6
クシュリナの……身体、に……。
「どうして、私が?」
「それは、私には判りません。最初に申し上げました。私に、その理由を説明することはできないと」
「でも、どうして?……どうしてそれが、クシュリナなの……?」
あさとは、唇を震わせた。
あさと自身、ずっと不思議に思っていた。己が転生した身体が、ダーラではなく、他の誰でもなく、何故 クシュリナだったのか。
「……クシュリナ様が、……意思と、非常に近い存在だからであろうと思います」
それは彼自身の推測なのか、ディアスは、迷うような口調で続けた。
「………」
「意思の生まれ変わりなのか、生まれる前の姿なのか、それは私にはわかりません。けれど この世界を作ったシーニュと意思がひとつのものであるのなら、シーニュの血を引くクシュリナ様は、間違いなく、意思と繋がりをもっておられます。ゆえに、媒体になられた……それは、私の推論にこざいますが」
「………」
「ただ、ひとつ言えるのは、今、クシュリナ様の心は死んでいる。……死んだまま、あなたの意識の下で眠り続けておられる。これも 予め定められていた運命なのか、<声>に導かれて私が選んだ獅子の手によって精神的に殺されてしまった」
「………」
アシュラルのことだ 。
あさとは、眩暈を感じ、よろめきそうになるのを、かろうじて耐えた。
「クシュリナ様の閉ざされた心の底には、古い……想像もできないほど太古の記憶が、解放されないまま残されております。 それがシーニュの記憶なのか、クシュリナ様自身の夢なのかは判りません。が、その記憶は、無意識化でずっと姫様に影響を与え続けてきた。幼い姫様の心を、深いところで蝕み続けていたのです」
クシュリナの 見る、夢……?
それは、意味がよく判らなかった。
「クシュリナ様の記憶の底に眠る、悲しみ、怒り、絶望 それがまた、意思に強い影響を及ぼしている。 二つの魂はこの世界そのものでありながら、全く別の身体に宿って生きている。互いに影響を受け合いながら、同時に生き続けているのです」
「同時……に」
クシュリナと 意思、言いかえれば、クシュリナと雅……が?
「つまり、クシュリナ様を救うこと。それが同時に、意思を救い、この世界を救うことになるのです」
力強い声を聞きながら、ようやく、あさとは思い出していた。
あの悪夢の夜、この世界に来る直前、突然現れた謎の少年。
レオナと名乗った少年は、こう言っていた。雅に向かって。
( どうしてあなたに、キジュウを操れる力があるのか、わからなかった)
( でも、判った、あなたは……)
「………」
雅が、忌獣を呼ぶことができたのは……そもそも、忌獣を生み出したのは。
雅 だったからなんだ……。
そして。
あさとは混乱しそうになりながら、必死に頭を整理しようとした。
雅が、この世界を造った それは、やはり信じられない。そんな儚いもので支えられている世界など、有り得ない、信じたくない。
けれど、彼女の思念は、確かにこの世界に影響を及ぼしている。それだけは間違いない。いつか聞いた雅の声、あれは確かに、自分の中の声というより、世界の意思そのものという感じがしたから。
でも、でもどうやって、それを解き放ったらいいのだろうか。雅の心を 分裂したという意思を。
「あさと様」
ディアスの声に、わずかではあるが焦燥が滲んでいた。
「あなたが予言通りの事をなしとげられた時、きっと世界は救われるでしょう。予言とは、すなわち未来の<声>残した道標。それが、獅子の子を産む事に尽きるのか、その先にある何かを意味しているのか……それは、私にも、そして、今の<声>にも判りません」
その先にある何か。
あさとは、ディアスの言葉の意味を噛みしめた。
「……だからこそ、私は、アシュラルという男の才能を信じました。この時代、あの男のような天才が生まれ、それが 獅子であったことが、何かの意味を持つと信じて。ゆえに私は、コンスタンティノ様の信頼を裏切ったのです」
「待って」あさとは、遮っていた。
「アシュラルは、本当に予言の子なの?」
「いかにも」
「でも でも」
「この世界を護るイシのことを、ご存知であられますか」
重々しい口調で、ディアスは続けた。
意思 石? 言葉の意味が判らず、あさとはただ瞬きをしている。
