第四章「真宮嵐」
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「それが君の決めたことなら、もう何も言うことはないけどね、嵐」
レオナルド・ガウディの日本語は、いつ聞いても不思議なほど流暢だ。
「悪いな、レオ」
そんなことを思いながら、真宮 嵐は、パソコン画面に向かってそう言った。
互いの動画が、パソコンを通じて嵐のいる日本――東京大学のキャンパスと、そしてレオナルド・ガウディの自宅があるロスアンジェルスとを結んでいる。
面長の顔に、透き通るような金色の髪。理知的な目鼻立ちをしたレオナルド――レオは、顔のつくりの繊細さから言えば、欧米人と言うより東洋人のそれに似ていた。いずれにせよ、相当な美男子であることは間違いない。
ベクターは、そもそも端整な顔だちをしている者が多いが、その中でもレオの容姿は群を抜いている。けれど、それでも――と、嵐は思う。
―――それでも、君の方が綺麗だった――そう、本当に、君は綺麗な人だった。
嵐の中で、一番美しいと思える存在は、過去も昔もただ一人しかいない。
「それでも、やっぱり、僕は君にNAVIのメンバーになって欲しいと願っているよ、嵐。オデッセイのような危険な軍用機からは、さっさと降りてね。何もこの戦時下に、僕らが好き好んで軍に志願することはないんだから」
レオの端整な額に、すうっと細かな縦皺が寄る。何か難しいことを考える時の、表情の癖。
「レオ、嵐は、私たちベクターの地位向上のために軍に志願したのよ」
そう言って、十五インチのパソコン画面に、ふいにブラウンの髪の女性が割り込んできた。
「はーい、嵐、相変わらずいい男ね。聞いたわよ、大学を休学して、オデッセイで働いてるんですって?」
「…働くって……まぁ、そう言われればそうなんだけど」
そういや、給料はいつもらえるんだっけ。と、嵐は逡巡して口ごもる。入隊した即日から朝も夜もなくこきつかわれて、そんなことに思いを巡らす余裕さえなかった。
「で、今は何?休暇中?それって、大学のパソコンよね、じゃ、久々に地上に降りてきてるわけだ」
「初めての休暇なんだ、他にすることも思いつかないし」
相変わらず鋭いな、そう思いながら嵐は答えた。
ドロシー・ライアン。
NAVIの副代表で、米国の国立衛生研究所の職員でもある。ウィルスの研究にかけては際立った才能を発揮し、次々に新しい新種を発見して、世界を席巻している女性。
明るいブラウンの髪に、太陽の欠片のようなそばかす。大柄でボリュームのある肉体に腰位置の高い長い脚――典型的な米国女性の容姿を持ち、性格も明るくて、常にアグレッシブだ。
「日本じゃ、ベクターバッシングが相変わらずなんですってね。私たちが在来種の人口を減らすために戦争を引き起こしたって……そんな莫迦げた噂が、公然と飛び交ってるってホントなの?」
ドロシーは早口の日本語で、矢継ぎ早やに聞いてくる。
嵐もそうだが、ドロシーもレオも、数ヶ国の言語を、母国語と同様のレベルで習得している。通常は英語で話す彼らが、嵐の前だと流暢な日本語になるのには理由がある。
「殺傷兵器だけ作って、実際の戦争は在来種任せ…、そんな陰口が叩かれてるんでしょう?だから嵐は、軍に志願したのよね、エライ、エライ、理屈ばっかのレオとは大違い」
画面の向こうで、ドロシーはウインクして、いい子いい子とでも言うように、手のひらで頭を撫でる所作をしてくれる。
「ドロシー、邪魔しないでくれ」
レオが、その肩を押しのけるようにして、再び画面に戻ってきた。
「んもう、レオの意地悪」
じゃあね、嵐。
投げキッスを残して、明るい笑顔が画面から消える。
あっけにとられて言葉を無くしていた嵐は、そこで初めて苦笑した。
「相変わらずだなぁ、ドロシーは」
「少しは女らしくなれといつも言っているんだが」
レオは苦い顔で舌打ちする。
レオとドロシーは幼馴染だ。
一代で国家予算を上回る資産を築いたマイクソフト社の会長――ビック・ガウディの一人息子レオと、上院議員の娘、ドロシー。
この二人だからこそ、世間の中傷や非難を乗り越え、独自の資産とネットワークを使って、NAVI(全米ベクター地位向上協会)を発足させることができたのだし、米国におけるベクターの人権を飛躍的に向上させることに成功した。
二人の信頼の深さは相当なものだが、決して親密な仲――というわけではない。そして、これからもそうはならないだろう。
公にはされていないが、レオナルドは同性愛者なのである。
そのことは、中学生三年の時、半年間――楓と共にガウディ家にホームステイした経験のある嵐には、よく判っている。
時々、自分を見るレオの目に、たまらない――郷愁にも似た哀切の色を感じる時がある。そんな時嵐は、ああ、またレオは、楓を思い出しているのだな、と思う。
少し苦い感情と共に――あの半年間の、楽しかった日々を思い出す。
