三



「よう、相変わらずいいケツしてんな」
 エレベーターホールに降り立った所で、背後から聞きなれた声がした。
―――またこの人か。
「お久しぶりです、桐谷一佐」
 右京は表情を崩さずに振り返った。
 相手を認め、型どおりの目礼を交し合う。見上げるほど長身の男は、厚い唇に苦味ばしった笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。
 航空幕僚直属の幹部が着用する紫紺の制服に、いくつもの勲章。
 防衛庁長官直轄航空開発実施室長――元要撃戦闘機パイロット、桐谷徹一佐。
 泣く子も黙る強面の男は、両手を腰にあて、にやりと笑った。
「うーん、そそられるなぁ、奏ちゃんの制服姿は、こう、ボリュームのある胸がきゅっと締まってるところがいいんだよな」
「セクシュアルハラスメントは、局内規則第七条三項で」
「ハイハイハイハイ、お堅いねぇ、毎度のことながら。これはセクハラじゃなくて、純粋な愛情表現なんですがね」
「聞き飽きました、で、なんのご用件でしょう」
 ふざけていたような桐谷の目に、すっと白い光のようなものが走った。
「聞いたぜ、右京、お前が天の要塞の初代艦長に任命されるんだって?」
 庁内に、昼休憩を告げるチャイムとメロディが鳴り響く。その音が途切れるのを待って、右京は唇を開いた。
「さすがお耳が早い、と言いたいところですが、艦長はあくまで防衛庁長官が兼任されるのであり、私はオペレーションクルー室の室長にすぎません」
「天の高みの昇るオエライさんはお前一人だ。つまり、実質お前の城ってことになるんだよ、あの要塞は」
 桐谷は、短い髪に、くしゃっと指を差し入れた。
 ヘビースモーカーのこの男は、煙草が切れると髪をいじる癖がある。
「自衛隊始まって以来の…いや、第二次世界大戦以後最大の国防改革だ。米国に護られ、専守防衛しか出来なかった自衛隊が、これからは空を拠点にアジア全体に睨みを効かすことになる。世論の根強い反対を押し切っての与党単独採決のつけとでも言うのかね。――新型空母オデッセイ……昔のロマンそのまんまの最新航空艦の初代代表が、自衛隊屈指の美女ときてる、……まぁ、世論受けをねらった戦略としては最高だ」
「いくら空に拠点を築こうとも、憲法の平和条項がある限り、専守防衛は列島防衛の基本ですよ、桐谷一佐」
 上階の食堂にあがる人々で、エレベーターホールが込み合ってきた。
 右京はきっぱりと言い切った。
「わが国は、昔も今も専守防衛、今現在起こっている台湾有事に、米国の後方支援と武器の輸送以外の方法で参加できないように…です」
「……専守防衛ね」
 そう呟いた桐谷が先に立って歩き出したので、右京もその後を追う形で歩き出す。
「俺が現役だった頃、よく仲間うちでジョークを交わしてたよ、ホットスクランブルで、ペアを組んで発進した時だ。――おい、実際、領空侵犯機が攻撃を仕掛けてきたら、どうすりゃいいんだ?」
 たくましい筋肉のついた背中は、厚手の背広の上からでもその質感が透けて見えるようだった。
 そこで――初めて右京は、桐谷から少し離れた場所に、彼に追歩している男がいることに気がついた。
「そりゃあ決まってる、どっちかが撃ち落とされた時点で正当防衛が成立だ、残された機は、それでようやく迎撃開始。それまではケツを振って、惨めに逃げ続けろってな」
「笑えないジョークですね」
 右京はそれだけを返した。
 実際、航空自衛隊が抱える各種戦闘機に、侵犯機の撃墜は予定されていない。出来るのは警告、そして強制着陸措置、そして――最悪の場合でも威嚇射撃のみ。
 領空侵犯機に対する致命的な法整備の不備は、戦後から百年近く立った今でも、なんら解決されていないのである。
 仮に日本に侵攻してくる敵機があれば、自衛隊は超法規的措置で対応しなければならない。
