嵐……嵐、何処にいる。
             俺はずっとここにいるのに。
             ここでお前を待っているのに。













「……楓……君、だね」
 逆光が、その人の表情を覆い隠していた。
 太陽を覆うほどの大きな身体、風に舞う白髪混じりの髪。
 伸ばされた手の――その白茶けた長い指から、不思議な香りが漂っている。
「ずっと探していたんだ。……が、………からね」
 低音でくぐもったその人の声は、風が強いせいだろうか、ともすれば聞き取れない部分もある。
「おいで…そんなに怖い顔をしなくてもいい、今日から私たちが、君の家族になるのだから」
 その人の傍には、ひどく華奢な女の人が立っていた。
 強い風になぶられるままの長い髪。目じりの下がった優しい瞳、柔和な唇。
「君が楓君? かっわい〜い、写真よりずっと可愛い、綺麗ねぇ、君、女の子にしたら、相当な美人になるわよ」
 そして、その女の人の腰にまとわりつくようにして――こちらを伺い見ている――子供。
 俺と同じ年だろうか。
 品よくカットされた短い髪。半そでシャツに、膝までのズボン。
 子供は女の人に背を押され、しつけられた犬みたいに素直に、俺の前に――おずおずと歩み出てきた。少しだけ目線が下だ。
 もしスカートでも穿いていれば、こいつこそ女の子に見えたかもしれない。
 黒目勝ちの澄んだ目が、びっくりするほど綺麗に見えた。
「彼はね、ランというんだよ。この沖縄にもよく来るだろう、嵐と書いて、ラン。年は君と一緒だけど、二ヶ月遅く生まれたからね、これからは、君の弟分とということになるのかな」
 くぐもった声が、そう紹介してくれた。
「嵐です…ええと、…真宮嵐、よろしく」
 子供は初めてにっこりと笑う。
 右頬にだけ、くっきりとしたえくぼが浮かぶ。
―――嵐。
 俺は呟く。
 その名を呟く。
 これから、何万回も呼ぶことになるその名前を、これから何をするにも番のように一緒になる魂の片割れの名を、俺は――その日、初めて――呟く。


 あの日俺は、
 自分の居場所をようやく手に入れたのだと思った。
 胸が痛くなるほど幸福で、そして同時に物苦しいほどの悔恨と苦痛に満ちた――それからの日々の記憶。
 あの日。
 彼らが俺を迎えに来ることさえなければ。
 俺が、彼らの家族にさえならなければ。


「らーん、おい、待てよ」
「……」
「何さっきから怒ってるんだよ、俺が彼女と二人で会ったのが、そんなに気に入らないのか、お前は」
 嵐と俺。
 まだ少し、俺の背の方が高かった。その時は――中学一年の夏までは。
「楓はデリカシーがないんだよ」
 そう言う嵐の、少し長い襟足を、風がそっと煽っている。
 眼下に河原が広がっている。そのせいか吹く風は涼やかで、初夏の蒸し暑さが少しだけ和らいでいた。
「今度という今度はもう呆れた、君とは二度と口を聞きたくない」
 嵐はそう言い捨て、振り返りもしない背中は、再びさっさと歩き出す。
 二人分の鞄を抱え、その背中について歩きながら、俺は嘆息してこう言った。
「言っとくが、俺は……あんな女、これっぽっちもいいとは思ってないぞ」
「それくらい知ってるよ」
 先を行く背中がまだ怒っている。
 まっすぐな背中。真っ白な開襟シャツ。
 白は…嵐にとてもよく似合う。
 白いシャツに蒼い空。嵐の季節――夏。
 俺は困って頭を掻いた。
「だから……まぁ、俺はお前の恋敵じゃないと、つまりは、そういうことなんだが」
 その言葉で、ようやく嵐の背中が歩みを止めた。
「彼女の方で、楓を好きだって言ってんだから、それでいいんだよ、俺が怒ってるのはそんなことじゃない。なんだってそこで、俺の名前を出したりするんだ」
 怒った顔がようやく振り向く。
「……お前の、名前?」
