第十章 終焉
1
どのくらい時がたったのだろう。
あさとはラッセルの鼓動を聞きながら、時間のことを気にしていた。
ラッセルはずっと無言だった。
彼は寝台に座り、壁を背にして、胸であさとを包むように支えていた。
あさとは彼の胸に顔を預け、そのまま動かないでいた。
彼が衝動と戦っているのが、あさとにはよく判っていた。
先刻までのラッセルは、何もかも、琥珀と一緒だった。
苦しいほどのキスも、今にも奪われそうなくらい情熱的な抱擁も、……そして、それ以上の行為に、決して及ばないことも。
琥珀がいつも、……ぎりぎりのところで自分を抑えていることを、あさとはよく知っていた。彼の苦しさが切なかった。切なさが衝動をかきたて、このまま流されたいと願っても、琥珀はそれを許さなかった。
ラッセルは 。
あさとは、思い出していた。
抱擁の際、彼は、抱き締めるあさとの腕を引き離した。まるで、己が抱かれることを頑なに拒むように。 。
「お気は、すみましたか」
静かな声がした。
「………?」
あさとはその言葉の意味が判らず、男の胸から顔を離した。
あさとを見下ろし、ラッセルは静かに笑んだ。
「……薬の効き出す時間はゆうに経ったと思います。私は生きています」
「………」
無意識だった。けれど確かに、あさとは、時の経つのを気にしていた。彼を一人で 逝かせたくはなかったから。
彼はあさとの肩を抱いて、自分から引き離した。そして、寝台から降りて立ちあがった。
そのまま、しばらく、男の背中は無言だった。部屋の中は、すでに薄闇に包まれており、目を伏せた横顔の、表情は影で隠されている。
「……クシュリナ様」
やがて、彼は沈むような口調で言った。
「……謝らなければなりません。私はもう、長い間あなたを……、いや、あなたの中の、別の女性を見ていました」
え……?
どくん、と心臓が高鳴った。
ラッセルは視線を伏せたまま、綺麗な眉をわずかに寄せた。
「私は、子供の頃から、ずっと、……不可思議な、それでいて懐かしい……異世界の夢を見続けてきました。夢の中で……私は」
彼は言葉をきった。しばらくの間、迷うような沈黙があった。
「私は、ある女性を愛していました。愛しながら憎み、憎みながらも、……愛した。あなたはその女性に似ているのです」
雅だ。
あさとは呆然としてラッセルを いや、琥珀を見上げた。
「……今、私は、あなたではなく、夢の中の女性を抱いていたのです。……お忘れいただければと思います」
これは、琥珀の、雅への告白なのだ。
彼の 雅への思いが、単なる同情でないことは知っていた。自分と同じだけ、いや、それ以上の思いを込めて、雅を大切にしていることも知っていた。
けれど。
けれど こんな形で、今、その言葉をラッセルの口から聞くことになるなんて……。
「……そして、あなたも」
ラッセルの声が、ふと優しくなった。
「私ではない、私の中の コハクという者を見ていたのではないのですか」
「………」
「あなたは、私を見ているようで、見ていなかった。何か別のものを、いつも追いかけておられた」
「………」
「お気づきください。コハクという者は夢にしか存在しないのだと。あなたは今、イヌルダで生まれたクシュリナとして、ここに、ご自分の意思で立たれているのだと」
一言一言が、柔らかい刃のように、胸の奥深くに突き刺さった。
「クシュリナ様として、お考えください。 クシュリナ様として、ご決断ください」
あさとはラッセルを見上げた。
彼の優しい眼差し、そして琥珀によく似たその面差しを見つめた。
彼は琥珀で でも、決して琥珀ではない。
「私は、あなたを受け入れることができる。けれど あなたは、きっと、私を受け入れてしまえば、後悔なさる」
ラッセルは寂しげな笑みを浮かべた。
「それが判っていたから、私はあなたを避けていたのかもしれません。私の……」
彼はあさとの前に膝をつき、手を取って、その指先に口づけた。
「私の……命よりも大切なお方ですから」
涙が……。
「後悔して欲しくない、誰よりも、お幸せになっていただきたいのです」
涙が、溢れて。
「……私のこと、許してくれるの……」
あさとは呟いた。もう、彼の顔を見ることができなかった。
「私は、あなたのダーラが、子供ができているかもしれないって、知ってて……それでも、彼女を置いて逃げてしまったの。ずっと悔やんでた、ずっと後悔してた……私」
彼は優しく、泣きじゃくるあさとの背をなでた。
「私、あなたが好きたった。だから心のどこかで、ダーラのことを邪魔にしてた。そんな気持ちがあったから……自分が……許せなかった」
背中を撫でながら、ラッセルは優しく囁いた。
「私はあなたを憎んだことなど、一度もございません。……もし、あの時、誰かを憎んでいたとしたら それは、あなたではない」
あさとは彼を見上げた。その涙を、ラッセルは指先でそっと拭ってくれた。
「……ダーラと結婚し、私は、自分の人生にあるはずのなかった幸せというものを、初めて彼女に教えてもらいました。短い間でした、けれど私は確かに彼女を妻として愛し、父親になる幸福も知ったのです。……なのに」
「………」
「……身重のダーラを顧みることなく、 あなたを追って教会に行ってしまった。私は……私が憎んだのは自分自身です」
「ラッセル 」
「……誰よりも、大切なあなたを、……恨めるはずがない。その後、私は自分を責め続けた。あなたの顔を見るたびに思い知らされた。 私は知っていました。ダーラがあなたの身代わりになったのは、あなたのためだけではない、私がまた愚かなことをするのではないかと、彼女はそれを危惧していたのです。妻を殺したのは、他の誰でもない、 私なのです」
