「レイの花を知っているか」
「……え? いいえ」
 その日の、夕食の時だった。
 宿の飯屋で、何も手をつけずに、ぼんやりと空を見つめていたロイドが、はじめて問うように口を開いた。
 あさとは戸惑って、その顔を見上げている。
 彼の視線は、一点で凝固している。それは卓の上の、小さな造花に向けられていた。粘土のようなもので造られた、小さな、白い花である。
「薫州の北部に、冬だけに咲く珍しい花でね。……雪が少なくても多くても駄目なんだ。薫州では、幻の花と呼ばれている」
 その目に、初めて柔和なものが流れた。
「冬が来る度に、親父は薫州に戻っては花を探し、大切に大切に皇都に届けた。……あんたのお袋さんが好きだったんだよ」
「…………」
「俺の幼名は、レイというのさ」
     ロイド……。
 それは、知りあって始めて訊く、彼の肉声のような気がした。
「あんたも、噂くらいは耳にしたことはあるだろう。薫州公は、溺愛する息子に逃げられて変わってしまった。よりにもよって、その子が僧籍なんぞに入っちまったから、法王庁を憎むようになった」
「………」
「確かに、俺は溺愛されていた。ルシエが俺を憎むほどにね。    でも、親父が愛したのは俺じゃない。愛したのは俺の名前であり、……あんたのお袋さんとの思い出だ」
 あさとには、何も言えなかった。ここにもまた、愛することに    愛されることに飢えていた人たちがいる。
 何かを振り切るように、ロイドは軽く嘆息した。
「親父の頭には、俺もお袋もルシエもなかった。過去の思い出に心を奪われて、全てをただ一人愛した人に捧げ続けた。……ルシエは、優しくて寂しい子だ。親父に愛されたくて    だからこそ、同時に、親父を憎んだのかもしれないな」
 ルシエの寂しさに、サランナの孤独が重なった。
 ずっと不思議に思っていた。ルシエはどうして、サランナと共にいるのだろうと。
 ディアスは何も言わなかったが、ルシエもまた、サランナに    雅に同調している一人なのかもしれない。
「俺には、ルシエの気持ちがなんとなく判るよ。……あいつは、家を捨てた俺や親父に、復讐しようとしているのかもしれない」
 皇都を出て以来、ずっと頑なだったロイドの心が、今解けているような気がする。
「ロイドは、どうして家を出たの」
 あさとが問うと、ロイドは、しばらく考えるような目になった。
「十の年かな、結婚しようと約束した人がいたんだ」
「えっ、十で?」
「何言ってんだ、お前なんて、生まれてすぐにアシュラルと約束したんだろうが」
 たちまち、揶揄するような眼差しでねめつけられる。
 いや……それは、別に自分で決めたわけじゃ。
「十二の年に、黒血病で死んだ。ま、儚い初恋ってやつだ」
 肘をついて顎をささえ、淡々とロイドは続けた。あさとは言葉を失くしている。
「元気でおてんばで、口うるさい女だった。まだ、死ぬような段階じゃなかったんだがな。    発作が起きて、間が悪いことに、医者を呼びに出た父親が忌獣に襲われてね。朝、喉に血を詰まらせて、一人ぼっちで冷たくなってたよ。……母親は、もう何年も前に同じ病で死んでいたからな」
「…………」
「黒血病のことも、忌獣のことも、それまで俺には、別の世界の他人事のような話だった。それから、風の噂にディアス様のことを聞いて、うっかり師事したのが運の尽きさ。アシュラルみたいなやっかいな男と関わり合いになっちまった」
 ロイドはさばさばと肩をすくめた。
「ずっと、俺はディアス様が正しくて、親父が間違ってるんだと思ってた。……親父の頭には、皇室を護ることしかなかったからね。でも、頑迷な親父も寂しいルシエも、……結局は、俺がそうさたようなものだった。俺は、自分のしでかしたことの責任を取らなきゃいけない」
 カヤノは……。
 どうするの? そう訊こうとしたが、問いかけを遮るような横顔に、あさとは言葉を呑み込んでいた。
「俺は、生きてナイリュを出られるとは思っていない。でも    あんたは俺とは違う。絶対に生きて、皇都に帰らなきゃいけない」
「ロイド、あなたこそ、皇都に帰らないといけないわ」
 それには、ロイドは、おどけたように微笑するだけだった。
「さてと、そろそろ夜も更けたかな」
 今宵は、月が輝いている。
 ロイドは一人、王都に入る方法を探るために、その界隈まで赴くことになっていた。
「明日中には戻る。いいか、俺が戻るまで、絶対にここを動くなよ」
 立ち上がったその背に、あさとは声を掛けていた。
「カヤノのことを忘れないで。あなたまで、過去に囚われて、今を見過ごしてはいけないわ」
     ロイドは皇都に帰らなければならない。だけど、私は……もう。
 ロイドには言っていない。あさとは、たとえ生き延びても、もう、イヌルダへ戻るつもりはなかった。
 女皇クシュリナ、という名は棄てた。
 皇都の港でも、ナイリュの港でも、あさとは、自らの本名を名乗った。
 瀬名あさとと名乗り、そして、別れた子供を捜すために、ナイリュの親戚を訪ねるのだと    旅の目的を説明した。
 アシュラルが、二度と皇都に戻ることができないのなら    いや、それより、この地が旅の終わりの場所のような、そんな気がしてならなかった。
 ロイドと別れ、部屋に戻ったあさとは、鏡の前でケープを脱ぎ捨てた。
 そこには、アシュラルやラッセルでさえ、それとは気がつかないかもしれない。漆黒に染めた短い黒髪、男のようにほっそりと痩せた、一人の女の姿があった。
 華奢な男性といった方が、いい例えかもしれない。
 出産前の惨たる経験と、それに続く心労が、あさとをひどく痩せさせてしまい、女らしい柔らかさや丸みを、根こそぎ奪ってしまっていた。
 みずみずしい柔肌は船旅で日にさらされ、黒く染めた髪が、面差しから甘さを拭い去っている。 
 私だ   
 宿の鏡で自分の姿を見て、あさとは思った。
 これが、本当の私の姿だ。
 自分の心と身体が、本当の意味でひとつになった。
 あさとは今、本当に、自分を取り戻していた。
 
