11
頭……痛い……。
あさとは、ぼうっとする頭を振って、ようやく意識を取り戻した。
ここは……。
記憶が曖昧で、頭の中が混乱している。
身体が重く、息苦しい、体中に、何かがべっとりまとわりついている感覚がする。
なに……?
込み上げる悪寒と吐き気。
口に溜まった唾液を吐き出そうとして、気がついた。
息が、できない。
そして、ようやく理解した。口元が 何か、硬い布のようなもので塞がれて、それが頭の後ろで結ばれているのだ。
両手は背中で縛られたまま、さらに両足も、同じように縛られている。
その状態で、あさとは寝台の上に横になっていた。動かすことができるのは 視線だけだ。
口の中に、甘いような苦味が残っている。
私、……薬を飲まされて。
ようやく、恐ろしい現実を思い出していた。
……意識を失ったんだ。あれからどれくらい経ったんだろう。それに、ここは……。
何処?
視線を巡らせる、 どこかの、部屋の中のようだ。決して安い造りではない。調度品も豪華で、柔らかな布団には香が焚きしめてある。薄暗いのは、夕刻が近いせいなのだろうか? それとも 朝?
天井を見上げ、あさとは、恐怖で身体を強張らせた。悪夢の続きを見ているのではないかと思った。
ここは……。
ここは、かつてナイリュで、サランナに監禁されていた部屋だった。飽きるほど見上げた天井の模様。 そうだ、ここは天摩宮、サランナの館なのだ。
「目が覚められたようね」
頭上から、声がした。
あさとは、顔を上げようとした。
ぐっと声がつまる。
視線だけ動かすと、寝台の脇に立ったまま、腰に手をあてて見下ろしているサランナの姿が飛びこんできた。
最後に見た時とは、衣装が違う。厚手の上着に、そして彼女らしくない飾り気のないドレスを身につけている。
「……奇跡、ね」
妹は、あざけるような口調で呟いた。
「ラッセルには、楽しませてもらったし……彼に恨みはなかったけれど」
その視線が、あさとではない、別の何かを見下ろしている。
何……?
身体を少しよじると、妹の視線の意味がすぐに判った。
同じ寝台の殆ど端の方に、身体を折り曲げたまま横臥しているラッセルの姿があった。
彼もまた、後ろ手に縛られ、足首から膝の下まで、幾重にも縄を巻かれている。あさとと違うのは、口を覆う戒めがないことだけだ。
その状態のまま、彼は硬く眼を閉じ、動かない。
ラッセル!
叫びは、口を覆ういましめに遮られる。彼の胸が、わずかだが上下している。 生きている……それを確認して、ようやく少しだけ安堵した。
「私はね、お姉様、……お姉様の大切になさっているものを、ひとつひとつ奪って、壊して行くのが大好きなのよ」
サランナはあさとを見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
「ラッセルもまた、お姉様の大切な人なら……アシュラルの前に、彼で試してもいいわよね。ねぇ、お姉様?」
何をするつもりなの?
あさとは目だけで、サランナを睨んだ。許さない。 ラッセルに、何かすることだけは許さない。
サランナは、しばらく楽しそうにあさとを見下ろしていたが、やがて、すっと親指の先ほどの小瓶を取り出した。
彼女は、その中に満ちていた液体を自らの口に流し込むと、そっと、ラッセルの枕元に歩み寄った。
そのまま、おもむろに彼の唇に、自分の唇を押し当てる。
「………!」
叫びたかった。声が、戒めの中で閉じ込められる。
目を閉じたままのラッセルの 滑らかな喉が、微かに動く。
先ほどの液体を口移しに飲ませたのだと、すぐに判った。嫌な予感と、そして、たまらない嫌悪感。
妹の指が、彼の頬を抱いている。その姿勢のまま、彼女はさらに深く唇を重ねていく、深く、長く。
あさとは目を背けた。胸のどこかが、焼けるように痛んでいた。
やめて……!
「ふふ……」
目をそむけても、サランナの含み笑いと、唇の音が、いっそう余計に胸を刺す。
やめて、ラッセルに触らないで!
どうしてこんな気持ちになるんだろう。
こんなんじゃいけない、これじゃまるで 私。
「懐かしいわ……彼の唇」
サランナはそう言うと、何事もなかったかのように顔を上げ、頬に落ちた髪を指で払った。
懐かしい……?
