9
ラッセルは、まだ正午には間がある内に、一人鐘楼を出て行った。
馬を調達しなければなりません。昼過ぎには、第二門を突破します。
おそらく、彼がひそかに連絡を取り合っている仲間が、第一門の内部か外部に潜んでいるのたろう。あの鳥を使う以上、相手は、密輸船の船長ゴドバかもしれない。
耳を震わす衝撃音が、また城下に鳴り響いた。
先ほどから ほとんど、一時間おきくらいに、法王軍の放つ空砲が空を轟かせている。
まだ、決行の時間には間がある。けれど、落ち着いて座ってなどいられなかった。
塔の最上から、祈るような思いで、晴れ渡った空を見上げる。
天摩宮第二門、それに続く橋梁。河川の流れは穏やかで、周囲は静まり返っている。けれど、最初に見た時と違い、橋上には、三鷹家の騎士たちが、騎馬のまま闊歩していた。
法王軍が撤収した気配を察し、門の護りに出てきたのだろう。数は、決して少なくはない。
ラッセル……。
大丈夫なのだろうか。本当に、ここで待っているだけでいいのだろうか。
ラッセルことだ。おそらく、確かな勝算を考えた上で、実行を決意したのだろう。けれど、それは やはり、あまりにも無謀な気がした。
( それに、第三門に入ってしまえば、正体が露見してもかまいません、おそらくユーリ様が)
彼の言葉を思い出し、あさとは今さらながら、激しい後悔に襲われた。
違う、正体が露見して、それですむはずがない。
間違いない、ラッセルは即座に死を選ぶだろう。彼が生きたまま三鷹家に捕らえられてしまえば、身代わりが、 死仮面の下に別人がいたことが、シュミラクール全土に露見することになるからだ。
全部、ユーリ次第なんだ……。
それは、なんと心もとなく、儚い可能性なのだろうか。
あさとは、震える手で、柱をきつく握り締めた。
ユーリなら、即座にラッセルの正体を見抜くだろう。そもそもユーリは、アシュラルの顔を知らないからだ。 ラッセルが偽法王であることを知って、法王軍が抱える唯一の弱点を知って それでも、ナイリュ国の王でもある彼は、ラッセルをそのまま、返してくれるのだろうか。
もしかして、ラッセルは最初から……?
その想像が、あさとの胸を息も出来ないほど締め付けた。
自分の命と、引き換えにするつもりで……。
その時、外がにわかに騒がしくなった。眼下から聞こえてくる怒声、複数の馬のいななき。
はっとして、視線を下に向け、あさとは凍りついていた。
「どうして ?」
声を上げていた。彼が言った時間には、まだかなりの間があるはずなのに。
一頭の黒馬に乗った騎士が、颯爽と橋梁を駆けあがるところだった。闇色のケープが風にあおられ、旗手の顔が露になる。銀に光る紫の兜 死仮面と称される法王の象徴。
何騎かの騎馬が、彼の後を追っている。
黒斗……?
あさとは目を凝らした。動きが速すぎて追いきれないが、しなやかな四肢や、風を切る早さは、黒斗以外にないように見える。
似た馬を探したのだろうが、 それは、金羽宮で最後に見た、黒斗そのものにしか見えなかった。
まさか、そんな。
死仮面を乗せた黒馬は、たちまち三鷹家の騎馬軍に取り囲まれる。馬は一声いなないて、鮮やかに前足を立ち上げた。
黒斗だ。
あさとはもう、確信していた。
あれは、黒斗だ。間違いない。
ラッセルは、じゃあ、黒斗そのものを借りてきたの……?
