10
「アシュラル……?」
部屋の中は薄暗く、しんと静まり返っていた。人のいる気配はまるでしない。
侍従が案内すると言い張ったのだが、あさとはそれを断って、一人で彼の私室に足を踏み入れた。
疎まれているのは判っている。でも、どうしても二人だけで話がしたい。
いないの……?
室内の奥に足を進めながら、今さらのように、不安がこみあげてきた。
もし、ルナが傍にいたら。
先日のように感情的になって、また何か恐ろしいことを言い出したら 。
あさとに、それを止める自信はないし、否定しようにも記憶がない。
しかし、ルナの姿は見えなかった。部屋の主も、どこにも見えない。寝室も、居間も やはり、人の気配がしない。
「……アシュラル……?」
返ってくる返事はない。不思議だった。
侍従の口ぶりでは、確かに彼は今、部屋の中で休んでいるはずなのに。
「……あ」
ふと見下ろした水晶卓の上に、アシュラルが常に身につけている、紫模様が入った銀兜が置いてある。
間違いない、やはり彼は室内にいるのだ。
卓の向こう側に視線を下げ、ようやくあさとは気がついた。
背後の長椅子に、横たわって眠る長身の姿がある。
片腕を枕にして、眼を閉じている。顔の右半分が黒布で覆われ、乱れた髪が長椅子の上に零れている。
クロークは脱いでいるものの、衣服は軍服のまま、詰めた襟元がはだけ、喉元が露わになっている。
寝てる……の…?
異常な気がした。いくら深く寝入っているとはいえ、その姿からは、まるで生の気配が感じられない。
蒼ざめた額、険しく閉じられた片方の瞼、……それはまさしく、死んでいる人のように見えた。
「……アシュラル」
あさとは焦燥にかられ、彼の頭がある方に膝をついた。
呼びかけても、その瞼は動かない。
「アシュラル、アシュラル、 どうしたの?」
肩を揺すり、 何度か揺すると、ようやく蒼みを帯びた唇が反応した。それと共に、はだけた襟から何かが滑り落ち、あさとの手もとをすり抜けた。
何……?
それは柔らかな音を立てて、長椅子の脚元に落下する。
「……?」
厚みのある青紫の布でくるまれて、巾着のように朱紐で括ってある。 鶉の卵ほどの大きさの 。
あさとの手を遮るように、上から伸びてきた大きな手が、それを素早く拾い上げた。
「勝手に触るな」
アシュラルの声だった。
長椅子に半身を起こし、片目を鋭くすがめている。
あさとは思わず、身を引いていた。
「……ごめんなさい、何が落ちたのか、判らなかったから」
「お前には関係ない」
冷たく答え、彼はそれを、もとのように襟の内側に滑らせた。
片方の目が、そのまま、あさとに向けられる。
「……何をしに来た」
上向いた顔に、疲労が色濃く滲んでいる。
その時、あさとは気がついた。 こんなことが、前にもあった。彼の寝顔を見て、死んでいるように思えたことが。
彼は アシュラルは 。
肌は蒼ざめるほどに透き通って見えた。削げた頬は研ぎ澄まされ、眼の下に暗い影を落としている。
……どこか、根本的に、体を悪くしているのではないだろうか?
疑念を言葉にしかけた時、不意に伸ばされた男の腕に、両手首を掴まれていた。
「……アシュラル?」
近づく顔。表情は、影になっていてよく見えない。
長椅子の上で背をかがめ、彼はそのまま、あさとの唇に、自分の唇を押し当てた。
「やめて」
突然だったので、驚いて身を引こうとした。けれど、男の力は緩まなかった。
冷たいキス けれどそれは、半年ぶりに触れる、彼の唇の温度だった。
痺れるような感情が突き上げるのに、あさとは必死で抗おうとした。
「 待って」
けれど彼は、呼吸の間すら許さない。
「アシュラル、だめ」
顔を背ける。顎をすくい上げられ、もう一度深い口づけが繰り返される。
駄目……。
何も考えられなくなる。いけない、このままだと、流されてしまって 。
ぎゅっと強く唇を閉じる。手首を拘束する男の腕から、その時ふっと力が抜けた。
「待って、アシュラル、話が」
あさとはようやく、アシュラルを遮った。彼の真意は判らないが、今は曖昧に流されずに、冷静に話をしたい。
「何の話だ」
アシュラルの声は冷たかった。その顔を見上げ、あさともまた、心が冷えるのを感じていた。
冷淡な眼差し。それはまるで、目の前にいる女を、軽蔑でもしているかのように、轟然としていた。
「ラッセルの話か、奴は生きていたそうじゃないか」
その冷たさのまま、アシュラルの腕が、再びあさとを抱き寄せた。唇が首筋に落ちてくる。
「いやっ」