 現場のパイロットから直属の方面隊司令官へ、そして航空総隊司令官へ、防衛庁長官、そして総理大臣の決定を経て、ようやく攻撃許可が下りる――桐谷のジョークは、一秒を争う三次元の空の世界で、そんな悠長な決定を待っている間に、間違いなく僚友機が撃墜されることを意味しているのだ。
「まぁ、いつか、専守防衛なんて、何の意味もないタテマエになるよ、今だってそうだろ、東京に核を突きつけられてるっつーのに、日本政府は堂々とアメリカさんの応援をしてる。いつ、核が火を噴くかなんて、実際、敵さんの頭ひとつなのにな」
「……そういう難しい話をするために、私を呼び止められたので?」
 桐谷はそこで足を止めた。
 人気のない書庫前の通路、男は窓を背にして、腕を組んだ。
「判ってんだろうな、右京、上があんたをオペレーションクルー室長に任命した本当の理由を」
「……」
 右京は無言で男を見つめ返す。
「オデッセイは、日本上空、調度、福建省から発射された大陸間弾道ミサイルが東京を直撃するコースに打ち上げられる。天の要塞が聞いて呆れる。お前さんの言うとおりだよ。憲法が劇的に改正されない限り、オデッセイは一切攻撃できない。ただ、東京を護り、その盾になるためだけに存在する……言ってみりゃ、囮弾みたいなものだ」
「空は、これからの国防の最先端ですよ、桐谷一佐。地上のペトリオット地対空ミサイルも、洋上のNTWTも確実に核ミサイルを撃墜できない、とすれば、上空から国土を防衛するしか道はない」
「その通りだ」
 桐谷の細い目が、怖いくらいに眇められた。
「しかし、判ってんだろ、空の要塞の迎撃システムも完璧じゃない。いや、今の技術で、完璧なミサイル防衛なんてそもそも不可能だ。せいぜい五割……それでも合格点をやりたいくらいだ」
「……今の時点では、そうでしょうね」
「そう、言ってみりゃ、全てはテスト、そして試作段階にすぎない。上の連中で、オデッセイ第一号の成果に100%期待しているものは誰もいない。……いいか、第一号だ。すでに二号機の設計が極秘裏に始まっていることを、お前も承知しているんだろう?一号機は試作品だ。そこで何があってもお前の責任になるし、何がなくてもお前の責任になる、その意味が判るか」
「………」 
 無論判っている。けれどあえて右京は黙っていた。
「誓ってもいい、この戦いが終ったら、右京内閣は総辞職、お前の警察官僚としてのキャリアもそこで終る」
 右京は微笑し、男の視線から目を逸らした。
「……どうでしょう、そんなに上手く事が運ぶかどうか」
 わずかな沈黙の後、桐谷も、ふっと相好を崩した。
「ま、頭のキレるお前さんのことだから、上の連中の思惑なんて、とっくにお見通しだと思ってたけどな」
 余計なお世話だったな――そう呟きながら、彼は懐から、折りたたんだ紙を取り出した。
「これに目を通しておいてくれ、当面、あんたの仕事になる。新型エンジンフューチャーを搭載した要撃戦闘機のテストパイロットたちだ」
 右京は無言でその用紙を受け取り、手元で広げて見た。
―――航空自衛隊の極秘文書だとすぐに判る。それが無造作にカラーコピーされて、一管理職のポケットに収められていた……。
 まったくこの人は――と思うが、それが桐谷の桐谷たる所以だろう。
「何しろ、フューチャーは、ジェットエンジンに変わる革命的なエネルギーだ。操縦方法も飛行システムも根本から違う。――言ってみれば航空機の常識を履がえすシロモンだ。空自の中でもえり抜きの奴らをチョイスした。こいつらが、初代オデッセイのパイロット候補たちでもある」
「本当はあなたが立候補したかったのでは?」
「言うな、この目じゃ、もう無理だよ」
 男は肩をすくめ、うっすらと笑う。
 桐谷は、訓練中の事故で左目の視力の殆どを失っている。五年前まで、桐谷徹と言えば、空自で誰も知らない者はいないほどの――伝説的なパイロットだった。
 右京は無言で、白い紙に刻まれた文字を追った。

