冷たい唇が、そっと触れた。
 あさとは夢うつつで薄目を開けた。
     誰……?
 薬が効いているせいだろうか。頭がぼうっとして、視界の輪郭が定まらない。
「クシュリナ……君を」
 囁くような声がした。
「愛している……」
     アシュラル……?
 もう一度、優しいキスが唇に触れ、そして、静かに、人の気配が遠ざかった。
     アシュラルなの……?
 扉が閉まり、部屋は元通り静寂に包まれた。
 
 
 
 
 
 
 第八章 混沌
 
 
 
 
 
 
                 
 
 
「ジャムカ」
 背後から声を掛けると、馴染みの馬番は、少し驚いたように振り返った。
「クシュリナ様?」
「おはよう、ウテナの調子はどうかと思って」
 あさとが明るく言うと、ジャムカは弾かれたように、背後の厩に駆け戻って行く。
 殆ど待たされることなく、真っ白な馬が、引き出されてきた。
    ウテナ」
 そのたてがみに指をからめ、頬を寄せる。背後から、気遣わしげな声が掛かけられた。
「……もう、お身体の方は、およろしいので?」
「ええ、すっかりね。今から遠乗りに出るつもりよ」
 あさとの着衣を見て、ジャムカもそれは察していたのだろう。ウテナには、すでに、鞍も轡もつけてあった。
「……お一人で行かれるのですか」
 何年もここで、あさとの遠乗りを見送ってくれた男は、少し不安そうな目をしている。
 あさとは、苦笑し、視線だけで背後を示した。そこには、すでに馬を引いたジュールが控えている。
「白斗は元気?」
 それは昨年、この愛馬が産み落とした、見事な白馬のことだった。
「それはもう、……しばらくしたら、お乗りいただけると思いますよ」
 ジャムカは嬉しそうに双眸を和ませる。そして、ウテナの首をそっと撫でた。
「ウテナ、お前の役目も、いずれ白斗にとられてしまうのかな」
「………」
 もし、子供が無事に生まれていたら    白斗はその子にあげようと思っていた。
 あさとは何も言わず、愛馬の背に飛び乗った。
 
 
 あれから一年が過ぎていた。 
 半年前、難産の末に産んだ子は、死産だった。
 あさとは、我が子の顔を見ることさえできなかった。
 生死の境を彷徨いつづけ    ようやく意識がはっきりした頃に、初めて子供が死んで産まれてきたことを伝えられたのだ。
 信じられなかった。いや、信じなかった。
 赤ん坊の初声を、確かに聞いた。元気に動く四肢を、確かに見た。なのに、目が覚めた時、我が子の残滓はひとかけらも残ってはいなかった。
     殺されたんだ……。
 ただ、涙だけが、無気力に瞳から零れ続けた。幾層にも幾層にもなって零れ続けた。
     ユーリの、子供だったんだ……。
 信じていた。絶対にアシュラルの子供だと信じていた。
 それが出産の日までの、あさとの唯一の支えだった。
 子供の顔さえ見れば    アシュラルも判ってくれる、許してくれる、それが希望の全てだった。
 仮に男児が生まれたとしても、それが    彼の子供なら、アシュラルは、きっと護ってくれると   
 なのに。
 全ての希望を失い、あさとは病床の人となった。
 しばらくは死んだように過ごしていたが、やがて、体力の回復とともに、ようやく諦めの気持ちが沸いてきた。
 自分には、まだ、やらなければならないことがある。このイヌルダのために――自分のために死んでいった人たちのために   
 この世界での旅は、まだ終わってはいないのだ。
 でも、アシュラルだけは許せなかった。
 彼が子供に手をかけたのなら、もう二度と、彼を許すつもりはなかった。
 
 
                  
 
 
