第二章「天の要塞」



                   一


「右京部長」
 ノックの音。
 夢の続きは―――。
「あ、すいません、仮眠中でしたか」
 微かに開かれた扉の向こう、まだ入庁して間もない事務官が、さっと顔をこわばらせる。
「いや、かまわない、なんだ」
 右京奏
(うきょうかなで)は、ネクタイの緩みを直して立ち上がった。ちらっと机の上の時計に目をやる。予定どおり十分、これだけ眠れば、朝まで無理なく持つだろう。
「あのぅ、阿蘇情報本部長がお呼びになっておられますが」
 おどおどとした声が、扉の陰から聞こえてくる。
 来たな、と右京は思った。
 直属の上司に当たる阿蘇洋二郎―――防衛局情報本部長。わが国の国防に関する情報の全てを握る男。
 寝覚めに見たい顔ではないが、嫌なことは早く終らせるにこしたことはない。
「判った、今行くと伝えてくれ」
 右京は微笑を浮かべてそう言った。
 普段冷たいと言われる自分が、こうしてわずかでも微笑めば、周囲の者が、それだけでほっとするのを、右京はよく知っている。
 実際、事務官は、心底ほっとした顔で、扉を閉めた。

・ 

―――理由は、前にも言っただろう……。

 夢の続きは。
 磨き上げられた廊下を本部長室に向かって歩きながら、右京は仮眠中に見た夢を思い出していた。
 時折、すれ違う職員たちが、ふと振り返る。
 身長百七十六センチ、幹部クラスのみ着用を許されたオフホワイトの制服にネクタイ。スラックスに包まれた長い脚。肩と胸には、一佐の位を表す紋章。
 短く刈られた髪に、化粧気のない引き締まった容貌。
 所見の誰もが、数秒間、判断に迷うのだが、右京奏は、紛れもない女性だった。
 しかも――相当な美人の部類に入るだろう。
―――夢……か。
 右京は形良い眉を、すうっとしかめた。
 夢。
 いつも、同じ箇所で、切れたテープのように途切れてしまう夢。
 夢の続きは。
 そう、多分、
―――私がいつも、無意識に遮断している……。