 椎名恭平
(しいなきょうへい) 二十九歳 
 中部航空方面隊百里基地第七航空団所属。
 要撃戦闘機パイロット。
 鷹宮篤志
(たかみやあつし) 二十七歳 
 北部航空方面隊千歳基地第二航空団所属。
 救難機パイロット。


「……救難機、ですか」
「腕は確かだよ、言っとくが、この男を候補に決めたのは、俺じゃない」
 救難機パイロット――つまり、レスキュー隊に所属しているということになる。
 その男が――新型要撃戦闘機の、テストパイロット……。
 どうしても、ある種の違和感は拭えない。
「まぁ、上の連中が決めたことだ、それよりも、もう一人、注目はその子だよ」
―――その子……?
 右京は目をすがめた、なんの気もなしに、素通りしていた。三人目の候補者。

 獅堂 藍
(しどうあい) 二十二歳
 中部航空方面隊百里基地第五航空団所属。
 要撃戦闘機パイロット

「若いな、」
 そのことがまず驚きだった。若い、けれど続いて記されているフライト回数は、上の二人にひけをとらない。
「これがまた、空自きっての天才と称される女パイロットだ。俺も彼女が訓練生時代に浜松で一度会ったが、テクニックは群を抜いてる、この三人の中では間違いなくトップに立つだろう」
―――女か。
 その驚きが表情に出たのだろう。
「そこで女のあんたが驚いちゃいけない」
 桐谷は可笑しそうに苦笑した。
「……ベクターの可能性も疑われたらしいがね、検査の結果、全くの異常なし、だ。そもそも筆記試験はすれすれで、適正試験にも問題があったらしい、……人事も、入隊にあたって、随分迷ったと後で聞かされたよ」
「………」
「ま、よろしく頼む、三人とも、俺の大切な秘蔵っ子どもだ、無駄に死なせるような真似だけはしないでくれ」
 桐谷は腕を解き、そしてようやく右京の背後に立つ――エレベーターホールから、ずっと二人の後を追尾してきた男に視線を向けた。
「で、ついでに紹介しておこう、まぁ、これが本題なんだが、人選を俺に一任されたんでね、引き合わせるのも俺の役目ということらしい」
「……?」
 右京は目を細めて振り返った。
 桐谷がその存在を黙認しているから、おそらく桐谷のSPか何かだろうと思っていた。
「……っす」
 男は、右京の視線を受け、所在なげに敬礼した。
 身長だけはやたら高い。長身の桐谷にひけをとらないくらいある。綺麗な顔立ちをしているが、その表情のせいか、印象はひどく冷たい。
 痩身に濃いグレーのスーツ。防衛庁の隊服ではない――私服だ。
「誰だ、貴様は」
 その、あまりに気の入らない敬礼に、右京は初めて眉をしかめた。
 こんな下手な敬礼は、いまどきの防大あがりの新卒にも見られない。
「バーカ、軍人の敬礼は、もっとこう、気合入れろっつったろうが」
 即座に桐谷の横槍が入る。
「判ってますよ」
 男はうるさげにそう言うと、今度は綺麗な所作で最敬礼をした。
「警視庁捜査一課から本日付で出向になりました。蓮見です。階級は巡査部長、今日から右京部長の身辺警護に当たらせていただきます」
「……私……の?」
 今度こそ、心底驚き、右京は呆然と呟いた。
 そんな話は、一度も聞かされたことはない。
「ま、これも親父さんの心遣いだと思って、ありがたくお受けするんだな」
 桐谷は、滅多に見せない女の驚きが面白いのか、にやにやと笑っている。
「莫迦な、そんなものは必要ない、なんだって、いきなり」
「これからは、あんたが戦争の最前線に出るんだ、右京奏」
 抗議を受けた男の目が、ふいに真剣な色身を帯びた。
「判ってんだろ、この戦争で、日本の矢面に立つのはあんたなんだ。日本中の過激平和主義者とカルト団体が、これからはあんたの命を狙うようになる。SPはいくらつけても足りないほどだ、この男は適任だよ」
「………」
「それに、……五年前のこともある」
「………」
 右京はわずかに眉をひそめた。目を閉じると蘇る――あの日の光景。
「まぁ、これは、あんたの従兄弟としての俺の忠告でもある、なんたって右京のおっさんに直々に頼まれたんだ、責任もって人選したつもりだよ」
「正直に言えば、よく判りませんがね」
 黙っている右京に代わり、冷めた声で口を挟んだのは蓮見という男だった。
 冷たい目をした男だった。まるで、女でありながら管理職につく上司の――その能力を値踏みするような眼差しだ。
 男は投げやりな口調で続けた。
「ドンパチやってる軍人さんの方が、よっぽど修羅場には向いてるでしょう。何も市民の味方のお巡りさんを、軍人さんのお守りにつけなくてもよさそうなもんだ」
「蓮見、それは違う」
 何か言いかけた桐谷を遮り、先にそう言ったのは右京だった。
「日本の自衛隊は専守防衛。それは昔も今も変わらない。桐谷一佐のいる航空自衛隊など、訓練や威嚇射撃ばかりで、実際に戦闘ステージを経験した者は誰もいない。いわんや、対人相手に銃の引き金を引いた者は誰もいない。一佐は泣く子も黙る空自の猛者だが、それでも彼の指はきれいなものだ」
 蓮見の横で、桐谷が肩をすくめている。
「ところが、警察出身の私は、警部時代、人一人を射殺している」
「………」
 蓮見の眉が、わずかに動く。
 右京は男を真っ直ぐに見つめ、厳しい口調で言い切った。
「軍人なんてそんなものだ、現場でドンパチやってる警察官の方が、よほど修羅場を踏んでるんだ、そのことを忘れるな」