ひねくれ者の楓は、外国に行っても、基本的に日本語しか話そうとしなかった。それを、外国語が出来ないと勝手に解釈したレオやドロシーが、気を使って日本語で話し掛けてくれるようになって――。
その頃の名残が、まだ二人に残っているのだろう。
「嵐、とにかく、僕の忠告はひとつだ、適当な所で見切りをつけて、オデッセイを降りろ」
画面に浮かぶ、レオの表情が、少し険しくなった。
「僕たちの補足したデータでは、オデッセイは、ほぼ七十パーセントの確立で撃墜される。すでに中国政府は、日本攻撃の第一段階を、東京からオデッセイに切り替えたとの情報もある」
「……知ってるよ」
オデッセイのコンピュータで集めた世界中の通信電波の解析から――その情報を一番に掴んだのは嵐だったし、すでにオペレーションクルー室長の右京奏にも報告している。
鉄の仮面を被ったような美貌の室長は、顔色一つ変えずにこう言った。
―――では、その時に備えて対処しろ。
ただそれだけ。
「忠告ありがとう、レオ、心配しないで、僕はこんな戦争で死にはしない」
そう、まだしなければならないことがある。
まだ――諦めきれないことがある。
軽く片手を上げ、回線を切ろうとした時、それに被さるようにレオの声が嵐を引き止めた。
「嵐、それから、以前君に依頼された――例の頭文字のことなんだが」
「ああ」
嵐は手を止め、真顔になって、レオの次の言葉を待った。
「ジェイテック社の過去のデータを全て洗ってみた。該当するような頭文字は、どこにも出てはこなかったよ。まぁ、なんの意味もない単語の組み合わせなら数多くあったんだが――人口受精に関わる分野で、それらしいものはなかったな」
「……そうか」
「あとは、懲罰覚悟で米国防総省にハッキングするしかないね、知ってると思うけど、ジェイテック社の資産はあそこが買い取ってる、……国防クラスの秘密がプンプン匂うな、一体なんなんだい?その――」
「TH」
嵐は呟いた。
TH。それは何の略語なのか――。
―――真宮……楓か。
―――間違いない、こいつが例のTHだ。
―――THだ。
「僕にもよく判らない――でも、楓を探すには」
嵐は唇を噛み締めながら言葉を繋いだ。
「楓を探すためには、そのキーワードを解かなきゃいけないんだ……僕は、そう信じてる。楓は死んでなんかいない、絶対に何処かで生きてるって」
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ニ
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レオとの回線を切り、パソコンの電源を落とした所で、にぎやかな足音と笑い声が、壁ひとつ隔てた廊下から響いてきた。
その――鼻に抜けるような、ちょっと癇に障る笑い方に聞き覚えがあった。
「あれぇ、真宮さん」
OAルームの後部扉から、ひょいと顔をのぞかせた男。
まだ幼さを残した黒目勝ちの瞳、ほとんど色素の抜けたようなざんばらの茶髪、赤いシャツにだらしないだふだぶのズボン。
滝沢豹。
まるで渋谷界隈をうろつく高校生のようなスタイルだが、彼は嵐と同じ――東京大学理工学部の一回生だ。ただし年齢は三歳下、在来種のみ許される飛び級で、一足飛びに大学生になった少年だ。
その可愛らしい容貌とおよそ東大生に似つかわしくない服装のためか、彼はどこにいても目立つ人気者だった。
「どーしたのー、豹」
案の定、滝沢の背後には、華やいだにぎわいがある。
またいつものように、取り巻き――の女子大生たちを連れ歩いているのだろう。
「んー、先行ってて、俺、ちょっとこの人と話しあるしー」
ポケットに手を突っ込みながら、本当にふらふらした足取りで滝沢はこちらに近づいてきた。
「ねぇ、あの人誰?どっかで見た顔だけどー」
「ほら、ベクターの…昔さ、白い服着たカルト教団に家族殺された人」
「あー、知ってる、お兄さんの遺体がまだ発見されてないんでしょ?、怖いよねぇ」
「今は、大学休んで、防衛庁に入ってるらしいよ」
「どうしてまだ、ここにいるのー」
廊下を遠ざかっていく足音と共に、そんな囁きが、嵐の耳にもわずかに届く。
「っす、真宮さん、どうすか、空の生活は、」
嵐の傍の机にどかっと腰を下ろし、滝沢は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ほんっとに、莫迦正直な人だよなぁ、真宮さんも。防衛庁の依頼なんて、断ればよかったのに」
「莫迦正直だとは思わないけどね」
嵐は苦笑する。
滝沢とのつきあいは――色々あって、三年近くになる。
口は悪いし素直ではないが、彼が心底自分のことを心配していることだけはよく知っている。
「……莫迦っすよ、一体今の日本で、どれだけの人が本気で戦争のことを考えてると思います?だーれも真剣に考えている奴なんかいませんよ。みんな、人任せ、核が降ってくるなんて、本気で思ってる奴は誰もいませんって、いつものように――イラク有事や北朝鮮有事の時みたいに、気がつけばアメリカが解決してくれると信じてるんだから」
