お父様!」
 あさとは父の病床に膝をついた。枕元に立っている保科ガイは、すでに目を赤く潤ませている。
 ハシェミは細い呼吸を繰り返していたが、視線はしっかりとしていて、ゆっくりと、枕もとの娘を仰ぎ見た。
     お父様。
 あさとは息を飲んでいた。眼の焦点が合っている。正気が戻ったと聞かされても、それでも半信半疑だった。でも間違いない、今、父は   
「クシュリナ……」
 かすれた声は、二年近くぶりに聴く、懐かしい父親の声だった。
「……お父様   
 思わず、うわずった声を出していた。どれだけ、    どれだけ、この一瞬を待っていたことだろう。もう諦めかけていた。もう、二度と、父と言葉を交わすことはないと思っていたのに。
 涙を浮かべて見下ろすあさとの頬に、ハシェミの痩せた指がそっと触れた。
「ようやく、……お前と、話すことができそうだ……」
「………」
 たまらず、涙が両目から溢れ、頬を伝う。父の顔を見た時、あさとははっきりと自覚していた。父は今、命の火を燃やし尽くそうとしている。
     これが……最後、なんだ……。
 クシュリナの父。彼女が誰よりも愛した父親。かつては    父の命令こそが、クシュリナの全てだった。
 それは同時に、今のあさとの、父に対する感情でもあった。
 ハシェミは何度も愛しそうに娘の髪をなで、苦し気に笑んだ。
「……今まで、すまなかった……」
 あさとが首を横に振ると、ハシェミはわずかに苦笑した。
「……お前は、優しい子だ。けれど、私は    やはり、お前に謝らなければならないだろう」
「……なにを、ですか?」
 あさとは、父の手を握りしめた。
「お前を女皇にしなければならなかった、お前とアシュラルを、どうしても結婚させなければならなかった、……私は、     お前に、無理ばかりを強いてきた」
「……そんな」
     そんな、そんなこと。
 あさとは首を横に振った。そんな理由で、父を恨んだ事など一度もない。
「……私は長くはない。クシュリナ、最後に、……どうしても、お前に伝えておかねばならぬことがある」
 呼吸が、わずかに乱れている。
 あさとはさらに強く手を握った。あとどのくらい生きていてもらえるのか、例えそれが一秒でも    長く生きられるものなら、無理はしてほしくない。
 ハシェミは静かに娘を見上げた。
「……クシュリナ、お前が産んだ子供のことだ」
「………」
 はっと、顔が強張っていた。
     父は、知っているのだろうか。
 あれから、娘が結婚し、出産して    その子が。……
 あさとの顔色で判ったのか、ハシェミの目が優しくなった。
「私は聞いているだけだった。……話すことはできない、でも、お前が枕もとで語ってくれた話は、全て理解していたつもりだ」
「……私の、話を……?」
 父は小さくうなずいた。
「……聞きなさい、クシュリナ。シーニュの血流を最も重んじるこの国は、長らく女皇を絶対のものとしてあがめてきた。女皇が産むのは必ず女で、男子は誕生しない。それが神話の時代から続いていた事実だと、……それがイヌルダを護るシーニュの意思だと……誰もが思っていた。けれど、違う」
「………」
 知っている    それは、ジュールから聞かされた。
「男子は産まれた。過去に、何度も、何度も生まれた。    そして、神話を護るため、生まれてすぐに、闇に葬られた」
    聞いています、それは……」
 あさとは自分の唇が震え出すのを感じた。
「あの子は……アシュラルが」
 子供のことを思うと、どうしても    アシュラルのことが許せなくなる。憎しみと憤りだけで、自分の気持ちが塞がれてしまう。
 その思いを察したのか、ハシェミは静かに首を横に振った。
「クシュリナ、アシュラルが決めたことではない。それがこの皇室の忌まわしき伝統なのだ。けれど、産まれた男子が全て抹殺された時代は過去のものだ。コンスタンティノ大僧正は……そう、彼もまた、自らその宿命を背負って産まれた子供だった。彼は……お前のおじにあたるのだよ、クシュリナ」
     あ……。
 ようやくあさとは、父が何を言いたいのか、理解した。
