10
二重の塔からなる壮麗な寺院は、すでに激しい火柱を上げて炎上していた。轟音と共に、屋根から、黒い煙が天に向けて巻き上がっている。
「 ジュール!」
馬から飛び降りたあさとは叫んだ。
焔をあげながら朽ちていく建物。その中から、次々と焼け爛れた僧兵たちが、逃げ出してくる。
出るなり倒れ伏し、動かない者。塔の上から飛び降りたのか、芝の上に折り重なって倒れている屍骸。
水を求めてうめく声、火傷の痛みに喘ぐ悲鳴。
周辺はさながら地獄だった。
「ジュール、どこなの?!」
すでに最初の混乱は収まったのか、駆けつけた黒竜騎士たちが、塔内から生存者を運び出すべく、必死の救援を続けている最中だった。
先についているはずの、ジュールの姿は何処にもいない。
「コンスタンティノ様は、まだ見つからないのか!」
「探せ! まだ、別棟が残っている!」
喧騒の中、激しい怒声が飛び交っている。
ジュール、……コンスタンティノ様……。
不安と焦燥で、胸がつぶれそうだった。
せっかく掴みかけた一筋の希望 それが、それが、こんな形で消えてしまうのだろうか。
その時だった。
「ロイド!」
混沌の中から、聞き覚えのある声がした。
「ロイド ロイド、何処にいるの?」
カヤノ?
カヤノの声だ。間違いない。
あさとは声のする方に駆けた。信じられなかった。デイアスが 彼女の父親が危篤だったはずなのに、どうしてカヤノが、今、ここに 。
カヤノの姿はすぐに見つかった。
彼女は寺院の正面口の近くで、黒竜騎士に背後から抱きかかえられるようにして、もがいていた。
「離してっ 行かせて、お願い、行かせて!」
吹き上げる焔が、彼女の白い肌を赤く染めている。
その眼差し、声、あさとは、理解した。もう、疑う余地はなかった。
カヤノは 。
「 クシュリナ?」
涙に濡れ、半分正気を失ったような女の目が、ふと、あさとの方に向けられる。
拘束する騎士の腕を振り解き、カヤノはあさとに飛びついてきた。
「クシュリナ……、どうしよう、ロイドが、ロイドが」
「カヤノ、一体」
細い肩が、無残なほど震えている。こんなに取り乱したカヤノを見たのは初めてだ。
「灰狼軍の目的は、最初から、このコンフェデ寺院だったのよ」
震えながら、カヤノは言った。
「法王領のあちこちを攻撃して回って、騒ぎを起こして、その隙に、ここへ 」
カヤノはそこで、言葉を詰まらせ、顔を背ける。
「………」
あさとは、自分の身体も震え出すのを感じていた。その意味はすぐに判った。 カヤノの言う事が本当なら、灰狼軍の目的はひとつしかない。
カヤノの横顔は、気の毒なほど震えていた。
「お父様は、なんとか持ち直したの。法王領を襲ったのが灰狼軍だと聞いた途端、ロイドが馬に乗って行ってしまって、……どうしよう、クシュリナ、ロイドにもしものことがあったら」
その時、背後で口々に叫ぶ声がした。
「 コンスタンティノ様!」
「しっかりなさってください!」
あさとも、そしてカヤノも、弾かれたように振り返った。
黒煙に包まれた正面口。両肩を二人の男に支えられた コンスタンティノ大僧正が、よろめきながら、出てくるところだった。
緑がかった黒髪は、無残に焼け落ち、白い法衣は、肩口が赤く染まっている。
前法王 そしてアシュラルの養父。かつて金羽宮で見た優雅な美貌は、黒煙で黒く汚れ、あとかたもない。
息を飲むような姿だったが、その怜悧な双眸だけは、確かな光を宿していた。
あさとはようやく気がついた。その大僧正を、両脇から抱えているのは 。
ロイド、ジュール……。
思わず座り込みそうになっていた。
男二人の衣服も黒く焼け焦げ、髪もまばらに焼け落ちている。凄惨な死の現場から、彼らはコンスタンティノ大僧正を救い出し、脱出してきたのだ 。
「ロイド……」
カヤノの眼に、新しい涙が浮かぶ。
大僧正の身体は、すぐに駆けつけた僧兵たちに抱きかかえられた。
「 カヤノ?」
驚きも顕わに振り返る医術師の目に、いつもの眼鏡はかかっていない。無言で駆け寄り、しっかりと抱き合う二人の姿を見て、あさとは 何も言えなくなっていた。
「……陛下」
うめくような声が、背中から聞こえた。
コンスタンティノ大僧正が、周囲の者たちに抱き支えられながら、それでも、あさとの方に歩み寄ろうとしている。