「俺が彼女のことを好きだって、わざわざそう伝えてくれたんだろ、楓。おせっかいにもほどがある。誰が君に、メッセンジャーになれと頼んだんだ」
 初めて会った時と少しも変わらない、黒くて――そして綺麗な瞳。艶めいた黒髪。
 俺は少し鼻白んだ。
「…俺が、そんなことを言ったって、…それはあの女から聞いたのか」
「そうだよ、ご丁寧に、きっぱりすっぱり振りにきてくれたよ、私はあなたのことをなんとも思ってませんってね」
「……そうか、」
 あの女も、少しは可愛いところがあるじゃないか。
 俺の顔に、そんな安堵の色がちらっと浮かんだのだろう。嵐の顔が、たちまちかっと赤く染まる。
「なんだよ、その顔、もう君とは絶交だからな、楓」
「……まぁ、そういうことなら仕方ない。気の済むまで、絶交しててやる」
「……」
 いきりたった横顔がきびすを返し、嵐はさっさと歩き出す。俺は少し遅れてその後を追う。どうせ行き着く先は同じ家、同じ部屋。
 俺は、あの女のことを考えていた。
 同じ中学の、二つ年上のあの女。
 女は、俺に近づくために嵐を利用した。そのために嵐を懐柔し、莫迦がつくほど単純な嵐は、あっさり女に惚れてしまった。
 俺は前からそれが気に入らなかった、だからそれをはっきりと言っただけなんだ――あの女を呼び出して。
 そう――嵐を傷つける奴は許さない。
 それが男でも女でも。
 嵐の心に土足で踏み込む奴は許さない。
「おい、嵐」
「……」
「嵐、いつまで黙ってるつもりだよ」
「楓のバカ、どうせ、もてもてのお前には、僕の気持なんてわかんねーよ」
「待てってば、バカ、判ってないのはお前の方だ」
「うるさーい」


 喧嘩らしい喧嘩は、あれが最初で最後だった。
 俺は嵐には甘かったし。
 嵐は滅多に怒らない、平和主義者の優等生だった。俺の前でも、誰の前でも。
 いつもにこにこ笑って、ほからかで、成績もよくて、スポーツもできて。
 いつも仏頂面で(しかも短気で喧嘩っぱやい)、愛想のない俺とは大違いで。
 みんなの人気者――だったんだ。
 俺たちがベクターだと、そんな噂が、何時の間にか校内に蔓延する前までは。


「……楓…?」
 その声に、俺はまどろみから引き上げられた。
 最高の覚醒。嵐の声は、どんな時でも耳障りがいい。
「君……なにしてんだよ、こんなとこで、」
「……遅かったな…」
 俺は目をこすってテーブルから顔を上げる。
 テレビの音だけがうるさく響く、ダイニング。
 学生服姿の嵐は、扉の前に立ったまま、唖然と俺を見下ろしている。肩に掛かった大きな荷物が、がたん、と落ちる。
「楓……今、…何時だと思ってんだよ」
 その唇が、呆れたような声で呟く。
 午後十一時。いや、それはこっちの科白なんだが、嵐。
 俺は即座にそう思ったが、まだ寝ぼけて、言葉が上手く出てこなかった。
「……まさか、こんな時間まで、僕を待ってたわけじゃないよね、楓」
 テーブルの上に並べられた料理の皿。……といっても、ほとんど冷凍物とレトルトなのだが――を見ながら、嵐ははぁっとため息をついた。
 俺はさすがにむっとした。
「だって、お前が一緒にメシを食おうって言ったから」
「限度ってもんがあるだろ、限度が!先生の家に呼ばれて、帰りが遅くなったんだよ、頼むからこういう時は先に食べてろよ」
「……だって」
「楓の嫁さんになる人は苦労するよ、全く、常識ってもんが欠けてるんだから」
 ああ、もう、すっかり冷えて…、と、ぶつぶつ言いながら、嵐は手早く皿をトレーに載せ、台所に持っていく。
「食うだろ、どうせ」
「ああ、悪いな」
 ぺりぺりとサランラップを剥がす音。多分――レンジで暖めなおしてくれるのだろう。
 俺は、嵐が、肩から落とした荷物に目をやる。
 くすんだ緑色の布に包まれた四角形。平べったくて、相当大きな代物だ。俺は多分、それがなんなのか知っている。