 
                  4
 
 
 二日たっても、ロイドは宿に戻ってこなかった。
     何か……あったんだわ。
 さすがに、そう思わざるを得なかった。が、この二日、一人で天摩宮が見渡せる場所まで行ってみたところでは、格別の異変があったようには思えない。
「娘さん、連れの男なら探しても無駄だぜ」
 翌日、支度を終えたあさとが宿を出ようとすると、同宿していた男が、訳知り顔でそっと囁いてきた。
     何者……?
 年は三十過ぎくらいだろうか、ひどく背の低い男だった。
 あさとは彼を見下ろすような格好になった。
 見上げる細い眼が、極端に垂れ下がっている、そして、髪の一部が脱色したように黄色い、特徴的な容貌をしている。
「ロイドのことを知っているの?」
「この界隈じゃ、他所者は目立つからね。あんたら皇都から来たんだろう? 皇都者は匂いが違う。すぐに判るよ」
 値踏みでもされるような眼差しでねめつけられる。
 あさとは、警戒を強め、男から距離を開けた。「それで?」
「あの色男、医術師なんだってな」
「…………」
「戦が始まってから、名だたる医術師はみな逃げた。邑に残ったわずかな医術師も、法王軍が連れてっちまって、今、ナイリュにゃ、まともな医術師がいないんだ。あんたの連れは、昔この辺りで病院をやってたろう。顔見知りに捕まったのが運のつきだ。まぁ、命までは取られちゃないだろうが」
「ロイドはどこに行ったの?」
 思わず、急くように聞いている。
「どこぞの邑に監禁されてる。俺が、探してやってきてもいいぜ」
 にやにやと下卑た笑いを浮かべ、男が距離を詰めてくる。
「………」
 ロイドが、捕まった。    が、相手は三鷹家や無頼の輩ではないらしい。ロイドは、ああみえて腕がたつ。一人で活路を開くこともできたはずだ。そうしないのは、    いや、できないのは、ロイド自身が、病に倒れた人たちを放っておけなかったからではないだろうか?
 短い時間に、あさとは自身の中で結論を出した。
 逆に、思い詰めているロイドにはいい機会なのかもしれない。自分の生きる理由を、問い直すという意味では。
「いいえ、結構よ」
 一人で、天摩宮に行く。それは、最初から決めていたことでもあった。
 きびすを返した背に、声が掛けられた。
「娘さん、子供を捜してるんだって?」
「………」
 あさとは黙っていた。自分の身の上を、宿の者に語った覚えはない。
「さっきも言った。あんた、この界隈じゃ目立つからね。綺麗だし金払いもいい。前の宿からあんたを尾けてる奴がいる……気をつけな」
「私を……?」
 さすがに息を詰め、自分の周囲の気配をうかがった。
     本当だろうか……。
 あさとは逡巡した。少なくともこの宿に入るまで、尾けてくる者はいなかったはずだ。
「王都に、どうやって入るつもりなんだい」
 男の目が、何か言いたそうに見上げている。その中に、どこか卑屈な、物乞いでもするような色が滲んでいた。
「……何か知っているの」
 あさとが問うと、男は無言でにやり、と笑った。
 彼の要求は明らかで、    あさともまた、黙って、懐の中からいくらかの路銀を渡した。
「この先を、森づたいにまっすぐ行きな、そうすれば、タマオという宿場街にでる」
 男はすぐに金を数えると、早口で言った。
「その宿場から王都に入る道は、まだ法王軍に落ちていない。三鷹家が封鎖しているが、夜になると、金さえ渡せば、誰でも入れてくれるって話だぜ」
 忌獣に気を付けな。
 男は最後にそう言った。あさとはわずかに頭を下げ、一旦、借りていた部屋に戻った。
     私を尾けている? ……もしや三鷹家に、見つかったのだろうか……?
 あさと自身は、そんな気配を感じたことは一度もない。けれど、念のため、人目がないのを見計って、窓から外へ抜け出した。
 