「……お守り…できませんでした」
その言葉だけで、全てが判った。
「彼らは、あれを、……法王軍の動きを封じるための、人質にするつもりでしょう。……殺しは、しません、ご安心を」
肩を染める鮮血は、火傷ではない。おそらく、剣を持って戦ったのだろう。この 滅多に法王領から出てこない、寡黙な男が。
「……私の…子供なのね」
あさとの問いに、呼吸さえ苦しげな男は、かすかに笑んだ。
「ハシェミに、約束をさせられました。あなた様が……自らお出でになられた時、その時が全てを明かす時だと」
「…………」
「あれは親を持たぬ憐れな子。……ゆえに、私が命名いたしました。……おそれおおいことですが、亡き……あなた様の、お母上の幼名をいただき」
母の 死んだ、母の幼名。
「レオナ、と」
「 大僧正様!」
そこで、肩を落としてしまった男を、周囲の者たちが取り囲んだ。
「あちらで、医術師が待機している、お連れしろ」
自らも満身創痍でありながら、その場を取り仕切っていたのはジュールだった。
彼は、一瞬あさとを見て、けれどすぐに視線を外した。
あさとは ただ、立ち尽くしていた。
レオナ。
それが 子供の名前。
( 予言は……まことだった……)
ディアスの驚き、そして彼の言葉の意味 。
あれは あの子は。
私の……子供だったんだ 。
11
「クシュリナ!」
自分の名を呼ぶ声で、あさとはようやく我に返って、振り向いた。
ロイドだった。傍らには、眼を赤くはらしたカヤノが寄り添っている。
医術師の目には、本気の怒りが滲んでいた。
「馬鹿野郎っ、こんな危険な所に一人で来るなんて、いったい何を考えてるんだ、お前は!」
あさとは、何も言えなかった。
ロイドは、真っ先にここへ駆けつけたという それは、彼も、……知っていたということなのだろうか。
どうして どうして、私だけが。
気持ちがざわめいて、呼吸すら出来ないほどだった。
「クシュリナ……あんた、知ってしまったのね」
カヤノは呟き、問い掛けるように、ロイドを見上げた。
ロイドはその視線を受け止め、言葉を繋げた。
「……ハシェミ公がお亡くなりになったそうだな。……公ならご存知であったと思う。 そうだ、近年、皇室に産まれた男児は、すべからく僧籍に入ることになっている」
「ロイド……」
あさとはすがるような視線を二人に向けた。ロイドだけではない、カヤノでさえ知っていたのか、というショックもあった。
「お前の子供は確かに生きている。男子だった。 男子を産む女皇は、昔から災いをもたらす、と烙印を押されてしまう。それは、お前が女皇でいられなくなるくらい、大変なことなんだ」
「………」
「母であれば、息子は可愛い、生きている事を知ってしまえば、皇位継承争いの禍根になる。……だから」
「それで……コンスタンティノ大僧正様の所に……」
ロイドはうなずいた。
「綺麗な黒の目、そして艶やかな黒髪だった」
あさとは、呆然と動きを止めた。
そのことに関しては、無意識に触れまいとしていた、考えまいとしていた。
ロイドは、真剣な目で、はっきりと言った。
「あれは間違いなく、アシュラルの子供だ、クシュリナ。あれほど父親の面影を濃く映した 美しく、理知に飛んだ瞳をした赤ん坊を、俺は知らない」
あ………。
あさとは膝をついた。
足に力が入らなかった。全ての緊張が解け、ただ、ぼんやりと空を見つめた。
アシュラルの、 信じていた、間違いないと思っていた。けれど疑ったこともあった、自分が信じられなくなる時もあった でも。
アシュラル……。
あなたの子供だった。
けれど、安堵に満たされるその一方で、喜びがかすむほどの懸念がある。
「アシュラルは……子供を見たのね」
うつむいたままであさとは言った。
子供が生まれて半年以上経つ。その間、アシュラルは、一度もあさとを振り返ろうとしなかった。ごくたまに、金羽宮で顔を合わせる機会があっても、眼さえ合わそうとしてくれなかった。
「見ても……それでも」
言葉が途切れた。それでも きっと信じていないのだ、アシュラルは。心を閉ざしたままなのだ 。
「………見てはいない」
頭上から返ってきた声は、苦しげな抑揚を帯びていた。
その言葉の意味が判らず、あさとは、目の前の男を見上げている。
どういう、意味……?
