12
嘆いたり、悲しんだりしている暇は、なさそうだった。
サランナを信じるも、信じないも、全てはこの危機を脱してからだ。
でも。
あさとは、絶望的な思いで、窓枠の上に置かれた小瓶を見上げた。
その位置は 少なくとも、手足が拘束されたままでは、届きそうもない高さである。
いずれにしても、ラッセルを起こさなければならない。
「……くっ」
身体をひねって、反転させ、彼の傍に身体を寄せた。
顔を上げると、ラッセルの瞼が、呼吸が触れるほどの近さにあった。
静かに目を閉じている彼の寝顔は、子供のように無防備に見える。
こんなラッセルの姿を見たのは初めてだ。 。
ラッセル……。
自分の胸をよぎる、少年時代の琥珀との思い出。あさとは、それを振り払うように、肩を何度か持ち上げ、それを彼の胸元に身体ごとぶつけた。
「……ん…っ」
両手両足を拘束され、口を塞がれている。それが、これほどまでに全身を疲労させるとは思ってもみなかった。
何度か同じ動作を繰り返しただけで、全身から汗が滲み始める。
ラッセル、起きて。
お願いだから、起きて。
肩が痛い、 腹筋、最近使ってないから お腹も、痛い。
肩で息をしながら、彼の胸にもたれかかるようにして、なんとか呼吸を整えた。鼻でしかできない呼吸は辛く、酸欠のためなのか、時折、ふっと目の前が暗くなる。
「………」
苦しい、……意識が途切れてしまいそうだ。
頭を寄せた胸から、彼の鼓動の音がした。
ラッセル……。
あさとは、気力が蘇るのを感じた。たとえ、サランナの話が嘘であろうと、本当であろうと構わない。
絶対に……死なせない。
渾身の力をこめ、頭を、肩を、懸命に彼の胸に当て続ける。
何度かそれを繰り返し、気が遠くなりかけた時、ようやく、男の身体が反応を示した。
微かな吐息が唇から零れ、動かなかった肩が、わずかに揺れる。
あさとは目の前にある、彼の顔を見上げた。
その瞬間、ラッセルもまた、閉じていた瞳を開けた。
「……クシュリナ様…?」
彼は自分の置かれた状況が判らず、目の前にあるあさとの顔 口を覆われ、しかも寝台の上で、互いに寄り添うような状態で顔を近づけていることに、ひどく狼狽したようだった。
「これは 」
そして、起きあがろうとして、ようやく気がついたらしい。
彼自身も、手足を拘束されていることに。
わずかに移動した身体は、逆に、あさととの距離を縮め、ほとんど触れるばかりに近づいた頬に、彼はますます困惑を強める。
「……一体」
これほど、驚いたラッセルの顔も、あさとにはまた、初めてだった。
あさとは少しだけ、顔の位置をずらし、ラッセルを見上げた。この状態に、羞恥を感じている時間はない。
けれど、同時に、 絶望と共に気がついた。
毒薬のことを伝えようとして、それが決して出来ないということに。
「 クシュリナ様……?」
顎で、目で、肩で、あさとは解毒剤の置かれた窓を示そうとした。
しかしそれは、いたずらに身体の位置をずらしていくばかりで、ラッセルには意味が通じていない。
「……何か、仰りたいのですか」
ラッセルもまた、あさとの様子が普通でないので、そこに異変があることを察している。
それでも、どうしようもない。
酷すぎる……。
「クシュリナ様……」
「………」
あさとは、自分の目じりに涙が滲むのを感じた。
どうして、自分の口にだけ戒めがあるのだろうと不思議に思っていた。それは、 こういうことだったのだ。
先に死ぬのは私だろうか? そうしたら、ラッセルはどうなってしまうのだろうか?
