5
滴るほどに白々と輝く月が、道筋を照らし出していた。
あさとはケープを被りなおし、宿の裏口から外に出た。
月明かりが、いくら眩しくても、夜陰に乗じて外に出る者はそうはいない。今、このナイリュでは、忌獣の被害が急増しているのだ。
通りの扉は固く閉ざされ、中に住む人の気配すら感じさせないほど静かだった。
あさとは、人気の途絶えた通りを見つめた。
この先に、王都に通じる道がある。男の話を鵜呑みにするのは危険だと思ったが、他に安全な方法があるわけではない。
「待ちな、娘さん」
周囲を森に囲まれた薄暗い道中で、不意に背後から声がかけられた。
こういうことも 、あるいは、あるのかもしれないとは思っていた。
あさとは身構えて振り返った。
三人の男が、あさとのの背後に立っていた。その中の一人は、昨日の宿で別れた、髪の変色した背の低い男だ。
男たちは、にやにや笑いながら、ゆっくりと距離を詰めてきた。
「用意しているオアシがたんまりあるんだろ、それを俺たちに渡してもらおうか」
「………」
最初からそれが目的で、ここまで仲間を連れて来たということなのだろうか。
「王都に入れるというのは、嘘なのね」
「へっ、何にしても、今のあんたにゃ無縁の話さ」
「………」
あさとは無言で、懐にあった路銀を全て、男に渡した。これだけで済めばいいと思ったが、逆に済むとも思えなかった。
「今夜の宿は、もう引き払ってきたのかい」
別の男がそう言ってにじり寄ってきた。「俺たちのところへ来いよ。いい夢を見させてやるからさ」
「お前は高く売れそうだ。よくもまぁ、こんなところまで旅をしてこられたもんだ」
「色男の亭主とはぐれたのが、運の尽きだな」
あさとは後ずさり、急いでケープを脱ぎ払った。背に負った木刀を引き抜いて身構える。それは、カタリナ修道院から、あさとが唯一借り受けて、ここまで持ってきたものだった。
おいおい、木刀なんて、実戦では何の役にもたたないぞ。 ロイドは呆れていたが、長剣はあさとには重すぎて、どう頑張っても使いこなせない。それに……やはりあさとは、この世界で、誰の命も奪いたくなかった。
男たちは一瞬驚き、そしてすぐに笑い出した。
「おいおい、こりゃあ、なんの冗談だよ」
「そりゃあ、なんだ? 俺たちと遊んでくれるのか?」
無遠慮に延ばされた男の腕を、あさとは渾身の力で打った。
びしっと鋭い音がして、ぎゃっと男が悲鳴をあげる。
「てっ、てめぇ、何をしやがる」
背後に、跳ねるように後ずさり、あさとは、続けさまに、飛びかかる男の背を打った。払って、胴。防具さえつけない肉に食い込んだ棒は、鈍い反応をあさとの腕に返してきた。
その瞬間、あさとは恐ろしさにぞっとした。
人の肉体を破壊する音。ぐしゃりと、何かがつぶれるような感触。 。
「ぐ、っ、はっ」
呻き倒れた男一人を見て、他の二人が形相を変えて、抜刀した。
あさとは、木刀を捨てて、駆けだした。手も足も震えている。いくら木刀とはいえ、打ちどころが悪ければ致命打になる。判っていたとはいえ これ以上冷静に振る舞う自信がなかった。
森に駆けこむ。このまま、夜陰に乗じて逃げ切れればと思ったが、男二人の足の方が早かった。すぐにあさとは追い詰められ、懐にしまってあったアシュラルの剣を引き抜いた。
「なんだ、今度は玩具の剣か?」
「ほらほら、手が震えてるぜ、お嬢ちゃん」
「……近寄らないで」
手は、確かに震えていた。
男二人は、安物ながらも長剣を構えている。
片やこちらは短剣ひとつ、が、はるかに不利な条件下で、あさとを支配しているものは、殺される恐怖ではなく、殺してしまう恐怖だった。
脳裏に、昼間見た、少年のような騎士の死に顔が蘇る。この男たちを殺してしまえば、あさともまた、少年を屠った者と同類になる。 。
「来ないで!」
あさとは声を上げながら後ろに引いた。なんとか、このまま、威嚇しながら逃げたかった。
ここで彼らに捕らえられたら、なんのためにイヌルダを棄てて来たのか判らない。全てが無意味になってしまう。
殺せばいい、そんな声がどこかで聞こえた。殺してしまえ、ここはどうせ、現実の世界ではないのだから 。
無頼の男たちには、剣はただ振ればいい程度の心得しかないのか、ジュール相手に鍛錬を積んだあさとから見れば隙だらけだった。かわして、懐に飛び込んでしまえば、簡単に命を奪えるだろう。
が、 。
「来ないでっ」
長剣が威嚇するように迫ってくる。
震える手で、短剣を振った。しかし、それは力なく空を斬った。
できない。
あさとは観念した。
ここが、雅の造った仮想世界であったとしても、彼らは現実に存在している。生きて、愛して、きっと誰かに愛されている。 私にはできない、その絆を断ち切ることは。
が、その代償に、自分の身に起きることもまた、耐えられなかった。しかし迷う間もなく、あさとは組み伏せられていた。
「いやっ、離してっ」