「あの方が、ご自身の息子だと、あの方の母である女皇は想像さえおできにならなかったろう。母の愛は時に冷静な判断を狂わせる。……私の言うことが判るね、クシュリナ」
     では……。
 眼が覚めるような思いで    あさとは初めて、闇の中、わずかに差し込む光を感じた。
 ではもしかして、    私が産んだ子供は。
「そして、もう一人、……コンスタンティノ大僧正の兄にあたる方がおられる、それが   
 ハシェミはそこで、苦しそうに咳き込んだ。
「それが、千賀屋ディアス様なのだ」
     千賀屋デイアス。
 あさとは、今日別れたばかりの彼の相貌を思い出した。そうだ    ようやくあさとは思い出した。彼は、死んだ義母のアデラによく似ているのだ、その目元が、そして、喋った時の口元の印象が。
「……不幸にして産まれた男子は、死産ということで、密かに僧籍に入れられる。真実は女皇の夫と法王だけに受け継がれる。……それがここ最近のやり方なのだ。クシュリナ、だからお前の子供も、生きているのだと思う。まだ、希望を捨ててはならない」
 そこでハシェミは、最後の息を吐くように笑んだ。
「……ディアス様は優れた男だ……クシュリナ、私は、彼にこそ、この国の皇位についてほしかった。もう、神話の時代は終わったのだ。……この忌まわしい因習は、お前の代で終わりにしなさい」
「お父様……」
「お前ならそれができる。アシュラルと一緒なら、きっと」
 あさとは父の手を握った、堪えようとしても、もう涙は止まらなかった。
 父は、意思が通じない間でも、自分の話を全て聞き、理解してくれていた。そして……最後の力を振り絞って、娘の心を救ってくれようとしている。
     お父様……。
 あさとの中で、何かが、ゆっくりとほどけていった。
 それは、父の呪縛だった。<クシュリナ>が勝手にイメージし、自分を縛り上げていた戒めだった。
 愛されている。
 あさとは感じた。
 自分は、この父に愛されている    この国の女皇としてではなく、一人の娘として。
「クシュリナ……最後に、私の頼みを聞いて欲しい……サランナの、ことだ」
 ハシェミは眼を閉じ、苦しそうに呼吸をした。実際、その声は、もう聞き取るのがやっとだった。
「あれは……恐ろしい娘だ。天使のような顔をして、子供のころからマリスの邪教に手を染めていた。ありとあらゆる毒薬、麻薬を調合し、それを社交界にばら撒いていた」
     サランナ……。
 あさとは唇を噛んで、ハシェミの手を握りしめた。
 それは、あさと自身が身を持って知った事実でもあった。
「……ヴェルツ公爵もまた、サランナに操られ、思惑どおりに動いていたにすぎない。……私にも、あれが何を考え、何を求めていたかよくは判らない    けれど、多分」
 ハシェミの瞳が、険しく歪んだ。
「あれは、愛情に飢えていたのだ、痛いほどに飢えていた。私はあれを、自分の子供として見てはいなかった。    そうだ、実際サランナは、私とアデラの娘ではない。あれは……アデラと、別の男の間に生まれた娘なのだ」
 あさとは眼を見開いて、息を詰めた。    そんな、……そんな、まさか。
「サランナも、自分が私の子供でないことは知っていたはずだ。あの子をあのような悪魔に育ててしまったのはアデラだからね。……そう、サランナという存在そのものが、アデラの復讐であり、私への罰だったのだ。アデラと私は一度も契りを交わしたことがない。私は、…………本当に、お前の母親を愛していたのだよ………クシュリナ」
 ハシェミの閉じた目から涙が伝った。
 その涙を拭いもせずに、父は続けた。
「だからこそ、お前を愛し、同時にお前を憎みもした。お前も、私の感情の底にあるものを、きっと察していたのだろうね」
「お父様」
 それ以上、父の口から言わせたくなかった。が、握りしめた娘の手をハシェミは優しく握り返した。
「が……それは、決してお前が思うような理由ではないのだ、クシュリナ。……妻も私も、予言の運命を受け入れ、覚悟の上でお前を産んだ。私が……それでもなお、妻と生き写しのお前を見るのを、時に辛く、時に苦しく感じたのは   
 私が……お母様の命を奪ってしまったから、ではない……?
 戸惑うあさとを、父は染み入るような眼差しで見つめた。