「クシュリナ、奴は、……見ることが出来なかったんだ」
ロイドは、沈鬱な口調で繰り返した。
その意味が おぼろげに、輪郭を現わしていく。
「クシュリナ、お前の出産直前に、あいつは戦場に旅立った。最後にお前のところにも寄ったはずだ……覚えていないか?」
………。
「そして、ナイリュに向かう船の中で、奴は倒れた」
………
「クシュリナ……」
何時の間にか、ロイドの傍を離れていたカヤノが、あさとの肩にすがった。彼女の瞳は、新しい涙で濡れていた。
「ずっと言えなくて……ごめんね。あんたにこれ以上、嘘つくのが辛くて、私……だから、金羽宮に戻れなかった」
「カヤノ」
「……アシュラルはね……本当はね」
言葉を詰まらせ、カヤノは両手で顔を覆った。
「カヤノ、……俺が言おう」
ロイドがその肩を抱いて、自分の方に寄せた。
あさとが見上げたロイドの顔は険しかった。嫌な予感がした。それは、アシュラルと知り合って以来、ずっとあさとの心によどんでいたものでもあった。
「クシュリナ、アシュラルは、産まれた時から血の病を持っていた。お前も薄々は気がついていたはずだ。黒血病を発症しているんだ」
「…………」
あさとの中で、あの夜の雷鳴の音が閃いた。
「去年から、奴は頻繁に意識を失うようになった。……まだ、二十四だ。そうなるには早すぎる。しかし、奴は急ぎすぎた。無理を重ねすぎたんだ」
何……。
何の、話……?
あさとは眩暈をこらえ、震える指で地面を掴んだ。それでも、肩も、腕もどうしようもなく震えていた。
「黒血病特有の発作や昏睡を、奴は蛇薬を使って止めていた。……確かに、効果は恐ろしいほどだった。が、それが身体を根底から蝕んでいったのだろう。 ナイリュと開戦する頃には、もう……アシュラルの病は、戦場に立つこともできないほどに進行していたんだよ」
「ククシュリナ……」
カヤノが、涙を拭いながら、口を挟んだ。
「ジュールやディアス様はね、最初からそれを見越して、あらかじめ、彼の代役を決めていたのよ」
彼の……代役……?