―――それはね、お前が―――



                  二


「おめでとう、右京君」
 そう言いながら、爬虫類を思わせる男の眼は少しも笑ってはいなかった。
「何が、でしょうか」
 霞ヶ関にある防衛庁。その上階の一室に設けられた、情報本部長室。
 薦められた本革張りのソファに腰を下ろしながら、右京は、男の目を見つめ返した。
 いつものように、表情に感情の欠片さえ浮かばせていない自信がある。こうした腹芸は、公務員になってからの八年で、無意識の癖のように身につけてしまった。
 決して人前で、感情を露にしない――癖。
 対面に座る男。阿蘇洋二郎は、苦々しい笑みを、薄い唇にようやく浮かべた。
「君の希望通りになったということだよ、右京君。ミサイル防衛の切り札、新型母艦オデッセイの、……君が、初代オペレーションクルー室長に内定した。来月一日付けを持って、君は正式に防衛庁の所属となる」
「ありがとうございます。全ては、阿蘇本部長のお心添えのおかげです」
 右京は立ちあがり、指を揃えて形どおりの最敬礼をした。
 そして、怜悧な眼差しで、目の前の――軍人気質が骨の隋まで染み込んだ大柄な上司を見下ろしながら、この男に執拗に足を引っ張られるのも今日で最後だな、と思っていた。
 警察庁から出向してきた自分が、国防の諜報機関の要とも言える、防衛局電波部通信所の部長職に就いている。―――防衛庁制服大物組である阿蘇が、最初からこの人事に面白からぬ感情を抱いていたのは明らかだった。
 また、右京が女で――そして、若干二十七歳の若さだということも、お気に召さない理由のひとつだったのだろう。
 ただし、電波部長のポストは、旧陸幕調査部調査二課別室を編成する前の段階から、伝統的に警察官僚の指定席になっている。これは、組織間の縄張り争いに帰結する問題であって、個人の責任や能力を問ったところで仕方がない。
「……私は何もしてはおらんよ」
 阿蘇は鷹揚に手を振って、そして、右京に再び席に着くように促した。
「全ては内閣からの指示だ。……君のお父上、右京総理の意向だろう」
 そこだけ、声が一オクターブ高くなっている。それがこの矮小な上司の本音だろう、と右京は内心思った。
―――父親の威を借りた小娘めが、と。
 男の目は、着任の挨拶に赴いた最初の日から、そう言っていたからだ。
「無論、父には大変感謝しています。ところで、オデッセイのオペレーターの人選ですが、私の自由にさせていただけるのですね」
 上司の皮肉を軽く受け流し、右京は事務レベルの話に入った。
「人選は基本的に君に一任された。ただし、防衛庁からの引き抜きは最小限にしてくれよ、こっちも、台湾出兵の関係でてんやわんやなんだ。優秀な人材はいくらあっても足りないほどだ」
「防衛庁からは予定しておりません。さしあたって、遥泉管理官と、あとは民間人の起用を予定していますので」
「……遥泉雅之
(ようぜんまさゆき)警視のことか、君は、随分彼がお気に入りのようだね、うちへ出向する時にも、君の意向で、遥泉君をつれてきたそうじゃないか」
「使える男ですから」
 その聞き飽きた皮肉も、右京はさらりと受け流した。
「民間人と言ったが、……もう、内々では決めているのかね」
「ええ」
 右京は薄く笑った。これが――おそらく、阿蘇本部長が自分を呼びつけた理由だろう。
「ベクター二名を、任命する予定です」
「……ベクターを、ね」
 阿蘇の眼が、すうっとすがまる。無論、候補予定者は事前に根回し済みだから、阿蘇も噂程度には知っているはずだ。
「一人は、真宮嵐……数年前新聞をにぎわせた、くだんの事件の生き残りですからご存知でしょうが、現在彼は東京大学理工学部の二回生。オデッセイの設計責任者の一人でもあります」
 右京はよどみなく言った。
「……知っている、新型エネルギー、フューチャーを発明した大学生だろう。一家全員をカルト教団に殺害されたという……いわくつきのベクターだ」
 阿蘇は苦りきった口調で呟く。
 右京は頷いた。
「さらに言えば、彼はオデッセイのオペレーションシステム開発も担当しています。オデッセイは、人類史上初の空に浮かぶ要塞。そしてエネルギー源として100%フューチャーに依存している唯一の航空艇。……試験運転中にどんなトラブルが起こるか判らない。設計者をアナライザーとして入艦させるのは当然のことでしょう」
「……それは、最もな理由だな、で、もう一人は」
「コンピューターのスペシャリストを、……一人目をつけている女性がいますので」
「ベクターか」
「ええ、……ベクターである真宮嵐が開発したオペレーションシステムを100%以上稼動させうるのは……やはり、ベクターしかいないでしょう」
「あんなものは…ヒトじゃない」
 阿蘇は吐き捨てた。
「人口受精が産んだ化け物だ。自然受精で、あんなモノが生まれてくるはずがない。IQ二百以上の天才児だと……?薄気味悪い、そんな恐ろしい子供が、自分の腹から生まれたら、どう思うかね、右京君」
「さぁ……私には、経験したこともする予定もありませんので」
「今、台湾で起きている米中の軍事衝突も、ベクターどもが絡んでいるのは間違いない。奴らは故意にこの戦争を引き起こした。奴らは、我々在来種に戦いを挑んでいる、そう思わないかね、右京君」
「……そういう見方が、マスコミでもなされているようですね」
 マスコミの見方はイコール大衆の見方でもある。
 三ヶ月前、中国共和党の殲主席が中国長年の大願であった台湾の軍事統一に乗り出した。
 中国共和党と、民主主義が台頭しつつある台湾との間には、一世紀近くにわたって、主権を巡る争いの火種があった。けれど、戦争は起こりえないと言われ続けてきた。なぜなら台湾のバックにはアメリカ合衆国が控えており、中国が台湾への武力行使に踏み切ることは、イコール米中の全面戦争が起こることを意味していたからである。
 けれど、悪夢は唐突に現実になった。
 それは中国の――台湾海峡における軍事演習から始まった。