橋上では、騎馬同士で、押し問答のような小競り合いが続いている。
あさとは心臓が凍りつくような思いで、その成り行きを見守った。
ここで、失敗したら、間違いなく、ラッセルは殺される。
しばらくの問答の末、ラッセルの手が兜に添えられた。銀の覆いはゆっくりと持ち上げられ、黒い髪が零れ落ちる。
「ラッセル、」
思わず叫びかけたあさとは、その瞬間、はっと息を引いていた。
兜を脱いだ男の仕草、その背中に、確かな憶えがあった。
まさか。
彼の手は、躊躇することなく、顔を覆う最後のものさえ抜き取った。
「………」
嘘よ、そんなの。
あさとの位置からは、彼の顔までは確認できない。けれど、何が周囲を納得させたのか、彼を威嚇していた騎馬群が唐突に動きを止める。
そんなの……有り得ない。
ラッセルの顔には傷などなかった。それだけは間違いない。
あさとは、柱を握り締めた、手が、指が震えていた。駆け出したい衝動に必死に耐えた。
再び死仮面を被り直した背中が、開かれた門の中に消えていく。門は閉まり、後は静けさだけが残された。
アシュラルだ。
間違いない。あれは、アシュラル本人だ。
混乱と衝撃で息が詰まった。
でも でも、どうして 。
どうして彼が現れたの? ラッセルではなく、どうして 。
その時だった。
不意に背後で、急速に近づく人の気配を感じた。
「 ?」
咄嗟に、胸に抱いていた短剣を引きぬいている。が、振り向くより早く、いきなり、凄まじい音と共に、あさとの目の前に鋭い刃が現れた。
叫び出しそうになる口を、背後から黒い布のようなもので覆われる。
誰?
階下から……ゆっくりと階段を上がって来る、ひそやかな足音と衣擦れ。
自分の身体を拘束している誰かの腕に抗いながら、あさとは、必死で、視線だけを、その方にめぐらせた。
階段から、ケープで顔を覆った影が 薄闇から滲み出るように、その姿を露わにする。
「……本当に、進歩がないのね、お姉様……」
サランナ……!
あさとは、声にならない叫びをあげた。
10
「……本当に、進歩がないのね、お姉様……」
階段を昇りきった妹は、顔を覆っていたケープを払った。
真っ白な肌、朱の唇が毒のように濡れている。うねる黒髪が、風もないのに揺れていた。
「今日あたりこられると思っていたのよ。だって、……明日で、ナイリュは滅びてしまうんですもの」
まるで歌でも歌うような、楽しげな口調だった。
あさとは全身に寒気を感じた。
妹は、サランナは、どこかおかしくなってしまったのではないだろうか。
今の言動を聞けば、そうとしか思えない。彼女自身が身を寄せているユーリの母国が、今 攻め落とされようとしているのに。
「何を驚いていらっしゃるの?」
きれいな喉元が、くっくっと鳴らされる。
「驚いたのは私のほうよ。お姉様ったら、まるで別人になってしまわれたんだもの。後ろ姿を見た時は、一瞬ダーラの亡霊かと思ったわ」
からかうようにそう言うと、サランナは、じっとあさとの目を見据えた。心のそこまで凍りつくような眼差し けれどそれは、まだ、妹の目をしている。
目の前にあるのは、尋常ではない長さの刃。その刃をかざしつつ、背後から身体を拘束しているの男が、かつて天摩宮から自分を連れ出してくれたクロウだと、あさとはようやく気がついた。
男の黒いクロークに包みこまれ、口は手で塞がれたまま、あさとは、声を上げることもできない。
「あら」
サランナの視線が、ふと止まった。
まだ、あさとの手は月白桜の短剣を握りしめている。
「アシュラルの剣……お姉様も、律儀な方ね。法王様は若い愛妾に夢中だという噂だけれど、まだ、こんなものをお持ちになっていらしたの」
「………」
震える指から、サランナはあっさり、短剣を奪い取った。
「返して、抵抗するつもりはないわ」
「いいえ、今、とてもいい使い途を思いついたから、これは私が預かっておくわ」
不思議な笑いを浮かべ、サランナは剣を自らの胸に滑らせる。
「ラッセル、出ていらっしゃい」
そして、いきなりよく通る声で言った。
あさとは、驚愕で息が止まるかと思った。 ラッセル?