ラッセルは懐から、小さな紙片を取り出した。
「これは……?」
あさとは、涙で潤んだ目を上げた。
「ダーラが書き残した手紙です。もっと早く、あなたにお読みいただくべきでした」
ダーラの。……
紙は、幾重にも折りたたんであった。それを開く指が震える。
すぐに、懐かしい文字が視界いっぱいに飛び込んできて、あさとは、しばらく涙を止めることができなかった。
手紙は、全てではなく、一部だった。
それはひどく急いだ走り書きで、おそらく死の前日に、ジュールに宛てて書き残したもののようだった。
親愛なるジュール、最後に、もし機会があれば、姫様に伝えてください。
私の罪を、どうかお許しくださいと。
ジュールもよく知っているように、私はあの夜、姫様と鷹宮ユーリを、金羽宮から脱出させるための、企みに加わりました。
包み隠さずに告白いたします。あれは 姫様の幸せを願ってのことではありませんでした。
私は、姫様を、あの純粋でお優しい方を、恨み、妬み……時に死を願うほどに、激しくにくんでいたのです。
心の奥底に押し隠した、どろどろとした醜い感情のために、一度 たった一度、取り返しのつかない判断の誤りを犯してしまったのです。
この罪が、明日報われるのだとしたら、私は喜んで死地にまいります。
ええ、むろん、罠であることも覚悟しております。でも、あなたはお怒りになるでしょうが、それが、ラッセルを救うことにもなるのです。
私に万が一のことがあれば、どうかジュール、私に代わって姫様とラッセルをお守りください。
私の大切な 愛する二人の行末を、どうか、見届けてくださいませ。
愛をこめて
ダーラ……。
大粒の涙が、指を濡らし、紙片を濡らした。
ダーラ、……ダーラ、私の……大切な、ダーラ。
あさとは、声を震わせて、泣き伏せた。
私も一緒だった。ずっとダーラを妬んで、憎んで……なのに、大好きだった。愛していた。ずっと、傍にいてほしかった。
ダーラ…………。
ありがとう。
ほどけていく……。
あさとは、自分の中で重く絡んでいた何かが、ほどけて、ゆっくりと解き放たれて行くのを感じた。
父の臨終の時と同じ感覚が、……静かに自分の内部に満ちて行く。
クシュリナを縛っていた呪縛が、またひとつ……緩やかにほどけ、消えて行く。
けれど、もう一つ、重くて苦しい縄が、しっかりと自分の心に巻き付いている。
「……死に行く者は、愛しく思えるものです」
ラッセルの口調が、ふと、硬くなった。その眼差しに、暗い陰りが浮かんでいる。
あさとは黙って、彼の顔を見つめた。
「あなたがその錯覚を私に覚えたのなら……ならば、もっと愛しむべき者がいます。彼は私の弟で、そして、最初の発作を起こした時に、二十半ばまで生きるのがやっとだろう、と宣告されました」
「………」
「弟の命は、最初から終りが見えていたのです」
ラッセルはあさとの肩を両手で抱き、一言一言、言い含めるように続けた。
あさとは空の一点を見つめたまま、言葉を失っていた。
「半年前、この国で倒れた彼は、即座に医術師に見放されました。もって、一カ月 病は肺深くまで侵し、彼の肉体を立つ事もできないほどに蝕んでいたのです」
自分の手が、指が、細かく震える。
死ぬ?
アシュラルが、死ぬ?
「それでも、彼は持ち直し、再び戦場に立ったのです。……それは奇跡に等しいことでした」
「………」
あさとはラッセルから目を逸らした。
今の 自分の顔を、見られたくなかった。
ラッセルはあさとに背を向けて立ちあがると、壁を向いたままで続けた。
「どうなさいますか。……助け出したとしても、彼の命は長くは持たない。無駄かもしれない」
「………」
行きたい。
無駄でもいい。
一緒にいられるのが、たとえ一時でも構わない。
でも……。
「もう……私……」
でも。
「……彼に、会う資格が、ない…」
「………」
「私……」
行きたい。
それでも、行きたい。
ラッセルへの想いを断てないまま それがどんなに卑怯であさましいことか、十分に判っているけれど。
嫌われても、憎まれても、許されなくても。
身勝手と言われてもかまわない、もう一度 アシュラルに会いたい。
自然にあふれ出た涙が、何時の間にか頬を幾筋も伝っていた。
「ラッセル……」
そして、理解した。
ここで、アシュラルを選ぶということは、 この人を永久に失うことになるのだと。
ラッセルの横顔は動かないままだった。
彼もまた、苦しみの中で、今の言葉を口にしているのが、切ないくらいによく判った。
心を裂けるものならば、身体を裂けるものならば でも。
クシュリナとして、決める事なら、それは 最初から決っていた。
答えは、最初から判っていた。
それが、多分、最後の呪縛。
満たされないまま、失われた彼への思い。それを解き放てば、クシュリナはきっと解放される。
「……私」
行かないと、いけないんだ。
あさとは涙をこらえて、立ちあがった。
「行く……、アシュラルに、会いに行く……」
ラッセルの横顔が動き、見下ろされる眼差しは優しかった。
「闇が消えれば、あるいは 弟の命にも、奇跡が起こるかもしれません」
ラッセルは淡く微笑した。そして言った。
「では、参りましょう」
それは、いつもの彼の口調だった。
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