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 二重の塔からなる壮麗な寺院は、すでに激しい火柱を上げて炎上していた。轟音と共に、屋根から、黒い煙が天に向けて巻き上がっている。
    ジュール!」
 馬から飛び降りたあさとは叫んだ。
 焔をあげながら朽ちていく建物。その中から、次々と焼け爛れた僧兵たちが、逃げ出してくる。
 出るなり倒れ伏し、動かない者。塔の上から飛び降りたのか、芝の上に折り重なって倒れている屍骸。
 水を求めてうめく声、火傷の痛みに喘ぐ悲鳴。
 周辺はさながら地獄だった。
「ジュール、どこなの?!」
 すでに最初の混乱は収まったのか、駆けつけた黒竜騎士たちが、塔内から生存者を運び出すべく、必死の救援を続けている最中だった。
 先についているはずの、ジュールの姿は何処にもいない。
「コンスタンティノ様は、まだ見つからないのか!」
「探せ! まだ、別棟が残っている!」
 喧騒の中、激しい怒声が飛び交っている。
     ジュール、……コンスタンティノ様……。
 不安と焦燥で、胸がつぶれそうだった。
 せっかく掴みかけた一筋の希望    それが、それが、こんな形で消えてしまうのだろうか。
 その時だった。
「ロイド!」
 混沌の中から、聞き覚えのある声がした。
「ロイド    ロイド、何処にいるの?」
     カヤノ?
 カヤノの声だ。間違いない。
 あさとは声のする方に駆けた。信じられなかった。デイアスが    彼女の父親が危篤だったはずなのに、どうしてカヤノが、今、ここに   
 カヤノの姿はすぐに見つかった。
 彼女は寺院の正面口の近くで、黒竜騎士に背後から抱きかかえられるようにして、もがいていた。
「離してっ    行かせて、お願い、行かせて!」
 吹き上げる焔が、彼女の白い肌を赤く染めている。
 その眼差し、声、あさとは、理解した。もう、疑う余地はなかった。
 カヤノは    。 
     クシュリナ?」
 涙に濡れ、半分正気を失ったような女の目が、ふと、あさとの方に向けられる。
 拘束する騎士の腕を振り解き、カヤノはあさとに飛びついてきた。
「クシュリナ……、どうしよう、ロイドが、ロイドが」
「カヤノ、一体」
 細い肩が、無残なほど震えている。こんなに取り乱したカヤノを見たのは初めてだ。
「灰狼軍の目的は、最初から、このコンフェデ寺院だったのよ」
 震えながら、カヤノは言った。
「法王領のあちこちを攻撃して回って、騒ぎを起こして、その隙に、ここへ   
 カヤノはそこで、言葉を詰まらせ、顔を背ける。
「………」
 あさとは、自分の身体も震え出すのを感じていた。その意味はすぐに判った。 カヤノの言う事が本当なら、灰狼軍の目的はひとつしかない。
 カヤノの横顔は、気の毒なほど震えていた。
「お父様は、なんとか持ち直したの。法王領を襲ったのが灰狼軍だと聞いた途端、ロイドが馬に乗って行ってしまって、……どうしよう、クシュリナ、ロイドにもしものことがあったら」
 その時、背後で口々に叫ぶ声がした。
      コンスタンティノ様!」
「しっかりなさってください!」
 あさとも、そしてカヤノも、弾かれたように振り返った。
 黒煙に包まれた正面口。両肩を二人の男に支えられた    コンスタンティノ大僧正が、よろめきながら、出てくるところだった。
 緑がかった黒髪は、無残に焼け落ち、白い法衣は、肩口が赤く染まっている。
 前法王    そしてアシュラルの養父。かつて金羽宮で見た優雅な美貌は、黒煙で黒く汚れ、あとかたもない。
 息を飲むような姿だったが、その怜悧な双眸だけは、確かな光を宿していた。
 あさとはようやく気がついた。その大僧正を、両脇から抱えているのは   
     ロイド、ジュール……。
 思わず座り込みそうになっていた。
 男二人の衣服も黒く焼け焦げ、髪もまばらに焼け落ちている。凄惨な死の現場から、彼らはコンスタンティノ大僧正を救い出し、脱出してきたのだ   
「ロイド……」
 カヤノの眼に、新しい涙が浮かぶ。
 大僧正の身体は、すぐに駆けつけた僧兵たちに抱きかかえられた。
    カヤノ?」
 驚きも顕わに振り返る医術師の目に、いつもの眼鏡はかかっていない。無言で駆け寄り、しっかりと抱き合う二人の姿を見て、あさとは    何も言えなくなっていた。
「……陛下」
 うめくような声が、背中から聞こえた。
 コンスタンティノ大僧正が、周囲の者たちに抱き支えられながら、それでも、あさとの方に歩み寄ろうとしている。
「……お守り…できませんでした」
 その言葉だけで、全てが判った。
「彼らは、あれを、……法王軍の動きを封じるための、人質にするつもりでしょう。……殺しは、しません、ご安心を」
 肩を染める鮮血は、火傷ではない。おそらく、剣を持って戦ったのだろう。この    滅多に法王領から出てこない、寡黙な男が。
「……私の…子供なのね」
 あさとの問いに、呼吸さえ苦しげな男は、かすかに笑んだ。
「ハシェミに、約束をさせられました。あなた様が……自らお出でになられた時、その時が全てを明かす時だと」
「…………」
「あれは親を持たぬ憐れな子。……ゆえに、私が命名いたしました。……おそれおおいことですが、亡き……あなた様の、お母上の幼名をいただき」
 母の    死んだ、母の幼名。
「レオナ、と」
     大僧正様!」
 そこで、肩を落としてしまった男を、周囲の者たちが取り囲んだ。
「あちらで、医術師が待機している、お連れしろ」
 自らも満身創痍でありながら、その場を取り仕切っていたのはジュールだった。
 彼は、一瞬あさとを見て、けれどすぐに視線を外した。
 あさとは    ただ、立ち尽くしていた。
 レオナ。
 それが    子供の名前。
     予言は……まことだった……)
 ディアスの驚き、そして彼の言葉の意味   
 あれは    あの子は。
 私の……子供だったんだ   
 