「それは、天に還ったシーニュが残した心臓だと言われております。シーニュ亡き後、その心臓が世界を青の月の干渉から護っている。 そのように言い伝えられているのです」
「それは、どこにあるの?」
心臓。
シーニュの心臓。
何かの暗喩だろうが、そんな伝承を耳にしたのは初めてだ。
「……私も見たことはございません。法王庁に残された伝承が真なら、二千年の昔、マリスが滅びたと言われる地に心臓は封じられているといわれています」
「……マリスが……滅んだ場所?」
「闇の記録ゆえ、陛下はご存知ありますまいが」
ふっと眉をひそめてディアスは続けた。
「数千年の昔、シーニュとの戦いに敗れたマリスは、この世界のとある場所に埋められたと言い伝えられています。その同じ場所に、シーニュの心臓が保存されている 古より法王庁には、そのような口頭伝承が残されているのです」
どういう意味だろう。何故、マリスの滅んだ場所に 。
「それは、シーニュの死を……敗北を、暗に意味しているのやもしれません」
沈んだ口調でディアスは軽く息を吐いた。
「シーニュ降臨の地をシニフィアンと定める法王庁は決して認めようとしませんが、 陛下は聞かれたことがあるでしょうか。彼の地は、蒙真半島にあるのです」
蒙真……。
ナイリュの南にある、陸続きの半島。
「命ある内に、私も彼の地に赴こうと思っておりましたが、残念ながら、病のために叶いませんでした。……蒙真半島には、代々心臓を守る一族がいて、他者を決して近づけないとも言われています。訪ねたところで、徒労であったのやもしれませんが」
わずかであるが、口惜しさが滲むような口調だった。
ディアスは、熱を帯びた目であさとを見つめた。
「私に代わって蒙真に赴いた弟子たちが調べましたところ、心臓は、今から二百年も前にその半分が忽然と消えてしまったのだそうです。むろん、私に真偽はわかりません。が、<声>は、私に告げました。その欠片を持って生まれたものが、ユリウスの乙女の夫となる。 そう、それが、アシュラルなのです」
心臓の……欠片?
それが、皆が言っていた、アシュラルが獅子である証だったのだろうか。
「それは、いったい」
その時だった、不意に眉をしかめたディアスが、低い唸り声を放って身体を九の字に折り曲げた。
「ディアス様?」
吹き出すような呻き声と共に、鮮血が掛布に散る。
「ジュール! ロイド!」
背を抱えて支えながら、あさとは叫んだ。唇を血に染めたディアスは、遮るように言葉を続ける。
「あ、あなたが、意思の力で導かれ、クシュリナ様の心を支配しているように」
「ディアス様、話は後で聞きます、だから」
扉が開いて、ジュールが駆けこんでくる。カヤノの悲鳴が背後から聞こえた。
「……邪の意思もまた、この世界で、……人の心をに影響を及ぼしているのです」
ジュールが、ディアスを抱き支える。
「ロイドは、どうした!」
「彼なら……外に」
「早く呼んで来い!」
ディアスはゆっくりと首を横に振った。それはジュールの手を拒否しているようにも見えた。力ない眼差しが、ひたとあさとに向けられる。
「 邪の意思に、影響された者たちは」
もう、ディアスを休ませた方がいい。そう思ったが、ディアスは唇を震わせたまま、言葉を止めようとはしなかった。
「……彼らは、クシュリナ様のように、他人の意思に身体を支配されているわけではありません。……邪の干渉を、自分の意思だと信じて動いているのです……。知らず知らずに、同調してしまっているのです」
ジュールが、あさとを振り返って首を振る。ディアスの望みどおり話し続けてやってくれと、その眼が暗に告げている。
「 誰なの、それは」
聞くのが怖いような気がした。
そう 、あさとは最初から、その名前を知っていた。
雅は、この世界のどこにいるのか? その疑問は、ずっとあさとの心によどんでいた。
自分の中にいるような気もしたし、もっと大きな存在として、常にあさとの傍にいるような気もした。
それなのに 何度か、その眼差しに、確かな面影を感じていたのは。
「………サランナなのね…」
あさとが言うと、ディアスはゆっくりうなずいた。
「……サランナ様と、……そして、鷹宮ユーリ様……、そして、松園フォード様」
「………」
「邪念の意思に同調し、彼らは、彼らであって、けれど同時に、意思の導くままに行動しているのです」
ユーリ?