そもそも サランナは、本当に私に毒を飲ませたのだろうか。
残酷すぎる、酷すぎる。
サランナは、どうして 。
千賀屋ディアスの言葉が、ほとんど絶望しかけていた脳裏に蘇る。
邪念が……この世界に住む者の身体を借りて、私に災いをもたらしている。それが、サランナとユーリなのだと。
サランナの心を邪念から解き放てない限り、雅の心を救うこともできない。
でも、どうすればいい?
どうすれば、この絶望的な状況を切り抜けることができる?
私にはできない、ラッセルを見捨てられない。ここで死ぬのは私でいい、ラッセルを救いたい。でも、声さえ奪われたこの状態で、一体何ができるというのだろうか。
その時だった。いきなり半身を曲げたラッセルが、あさとの顔に唇を寄せた。
?
驚いたあさとが、反射的に顔を背けようとすると、
「今、口の戒めを外してみます」
彼は低くそう言った。そして、再び唇を寄せる。
頬に、いや、殆んど唇すれすれに触れる ラッセルの唇。
あさとは眼を閉じていた。互いの距離が近すぎて、彼の顔を直視できない。
恥ずかしがっている場合ではない ないけれど、それは、ほとんど口づけを交わすのに等しい感覚だった。
彼の唇が焦れたように開かれ、肌に食い込んだ布を噛み、必死でそれを押し下げようとしている。
だめ……!
眼をつむる事が、逆に、感覚だけを違うものに意識させる。
あさとは眼を開けた。その方が、まだ現実を直視できるだけましだった。
戒めはきつく結ばれていて、ラッセルは何度も同じことを繰り返した。唇を寄せ、開き、そして、噛むようにして、戒めを外そうと試みる。顔を背けて呼吸を整えては、また同じ動作を繰り返す。
遠慮しているのか、それはいたわるように優しかった。なのに、唇は離れる度に、肌に熱い感触を残していく。
だめ……。
睫が頬に触れ、髪が額をかすめ、折り重なる身体が、時に同じ鼓動を奏でる。
いけない、私。
自分の心音が、苦しいほど早く、高くなっている。
こんなの、へん、絶対ラッセルにおかしいと思われる。
けれどあさとより、ラッセルの方が、さらに苦しそうだった。
彼の動作は 手足を縛られ、自由の利かない身体にとっては全身運動に等しいのだろう。端整な額には、すでにうっすらと汗が滲んでいる。重なる度に触れ合う胸から、心臓の音が痛いほど響く。それがどちらのものなのか、もうあさとには判らない。
ラッセル……。
彼の呼吸、彼の吐息、唇が、髪が、あさとの肌に触れ、心に触れる。
( 彼はね、そのわずかな可能性に賭けたのよ。本当にご存知なかったの?)
サランナの言葉が、蘇る。
( この人が、最初から、誰を愛していたのか)
違う、そんなこと 有り得ない。
一瞬、顔を離して、ラッセルは深く呼吸をした。これまでの作業の間、彼は一度もあさとの目を見ようとはしなかった。
その横顔に、疲労と、それとは違う苦痛の色が滲んでいる。
私……何を考えてるんだろう……。
こんな時に。
こんな、命がけの状況で。
「っ……」
情けなくて、涙が零れた。こんなこと、考えるだけで ラッセルに悪いのに。
その涙に気づいたのか、ラッセルがふと視線を下げ、あさとは彼の目を見上げていた。
「………」
「………」
男の眼差しが怖かった。
いや、自分がどんな目で彼を見上げたのか その方がもっと恐ろしかった。
「……ご辛抱を」
不意にラッセルは、苦しげに呟いた。
彼は一転して、強く、肌ごと噛みつくように、戒めを口にした。それは、彼自身が、この状況に限界を感じていたことを意味しているような気がした。
鋭い痛みが、頬を刺す。そして しばらくして、唐突に呼吸が楽になった。
「あ……」
声が出た。
ラッセルはそれと同時に、肩で息をしながら、仰向けに寝台に崩れた。閉じた眼に、明らかな疲労が浮かんでいる。
「ラッセル、しっかりして」
あさとは、自分を励ますように言った。唇の余韻が、身体中に残っている、けれど、それを後ろめたく思う暇はない。
「聞いて、あなたは毒を飲まされたの。解毒剤があそこにあるわ」
あさとはそう言って、薬瓶の方を視線で示した。
ラッセルは半身を起こしてその方を見て、疲れたような息を吐いた。
少なくとも、縛られたままでは、長身の彼をしても、どうにもならない。