 
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「クシュリナ!」
 自分の名を呼ぶ声で、あさとはようやく我に返って、振り向いた。
 ロイドだった。傍らには、眼を赤くはらしたカヤノが寄り添っている。
 医術師の目には、本気の怒りが滲んでいた。
「馬鹿野郎っ、こんな危険な所に一人で来るなんて、いったい何を考えてるんだ、お前は!」
 あさとは、何も言えなかった。
 ロイドは、真っ先にここへ駆けつけたという    それは、彼も、……知っていたということなのだろうか。
 どうして    どうして、私だけが。
 気持ちがざわめいて、呼吸すら出来ないほどだった。
「クシュリナ……あんた、知ってしまったのね」
 カヤノは呟き、問い掛けるように、ロイドを見上げた。
 ロイドはその視線を受け止め、言葉を繋げた。
「……ハシェミ公がお亡くなりになったそうだな。……公ならご存知であったと思う。    そうだ、近年、皇室に産まれた男児は、すべからく僧籍に入ることになっている」
「ロイド……」
 あさとはすがるような視線を二人に向けた。ロイドだけではない、カヤノでさえ知っていたのか、というショックもあった。
「お前の子供は確かに生きている。男子だった。    男子を産む女皇は、昔から災いをもたらす、と烙印を押されてしまう。それは、お前が女皇でいられなくなるくらい、大変なことなんだ」
「………」
「母であれば、息子は可愛い、生きている事を知ってしまえば、皇位継承争いの禍根になる。……だから」
「それで……コンスタンティノ大僧正様の所に……」
 ロイドはうなずいた。
「綺麗な黒の目、そして艶やかな黒髪だった」
 あさとは、呆然と動きを止めた。
 そのことに関しては、無意識に触れまいとしていた、考えまいとしていた。
 ロイドは、真剣な目で、はっきりと言った。
「あれは間違いなく、アシュラルの子供だ、クシュリナ。あれほど父親の面影を濃く映した    美しく、理知に飛んだ瞳をした赤ん坊を、俺は知らない」
     あ………。
 あさとは膝をついた。
 足に力が入らなかった。全ての緊張が解け、ただ、ぼんやりと空を見つめた。
 アシュラルの、    信じていた、間違いないと思っていた。けれど疑ったこともあった、自分が信じられなくなる時もあった    でも。
     アシュラル……。
 あなたの子供だった。
 けれど、安堵に満たされるその一方で、喜びがかすむほどの懸念がある。
「アシュラルは……子供を見たのね」
 うつむいたままであさとは言った。
 子供が生まれて半年以上経つ。その間、アシュラルは、一度もあさとを振り返ろうとしなかった。ごくたまに、金羽宮で顔を合わせる機会があっても、眼さえ合わそうとしてくれなかった。
「見ても……それでも」
 言葉が途切れた。それでも    きっと信じていないのだ、アシュラルは。心を閉ざしたままなのだ   
「………見てはいない」
 頭上から返ってきた声は、苦しげな抑揚を帯びていた。
 その言葉の意味が判らず、あさとは、目の前の男を見上げている。
     どういう、意味……?
「クシュリナ、奴は、……見ることが出来なかったんだ」
 ロイドは、沈鬱な口調で繰り返した。
 その意味が    おぼろげに、輪郭を現わしていく。
「クシュリナ、お前の出産直前に、あいつは戦場に旅立った。最後にお前のところにも寄ったはずだ……覚えていないか?」
     ………。
「そして、ナイリュに向かう船の中で、奴は倒れた」
     ………
「クシュリナ……」