「本当に俺が、あの、……クソっ生意気な女の、お守りをしなきゃいけないんですかね」
 右京奏の姿が廊下の向こうに消えた後、蓮見は悔しさを込めて呟いた。
 桐谷は、可笑しそうにくっくっと笑う。
「まぁ、そう言うな、ああ見えて可愛いんだ、奏ちゃんは」
「どこがなんすか、どこが!」
「精神的に脆いくせに、みょーに強がってるところかなぁ」
「……はぁ?」
 笑っていた桐谷の顔が、ふっと真剣な色身を帯びる。
「お前も噂くらいは聞いてんだろ、右京が誤って射殺したのは、彼女と出世を争ってた女警部だそうじゃないか」
 切り込むようにそう言われ、蓮見はわずかに口ごもる。
「……そりゃ……有名な話ですから」
「右京が異動の度に連れ歩いている遥泉管理官……死んだのは、その男が婚約してた女性だってな。右京がお気に入りの男を手に入れるために、男の婚約者を故意に射殺したんじゃないかって……当時は、かなり野卑な噂が流れたんだろ」
「………」
「その遥泉、今回も右京にご同行ときてる。まぁ、そのへんが、右京の弱いとこというか、強いとこというか」
「意味、わかんないっすけど」
「ま、強がりなのか本当に強いのか、わかんねぇってことだ。なんにしても、俺の大切な奏ちゃんだ。しっかり護ってやってくれよ」
「……守れも何も、」
 蓮見は桐谷から目を逸らし、口の中で軽く舌打ちした。
 来月には、その右京奏と共に、天の要塞オデッセイに乗艦することになるらしい。それも、つい数時間前に聞かされたばかりだ。
―――ったく、冗談じゃねぇよ。
 飛行機でさえ苦手な自分が、何故よりによって――と思う。
 犯人より女上司が苦手な自分が、何故あんな女に――とも思う。
「桐谷さん、まさか、あの時のこと、根に持ってんじゃないでしょうね」
 蓮見は悔し紛れにそう言った。
 すでに、背を向けて歩き出していた桐谷は、軽く片手を挙げただけだった。
 その背中がエレベーターホールに消える。
「くそっ」
 蓮見は舌打してポケットに手を突っ込んだ。
 桐谷とは、蓮見の警察学校時代、桐谷が剣道の特別師範代として来校したことから知り合いになった。
 剣道初心者の蓮見には、まるで歯の立たない相手だったが、さんざん打ち据えられたことが悔しくて、最後の稽古で、脚を引っ掛けて、面に一発お見舞いしてやった。
 まさか、その意趣返しとも思えないが――。
「……右京、奏ねぇ」
 噂だけならうんざりするほど聞かされた、警察庁一の有名人。
「噂より、よっぽどひでぇ女じゃないか」
 反論の隙もないほど、容赦なく言い負かされたのが悔しかった。
 色々な女を見てきたが、あんな居丈高にものを言われたのは初めてだ。
「……今に見てろよ」
 蓮見は、小さく呟いた。




―――私は天の城へ行く。
 自分の執務室へ向かいながら、右京は今夜のスケジュールのことを考えていた。
 来月の乗艦に向けて、しなければならないことは山のようにある。
―――そう、私は天へ行く。
 決して広げられない翼の変わりに、
 ようやく手に入れた、小さな船で。



―――この、長い悪夢を終らせるために……。
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