「……お前の第一騎士を覚えているかな」
 ラッセル   
 あさとは、息を飲んでいた。
「妻にも、お前と同じ年の頃、凛々しく……忠実な第一騎士がついていた。これも因果の報いだろうか。婚約を交わした私を疎み、あれは己の第一騎士を愛したのだ。お前は確かに私の子だ。なれど妻は    最後まで、命がけで己を護った第一騎士を愛していた」
 それは……、その方は。
「その方は、まだ、生きておいでなのですか」
 ある予感を覚えながら、動揺を堪えてあさとは訊いた。ハシェミは目を閉じ、ゆっくりと頷いた。
「生きている。そしてお前を、いつも……実の子以上に気にかけておられた。名を言う必要もあるまい。お前にももう判っているはずだ。あやつがコンスタンティノ家を憎むのは、    様々な理由があるが、ひとつには予言を理由に、妻に無理に子を産ませたのだと思いこんでいるからなのだ」
「…………」
 その方の    その方のお名前は……。
(実のところ、青州公の御子息よりも、お身体がご丈夫ではないクシュリナ様のほうが心配でした)
(皇都に戻られて二年、そろそろ社交界にもお馴れになられましたかな)
 父にも似た、染み入るような優しい眼差し。
 彼もまた、今は憎しみに突き動かされているのかもしれない。いや、憎しみというより、忘れがたき過去の思い出に。
「サランナの……話に戻そう」
 ハシェミは、気持を奮い立たせるように言葉を繋いだ。
「アデラには、即位前、長らく青州の地に遊学していた時期があった。お前と同じだ。    当時の青州公はナイリュ三鷹家と親交が厚くてね。おそらくその時に、アデラはマリス教に手を染めるようになってしまったのだろう。……それもあるいは、私の罪だったのかもしれないが」
 そこまで言い、遠い過去を悔いるような眼差しで、父は感情を鎮めるように唇を結んだ。
 アデラという人は、父と結婚する前から    あるいは少女時代から、父を愛していたのかもしれないと、あさとは思った。
 ハシェミは    それを知りつつ、結婚してもなお、最後までアデラを受け入れなかったのだろう。だからアデラは父を、そして娘のクシュリナを憎んだのか。愛が深かったからこそ、憎しみも深かったのか。
 一度も判り会えなかった義母が抱いていたであろう寂しさが、初めてあさとの胸を打った。
「アデラは、己の全てを実の娘に注ぎ続けた。それが……サランナを間違った方向に歪めてしまった。いや、アデラでさえ、サランナを本当の意味で愛してはいなかった……そう、子供の頃から、サランナは本当にひとりぼっちだったのだ」
     サランナ……。
「いつも泣いていた。飢えるほど、誰かに愛されることを求めていた。……姉であるお前にわずかでも負けてはならぬと躾けられ、背けば恐ろしい折檻を受けた。あの子はいつも怯えていた。いつも、誰かの助けを求めていた。本当に    ……本当に、可哀想な子供だったのだ」
 サランナ……。
 涙が溢れて、頬を伝った。
 あさとの中で、サランナと雅の面影が重なって一つになる。
 サランナ、    私は、あなたを救うことができるのだろうか。
「クシュリナ……だから私は、サランナがどうしても憎めない……」
 多分、父は知っているのだろう。自分の身体を蝕んだものの正体を。それでも    それでも、サランナを許すと、この父は言っているのだ。
 あさとは涙を払い、父の手を強く握った。
「私に、……何ができますか」
 父は微笑した。
「助けてやってくれるか……お前の妹を」
 あさとはうなずいた。あれほど非道い目にあった今でも    それでも、本当の意味で、サランナを憎むことはできなかった。ただ、悲しいだけだった。理解できるものなら、理解したい。分かり合えるものなら、分かり合いたい。
 そして、     救えるものなら、救いたい。
 彼女が、雅の意思のままに動いているのなら    なおさらに。
「サランナに……伝えてくれ。あの子には、最初からずっと、愛してくれた者がいたことを、ずっと……の子の、傍には……」
 囁くような声になった。
 あさとは父の口元に耳を寄せた。
 父は最後までなんとか言いきると、ようやく笑った。
 そして、    静かに目を閉じた。 
 