あさとには、その意味が判らなかった。
「彼と私、何度か寝たことがあるからよ。……そう、私にとっては、アシュラルの代用品にすぎなかったわけだけど」
嘘だ。
そんなこと、絶対にあるはず、ない。
サランナはくすっと笑った。
「今度は自信がおありになるのね。そんな眼をしてらっしゃるもの。おかしなお姉様、結婚したアシュラルは信じられなくても、ラッセルのことは信じられるの?」
「………」
思わず言葉を無くしていた。違う、……心のどこかで、無意味な反論が力なく繰り返される。
妹の唇、その口角がくっきりと上がった。
「むろん、この誠実な騎士は、私の誘いを即座に断ったわ。でもね、私、こう言ったの」
「………」
「あら、だったら、私、お姉様にお話してもいいのよ」
「………」
「ダーラが、アシュラルの子供を身ごもっているってね」
……。
眩暈がした。息さえ止まった。
覚悟していた事実。けれど けれど。
「たったそれだけ、簡単すぎるほどだったわ。あの夜のラッセル……素敵だったわ、彼があれほど情熱的な男だなんて、少し意外だったけれど」
いや。
いや、いや、いや。
聞きたくない、聞きたくない、お願いだから、聞かせないで。
きつく閉じた目に涙が滲んだ。
「……何を、お悲しみになられているの?」
けれど、妹の声は、場違いなほど無邪気になった。
「ラッセルはお姉様のために、好きでもない女と寝たのよ。私はそれを、教えてさしあげただけなのに」
薄く開けた視界に、ラッセルの顔が映った。力なく傾いた首、伏せられた睫。
ラッセル……。
その髪に、サランナの指が絡む。
「この男はね、お姉様のためなら何でもするの。彼が何故、ダーラと結婚したと思うの? 全て、お姉様のためじゃない。何故、忌獣討伐隊に加わったかご存知なの? それも、お姉様のためじゃない」
「………」
どういう意味だろう、ロイドも同じことを言っていた。忌獣討伐隊と、私が 何の関係で。
「アシュラルとお姉様の結婚を止める唯一の方法、……本当にご存知なかったの?」
サランナの声に、憐れむような響きが交じった。
「忌獣が消えれば、予言に言う滅亡は回避されるでしょう? そうすれば、お姉様がアシュラルの子供を生む必要はなくなるじゃないの」
「………」
「彼はね、そのわずかな可能性に賭けたのよ。本当にご存知なかったの? この人が……最初から、一体誰を愛していたのか」
なんの、話……?
「憐れなダーラは、ずっとこの冷たい男に恋していたのよ。その辛さからアシュラルに逃げたのかしら。……アシュラルは、そうねぇ、あの人は、ダーラみたいな女を放っておけない性格だから」
「………」
「馬鹿な女、子供が出来て、初めて過ちに気がついたの。その尻拭いをさせられたのがラッセルよ」
サランナはそう言うと、ラッセルの端整な横顔をそっと撫でた。
「……皮肉なものね、数時間の差で。……彼がお姉様の婚約者だったかもしれないのに」
なんの話なの……?
意味が判らない、そんなこと あるはずがない。
ラッセルは確かに言ったのだ。幸せだったと、ダーラと夫婦だったわずかな時間、確かに至福を得たのだと。
サランナは、憐れなものでも見るような目で、あさとを見た。
本気……? 嘘……?
判らない、妹の表情が、感情が読みきれない。
その サランナの眼に、ゆっくりと彼女らしい笑みが広がっていく。
「……それが前置き、そして、これからが本題」
妹は低く笑うと、小さな瓶をもうひとつ、上着の内側から取り出した。
「これはね、さっきラッセルに飲ませた毒薬の解毒剤。ちなみに、これ一つ、丁度一人分しかないから。 調合していないの、どこを探しても無駄だということよ」
かたん、と音がした。彼女はその瓶を、目線の高さほどに位置する窓枠の上に置いた。
「そしてね、同じ毒を、お姉様には少し前に飲んでもらっているの。お休みになられている間にね」
毒……?
あさとは、愕然と顔を上げた。舌に残る甘く苦い味の名残。これは まさか。
「ね、お口の中に、まだ甘い感じが残ってるでしょう? そうねぇ、日が完全に沈むくらいかしら……それまでに、この解毒薬を飲み干さないと」
サランナは少しふざけた様に手を振って見せた。
「助かるのは、一人きり。お一人で逝っても、二人で逝っても、どちらでもよろしくてよ」
………。
その意味することが判り、愕然とした。ひどい、あまりにも ひどすぎる。
「お姉様がお決めになられたらいいことよ。彼とよく、ご相談のうえで」
あさとは呆然としてサランナを見上げた。伝えたいことも、口を塞がれたままでは、言いようがない。
先ほどの話は、このための まさに、彼女らしい前置きだった。
それが嘘でも本当でも、それを聞いて きっと私が、平静ではいられなくなると知っていたから。
どうして、ここまで。
ここまで、サランナは 私を、追い詰めることができるのだろうか。
「そうそう、言い忘れていたけれど」
妹は顔いっぱいに笑みを広げた。
「お姉様がお生みになられたユーリの子供は、私がちゃんとお育てするから、ご心配なさらないでね」
「………」
「なんて顔をなされているの? 銀の髪に、灰色の眼……お姉様とユーリの間にできた子供だもの、それはそれは、美しくていらしてよ」
「………」
「信じる? それとも信じられない? 金羽宮では、誰が、どんな嘘でお姉様を慰めたのかしら……。私は、その子を確かに抱いて、そして毎晩添い寝してあげているんですもの……ユーリも、わが子と対面できて、それはそれは、喜んでいたわよ」
嘘……?
本当……?
「お姉様、……私を憎んで」
サランナはゆっくりとあさとの傍に腰を下ろすと、短くなった髪に指をからめながら、囁いた。
「私のこと、本気で憎んで、嫌いになって……」
サランナ。
あさとは叫んだ。無論、言葉にはならなかった。悔しさで目じりから涙が伝う。それをサランナがキスで拭った。
「薬を飲んだ方だけが、アシュラルに会えるということかしら。……それとも、彼の方が、先に逝ってしまうのかしら? 最後に彼を抱いてさしあげるわ、美しい、死の仮面ごと……」
サランナはすいっと腰を上げると、そのまま部屋を出て行った。
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