サランナだけではなく……ユーリと、そしてフォード様も?
さすがに、その衝撃はあさとの心を震わせた。
ユーリまで……。
ではユーリも、今は、私を 憎んでいるというのだろうか?
「あなたは、彼らの閉ざされた心もまた、解き放たねばならない……、それがすなわち、邪の意思を開放すること 」
「……私が……」
できるのだろうか。あの二人に ユーリとサランナにもう一度立ち向かう事が。
「さらには、クシュリナ様の心に巣食う闇と、世界の意思。あなたは、それもまた、解き放たねばならないのです」
「………私は、何をすればいいの?」
どうすればいいのだろう。そんな 曖昧な、漠然としたものを、どうすれば。
「あなたはまず、あなたの中のあなた自身を解放しなければならない」
私、自身……?
「邪の意思も……救の意思も……もとを正せばひとつの心、それが……また、ひとつに戻れば……」
ディアスの双眸が、ふっと霞を帯びたように儚くなる。
「月と……そして、騎獣が……もともと、ひとつの意思だったように」
次の刹那、病み疲れた男は、痙攣でもするように、身体を大きくしならせた。こみあげる嘔吐に耐えているのか、突き出した喉が震えている。
「 ディアス様!」
ジュールが溜まりかねたように、極限まで痩せた身体を抱き起こす。けれど、男は、苦しげな目で首を横に振った。
「………この、世界を……」
祈るような眼差しが、じっとあさとを見据えている。
「ひとつ、教えて」
ディアス様と話ができるのは、きっとこれが最後なのだろう 。すぐにでも休ませてあげたかった。けれど、もう一つ、どうしても聞いておきたいことがある。
「レオナって、誰なの」
ディアスの目が見開かれた、大きく、 大きく。
「その子が、私をこの世界へ連れてきてくれたの。ディアス様、レオナって」
極限まで見開かれた目に、ゆっくりと、さざ波のような笑みが、広がっていく。
「ディアス様……?」
「私は……死ねない……」
枯れ木のような男は、満足げに呟いた。
「……予言は、まことだった 救いは、……きっと、最初から……」
言葉は、こみあげてきたもので遮られた。
「ディアス様!」
こぼり、と、喉がくぐもるような音がして、薄く開いた唇から、鮮血が溢れ出す。
「ジュール、どけ!」
ようやく扉が開いて、ロイドが駆けこんできた。カヤノはもう、涙で双眸を濡らしている。
「末期か」
「絶対に助ける。ジュール、湯を持ってこい」
ディアスの身体を抱きかかえながら、「クシュリナ!」振り返ったロイドが低く叫んだ。
「すぐに、金羽宮に引き返せ、外に、迎えの馬車が待っている」
あさとはぼんやりと、丸眼鏡の医術師を見上げた。まだ ディアスとの会話の衝撃から、抜け出せないままでいる。
「聞こえているのか? しっかりしろ! ハシェミ公の容態が急変した、今、城から伝令が来てる」
お父様が?
何かが 音をたてて回りはじめている。
これも意思の力なのだろうか?
あさとは、震えながら立ちあがった。
すべての混沌を浄化するために。
7
この世界を救うということは、同時に、雅自身を救うことになる……んだ……。
帰りの馬車の中。あさとは、ともすれば、錯乱しそうになりながら、必死でディアスの言葉の意味を考えていた。
ここが……雅の造った世界なら、雅の心の中そのものなら。
それならば、忌獣 人の心が生む怪物が現れる理由も、理解できる。世は乱れ、戦は続き、人々は欺きあいながら血を流し続けている。
全てが 雅の心の中にあるものだとしたら。
では、この世界が救われれば、雅も、救われる……?