「でないと、アリュエスの爪が、お姉様の首を切り落とすわよ」
ラッセル? ラッセルが? 何故?
あさとは必死で顔を上げた。サランナの言葉が信じられなかった。何故妹が、この場にいるはずのない男の名を呼ぶのか アシュラルと同様に理解できなかった。悪い夢であればいい、こんな、こんなことが 。
「元より、逃げるつもりはありません」
しかし、薄闇から静かな声が返ってきた。
客間を遮る壁の向こうから、ラッセルは落ち着き払った様子で、歩み出てきた。つい先刻別れた時と同じ衣服を着ている。むろん 兜など被ってはいない。
「何もかも、お見通しだったわけですか」
彼の声は冷静だった。
微笑したサランナは、一度ケープの懐に収めた手を、優雅な所作で前にかざした。
その掌から床に落とされたものを見て、あさとは、悲鳴をあげそうになっていた。
血に染まった翡翠色の小鳥が、まるで玩具のような静けさで息絶えている。
判った。危険を察したラッセルは、いち早く鳥を飛ばしたのだ。それを、サランナが 。
ひどい なんて、ひどいことを。
「そう、お見通しだったの」
血のついた指に唇をあて、サランナはくすりと笑った。
「あなたの仲間はみんな捕らえたわ。あの場から上手く逃げたのはあなただけ。なんとかお姉様に連絡を取ろうとなさっていたみたいだけど……無駄だったみたいね」
ラッセルは無言だった。
眼差しは普段どおりで、場違いなほど落ち着いて見える。けれど 。
ラッセル。
あさとは声にならない叫びをあげた。
少しだけ、彼の呼吸が乱れている。どういう経路でここまで戻ってきたのかは判らない、が、おそらく最悪の事態を想定し、全速力で引き返してきたに違いない。
妹は、そんなラッセルを、ものめずらしそうに見つめ、両腕を優雅に腰に当てた。
「法王軍へは、私がご連絡差し上げたわ。お姉様が天摩宮に来られていますって、たった一言。……アシュラルも変わらない人ね。まさか法王自らお越しになられるなんて、思ってもみなかったけれど」
アシュラルが……。
あさとは、自分の両足が震え出すのを感じた。
やはりそうだった。やはり、あれは黒斗で、そしてアシュラル本人だった。
馬鹿。
悔しさで、涙が滲みそうになる。
馬鹿、考えなし、自分だって……人のこと、言えないじゃない!
アシュラルは囚われた。おそらく罠と知っての上で、単身、天摩宮へ向かったのに違いない。あさとのためだけでなく、きっと、この膠着した事態を打破するために。
「アシュラルもあなたと同じで、自分が死んでも代わりがいると思ったのかしら。双子って不思議ね、考える事まで一緒なのね」
サランナに挑発されても、ラッセルは答えない。疲れを滲ませてはいるものの、それでもやはり、彼は静かな表情を崩さなかった。
ラッセル……。
何を考えているのだろう。あさとでも判る。大変なことになってしまった、それだけは間違いない。ラッセルは用意周到だった、けれど、それよりもサランナの方がなお上手だったということだろう。きっと、それは 。
雅が……。
絶望が、急速に満ちていく。
雅がこの世界の意思なら、そして、サランナに力を貸しているなら、どんな小細工も、妹には通じないのかもしれない。
「この男を縛り上げて。優しい顔をして油断のならない男だから、しっかりとね」
後から階段を上がってきた木犀騎士二人が、ラッセルの両腕を後ろに回して、縄をかける。
サランナは、ゆっくりと、身動きのとれなくなった男の傍に歩み寄った。
「明日の開戦を控えて、大変なことになったわね。イヌルダの女皇、法王、そしてその間に産まれた子供、それから身代わりの法王様まで、みんな人質に取られているんですもの。一体法王軍は、この騒ぎをどう静めるつもりなのかしら」