 
               
 
 
 王都サラマカンド周辺は、終戦前の混沌にふさわしく、混迷の態を露わにしていた。 
 三鷹家の木犀軍が、隊列を組んで行進していたと思えば、別の通りでは、法王旗を掲げた騎馬隊とも行き合った。
 乱闘の後も生々しい商店街、放り出された家具。城下には、いたるところに法王軍と木犀軍のこぜりあいの跡が残されている。
     この界隈は、まだ、攻防の最中なんだ。
 あさとはケープを取り払った。
 法王軍の支配が及んでいないのなら、自分の顔が見咎められる可能性は少ないだろう。むしろ、顔を隠している方が不自然に思われる。
「………」
 何度か周囲を窺ったが、後をつけてくる者の気配はないようだった。
 街を出歩く民の姿は、殆んどない。時折すれ違うのは、子供を捜している母親、夫を探している妻    戦乱の犠牲になったのか、背に荷物を背負って彷徨っている家族連れ   
 わずか先の眼前には、高い城壁がそびえている。それが、天摩宮第一門の城壁で、今、界隈をうろつく彼らは、中に入り損ねたのか、それとも難を逃れたのか、いずれにしても、戦乱の最中、行く場所を失くしてしまった者たちばかりのようだった。
 あの門の中に辿りつくには、まず、封鎖されている王都に入らなければならない。
     早く、この戦を終わらせないと……。
 悲惨な光景をやり過ごしながら、あさとは自分に言い聞かせた。
 そして、しばらく足を進め、たどり着いた街外れで    あさとは、騎士の亡骸を見つけた。
「………」
 それは法王軍の騎士だった。畑沿いの泥黙りに、顔をうずめるようにして動かなくなっている。
 時折行きすぎる人々は、遺骸に目を向けようともしていない。この辺りでは、さして珍しい光景ではないのだ   
     ……。
 あさとは眉をひそめ、死体の傍に歩み寄った。
 騎士は、泥の中に顔を埋め、うつぶせの状態でこときれているようだった。
 知っている顔かもしれない。そう思い、傍にかがみこみ、顔を検めようとした。首筋に体温が残っている。はっとした。まだ、温かい    息があるのかもしれない。
 急いで騎士の顔を泥濘から抱き起こすと、その顔は、まだ少年のように若かった。
 すでに死者の色が、若い肌を青白く浸食している。
「…………」
 あさとはケープの裾で、顔についた泥を丹念に拭ってやった。
 やりきれなかった。彼はまだ、死にたくはなかったろう、苦悶に満ちた目は、見開かれたままになっている。
     これが、戦の真実なんだ。
 立ち上がりながら、あさとは思った。
     綺麗事ですまされないことだとしても……この現実からも、眼を逸らしてはいけないんだ……。
 殺した側にも正義がある。殺すか、殺されるか。その土壇場の判断を、いずれあさとも強いられる時がくるのかもしれない。その時    その時私は。
 懐の奥には、アシュラルの短剣が収めてある。まだ、あさとは、それを一度も本来の目的で使ったことがない。
 生と死の狭間に立たされた時。
 その時、私は……どんな判断をするのだろうか。
 誰の命も奪いたくないと言う綺麗事を通して、果たして、ユーリやサランナ、そして囚われた我が子を救いだせるのだろうか。
 ひどく重い、憂鬱な思いを抱いたまま、しばらくあさとは、森づたいに歩き続けた。
 気付けば、汗が額を濡らしている。少し休もうか    そう思った時、初めて、木々の間に、同じ大きさの木札が立てられていることに気がついた。
「………?」