 巧みな海上封鎖から始まった演習が、それに名を借りた軍事行動だと世界が気づいた時には――すでに台湾経済の生命線とも言える港湾には、周辺を取り巻くようにして、潜水艦が配備されていた。
 その封鎖から十日後、実質的な経済封鎖に耐えかねた台湾が一斉反撃に出た。
 台湾沿岸の砲台から発射されたミサイルが、中国の哨戒艇を撃沈し、その翌日には、中国福建省の移動式発射台から、東風19と名づけられたミサイルが台湾の空軍基地、軍港に向けて発射された。
 さらに中国は、F−15戦闘機を始めとする攻撃機でいくつかの編成を組み、台湾の主力防衛施設に激しい空爆を浴びせかけた。
 つい数日前まで夢物語に過ぎなかった台湾有事は、こうしてあっけないほど簡単に始まったのである。
 軍事力では中国にかなうべくもない台湾は、ただちにアメリカに緊急支援を要請―――世界の警察を自称する米国にとって、台湾有事とは、民主主義の根幹を揺るがす戦争であるがゆえに、黙認することはできない問題だった。
 さらにいえば、米国が今後のアジア外交におけるイニシアチブを失わないためにも――この戦争で中国が勝利するのを指を咥えて見守ることだけは許されなかった。
 米国は台湾支持を表明し、台湾海峡に第7艦隊を派遣。海上封鎖の解除と制空権をめぐり、中国軍と正面からぶつかりあった。
 日本は、それに倣い、即日台湾支持を表明。
 現在、中国は東京とロスアンジェルスに核弾頭を装填した大陸弾道ミサイルの照準を当て、米国は北京を照準として、スイッチひとつで核を発射しうるぎりぎりの状況で―――台湾海峡を巡る血みどろの攻防戦が続けられている。
 いつ――今この瞬間にも、偶発的核戦争が起こりかねない。それは、右京や阿蘇のような防衛の先端に立つ者だけでなく、世界共通の認識だった。
 通常軍事力では米に到底追いつかないと言われていた中国が、ここに来ていきなり軍事行動に至った背景には、中国国家の中枢に見え隠れする、ベクター…第一期ベクターと言われる、二十代後半の若き科学者たちの存在がある。
 それが、マスメディアがさかんに吹聴している、この戦争の<理由>なのだ。
「彼らベクターが戦争を引き起こしたのでしょうか、……確かに彼らは、中国の軍事力を飛躍的に進歩させた、ただ、それは時間を短縮させただけにすぎない。科学はいずれ進歩するものです、阿蘇本部長―――戦争を引き起こしたのは、あくまで我々の同胞、在来種だとは思いませんか」
「ベクターどもは、在来種を滅ぼそうとしているのだよ、右京君」
 阿蘇は、舌打ちと共に短い髪に指を差し込んだ。
「核戦争の果てに、生き残るのは在来種か、ベクターか……その生殖能力の差を見ればあきらかだ、人口の構成比率が同等になれば、生物の頂点に立つ我々の地位は、あっけなくベクターに取って代わられる」
「……」
 生物の頂点、ね。
 右京は苦笑をかみ殺した。
 一体人類がそれほど優れた種なのだろうか。
 ダーウィンの進化論。適者生存説。長い進化の果てに優れた種だけが生き残るという進化理論。不適者は生き残れない、自然淘汰されて滅んでいく。その生き残りの最果てが人類であり、生物最強の存在である――そんな馬鹿げた優越感を抱いているのは、何も阿蘇洋二郎――この定年間近の頭の固い軍人だけではない。
 ダーウィンの進化論に従えば、在来種は、その突然変異種であるベクター、――つまり、より強い種に取って代わられることになる。
 その盲信にも似た思い込みが―――国内で、いや、世界で、ベクター排除論を声高に叫ばせているのだ。
 日本国内でも、一般国民の間で、ベクターへの批判や誹謗中傷が一気に高まり、国内で認定されたわずかなベクターたちの家族に、深刻な嫌がらせが続いていることを――。
 国会も警察庁も、見て見ぬ振りを決め込んでいる。つまり、暗黙の内に、ベクター排除論を指示していることになる。
「君は、…ベクターには、昔から理解を示していたようだね、右京君」
 右京が黙っていると、阿蘇は意味ありげにそう言って立ち上がった。
「彼らの能力は使えますから」
 右京もそっけなく言って立ち上がった。
「忘れていたよ、君もある種の天才だったね、右京君。IQが高く、情報処理能力が群を抜いている――東京大学を飛び級で卒業し、警察庁でも異例の出世だ。だからかな、ベクターに親近感でも感じているのかね」
「何が仰りたいのか判りかねますが」
 立礼と敬礼をし、右京は静かに扉の方に歩み寄った。
「私は、DNA検査が義務付けられた2025年以降の入庁です。検査の結果、私の遺伝子になんら異常は認められませんでした」
「これは、可愛い部下への最後の忠告だ、右京君」
 阿蘇は背を向け、取り出した煙草に火を点けながら言った。
「真宮嵐の任用は見送りたまえ」
 カチカチとライターの石が鳴る音が響く。
「それは、合理的な選択ではありませんね」
 右京はそれだけ言った。
「ならば好きにすればいい、が、近い将来、彼の存在は必ず君の足を引っ張ることになるだろう。……私は君の軍服姿を見るのが好きだったのでね、その楽しみを奪われないことを祈るだけだ」
「……」
 阿蘇が何か――右京の知り得ない機密を握っていて、それが彼をしてこんな口を利かせているのは明らかだった。だが、今この男にそれを問いただしたとしても、決して何も答えてはもらえないだろう。
「この戦争の引き金になった何かに…ベクターが絡んでいたとしても、」
 右京は上司の背から目を逸らしながら、最後に言った。
「戦争を抑止する力にもまた、ベクターの能力が絡んでいる。オデッセイは、NAVI(全米ベクター地位向上協会)の協力なしには造り得なかった、……そのことを忘れてはいけないと思います」
 返ってくる返事はない。
「失礼します」
 右京は丁寧に一礼して、そのまま本部長室を後にした。
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 いいね、奏、お前は子供を産んではいけないよ。
―――どうして……?
 理由は前にも言っただろう、それはね、お前が―――。