 俺は包みの傍に歩み寄りながら言った。
「遅くなるんだったら、電話くらいしろよ、さっき母さんから電話があって、お前がまだ帰らないって言ったら心配してたぞ」
「母さん、元気だった?」
 父が留守がちなのはいつものことだが、母も昨日から同窓会とやらで上京している。
 俺は嵐の問いには答えず、そのまま、四角形を覆う緑の布を引き剥がした。
「あっ、…楓」
 嵐の非難するような声と、俺が息を引くのが同時だった。
 それは、高校に入って油絵をやり始めた嵐が――初めて描いた家族の肖像画。
 椅子に座った母さんと、その背後に立つ父さんと、そして俺。
 嵐という実子だけが抜け落ちた――真宮家の肖像。
 その絵が、総務省主催の絵画展に入賞したことも、そして、それが嵐がベクターだという理由で取り消されたことも、俺はみんな知っていた。
 でも、今俺が息を引いたのは、そんな、振り上げた拳の下ろしどころがないような理由じゃない。その絵の右斜め上から左下に向かって、鋭い刃で切り裂いたような切れ目が走っていたからだ。
「……誰にやられた、嵐」
 俺は冷めた声で聞いた。背後に立つ嵐は答えない。
 無論、こんな卑怯な真似をするような奴が堂々とやったはずはないし、よしんば知っていても、それを俺に言うような嵐じゃない。
「仕方ないよ、俺たちはベクターなんだから」
 さばさばした口調でそう言い、嵐は手早くそのキャンバスを包み直した。
「…どんなに努力しても、成果の出せない人もいる。でも、ベクターなら努力せずに何でもできる。たまたまもって生まれたラッキーな才能だ、そう思ったら腹もたたない」
「…この絵、どうすんだよ」
「どうしよう、…粗大ゴミの日にでも捨てようか」
「………」
 でも俺は知っている。嵐は中学まで、どうしようもなく絵が下手だった。もともと陸上が好きなのに、入部を拒否されて――陸上だけじゃない、全てのスポーツ部から入部を拒否されて、―――仕方なく選んだ場所だったのに。
 努力してないなんて、絶対に嘘だ。
 俺たちだって万能じゃない。
 俺は、嵐の肩を軽く叩いた。
「俺が処分してやるよ、…母さんに見られない場所に、ちゃんと隠してやるから心配するな」
「悪いな、楓」
 嵐から包みを受け取りながら、俺は別のことを考えている。
 嵐を傷つける奴は許さない。
 誰がこんなふざけた真似をしてくれたのか、だいたいの目安はついている――さぁ、今度はどんな報復をしてやろう。前の奴のように、インターネットで中間テストの成績を公開してやるのもいい。それとも、新手のコンピューターウィルスを作って、そいつのパソコンをぶっ壊してやろうか――。
「……君、今、よからぬことを考えてるだろ」
 疑い深気な目で、嵐が俺を見下ろしている――そう、もう、嵐の背は、俺を軽く超えてしまっていた。
 俺が低いんじゃない、俺だって、175はあったはずだ。嵐が――高いのだ、高すぎるのだ。
「よからぬことじゃない、楽しいことだ」
「君の楽しいことは、ろくなことじゃないからな」
 俺が嵐の全てを知っているように、嵐もまた、俺の全てを知っている。
 俺たちは魂の双子だ、嵐。例え血は繋がっていなくても――この世界で、俺には、俺にはお前しか、


 台所から漂う甘い匂いが、リビングに立ち込めている。
「こら、嵐、お父さん、疲れてるのよ」
 母の声が、そのリビングの奥にあるキッチンから届く。
「だって、この論文の意味がどうしても理解できないんだ」
 嵐は、広げた科学雑誌から顔を上げずにそう言った。
 傍らで頬杖をつき、所在無くスポーツ雑誌を手繰っていた俺は、ついと嵐の手元を覗き込む。
『遺伝子の突然変異と環境の因果関係』
 直訳するとそんな感じの題名が、そのページのトップに記されている。
 リビングのソファで、嵐の横には珍しく父が並んで座っていた。