 何時の間にか、ロイドの傍を離れていたカヤノが、あさとの肩にすがった。彼女の瞳は、新しい涙で濡れていた。
「ずっと言えなくて……ごめんね。あんたにこれ以上、嘘つくのが辛くて、私……だから、金羽宮に戻れなかった」
「カヤノ」
「……アシュラルはね……本当はね」
 言葉を詰まらせ、カヤノは両手で顔を覆った。
「カヤノ、……俺が言おう」
 ロイドがその肩を抱いて、自分の方に寄せた。
 あさとが見上げたロイドの顔は険しかった。嫌な予感がした。それは、アシュラルと知り合って以来、ずっとあさとの心によどんでいたものでもあった。
「クシュリナ、アシュラルは、産まれた時から血の病を持っていた。お前も薄々は気がついていたはずだ。黒血病を発症しているんだ」
「…………」
 あさとの中で、あの夜の雷鳴の音が閃いた。
「去年から、奴は頻繁に意識を失うようになった。……まだ、二十四だ。そうなるには早すぎる。しかし、奴は急ぎすぎた。無理を重ねすぎたんだ」
 何……。
 何の、話……?
 あさとは眩暈をこらえ、震える指で地面を掴んだ。それでも、肩も、腕もどうしようもなく震えていた。
「黒血病特有の発作や昏睡を、奴は蛇薬を使って止めていた。……確かに、効果は恐ろしいほどだった。が、それが身体を根底から蝕んでいったのだろう。    ナイリュと開戦する頃には、もう……アシュラルの病は、戦場に立つこともできないほどに進行していたんだよ」
「ククシュリナ……」
 カヤノが、涙を拭いながら、口を挟んだ。
「ジュールやディアス様はね、最初からそれを見越して、あらかじめ、彼の代役を決めていたのよ」
     彼の……代役……?
 あさとはその意味を考えた。怖いような思いで考えた。
「クシュリナ、……ラッセルが姿を消したのは、まさにその日のためなんだ。今、アシュラルが死ねば、法王軍、諸侯、そして他国の結束は崩れる。奴が倒れたら、誰かが    奴の身代わりとなって戦い続けなければならない」
 驚愕して顔を上げた。
 その意味することが、ようやく理解できていた。
「……いつから、なの」
 あさとは呟いた。いつからだろう、いつからあの死仮面の下には。   
 ラッセルがいたのだろうか。
 出産直前に、アシュラルがナイリュに遠征したことは知っていた。けれど、その時に、アシュラルが枕元に来たことは   
    あ……」
 ようやく思い出していた。
 いや、ずっとあれは、夢なのだと思っていた。
     あれは。……
 唇に、冷たいキスの感触がした。
 あれは、夢ではなかった。
"    クシュリナ、君を……"
 あれは、本当にアシュラルだった。アシュラルの声だった。
"    愛している……"
 アシュラル。
 涙が溢れ、視界の輪郭を奪っていく。
     ……アシュラル、アシュラル、アシュラル。
 あさとは口を押さえ、声を出さずに慟哭した。
 彼に会いたい、今すぐにでも会いたい。
 会って、言いたい。抱き締めたい。
 あなたの子供を産んだのだと    伝えたい。
「アシュラルは………生きているの?」
 泣きながら、あさとは震える顔を上げた。ロイドはわずかに眉根を寄せた。
「……生きているなら、蒙真半島にいるはずだ。ナイリュで、味方にも知らせずアシュラルを匿う場所はそこにしかなかった。正直、このまま目覚めることはないだろうと、俺は思った。でも    詳しくは言えないが、全ての望みが断たれたわけじゃない」
 その声は頼りなかった。
「……アシュラル……」
     手遅れなのだろうか。もう、何をしても手の届かないところへ、彼は行ってしまったのだろうか。
 うなだれるあさとを叱咤するように、ロイドは厳しい口調になった。