部屋を覆う薄闇は、ますます翳りを深めている。
「日が暮れるまでしか時間がないの。 どうしよう、早く、戒めを解かないと」
あさとは、自分も毒を飲んだとは言わなかった。無意識だったが、同時にはっきりと判ってもいた。ラッセルは、 あさとがそれを打ち明ければ、間違いなく薬を譲ってくれるだろう。
だからこそ、絶対に言えない。例え、その後、どれだけラッセルが激昂しようとも、 絶対に。
「なんとかするしかないでしょう」
ラッセルは短く言った。
そして、身体を折り曲げたまま全身に力を込め、肩をいからせ、苦しげに息を吐いた。
腕の戒めを、緩めようとしているのだと、すぐに判った。
「縛られる時、腕に力を込めておきました……少し、余裕があるはずです」
あさとの不安気な眼差しを感じたのか、ラッセルは冷静な声でそう言ってくれた。
けれど、先ほどの作業の余韻なのか、彼の額も髪も、すでに汗で濡れている。
「ラッセル」
「なんです」
「あっちを向いて」
「………?」
「いいから、早く!」
ラッセルはけげんそうにしながらも、身体を反転させ、あさとの方に背を向けた。
あさとは、彼の腕を縛る縄目を見た。結び目は固そうだったが、確かに僅かな緩みが生じていて、順序よく縄を抜けば、上手く解けそうな気がした。
何も考えられなかった。身体をかがめ、自分の歯をその縄目に当てる。
「 クシュリナ様」
ラッセルが驚いて、身体を逸らそうとする。
「何をなさいます、そのような」
「いいから、黙って」
必死だった。
死なせるわけにはいかない。誰も 私のために、これ以上、誰も。
ラッセルは黙った。
結び目は、解こうとすれば見た目以上に頑丈で、作業はわずかずつしか進まなかった。
擦れた唇から血が滲み、縄を濡らす。
唇に触れる彼の指先が、微かに反応して動く。
「……もう、おやめください」
「………」
「陛下、」
「黙ってて」
次第に唇の感覚がなくなっていく。
それでもあさとは止めなかった。
ラッセル……絶対に、死なせない。
この人だけは、死なせない。
もう、駄目だ。
あさとは、自分が もう、アシュラルに会う資格がないことを自覚していた。
自分の、ラッセルへの気持ちが何なのか、それは今でも判らない。琥珀だから恋しいのか、ラッセルだから、護りたいのか。
でもこれを 。
この感情を、彼への愛という以外に、 なんと呼べばいいのだろう。
アシュラル……。
待つと言ったのに、私はあなたを追うために皇都を出たずなのに。
アシュラル、ごめん、私は……。
私は、 ここで。
涙が零れた瞬間、ラッセルの腕の、戒めも解けた。
上体を起こした彼は、堰を切るように振り返り、自由になった腕であさとの肩を抱いた。抱きすくめた。
その目に、激情に揺れる焔が宿っている。
「……お待ちを」
けれど、ラッセルは、抑制した声でそう言い、その視線をすぐに逸らした。
あさとに背を向け、自分の足の戒めを外し始める。驚くべき速さでその作業を終わらせると、彼はあさとを振り返り、腕を縛る戒めに手を伸ばそうとした。
「私は後でいいから、早く」
あさとは言った。
「お願い、早く、薬を飲んで!」
サランナの言うことが本当なら、薬を飲まない私は、ここで死ぬことになる。
けれど今となっては、それが唯一の救いだった。
それでいいんだ、私は卑怯だ、私は 結局……。
あさとはうつむいた。こみあげる感情に、必死で耐えた。
初めて自覚していた。アシュラルとラッセル、どちらも選べないほど 双方を好きになってしまっていることに。
ディアス様、ごめんなさい。
私は、……自分を解放できない。 どちらも、選べない。選ぶ事なんてできない。
ごめんね、レオナ。
父親が誰だろうと構わない。顔が見たかった、抱いてやりたかった、一度だけでも。
ラッセルが立ちあがり、窓辺に歩み寄る気配がした。薬瓶を手に取り、蓋を外し、一息に口中に流し込んでいる。
よかった……。
それを見届けて、ようやくあさとは心から安堵した。
少なくとも、これで、ラッセルが死ぬことだけはないはずだ。
そのラッセルが、再びこちらに歩み寄る。彼はひどく性急な所作で、寝台に片膝をつくと、そのままあさとの肩を抱きすくめ、正面から押し倒した。
……?