 大きな身体。背も高いけど、横幅も相当ある。白髪交じりの硬そうな髪、ほとんど日焼けの跡がない白い肌。糸のように細い双眸。
 今日は何の記念日だろう。父はひどく上機嫌で、母はせっせと料理作りにいそしんでいる。
「お前に判らないものが、父さんに判るはずないだろ」
 俺は思わずそう言っていた。
「楓、それは言いすぎだ」
 あっと思った俺の頭に、テーブル越しに――大きくて暖かな手がぱさっと被せられる。
 父さんの手。
 微かに香る、何か――独特の、鼻をつく香り。初めてこの人と会った時から、それから何度も――何百回も嗅いだ、手指に染み込んだその匂い。
「だって、ラマルクの遺伝説は否定されてるんだ、後天的に獲得した性質は遺伝しない、なのにこの論文は」
 俺を無視して、嵐はそうまくしたてる。夢中になったら他のことが目に入らない。それは嵐の悪い所でもあるし、いい所でもある。
 ラマルク。
 フランスの生物学者。ジャン・バプティスト・ラマルク。
 使用する器官は発達し、そうでない器官は発達しない――進化における用不要説を説いた学者。
 簡単に言えば、「キリンの首は何故長いか、――それは、高いところにある葉を食べる内に発達した」と、進化の理由をそう説明づける学説を発表した男。
 けれどその説は、今では完全に否定されている。
 嵐の言うとおり、後になって獲得した形質は遺伝しないことが実証されているのだ。
「……嵐、人が進化の神秘を解き明かすことは、宇宙の深遠に触れるに等しい行為だ。そうは思わないか」
 父さんの声は、いつものように――低くて、そして聞き取りにくい。
「ラマルクだけじゃない。現在語られているどの進化論も、所詮は推測の域を出ないのだ。ダーウィンの進化論にしてもそうだ。ダーウィンは、強い者こそ生き残るという説を説いた。適者のみが生き残り、不適者は自然淘汰されるという説を説いた。けれど進化とは、弱肉強食によって、強い者が生き残るという――そんな単純なものではない、だったら恐竜は何故滅んだ?人間とは全ての種の中で最強の存在なのか?そんな莫迦げたことはない」
 お父さん、仕事の話は家に持ち込まないでって言ってるでしょう。
 母さんの声がそれに被さる。けれど、父さんは構わずに続けた。
「生物の進化とは、この地球上に生きる種全ての相互作用によって、複雑に影響を請け合った結果なのだ。そこに確実なルールなど存在しない、絶対的に最強の生物などありえない、全ては相対の世界なのだよ」
「…進化とは、強い者が生き残った結果でも、キリンの首や象の鼻に例えられるような、必要とされる器官が発達した結果でもない、…所詮はDNAのミスコピー、その結果何が生き残るかなんて運次第。結果ありきの偶然の産物だって…そういうことだよね」
 嵐の口調が、そこで少し暗くなる。
「僕たちベクターが、突然この世に現れたように……そして、この先、在来種と僕たちの遺伝子の、一体どちらが優勢種として生き残るか、それが全く判らないように――そうだろ、父さん」
「そうじゃない」
 息子の反論に、父親はゆっくりと首を振った。
 俺は、何時の間にか、二人の会話に聞き入っている。
「偶然ではない。生物の進化には、間違いなくなんらかの法則がある、しかし、人智でもって、それを解き明かすことは不可能なんだ」
「…どうして」
「ほらほら、楓、これでテーブル拭いて頂戴、そろそろ並べはじめましょうか」
 母の気ぜわしい声が、二人の会話を遮った。
 チン。
 電子レンジが、さきほどから部屋中に香ばしいバターの香りを漂わせていた――グラタンの完成を軽快に告げる。
「僕も手伝うよ、母さん」
 俺が席を立つと、嵐も慌てて立ち上がる。
 俺は、キッチンへ歩いていく。
 暖かくて甘い匂い。
 グラタンとそれから、嵐の好物のチキンフライと、……俺があまり好きじゃない、ブロッコリーのサラダ。