琥珀……。
あさとの脳裏に、あの夜の琥珀の姿が蘇った。
蒼白い光とともに、消えていく雅の傍に立ち、そして 自分を見下ろした、彼の眼差し。
恋なのか、憐れみなのか、まっすぐに見つめるその瞳に その奥に揺れていたものを信じて、あさとは彼の後を追ったのだった。
琥珀は、雅が……救いを求めていると、言った。
だから彼は、雅を追って、想像もつかない世界へ飛び込んでいったのだ。雅のために、雅の心を救うために。
じゃあ、……雅が、救われれば。
琥珀もまた、この世界の呪縛から解き放たれるのだろうか? ラッセルから解き放たれ、元の世界に戻れるのだろうか。
そして、もう一人。
小田切……さんは……?
その時、低い地響きにも似た音がした。二度、三度 低音が長く響き、次の瞬間、耳を塞ぐほどの大音量が馬車全体を揺るがした。
なに?
馬が嘶き、疾走していた馬車が軋むようにして止まる。
あさとは驚いて、馬車の扉をはね開けていた。なんだろう、初めて聴くような異様な音は、あさとがいた世界での爆発音に似ている。
「………?」
まず、飛び込んできたのは、もやにも似た灰色の煙だった。きな臭い匂い。鼻につく火薬の香り。
森の中の一本道。進行方向の反対には、法王領が広がっている。その方向に 木々の向こうから、舞い上がる火の粉と煙が見えた。
「陛下、出てはなりません!」
前を行く迎えの騎士が、手綱を引きながら振り返った。この異常な事態に、あさと以上に戸惑っているのか、ひどく余裕のない顔をしている。
「法王領で、何事か起きたようにございます。危険です。いそぎ、皇都に戻らなければ」
「……なにがあったの?」
恐ろしい予感を覚えながら、あさとは視界を覆う煙の先に、視線をこらした。
なにか、騎馬の群れがひしめくような そんな気配が、煙の向こうに見え隠れする。
「早く、中へ!」
怒声と共に、あさとは馬車の中に押し込められた。外から、扉が激しく閉められる。
「反法王派の一味が、法王庁の建物を襲撃したのやもしれません」
切迫した声が、扉の外から響いた。
「今、この馬車が襲われたら、ひとたまりもありません、急ぎます、しっかり掴まっていてください!」
あさとはいわれた通りに、車内の取っ手を握り締めた。
まるで、戦場を駆け抜ける勢いで 馬車は一気に疾走を始める。
アシュラル。……
心臓が、嫌な風に高鳴っていた。一瞬、彼の身に何かあったのではと思ったが、そうではないと判った今でも、動揺が胸を揺らしている。
アシュラルは今、ナイリュにいる。彼が襲われたわけじゃない……大丈夫……、大丈夫……。
が、法王領にいようと、ナイリュにいようと、彼の命は、常に危険にさらされている。
この世界に留まる限り 彼に、小田切に、安息の時はないのだ。
小田切さん……。
琥珀は解放されるかもしれない。でも、小田切は、どうなってしまうのだろう。
彼は 何故、アシュラルの中に宿ってしまったのだろう。それも、何かの意味があってのことだったのだろうか。
わからない。
考えれば、考えるほど混乱する。
予言の通り、子供を産むこと。そんなことが 最終的な救いになるのだろうか。愛した人の子供を産むこと。それが、クシュリナ 雅にとっての究極の救いだと……そういうことになるのだろうか。
けれど、今から、アシュラルの子供を産むのは、もう無理だ。彼の心を開く術が、あさとには判らない。
それに……。
多分、この世界にはもう、次の出産を待つまでの時間は 残されていない……
漠然とそんな気がした。
ディアスに語りかけていた意思とは、多分、雅そのものだ。
時間がないんだ。
思いは、不思議な確信に変わっていった。
もう、時間がない。予言にあるようにリュウビの年が終焉の時だとしても、この世界を救う機会は、多分、今しかない。だから雅は、私に伝えようとしたんだ。<声>を聞く力を持つ、ディアス様を通じて。
早く、私を解放して、と……。
「クシュリナ様!」
馬車が大門をくぐり、オルドに入る。ようやく安堵して降車した途端、ハシェミ付きの侍従が、慌しく駆けてきた。その顔色が尋常ではない。
まさか、お父様が。
色をなし、口を開こうとした時だった。
「ハシェミ様が、たった今、ご正気を取り戻されました、いそぎ起しを」
あさとは、後も見ずに駆け出していた。
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