「黒竜隊を、辞去しようかと思っております」
 小高い丘に馬を止めて、わずかな休憩をとっていた時、いきなり、背後のジュールがそう切り出した。
「そう……」
 あさとは頷いた。随分前から、ジュールがそう言い出すことは察していた。
「アシュラルの所へ行くのね」
「……ナイリュとの戦は、あと一歩で終結するはずなのですが」
 ジュールはそこで、言葉を濁した。
「王都の守りは堅く、サマルカンドでは苦戦が続いております。    敵も味方も、これ以上の犠牲を出したくはない。早く、三鷹家が降伏してくれればよいのですが」
「………」
 アシュラルはすでに金羽宮を引き払い、法王庁に居を移していた。
 彼が城を出るのと同時に、日向ルナも姿を消した。
 あさとにはもう、あの薄幸の少女の行く末を心配してやる必要はなかった。強力な庇護者を得て、きっと……幸せにやっているのだろう。
 そのアシュラル率いる法王軍は、現在ナイリュの地に駐屯している。
「イヌルダの治安も、今は最悪よ。あなたがいないと……困るんじゃないかしら」
「だからこそ、一日も早く、戦を終結させることが肝要なのです」
 ジュールの口調は厳しかった。
 薫州を陥落させてからの、アシュラルの猛攻は凄まじかった。
 続けさまに、奥州、甲州に巣食うヴェルツの残党を一掃し、ついにイヌルダ全土を法王旗のもとに屈服させた。どのような新型兵器が用いられたのかは想像もつかないが、それは、いってみれば恐怖を持って為し得た統一だった。
 法王は、皇室になりかわってイヌルダを支配するつもりなのではないか?    不満をくすぶらせた諸侯たちは他国に逃れ、また、アシュラルを暗殺しようという動きも活発になってきたが、それら反対派も、アシュラルはあっさりと葬り去った。
 そして半年前、あさとの出産とほぼ同時に、仇敵ウラヌスと同盟を結ぶやいなや、法王軍は青州鷹宮家、潦州久世家を率いて、満を持してナイリュ攻めを開始したのだ。
 ジュールの言うように、その時すでに、戦の大勢は決していた。が、三鷹家の抵抗は凄まじく、いまだ、サラマカンドでは激戦が続いている。
 ナイリュと皇都を行き来していたアシュラルが、本格的に戦地に赴いたのが一月前で    以来一度も、彼は皇都には戻っていない。
 統一を果たしたとはいえ、イヌルダ内部も決して安泰とは言えなかった。追放された貴族は夜盗と化し、または革命軍と化し、街や邑を襲い、時にゲリラ的な攻撃を仕掛けてくる。当然ながらイヌルダ五州の治安は乱れ、忌獣の害も多くなり    まさに、世は、闇の時代へ突入しようとしていた。
 それは、あたかも、予言書にいう滅亡への階段を、人自らが、駆け上がっていくかのようだった。
「寂しくなるわね、……ジュールまでナイリュへ行ってしまうなんて」
「出来ましたら、明日にでも発ちたいと思っております」
「そう……」
 あさとの力では、動き出した闇の歯車を、止めることはできない。
 ただ、病院建立に力を注ぎ、医療品、食料などの物資を、戦場と化した街や邑に送りつづけることで、少しでも人々の心の救いになれば、と願うばかりだった。
 薫州を半日で焼き払ったという、    法王庁が開発した謎の新型兵器は、いまだにその噂だけが、シュミラクール諸国を駆け回り、諸侯たちを畏怖させている。
 あさとには、それが何であるか知らないし、知りようがない。
 ただ、まだ件の兵器が、ナイリュ戦で使われたという話は聞こえてこない。それだけが救いだと思っていた。
「アシュラル……元気にやっているのかしら」
「………」
「相変わらず、親衛隊に囲まれているの? すっかり、用心深くなってしまって……昔のあの人じゃないみたいね」
 思わず、皮肉めいた口調になってしまっていた。
 一年前、青州の城でアシュラルを取り巻くようにして守っていた甲冑の騎士たち。彼らは、新しく編成された法王の親衛隊だった。
 以来、アシュラルの傍には、常に二十人からなる親衛隊が付き添い、まるで彼を取り囲むようにして、常に行動を共にしている。
    あの顔の傷は、薫州から帰る途中、味方に暗殺されかけたものらしい)
    それで、随分用心しておられるのだ。気をつけろ、うかつに近寄れば、我々だって殺されかねんぞ)
 宮中のそんな噂は、あさとの耳にも届いていた。
 人の壁は、そのままアシュラルの心の壁だったのか、あさとは    彼の心にも、身体にも、近づくことができなくなった。
 