 思わず眉を寄せた途端、リビングから、唐突に音楽が流れ出した。
 父さんが――テレビのスイッチを入れたのだ。
 ケーブルの、多分、クラッシック専門番組。家で見る番組と言ったらこれしかない。
 基本的に、我が家ではテレビをつけることは、禁止されている。
 ベクターに対する誹謗中傷が、公然とマスメディアにはびこっているのだから、仕方ない。不愉快になるなと言う方が無理な話だ。
 ベクターの情報公開が法令化されてから、僕たちの人権は奪われたも同然だった。しかも父さんは、ベクター擁護派としてマスコミに頻繁に顔を出していて――<彼ら>の格好の標的だった。
 無言電話、投石、ゴミを家の前に捨てられる――そんな可愛いことはどこへ転居しても、日常的に繰り返される。電話番号は何回も変えたし、引越しだって三回以上している。
 父は、警察にパトロールを依頼しているが、俺の見る限り、それがまともに行われている気配はない。
 都会と違い、この静かな田舎町では、ベクターはことさら化け物扱いされているのだ。
 静かだった部屋に、低音のメロディが響き渡る。
 台所からテレビ画面を覗くと、舞台上のオーケストラが、指揮者に統べられ、演奏している場面だった。
 この曲はなんだろう、ひどく静かで――胸の底に響くような、陰鬱な旋律。
「……お父さんたら、こんな日に□□□□……は、ないでしょう、変えてくださいな」
 流しで手を洗いながら、母さんがそう言った。
「そうだな、ちょっと合わないな、これは」
 俺が布巾を手にして、キッチンに入ってきたばかりの嵐の横を通り過ぎようとした時、
 玄関のチャイムが鳴る音がした。
 一回。
「あら、誰かしら……こんな時間に」
 母さんが眉を寄せる。
「いいよ、私が………」
 父の声が聞き取りにくい。
 キッチンから出かけた母さんを、父さんが手で制する。
 キッチンカウンターにリモコンを置いて、大きな背中がリビングから消えた。
 テレビからは、まだ陰鬱な楽曲が流れて続けている。それに合唱のような声が被さり、高らかに歌い上げる。
「嵐、グラタン、出してくれる?」
「今やってる…、あちっ」
「莫迦ねぇ。素手で触る人がありますか」
 合唱のボリュームが唐突に上がる。
 ぱん。
 それは、風船か何かが、破裂したような音に聞こえた。
「……?」
 それと、曲調がいきなり変わり、激しい情緒的なメロディが流れ始めたのが同時だった。
 無機質な破裂音が再びした。
 三回。
 玄関の方から。
 父さんの背中が消えた方から。
「嵐」
 母さんが厳しい声で言い、嵐をキッチンから押し出した。
 その手は、水仕事の最中だったのか、指先から間断なく雫が滴っている。
「嵐、行きなさい、楓を連れて」
 俺はわけがわからないまま――別人のように怖くなった母親の顔を、ただ茫然と仰ぎ見る。
 嵐もまた、何か言いた気な顔で、背後の母親を振り返っている。
 荒々しい足音。複数の人間が、廊下を駆けてくる音。
「嵐っ」
 母さんがもう一度声を荒げる。悲鳴のような声だった。ようやく、嵐が弾かれたように動き出す。
 そして、ものも言わずに俺の手を掴む。
 ぐっと身体ごと引っ張られる。嵐はそのまま、キッチンを出て、玄関とは反対側の扉を開ける。
「嵐…?」
 それに返る返事はない。
 背後で、ものすごい音がした。俺は咄嗟に振り返った。
 扉が、壊れるほど大きく開けられて――そこに、現れたのは。
「見るな、楓」
 嵐に強く引っ張られる。
 言い争う声。悲鳴。母さんの声。
 食器が割れる音。大きな物が倒れる音。
 激しい音楽。
 絶唱のような合唱。  
 引きずられるように階段を駆け上がりながら、俺の心臓は、嫌な感じに高鳴っている。
―――何が起きた……?
 何が……起きようとしている?
