をする者は誰もいない。
 問題なのは、最新の設備を誇るはずの空の要塞には、自動販売機も煙草販売所もないということで――このケースが最後の一箱だということだった。
「嵐、忘れずに買ってきてくれよ」
 だから、今朝、休暇で地上に降りた真宮嵐――十代のチーフオペレーターにダース単位で買ってくることを頼んだのだ。一ヶ月はゆうに持つだけの量を、である。
 ただし、頭がいい癖に、頼んだことはすぐ忘れる――うっかりした所のあるあの若者が、蓮見の依頼を忘れないでいてくれる可能性は、半々だろう。
―――全く、ろくでもない奴ばかり、揃ってやがるよ。
 蓮見は嘆息して、ライターを指で回した。
 真宮嵐は、一見、底抜けに明るい好青年だが、いったん夢中になって喋りだすと止まらない癖がある。蓮見も何度、なんとか物理学の応用に関する講義を受けさせられたか判らない。そして物忘れが激しく、掃除が苦手な性質らしい――一度踏み込んだ部屋は、蓮見でも、うっと息を引くありさまだった。
 パイロットたちは、そもそも空の王様だから、皆一様に我が強く個性的な連中揃いだ。彼らには彼らの繋がりというか絆があり、その中には、他人が割り込めない空気がある。
 それから、女連中だ。
 蓮見は苦々しく舌打した。そしてすぐに否定した。
―――いや、あいつらは、女じゃねぇな。
 室長の右京奏は、微笑さえ浮かべない鉄面皮だし、唯一の女性パイロット、獅堂藍にいたっては、完全に女を捨てている。自分のことを、俺とか自分とか、そんな風に呼ぶ女性は、蓮見には初めてだった。
 そして、嵐と並ぶもう一人のオペレーター、国府田ひなのに至っては……。
 その時、背後から声がした。
「ああ、蓮見さん、そこにいましたか」
 その声だけで、背後から歩み寄ってくるのが、先ほど室長室で別れた男だと判る。
 蓮見は軽く手をあげ、グレーの軍服姿の男に目礼した。
「室長が怒ってましたよ、早くシャトルの待機所へ行ったほうがいいんじゃないですか」
 遥泉は抑揚のない声でそう言うと、蓮見の背後にあるコーヒーサーバーの方に歩み寄った。
「テレビの取材、最近やたら多いみたいだけどよ」
 火をつけそこねた煙草を弄びながら、蓮見は呟いた。
「この艦は、国家機密の塊みたいなもんじゃなかったのかよ、いいのかよ、そんな情報の大安売りで」
「台湾海峡での戦闘が膠着していますからね――だからこそ、我々が、ここ数ヶ月何事もなく過ごして来れたわけですが、……一部マスメディアの中には、このオデッセイを国家予算の無駄遣いだと主張する連中がいる、取材を受けたのもマスコミ対策ですよ、蓮見さん」
「上の命令ってわけか」
「防衛庁の…上層部のね、右京室長は最後まで反対されていたようでしたが」
―――仕事の邪魔だと言われて。
 溢れ出したコーヒーの香りが狭いスペースに立ち込める。
「上の命令か、あんたもそれで、あの女の傍から離れられないってわけか」
 つい、口をついて出た皮肉だった。
「公務員に職場を選ぶ自由はありませんよ、蓮見さん、……何が仰りたいのか判りかねますが」
 ちくり、と放った嫌味は、穏やかな声に跳ね返される。蓮見は嘆息して肩をすくめた。
「あんたも色々大変だと思ってさ、あんなパワフルな女上司に引き回されて」
「それは、確かに」
 遥泉は素直に頷く。
「そもそも、あの女……一体いつ寝てるんだよ?」
 口にしてから、蓮見は思わず眉をひそめていた。
 自分が記憶している限りでも、昨夜はほとんど休息をとっていないはずだ。昨夜だけではない、右京がまとめて睡眠をとることなど、ここに来てから一度もない。
 大抵は仮眠。
 しかも、寝ると決めたら次の瞬間には眠っている。
 そして、きっかり十分で起きてくる。
 化粧気のない白い肌は、それでもまぶしいくらい透き通っていて――疲れの色など、微塵も滲ませたことはない。
「あの人はね、特別なんです、普通の女だと思ったら、痛い目にあいますよ」
 遥泉はあるかなきかの苦笑を浮かべ、コーヒーカップに唇を寄せた。
 蓮見は横目で、その表情を伺い見た。
 数年前――この男の婚約者、焔村ミナト警部を、右京奏が射殺した。
 誤射――正確には、右京が放った弾道上に、パニックを起こした女が飛び込んで来た事になっているが、真相は誰も知らない。
 焔村ミナトの名前を一気に有名にしたこの事件は、同時に警察庁を激震させた大事件でもあった。
 警察側に、死亡者一名、重傷者二名を出し、挙句に主犯を取り逃がすという遺恨を残した事件でもあった。
 全ては内々に処理され、裏事情は、全く明らかにされてはいない。
 ただ けれど、その事件を機に右京奏は一足飛びに昇進し、遥泉は出世コースを外れた。 