草と泥の中、渾身の力でもがいた。
これもまた、 この世界で己に課せられた罰なのか。
雅の笑い声が、どこかで聞こえたような気がした。
それを打ち消すように、下卑た現実の笑い声が、静まりかえった森の中に響く。
「あんまり手を焼かせるなよ、娘さん」
「おい、服を脱がせて見ろ、まだ何か持っているかもしれないぞ」
あさとは全身の力で抗った。泥を掴み、男の顔に投げつけ、膝で腹のあたりを蹴りあげた。力で叶わないのは判っている。それでも、ここで足踏みしているわけにはいかない。
「大人しくしろってんだ!」
男の一人が、苛立ったように腕を振り上げた。 殴られる、そう思った刹那だった。
「 その方に触れるな」
はっとして顔を上げた。
まさか。
声に、確かな聞き覚えがあった。
それは、 絶対に、ここにいてはいけない人の声だった。
彼は月光を背にして立っていた。深くケープを被り、裾が風に舞っている。何も手にしていないが、静かな殺気が、影になった全身から滲みでている。
「なんだぁ? 貴様」
背の低い男が、振り返って凄みをきかせた。
「てめぇは同業者か? 悪いがこの女は俺たちの獲物だ、横取りする気なら、生かしちゃおけねぇぜ」
そう言って振りかぶった男の手に、光る刃が煌いている。
「ラッセル、危ないっ」
あさとは思わず叫んだ。
しかし、ラッセルは俊敏だった。翻ったケープの下から、閃く大刀が滑り出て、その切先が、男の喉元に突き付けられるのが 余りに早くて、あさとの目には見えないほどだった。
殺すの?
「斬らないで!」
咄嗟に叫んでいた。
「去れ」
それを聞き入れたのか、最初からそうするつもりだったのか、ラッセルは低く言った。いずれにせよ、すでに腰を抜かした男から、戦意はなくなっている。
「二度はないと思え」
「くそっ」
もう一人の男が舌打ちし、悔し紛れの罵声を漏らした。そして、腰を抜かし、呆けていた黄髪の男を抱えるようにして、闇の中に消えて行く。
ラッセルは視線を落とし、静かに剣を鞘に収めた。
もしかして。……
あさとはようやく気がついていた。
逃げていった男は、誰かが私のことを尾けていると言っていた、それは、もしかして 。
「……いつから……知ってたの」
彼の横顔が、少し怒っているように見えた。
「……下手な小細工に、あやうく見失うところでした」
ラッセルはそれだけ言うと、あさとが脱ぎ捨てたケープを拾い、泥を払った。
「どうぞ」
差し出されるケープ。
「………」
月明かりが、男を真正面から照らし出し、あさとは初めて、彼の顔を間近で見あげた。
ラッセル、だ……。
そして、琥珀。
最後にナイリュで別れてから、もう一年以上が立つ。髪が少し短くなった他は、殆ど以前と同じ相貌のまま、印象はひとつも変わらない。
暗い焔を抱いた瞳 アシュラルと同じ光を放つ眼差しが、まっすぐにあさとを見下ろしている。
きれいな鼻筋、薄く締まった唇。鋭い顎の線は、金羽宮であさとが見ていた死仮面のアシュラルと同じものだった。いや 。
あさとは複雑な思いになって、男から目を逸らした。
あれは、アシュラルではなく、ここにいる彼そのものだったのだ。
今思えば、当時の死仮面はわざと女皇を避けている風でもあった。いくらあさとでも、間近で彼を見て、そして語り合えば、少なからぬ疑念を抱いたに違いない。
でも、どうしてそれを、身代わりのことを ラッセルは私に打ち明けてはくれなかったのだろう。そして、離婚、それを切り出したのも、多分。
「……法王軍はサラマカンドに陣を構えているそうね」
アシュラルの顔を見なくなってから、どれだけの時が立つのだろう 。ラッセルに訊きながら、そんなことを考えていた。
「あなたがいないと、まずいことになるんじゃないの」
「何故?」
ラッセルは動ぜずに答えた。
「私は、法王軍には所属しておりません」
「……そう」
まだ死仮面を被る前のアシュラルと、金羽宮で最後に別れたのが、もう二年近く前になる。
あの幸せな朝、彼の寂しげな双眸を見たのが、最後だった。その半年後、再会した時には、すでに彼の顔半分は黒い布で覆われていた。
あさとはもう一度、ラッセルの顔を見つめた。
琥珀でもあり、アシュラルでもある その顔をじっと見つめた。
もし、もし目の前の男が今、死仮面を被り、その声までも低く似せてみせたら 。
その想像は、あさとの胸を重苦しく塞いだ。 あるいは間近で見ても、判らないかもしれない。それが、アシュラルなのか、ラッセルなのか。
「……では、今、サラマカンドで法王軍を指揮しているのは、一体誰なの」
ラッセルから目を逸らし、あさとは言った。自分は夫の顔を見分けることができないかもしれない その漠然とした不安が、気持ちを苛立たせていた。
しかし、男の返事は即座だった。
「無論、法王様です」
「嘘 」
「他には誰も勤まりません」
我慢していたものが、突然弾けた。