勝ち誇った声、そして、あざけりを含んだ視線が、交互に二人に向けられる。
そうだ……。
あさとは唇を痛いほど噛み締め、ラッセルを見上げた。
ラッセルは今、何を考えているのだろう。何もかも私のせいだ。こんなに冷静な彼まで、今回は抜き差しないところまで追いこんでしまった。どうすれば どうすれば、この窮地を脱することができるのだろう。
「残念ながら」
けれど、ラッセルは眉ひとすじ動かさなかった。
「法王軍は、誰も騒がないでしょう。何故なら、女皇に子供は産まれてはいないのですから」
サランナの眉が、わずかに寄せられた。
「そして、隠遁中の女皇は、今、青州におられるのですから。 ここにいるのは、イヌルダの女皇ではありません。何ら身分を持たない、セナアサトという一人の女です」
あさとははっとして、顔を上げていた。道中に使った偽名、そうか、ラッセルはまだ憶えていてくれたんだ。
「ご不信であればご確認ください、青州シュバイツァに、確かに今、クシュリナ様はおいででございます」
「……法王様だけでなく、女皇の身代わりもいるというわけね」
わずかにつまらなそうな眼になったものの、妹は、さして興味のないような口調で呟く。
「更に言えば、アシュラル様もまた、法王軍の陣中に残っておられます。法王の衣と銀の兜を身に着けて」
「………」
ラッセルを見上げる女の目に、初めてはっきりとした苛立ちが浮かんだ。
「それは、どういう意味かしら。天摩宮に入られた法王様は、確かにアシュラル本人のように見えたけれど?」
その感情は、あさともまた、同じだった。
ラッセルの横顔は、薄く笑んだ。
「自軍に動揺を与える前に、アシュラル様は潔く身代わりとして死を選ばれるでしょう」
きっぱりとした口調だった。
「代役など、私でなくても、いくらでも代わりはいます。彼の仮面も、周囲をさえぎる親衛隊も、そのために用意されたものだからです。アシュラル様もまた、今となっては、代役の一人」
「…………」
「三鷹家さえ潰してしまえば、法王としての彼の役割もまた終わる。それが少々早まっただけのことです」
「クロウ、この男を黙らせて」
苛立ったように、サランナが口を挟んだ。
「つまり、ここで私たちが死んでも、この戦にはなんの影響もないということです。あとは 」
クロウの腕から伸びた刃が、ラッセルの頬すれすれをかすめ、背後の柱に突き刺さった。
微塵も動じないラッセルは、初めて、彼らしい穏やかな笑みを浮かべた。
「私にも、どうなるのかは判らない。最初からクシュリナ様を信じての、運任せの計画でした。あとは 奇跡を信じるしかありません」
ラッセル……。
それは、夢の言葉のような響きだった。真意だろうか、信じられない。私を信じている。 彼が……そんなことを、言ってくれるなんて。
「 薬を飲ませて」
サランナの、冷やかな声がした。
薬 。
あさとは、必死で首を振り、ラッセルの姿を追った。兵士の身体が視界を遮っているため、彼の顔を見ることができない。
やめて、ラッセルに、そんなものを飲ませないで!
が、混乱の中、別の騎士があさとの傍に歩み寄った。その手に、小さな杯が光っている。
はっと、息を引いていた。杯から立ち上る香りに、忌わしい記憶が蘇る。
「やめて……っ」
顔をそらそうとしたが、無理に背後から顎を押さえつけられた。
強引に嚥下させられ、苦しさのあまり、咳き込んだ。けれど、飲んだものを吐く事は出来なかった。
視界がゆがみ 意識がぼんやりと濁っていく。
「ラッセル……、その言葉、もう一度あなたと会えた時に、ぜひ聞かせてもらいたいものね」
そんな声を聞いたのが、意識を保っていた最後だった。
|
|