 そして、外された遥泉を、右京は自らが昇進の階段を上がるたびに引き抜いては、連れまわしている。それは――警視庁でも、誰も知らない者がいないほどの、有名な話だった。
「室長と僕の間に、あなたが思っているような遺恨は何もありませんよ」
 遥泉はあっさりと言い、手元のカップからコーヒーを飲み干した。
「僕にとって、あの人は女ではありません。あの人にとってもそうだ――というより、あの人は、今まで、恋愛をしたことがないのでしょう」
「別に……そこまで言い切らなくても」
 そのきっぱりした言いように、逆に蓮見が戸惑っていた。
「僕は19の時からあのを知っていますが、彼女に恋人はいませんよ、過去も現在も、一人もね」
 男は、さらに断言口調で言い切った。
「だから、あの人はまだ男を知らないんです。試してみますか、蓮見さん、胸板を打ち抜かれるのを覚悟して」
「は……」
 笑おうとして笑えなかった。この生真面目を絵に描いたような男から、こんなブラックジョークを聞かされるとは思ってもみなかった。
「室長は……少しは誰かを頼ればいいのに、といつも思いますね」
 遥泉は、飲み干したカップを、傍のダストボックスに落としながらそう続けた。当然のように、蓮見の飲み残しのカップも処理してくれる。
「お前、頼られてんじゃないのかよ」
 蓮見がそう言うと、男は苦笑して首を振った。
「あの人は、誰も頼らない。むしろ頼っているのは僕の方です」
「………」
「なんていうのか、……彼女が一人で抱え込んでいる何か――大きな問題があって、それは、僕なんかでは、到底助けられないのですが」
 その目が、少しだけ寂しそうに見えた。
「でもそれは、あの人一人が背負うにも、重過ぎる荷物のような気がします。……頼れる人が、あの人の傍にいればいいと、恋人でも出来ればいいと、僕なんかはおせっかいに、いつも思っているのですが」
 蓮見は黙った。そしてふと思った。
 遥泉が右京に対して抱いている感情――それは肉親、兄や親が持つそれに似ているのかもしれない。
 警察庁に入庁して以来、この男はずっと右京の傍にいた。その繋がりの深さは、他人には到底理解できないのかもしれない。
 わずかな沈黙の後、背を向けて歩きかけた遥泉は、ふと足を止めて振り返った。
「僕は、蓮見さんと室長が、割と上手くいきそうな気がするんですがね」
「は…………はあ?」
 唇から煙草が落ちた。貴重な一本。
「室長の他人に対する反応は二つです。使うか、切り捨てるか、あなたはそのどちらでもない。それが僕には不思議なんですよ」
「おい、そりゃ、どういう」
 慌てて煙草を拾い上げて顔を上げると、長身の背中は、すでに休憩スペースから消えていた。
「くそ、言い逃げかよ」
 誰があの女とうまくいくって?冗談じゃない、そんなこと――この要塞が落っこちたってあるものか。
「蓮見、そんなところで何をしている!」
 鋭い声が、通路の向こう側から響き渡った。
 蓮見は慌てて、咥えかけた煙草をダストボックスに投げ入れた。火さえつけていなかった。――貴重な一本。嵐、頼むぞ、マジで。
 こちらに向かって歩み寄ってくる一団。
 その先頭に立ち、靴音を荒げているのは声の主――右京奏だった。
―――おいおい、何事だよ。
 さすがの蓮見も緊張した。
 彼女の背後には、オデッセイの乗組員のみ着用が許されるコンバットスーツ、略称コンバーツに身を包んだ各エキスパートチームのリーダーたちが続いている。
 要撃戦闘パイロットチーム。
 チーム<みかづき>のリーダー、獅堂藍。
 <黒鷲>のリーダー、椎名恭介。
 レスキューチーム、<雷神>のリーダー、鷹宮篤志。
 その他に、防衛庁から派遣された補佐官たちの姿も見える。
 どの顔も一様に蒼ざめ、厳しい緊張が漲っていた。
 右京は蓮見を一顧だにすることなく、そのままさっさとオペレーションルームのある方角に消えていく。
 列の最後尾には先ほど別れた遥泉の姿もあった。
―――あいつ、ちゃっかりしてやがる。
 舌打ちしつつ、その隣に追走する。いずれにせよ、何か異変が起きたことだけは間違いなかった。
「今入った緊急連絡です。日本の民間旅客機が、中国のスホイ29戦闘機に撃墜されたらしい」
 すぐに、遥泉が囁いてくれた。
―――なん、だって?
 蓮見は、自分の足元が凍りついていくのを感じた。
「乗客乗員合わせて、四百二十七名は絶望だそうです、中国政府は誤爆を主張していますが――これは、大変な騒ぎになりますよ」

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