そう言いながら滝沢は、ポケットからがさごそと煙草を取り出す。
嵐は無言で、そのケースを取上げた。
「ちぇ、」
肩をすくめ、けれど素直に、滝沢は立ち上がった。
「見てくださいよ、この平和な光景を」
窓際に向かって歩いて行く。嵐は、少し目下のその後を追った。
カーテンの開かれた窓の外には、のんびりとした午後の風景が広がっていた。
おしゃべりに興じている女子学生グループ。カップル。談笑を交わして歩いている助教授の一団――。
青い空には雲ひとつなく、見事な日本晴れだった。
「これが、地上の現実っすよ、嵐さん、こんな平和ぼけした奴らのために、命張るだけ無駄ですって」
「君も、……軍が、今回の台湾有事を解決してくれると信じてるのか?」
その光景を見ながら嵐は呟いた。
平和を護る――。
自分に、そんな大層な目的や理念があるわけではない。
「信じてるとしたら」
滝沢はいたずらっぽく笑った。
「軍じゃなくて、ベクターがなんとかしてくれるって、そう思ってますけどね」
そして、遠い目を空に転じた。
「俺、どっかで信じてるんですよね、ベクターは……ちまたで言われてるように、戦争を起こすために生まれたんじゃない」
「………」
「戦争なんてね、ここ何百年、なかったためしがないんですよ、世界のどっかでは、常に戦争が起きてたんだ、それが世界の現実でしょ」
「だな、」
日本人にその認識が希薄なだけで――実際、世界は常に紙一重のあやういバランスを保ち続けてきている。
「そういう混沌をね、……一括してやっつけちゃう、ベクターって、実は戦争好きの人類を破滅から救うために誕生したんじゃないかなぁって……俺はそう信じてるんすけど」
その発想もまた、紙一重の危険をはらんでいる。
滝沢の考えは、ベクター優位主義に基づいているからだ。
嵐が黙っていると、少年は、はっと息を吐くようにして笑った。
「だからっつって、自分がベクターかもしれないって、莫迦正直に申告するつもりもないっすけどね」
嵐は無言で、その肩に手を置いた。
滝沢豹は――おそらく、ベクター種なのだろう。
小学生を対象に行われる一斉知能テスト、その結果選定された者に、DNA検査が実施される。
そこで遺伝子に、特徴的な変化を確認された者がベクターとして正式に認定されるのだ。
けれど、そのシステムには巧妙な抜け道がある。
優秀なベクターであればあるほど――最初のテストで、故意に自らの能力を隠蔽することが可能なのだ。むろん、どういう基準でDNA検査の候補者たちが選定されるのかは極秘であり、非公開なのだが(単に成績優秀者が選定されるわけではない)、その綿密な包囲網を潜り抜けることが出来うるほど優秀なベクターは…毎年、必ず存在する。
それをクリアしてしまえば、後は公務員という職さえ選ばなければ、永久にベクターであることは隠し通せる。そういう例は、滝沢だけではないことを――嵐はよく知っていた。
「それにしても、やっぱ、莫迦ですよー、真宮さんは」
滝沢は、ふざけたような口調で、もう一度繰り返した。
「就職も自由に決められない、海外に移転する自由も認められない、……それどころか、結婚も禁止されたっつーのに」
ベクターと在来種の婚姻が禁止された――その法案が国会を通過したのは、去年のことだ。
「おかしいっすよねぇ、これじゃまるで、バイオハザード扱いだ。俺たちは、じゃあ病原体か何かなんですかね、それとも新種のウィルスなんですかね」
「………」
まさか、セックス禁止法なんてできたりしてね、
自嘲気味にそう言うと、滝沢は暗い目になった。
「ベクターを迫害する在来種を護ることに、一体何の意味があるんすかね……俺にはさっぱり判りませんよ」
「滝沢、」
嵐は、この少年が、見た目以上にナイーブで、その実自らの存在意義を切実なまでに求めていることをよく知っていた。
「ベクターが在来種を護る……そんなことじゃない、そんなもののために、僕はオデッセイに乗艦してるんじゃない」
何か違う。
でも、それを――上手く伝えてやれない。嵐はもどかしく髪に指を差し入れた。
「……僕は、今、自分のできることをやっているだけなんだ、滝沢、それだけなんだよ。ひとつの家族には母親がいて、子供がいて、それぞれの役割があるだろう――?できることだけやればいいんだ、それは家族のためだけじゃない、自分のためでもあるんだから……」
滝沢の目が、ぼんやりとこちらに向けられる。
「僕は僕で、僕自身のために精一杯生きてる、君だってそうだ、君も今、精一杯生きてる、それでいいんだよ、それだけで十分なんだ」
「おい、大変だ、なんか日本の旅客機が中国軍に撃墜されたらしいぜ、テレビつけて見てみろよ」
廊下から聞こえる弾んだ声に、会話を遮られたのはその時だった。
―――真宮……楓か。
―――間違いない、こいつが例のTHだ。