 高さはあさとの背丈程度、木の棒の先端に、四角い板が括りつけてある。気にも留めていなかったが、思い返せば、同じようなものは、ここまでの道中にも、いくつかあった。
 不審に思い、その内の一つに近寄ってみると、木札の表面には、紙の残骸が千切れ滓となってまとわりついている。
     なんだろう。
 少し先まであるいて見たが、その札は、森の入り口、畑、街路    場所を選ばず、至るところに立てられているようだった。どの板にも、やはり、紙の残骸が残っている。
     ここに書かれていた何かを、誰かが破っているんだ。
 そう思い、城下の方角からやってきた商人風の男に、その内容を尋ねてみた。
 男は青い顔をして後ずさった。
「あんた、この札のことは、喋らない方が身の為だぜ」
「どういうこと……?」
「……法王が、この札を立てた奴も、読んだ奴も、かたっぱしから連れて行ってしまうからさ。    法王の秘密を知った者は殺されるってみんな噂してるよ」
「………」
 秘密……?
 ラッセルが   
 そんな惨いことを、本当に彼自身の命令でやらせているのだろうか。
 信じたくなかった。しかし今、ナイリュの民を支配しているのは、紛れもなく法王軍への恐怖なのだ。ここまでの道中で、あさともそれは理解していた。
 半信半疑のまま、破られていない札を求め、その界隈をさまよい歩いた。
 そしてようやく、宿の男に教えられたタマオの宿場街    その入り口で、まだ立てられたばかりの、真新しい木札を見つけた。
     何が書いてあるの……?
 あさとは木札の前に歩み寄った。
『法王アシュラルは、貧民出の大悪人』
 そこには大きく、そう記されていた。
「これ……」
 思わず呟き、そのまま言葉を失っていた。
『大魔王アシュラルを信じることなかれ、彼は貧しい身分を隠し、謀略と暴力で今の地位を手に入れた厭わしき男』
『予言を改悪し、本来女皇の夫となるべき三鷹ミシェル様を退け、自らがその座についたならずもの』
 そして、面々と、アシュラルの出自のことが書きたててあった。父親が薬物中毒であったこと、母親が売春婦だったことまで、詳しく    そして面白おかしく書かれていた。
 さらに、彼が今の地位に辿りつくまでに、前女皇アデラを毒殺し、ハシェミ公を廃人にし、あまつさえ妹姫を愛妾にしていたことまでが、卑猥な文章で綴られている。このままでは、イヌルダはシーニュの怒りを買い、いずれ滅びるだろう、と   
     何、これ。
 あさとは、自らの頬が怒りで赤くなるのを感じた。
 さらに、文章は続いていた。
『女王クシュリナを暴力で手にいれ、ようやく子供を産ませたのはいいが、産まれた子供は皇室にあるまじき男児だった。呪われた子は、神が我々ナイリュ王家に預けたもうた。その証拠に、みよ、アシュラルは王の城を決して攻撃できないであろう』
 後は、ナイリュの国民に、決起をうながす文が延々と続いている。
 あさとの心は、その前の一文を見た瞬間に凍りついていた。
     私の子は、天摩宮にいる。
 やはりそうなのだ。
 私とアシュラルの子供が、    この先の壁の中にいるのだ。
 判った途端、いてもたってもいられなくなった。とにかく一刻も早く、ユーリに会わなければいけない。サランナに会わなければいけない。
 夕刻、無人の宿屋でわずかな仮眠をとり、あさとは歯噛みをするような思いで夜を待った。
 この夜に    月が出ていることを祈りながら。
 
 
 
 
 
 

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