彼の唇が 濡れて、冷たい唇が、強引に割ってはいる。
「っ……」
驚愕して顔を背けようとした。
彼が何をしようとしているのか、それが怖いほどの直感でわかった。
ラッセルは、それが彼の力とは思えないほど強暴な力で、あさとの顎をしっかり掴んで固定させると、自分の口にした液体を、口移しに流し込んだ。
ラッセル……!
拒もうとした。けれど、喉に押し流される冷たい液体を、逆らいきれずに嚥下した。
唇をわずかに離し、見下ろす眼差しを、その中に宿るものを 。
「どうして……」
受け止めきれず、あさとは呆然と呟いた。
この人は知らないはずなのに、私が毒を飲んだことを、知ってはいないはずなのに。
「あなたの唇から」
あさとの頬を抱いたまま、ラッセルは抑えた声で囁いた。
「……私の舌に残るものと同じ香りがいたしました」
それはもう、あさとにとっては、琥珀の声そのものだった。
「私は毒に耐性があります。……少しなら、問題は、ない……」
その囁きが消えない内に、彼の唇が、もう一度重ねられた。
ラッセル 。
あさとは、目を閉じていた。
合わさった唇の温もりに、抱きしめられる腕の強さに、もう自分を抑えることができなかった。
この人が、好き。
好きで、苦しくて、どうしようもない。
熱を帯びた唇は、全てを奪うように、激しい口づけを続ける。
あさとは彼を受け入れ 呼吸がからみ、やがてそれすら滑らかに交じり合った。
ラッセルは深いキスを続けながら、あさとを抱き起こし、そのまま背中に手を回して、手首に巻かれた戒めを外してくれた。
自由になった腕で、あさとは彼の背中を抱き締めた。彼もまた、その一瞬、もの苦しいほどの力で抱きしめてくれた。
息がつまり、頭の中が真っ白になる。
その脳裏に、彼と初めて出会った時から今までのことが、まるで長い夢のように閃いては消えて行く。
夢だったら。
閉じた眼に涙が滲んだ。
これが、そのまま夢の続きだったなら どれだけ気持ちが楽だろうか。
けれどラッセルは、すぐに抱きしめる腕を解いた。
あさとの肩を両手で抱き、肩から腕、そして手首に滑らせていき、自分の背から引き離すようにしてすくい上げた。
そのまま 指を絡め、しっかりと握り締める。
彼はその間、わずかの間も唇を離そうとはしなかった。
呼吸が苦しい。苦しいのに、嬉しい。そして辛い。
このまま 死にたい……。
あさとはラッセルの指をしっかりと握り締めたまま、涙を流した。
このまま……罰を受けて、死んでしまいたい……。
許してなんて、もう言えない。
ごめん、アシュラル。
私は今、心ごと、あなたを裏切ってしまった……。
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