「もう嘘はたくさんよ、いいかげんにして、どうして私に、何も教えてくれなかったの?」
ラッセルの表情は動かなかった。
「アシュラルが病気で倒れたことも、あなたが身代わりを勤めていたことも、カヤノのことも 全部聞いたわ。どうしてそんな嘘をつくの? そんなに私が信じられないの?」
違う。
言いたいことはそんなことじゃないのに。
判っているのに、どうして 何を苛立っているんだろう。どうして素直になれないんだろう。
ラッセルは答えなかった。その手があさとの方に伸ばされたので、一瞬身体を強張らせたが、彼は手にしていたケープを広げ、肩に掛けてくれただけだった。
「………」
自分の中の猛々しいものが、急速に萎んでいく。
「ごめんなさい……」
この人は私を助けてくれたのだ。一年半前も、そして今も。
なのに、感情に任せて吐いた、子供じみた言動が恥ずかしい。
「参りましょう」
けれど、彼は、自分もケープを被りなおすと、あっさりときびすを返した。
「あの男は人買を生業にしています。先の宿から、ずっと陛下に目をつけていた。が、ただひとつ真実を申しました」
あさとは彼の背中を見つめた。肩も輪郭も、アシュラルのそれと酷似している。そして、……琥珀と。
「路銀さえ渡せば、この道から王都に入れます。 私もそうして、ここを通ってきたのですから」
彼は静かにそう言うと、先に立って歩き始めた。
「――ラッセル……?」
あさとは呟き、呆然とその横顔を見上げた。
「……私が何をするつもりなのか、判っているの」
「無論」
「ユーリとサランナに直接会いに行くつもりなのよ?」
「私もお供いたします」
あさとは息を呑んだ、彼の言葉が信じられなかった。
自分の選んだ道を 一番に非難し、否定するのは、きっと、誰よりもラッセルだろうと思っていたから。
「待って、ラッセル」
あさとは、先に行こうとする男の袖を掴んだ。
「私、国を捨てたの、あなたとの約束を破ったの、高貴なる者の義務を放棄したの」
「………」
「今の私は、あなたに護ってもらう資格も必要もないわ。批難されても仕方ないくらいなのよ」
「それでも私は、約束しました」
ラッセルは微かに視線を下げた。月光が、彼の髪を縁取り、煌かせた。
柔らかな髪が、風に揺れている。
「生涯背かず、身命に変えても、あなた様をお守りすると」
「………」
「それが、ご命令であれば、私は何処へなりと参りましょう」
それは……。
あさとは、その言葉の意味を胸の中で噛み締めた。
それは、もう何年も前 金羽宮の庭で、ラッセルとクシュリナが交わした約束だった。
一生よ、私が死ぬまで。
私が、先に死ぬことにならなければ。
あの日のクシュリナと同じように、あさとは込上げる感情を静かに受け入れた。
あの日と同じで。……
ラッセルは、今、私のために命を捨てると そう言ってくれているのだ。
「クシュリナ様」
ラッセルはゆっくりと顔を上げた。
彼が、自分のことを陛下でなく、クシュリナと呼んだのは、再会してから初めてのことだった。
ラッセル……。
あさとは、言葉を失っていた。その刹那、嬉しいというより苦しかった。
自分の胸が、不思議な動悸を打ちはじめている。
「アシュラルは今、本当に法王軍を率いて、サラマカンドの地に立っています」
「………」
「彼は、追い詰められています。……我が子を人質に取られ、生まれて初めて、引くことも攻めることもできずにいる」
思わず顔を上げていた。
「アシュラルは」
では、あの子を、自分の子と……?
ラッセルは目だけで、わずかに笑んだ。
「あなたの出奔の知らせが陣中に届いた。私に、あなたを護るよう命じたのは、誰でもない、アシュラルなのですよ」
本当に……?
本当に、あの人が、私を……?
「では、彼は、……アシュラルは、元気なのね?」
「小康を取り戻しておいでです。余り無理をさせることはできませんが」
「本当に……?」
「お会いになられれば、判ります」
「………」
彼に、会う。
あさとは途端に、自身の顔が曇るのを感じた。
この半年あまり、夫の顔を見分けられなかった自分に、彼が一番辛かった時に傍にいられなかった自分に、 果たして、妻として傍に戻る資格があるのだろうか。
「……彼には、あなたが必要です」
ラッセルは静かな口調のまま、言った。
あさとは唇を噛み、うつむき そして、わだかまりを振りきるように頷いた。 今は、迷っている場合ではない。全ては再会してからだ。
「うん、……わかった」
「では、参りましょう」
彼は穏やかにそう言うと、再び歩み始めた。
「 うん」
あさとはその背中を追った。
七年前、クシュリナは金羽宮の庭園を出る事は出来なかった。
けれど今、ラッセルと一緒にあさとが進んでいるのは、行けなかったその先だった。
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