「お前たちの子供を攫ったのは、三鷹ミシェルに間違いない。奴は、ずっと産まれた子供の行方を探っていた。    戦況が不利になったので、子供を人質にして法王軍の動揺を狙うつもりだろう。急いで金羽宮に戻ろう、大僧正が襲われて、みんなが衝撃を受けている」
     ………。
 あさとはゆっくりと首を横に振った。
「クシュリナ……?」
「私、戻らない……もう、金羽宮には戻らない」
     行く。
「ナイリュへ行く。……ユーリが子供を攫ったのなら、あの子はきっと、ナイリュに向かっている。私が自分で、あの子を取り戻す」
 ユーリを、そしてサランナを説得できるのは   
 私しかいない。
 そして。
「アシュラルに子供を見せてあげたい、……私、まだ、彼に何も言っていない」
 ようやく判ったような気がした。ディアスの言葉、その意味が、そして自分がなすべきことが。
「ナイリュへ、行く」
 私自身の絡んだ想いを解放するために。
 クシュリナの心を解放するために。
 ユーリと、そしてサランナと、対決するために。
 立ち上がり、背中を向けたあさとに向って、カヤノが叫んだ。
「クシュリナ、今の法王は、ラッセルなのよ!」
 あさとは振り返って、カヤノを見つめた。
 カヤノはロイドを愛している。二人の姿を見れば、それはもう、紛れもない事実だった。いや、最初から、何かが不自然だとは思っていた。
「……今、あんたはラッセルの妻なのよ」
 カヤノの声は震えていた。
「私は……血は繋がらなくてもラッセルの妹よ。ずっと本気で恋をしていたつもりだったけど、青州まで彼を追いかけて、それが錯覚だってようやく判った。    私は本当に、この人の妹なんだって」
「どうして」
 あさとは言いかけて口をつぐんだ。
 あんな、嘘を   
 ラッセルと結婚していたなんて、そんな嘘を。
 けれど、その答えを、今聞いてはいけないような気がした。
「ラッセルが、何のために忌獣討伐隊に志願したのか、何のために忌獣の謎を探っていたのか、お前さんには、何も判っていなかったんだな」
 ロイドが、怒ったような声で呟いた。
「なんの……ため…?」
「ロイド、もう、やめて」
 まだ何か言いかけようとする男を、カヤノが止めた。
「クシュリナ、アシュラルはあんたをラッセルに託したのよ。    彼はもう、二度とイヌルダへは戻らないわ。彼の性格を考えたら、病に倒れた自分の姿を、絶対に好きな人には見せないと思うから    。私にはもう、どうしていいか判らない。どの道を選択するのかは、クシュリナの気持ちひとつなのよ」
 
 
 
 
 夜明けが、青白く道を照らしだしている。
「ロイドを、絶対に死なせないで……」
 最後に、カヤノに強く抱きしめられた。
「ロイドはね、フォード公の息子なのよ。あの人は子供の頃、父親を捨てるような形で家を出たの。……そのことを彼はずっと悔いていて、戦争が始まってからは、なんとかフォード公を止めようと、無茶ばかりしていたの」
 何一つ愛する女に約束を残さなかったロイドは、最初から一人でナイリュに戻ることを決めていたようだった。
 カタリナ修道院で旅の支度を整え、後はもう振り返らなかった。
 あさとは、夜明けの港に向けて馬を走らせた。
 とにかく、ナイリュへ行く。
 この混沌の果てに、何が待っているのかわからない   
 それでも。
 全ての決着をつけなければならない。
       この長かった旅を終わらせるためにも。
 
 
 
 
 
 
 
 

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