 
「明日は、いつ頃発つの?」
 太陽が翳っている。あさとは雲の切れ間からのぞく薄い陽射しに、目を細めた。
「……早朝には出ます。陛下には、ご迷惑をおかけすることと存じますが」
 ジュールの存在だけが、アシュラルと反目するしかなかったあさとを、どこかで支えてくれていたのかもしれない。
 そのジュールも、行ってしまう……。
「窮屈な宮殿警備より、ジュールには戦場のほうがあっているのかもしれないわね。憶えてる? バートル隊の頃は、随分、野蛮な格好をしていたわ」
 寂しさを出さないよう、あえて明るくあさとは言った。
「大きな槍を、いつも背負っていたじゃない。でも、今のジュールより、その時のジュールのほうが、あなたらしいような気がするわ」
 ジュールは僅かに笑み、何故か、視線を静かに翳らせた。
「いつか、あなた様の目の前で、あの槍は青百合騎士の命を屠りました。ご記憶ですか」
「……あなたは、言い訳はしないと言ったわ」
 寂しげに、ジュールは首を横に振って微笑する。
「彼の者に手をかけたのは、私を、黒獅子隊に信用させるためでした。死なせる必要のない命だった。それを、大事の前の小事だと、私は簡単に割り切っていた」
「…………」
「陛下のお優しさは、時に無謀で甘すぎますが、見えない所で人の心を変えていく力がございます。……今は目に見えなくとも、きっと、届く日もあるでしょう」
 それは、アシュラルのことを言ってくれているのだろうか。……
 あさとは黙っていた。まだ、ジュールにようには達観できない。心を閉ざしてしまったアシュラルの中には、もうあさとの存在さえ残ってはいない気がする。
 それでも、ジュールの言葉は、優しく胸に染みていった。
「法王の出した法案は、明日の貴族院で、了承されると思うわ」
 ジュールがそのことを気に掛けていたのを思い出し、あさとは彼を励ますつもりで口にした。
「そうですか」
 返ってきた男の声は、案の定、わずかな安堵を滲ませていた。
「……半年、かかりました。けれど、これほど早く実現するとは思わなかった」
「……そうね」
 それも、法王庁が開発した新兵器の効果なのだろう。いまや、イヌルダの諸侯で    面と向かって法王に異を唱える者は誰もいない。 
 ふと、苦い回想が、あさとの胸に浮かび上がる。
 法王から<法案>をしたためた書簡が届いた日、その日が    アシュラルの、彼自身の感情のこもった声を聞いた最後だったことを    重苦しい気持ちで思い出していた。
 当時、あさとは出産直前だった。
 ウラヌスとの激戦が続き、そしてナイリュとは開戦間近。金波宮内も、諸侯たちも、何かと気ぜわしかったその最中、女皇としてのあさとのもとに、法王アシュラルからの、書簡が届けられた。
 開いてみて、驚いた。
 それは、課税を皇室に一本化し、皇室から各領主に配分する。つまり、諸侯独自の課税を禁ずるよう、女皇として宣下を命ずる文書だった。
 さらに    その年の収穫と部課率を正確に把握するための方式、そして、貴族が有する様々な特権の一部を廃止し、代わりに商人や農民に課せられた規制を取り払うよう、法案を提出する準備を進めて欲しい、と記されてあった。
 さすがにあさとは愕然とした。
 ここまで一気にしてしまえば、当然のことながら既得権者からの反発は凄まじい。
 急ぎすぎだ、と思った。
 イヌルダの内政も確かに重要だが、せめてこの戦が収まってから手をつけてもいいのではないか   
 あさとは意を決し、その日の午後、法王庁にあるアシュラルの邸宅を訪問した。結婚以来、彼の屋敷を訪ねたのは、それが初めてのことだった。
 通された応接間で彼を待っていると、隣室で激しく言い争う声が聞こえてきた。
「アシュラル、いくらなんでもやりすぎだ。今こんな改革を断行すれば、せっかく味方になってくれた者まで、そっぽを向いてしまうぞ」
 それはジュールの声だった。
 あさとは、はっとした。ジュールもまた、自分と同じ杞憂を抱いていたのだ。
「恐れるな、どうせ、いずれはやらねばならん」
 アシュラルの声は轟然としていた。
「しかし、何も」
「何のための戦だ、皇室と法王庁の安泰のためか? そうではない、今やらなければ、一体いつやるというのだ!」
 裂帛の口調に、言葉を詰まらせるジュールの気配。
「例の兵器は、数さえ揃えば、もうじき実戦で使えるはずだ。諸侯など恐れる必要はない、今度の戦で、シュミラクールの真の支配者が誰なのか、全ての民が理解するだろう」
 きっぱりと言いきる彼の声には、一点の曇りもなかった。その曇りのなさが、あさとの心を不安にした。言いようの無い胸騒ぎが息を詰まらせる。
「……急ぎすぎだ、アシュラル、そんなことでは……足元をすくわれる」
 やがてうめくように、ジュールは呟いた。
「時間がない」
 夫の声は、どこか儚く聞こえた。
「太陽はいつか必ず沈む、ジュール、俺には今しかないんだ。先のことなど考えるな」
 あさとは急に胸苦しくなり、席を立った。そして、そのまま、アシュラルと会う事もなく退去した。
 帰途の馬車の中で、昔……いつだったか、ジュールが言っていた言葉を思い出していた。
     アシュラル様は、闇です、決して光にはなり得ない。
 そうだ、彼は闇だ。
 天性の破壊魔だ。彼には    世界を破壊することはできても、その先の未来を照らすことはできない。
 この世界の秩序を破壊するという役割を果たした後、彼は   
 その想像は、あさとの心を締めつけ、苦しめた。アシュラルの傍にいたかった、彼の支えになりたかった、けれど。
 何も伝えられないまま、翌日、激しい腹痛とともに、あさとは病床の人となった。
 目覚めると、待っていたのは絶望だった。
 子供のために揃えていた寝台、衣装、玩具。    それらは全て破棄されており、アシュラルは、すでにナイリュに旅立った後だった。
 あさとは……彼への、最後の、そして一縷の希望すら失った。  
 
 
 
 
 
 
 

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