 
             
 
 
 父のオルドを出たあさとは、外の景色を見て、涙を凍りつかせていた。
 青い空に、幾筋もの煙が立ち昇っている。
     これは……なに?
 北    シーニュの森の向こう側。あさとが、逃げてきた法王領のある方角である。空には、至る所に煙の筋が尾を引いている。
 胸がざわめくような嫌な予感がした。
     なにが起きているの?
 こんな風景を初めて見た。まるで、目の前で、戦争が起きているようだ。
 階下の園庭を、血相を変えた黒竜騎士たちが、慌しく駆けて行くのが見えた。オルド間の境界は全て解放され、騎馬隊が群れをなして行進している。女たちの悲鳴と、男の怒声が、どこかから聞こえた。ここだけではない、金羽宮全体が、混乱状態にも似た喧騒に包まれている。
「クシュリナ様!」
 廊下を走る荒々しい足音と共に、ジュールが息を切らして駆けて来た。
「よかった……、ご不無事に、お戻りになられたのですね」
 すでに武具に身を包んだ男の額に、焦燥の汗が浮いている。
「一体、なんの騒ぎなの?」
「灰狼軍が、法王領に攻め入ったのでございます」
 衝撃で、息を引いていた。灰狼軍    フォード様が……。
「ご安心を、被害は少なく、敵はすでに遁走したとのことでございます」
 あさとを励ますように、ジュールは続けた。
「私は今から、黒竜隊を率いて被災状況の確認に向かいます。クシュリナ様は、決して金羽宮から出られないでください。灰狼軍が、いつ皇都に侵攻してこないとも限りませんゆえ」
「フォード様なの?」
 それは、行方をくらましているフォード公の仕業なのだろうか。
「わかりません。そもそも、何を目的にきゃつらが法王領に攻撃をしかけたのか   
 ジュールの眉が翳っている。
 アシュラルが法王になって初めて、法王領が侵攻を許した。この時勢にあって、それがいかに重大なことか、あさとにも察しがつく。
 が、もうひとつ、あさとには気がかりな懸念があった。シーニュの森で聞いた地響き、そして爆発のような音だ。
「ジュール様!」
 慌ただしい声が、いきなりジュールの背後から聞こえた。
「どうした」
「コ、コンフィデ寺院に、灰狼軍が」
 さっとその刹那、ジュールの顔色が目に見えて蒼白になった。
 ジュールの前に膝をついた伝令は、息を切らせながら言葉を繋ぐ。
「いったん遁走した敵が、混乱する法王軍の隙をついて舞い戻り、たちまち寺院は、焔に包まれ   
 何故かジュールの横顔は、死者のように動かないままだった。
「お、大勢の死傷者が出ております。その中で、コンスタンティノ大僧正様の行方もようとして知れず、今、法王庁は混乱の極みにございます!」
「………ばかな…」
 はじめて、ジュールの唇がうめくような呟きをもらした。
「……ジュール?」
 男の目は、険しい形相を帯びたまま、じっと一点を睨んでいる。
    コンスタンティノ様は……」
 その呟きを漏れ訊いた刹那、あさとにも、全ての理由が理解できていた。
「……そういうことか」
 ようやく、満面に血色をたぎらせた男はうめくような声で言った。「それが、目的だったのか」
「ジュール」
「クシュリナ様は、出られてはいけません!」
 言うなり、ジュールは背を向けて駆け出した。
「ジュール!」
 大きな背は、すぐに回廊の向こうに消えていく。
「…………」
 あさともまた、わずかの躊躇いもなく駆け出していた。誰に何を言われようが、それがどれだけ危険であろうが、これだけは   
「クシュリナ様?」
「お待ちください、危険でございます!」
 追いすがる侍従たちを振り切って、厩まで一気に駆け抜けた。
「誰か!女皇陛下をお止めしろ!」
「外は危険だ、門を閉めろ」
 声が迫る。ウテナの小屋までは、たどり着けそうも無い。あさとは一番手直な馬場に繋いであった馬に飛び乗った。
    女皇陛下!」
 混乱を極めていた大門は、あっさりと疾走する馬と女を通してくれた。
     ジュールは、最初からヒントをくれていたんだ。
 シーニュの森が見えてくる。
 天を衝く黒い煙が、森の向こうに広がっている。
 煙の下に、コンフェデ寺院がある。
 そこに    私の子供がいる。
 
 
 
 
 
 
 

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