 父さんは。
 そして、母さんは。
 けれど、嵐の腕は離れない、ものすごい力は、俺の反抗など受け付けない。
 俺は何故か、そんな嵐に逆らえない。
「子供は何処だ」
「ベクターを捜せ」
「悪魔の子供は何処だ」
 鼓膜にノイズがかかったような――途切れがちの声。
 地の底を這うような、のろのろとした声。
 二階に上がった嵐は、俺の身体を抱くようにして、トイレの傍にある物置の扉を開けた。そして、有無を言わさずに、俺をその中に押し込んだ。
「奥にもう一枚扉がある、君はその中に隠れているんだ」
「嵐、」
 俺はようやく声が出た。つかえていた声が溢れた。
「何が起きたんだ、今のは」
 嵐の背後で、階段を駆け上がる足音がする。それがすぐ傍まで迫っている。
 嵐は俺を見た。まっすぐな眼差しで、吸い込まれるほど綺麗な――黒い双眸で。
「奴らの狙いは俺だ、楓」
「ら、」
「君は、ここにいろ、いいな」
 目の前で扉が閉まる。
「嵐!!」
 怒声。目がくらむほどの光が、その刹那、扉の隙間から何度か瞬く。
 床が二度揺れ、閉められた扉の向こうに、どかっと大きな圧力がかかった。
 嫌な予感で目の前が暗くなる。胃がぐうっと収縮する。そして。
 目の前で扉が開く。
 扉の向こうに立っているのは――真っ白な布を頭から被った――人?その眼のところだけ、黒い穴がぽっかりと開いている。
 袖口から出ている浅黒い手。その手に握られた銃口が、俺の頭に突きつけられる。
 俺の足元には、九の字に折れ曲げった身体が投げ出されている。嵐。見覚えのあるグレーのTシャツ。嵐。俺は声にならない悲鳴を上げる。嵐。嵐。嵐。
 視界に映るのはTシャツに包まれた形良い背中だけ。
 その背に、赤黒い血溜りが、二つ、三つ、じわじわと広がっていく。
 動かない背中。
 染み出した血が滴って、廊下にゆっりと広がっていく。
 俺の足を濡らしていく。
「真宮……楓か」
「間違いない、こいつが例のTHだ」
 白装束の足が、転がった嵐の胸元を蹴り上げる。
 ぐらっと上向いて、刹那に振り返った嵐の――その顔が、 


「あああああああああああああああ―――――っっっっっっっ」

「血圧、心拍ともに上昇しています、危険ですが、どうしましょう」
「投与を二十ccまであげてみろ」
「それは、…少し危険なのでは、」
「構わない…、それで壊れるほど、ベクターの中枢神経は脆くない」
 暴れれば暴れるほど、手首がぎりぎりと締め上げられる。
 手だけではない、足も、胴も、何かのベルトで固定されている。
「あ…っあ、あああっ」
 痙攣する俺の腕に、かすかな痛みが刹那に走る。
 真っ白な天井。伸びているチューブ。電気機器の奏でる絶え間ない憂鬱な音。
 これは――夢なのか。
 どこまでが夢で、そしてどこからが現実なのか。
「真宮博士……私の声が、聞こえるか……?」
 真宮…博士…?
「私だよ。…君を救った男の顔を、よもや忘れてはいないだろう…?」
 冷たい指。
 頬に触れて、唇をなぞる冷たい指先。
「落ち着きたまえ、君を狩った奴らはもういない……君の家族を殺した奴らは、もういない……」
 俺は――胸で大きく息をする。
 苦しい――苦しい。
「可哀相に、君さえ引き取らねば、彼らが死ぬことはなかったのだ、君の弟が、君を庇うこともなかったのだ……」
 苦しい――悲しい。
 胸が引き裂かれそうな後悔と、遺恨と、虚しさ、怒りと、絶望。
 真宮博士……。
 耳元で囁く声。
「殲主席が、ついに台湾への武力行使を決意された。アメリカがこの餌に食いつけば、いよいよ世界戦争の始まりだ……、私と君が…長い間ずっと待ち望んでいた新しい世界への、これが最初の幕開けだ、……真宮博士…聞こえているかい…?」
「待ち望んでいた…せ、かい……」
 それは何だったのだろう。
 俺が待っているものはひとつしかない。
 昔も、今も。
 一人しかいない。
「大丈夫だ、真宮博士、私がいる……君の傍には、ずっと私がついているのだから……」
「りゅ…う…」
 彼の名を呼び、俺は安堵して目を閉じる。
 身体を這い回る冷たい指に、身を任せる。
 これでようやく。
 俺は、お前のいる所へいけるのだろうか。
 そんなことを考えながら。


嵐……嵐、何処にいる?
俺はずっとここにいるのに。
ここで、お前を待っているのに。
この、終わりがない悪夢の中で。
お前が――俺を迎えに来るのを。
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○topp