あさとはその意味を考えた。怖いような思いで考えた。
「クシュリナ、……ラッセルが姿を消したのは、まさにその日のためなんだ。今、アシュラルが死ねば、法王軍、諸侯、そして他国の結束は崩れる。奴が倒れたら、誰かが 奴の身代わりとなって戦い続けなければならない」
驚愕して顔を上げた。
その意味することが、ようやく理解できていた。
「……いつから、なの」
あさとは呟いた。いつからだろう、いつからあの死仮面の下には。 。
ラッセルがいたのだろうか。
出産直前に、アシュラルがナイリュに遠征したことは知っていた。けれど、その時に、アシュラルが枕元に来たことは 。
「 あ……」
ようやく思い出していた。
いや、ずっとあれは、夢なのだと思っていた。
あれは。……
唇に、冷たいキスの感触がした。
あれは、夢ではなかった。
" クシュリナ、君を……"
あれは、本当にアシュラルだった。アシュラルの声だった。
" 愛している……"
アシュラル。
涙が溢れ、視界の輪郭を奪っていく。
……アシュラル、アシュラル、アシュラル。
あさとは口を押さえ、声を出さずに慟哭した。
彼に会いたい、今すぐにでも会いたい。
会って、言いたい。抱き締めたい。
あなたの子供を産んだのだと 伝えたい。
「アシュラルは………生きているの?」
泣きながら、あさとは震える顔を上げた。ロイドはわずかに眉根を寄せた。
「……生きているなら、蒙真半島にいるはずだ。ナイリュで、味方にも知らせずアシュラルを匿う場所はそこにしかなかった。正直、このまま目覚めることはないだろうと、俺は思った。でも 詳しくは言えないが、全ての望みが断たれたわけじゃない」
その声は頼りなかった。
「……アシュラル……」
手遅れなのだろうか。もう、何をしても手の届かないところへ、彼は行ってしまったのだろうか。
うなだれるあさとを叱咤するように、ロイドは厳しい口調になった。
「お前たちの子供を攫ったのは、三鷹ミシェルに間違いない。奴は、ずっと産まれた子供の行方を探っていた。 戦況が不利になったので、子供を人質にして法王軍の動揺を狙うつもりだろう。急いで金羽宮に戻ろう、大僧正が襲われて、みんなが衝撃を受けている」
………。
あさとはゆっくりと首を横に振った。
「クシュリナ……?」
「私、戻らない……もう、金羽宮には戻らない」
行く。
「ナイリュへ行く。……ユーリが子供を攫ったのなら、あの子はきっと、ナイリュに向かっている。私が自分で、あの子を取り戻す」
ユーリを、そしてサランナを説得できるのは 。
私しかいない。
そして。
「アシュラルに子供を見せてあげたい、……私、まだ、彼に何も言っていない」
ようやく判ったような気がした。ディアスの言葉、その意味が、そして自分がなすべきことが。
「ナイリュへ、行く」
私自身の絡んだ想いを解放するために。
クシュリナの心を解放するために。
ユーリと、そしてサランナと、対決するために。
立ち上がり、背中を向けたあさとに向って、カヤノが叫んだ。
「クシュリナ、今の法王は、ラッセルなのよ!」
あさとは振り返って、カヤノを見つめた。
カヤノはロイドを愛している。二人の姿を見れば、それはもう、紛れもない事実だった。いや、最初から、何かが不自然だとは思っていた。
「……今、あんたはラッセルの妻なのよ」
カヤノの声は震えていた。
「私は……血は繋がらなくてもラッセルの妹よ。ずっと本気で恋をしていたつもりだったけど、青州まで彼を追いかけて、それが錯覚だってようやく判った。 私は本当に、この人の妹なんだって」
「どうして」
あさとは言いかけて口をつぐんだ。
あんな、嘘を 。
ラッセルと結婚していたなんて、そんな嘘を。
けれど、その答えを、今聞いてはいけないような気がした。
「ラッセルが、何のために忌獣討伐隊に志願したのか、何のために忌獣の謎を探っていたのか、お前さんには、何も判っていなかったんだな」
ロイドが、怒ったような声で呟いた。
「なんの……ため…?」
「ロイド、もう、やめて」
まだ何か言いかけようとする男を、カヤノが止めた。
「クシュリナ、アシュラルはあんたをラッセルに託したのよ。 彼はもう、二度とイヌルダへは戻らないわ。彼の性格を考えたら、病に倒れた自分の姿を、絶対に好きな人には見せないと思うから 。私にはもう、どうしていいか判らない。どの道を選択するのかは、クシュリナの気持ちひとつなのよ」
夜明けが、青白く道を照らしだしている。
「ロイドを、絶対に死なせないで……」
最後に、カヤノに強く抱きしめられた。
「ロイドはね、フォード公の息子なのよ。あの人は子供の頃、父親を捨てるような形で家を出たの。……そのことを彼はずっと悔いていて、戦争が始まってからは、なんとかフォード公を止めようと、無茶ばかりしていたの」
何一つ愛する女に約束を残さなかったロイドは、最初から一人でナイリュに戻ることを決めていたようだった。
カタリナ修道院で旅の支度を整え、後はもう振り返らなかった。
あさとは、夜明けの港に向けて馬を走らせた。
とにかく、ナイリュへ行く。
この混沌の果てに、何が待っているのかわからない 。
それでも。
全ての決着をつけなければならない。
この長かった旅を終わらせるためにも。
|
|