あさとは激しく抗った。理由の判らない嫌悪を感じ、本気で彼の胸を突き、抵抗した。
けれど、腕を掴む男の中にも、本気の力が滲んでいた。彼はそのまま、腕をねじるように組み伏せると、床の上に身体ごと押し付けた。
「奴に会いに行くのか」
「………」
「行けるものなら、行ってみろ!」
ものすごい力だった。
今までも何度か、アシュラルには酷い目にあってきた。それでも、今の力に比べたら、それは半分の恐ろしさでしかなかった。
「やめて!」
あさとは顔を背けていた。そらした箇所に、まるで噛むような激しさで唇が当てられる。
「……っ」
痛みが走った。強く きつく吸われた個所は、髪を切った時傷ついて そして、ラッセルの唇が触れた場所だった。
その瞬間、あさともまた、抵抗することを止めていた。
私……。
恐ろしくなっていた。
どうして最初、この場所にアシュラルの唇が触れた時、名状しがたい嫌悪を感じたのか、その理由に初めて気がついていた。
私、……無意識に。
呆然とするあさとを顧みることなく、彼の唇は次々に、首に、肩に、罰のような徴を刻んで行く。
「やめて、そんなの、嫌……」
あさとは力なく呟いた。彼のしようとしていることが、ようやく理解できていた。
「お願い、……もうやめて」
「黙っていろ」
「嫌……」
涙が滲んだ。
こんなことをして なんになるというのだろう。
「……そんな姿で、どこへ行くつもりだ」
アシュラルは、残酷なキスだけを済ませると、冷淡に身体を離した。
「どうしてなの……」
あさとは涙でぼやけた視界のまま、呟いた。
もう、駄目なのかもしれない。
この人と私は、もう……。
「私の心は、一度もあなたを裏切ったことはないのよ……」
「それでも、お前の身体は裏切った」
アシュラルは、背を向けたまま冷たく言った。
「俺はな、人の手垢のついた女を抱くつもりはない。それがお前の意思と無関係に行われたとしても同じことだ。例え無意識にでも、お前はユーリに反応して、そして、奴を受け入れたんだ。何度も、何度も」
やめて。
耳を塞ぎ、あさとは顔を背けていた。
「それに、心は裏切ったことがないだと……笑わせるな」
アシュラルはわずかに肩を揺らすと、卓上の兜を持ち上げ、それを被った。
「お前はいつでも、この俺を通して別の男を見ていた。それがコハクという男なのか、ラッセルなのか、俺にはわからんがな、……少なくとも俺は、お前の口からコハクという名を三度聞いた」
「………」
「三度とも、俺を見て、お前は言った。それほど似ているか、俺の顔が」
あさとは何も言えなかった。違う、と言いたかった。けれど、はっきりそう言いきれる自信もなかった。
「残念だったな、俺の顔は以前の俺ではない、お前の愛した男の面影は、もうどこにもないと思え」
吐き棄てるようにそれだけ言うと、アシュラルは扉に向って歩き始めた。そして、思いついたように足を止めた。
「子供は産め。けれどそれが、俺の子として、世間に認められるだけの容姿を備えていなければ、そして、女でなければ 産まれた子には、即座に死が待っていると思うんだな」
そんな。
さすがに、愕然として顔を上げた。
「そんなこと、許さない」
「もとよりお前に、選択権はない」
アシュラルは振り向きもしなかった。
「お前とはその時に離婚してやろう。ただし、三鷹ミシェルのところへ行くことだけは許さんがな。 それ以外は好きにしろ、ラッセルと一緒になりたければ、勝手にすればいい」
アシュラル。
あさとの目の前で、扉が音を立てて閉まった。
それは、絶望の響きだった。
11
「クシュリナ」
警備の輪をかいくぐり、駆け寄ってきたのはカヤノだった。
あさとは、深くケープを被りなおして顔をあげた。
護衛の黒竜騎士たちが、靴音を荒げ、前へ出ようとするのを手で制する。
「カヤノ……」
あさとは駆け寄ってきた友人の手をとり、呟いた。
朝の港は他に人気もなく、ただ、青州・皇都のいかめしい軍隊と、侍従たちの列だけが、無機質な影を作っている。
無論、港周辺には厳戒態勢が引かれている。こんな所にまでわざわざカヤノが見送りに来てくれた、 それが、あさとには涙が出るほど嬉しかった。
「どうしたの、ひどい顔」
あさとの正面に立ったカヤノは、そう言って眉をひそめた。
「まるで一晩中、泣いてたみたいよ……」
あさとは笑顔を作り、首を横に振った。波の音がうるさい。潮の香りが鼻につく。出港の時間はもうすぐだった。
「昨日はずっと、あんたが来るのを待ってたんだけど……来られなかったのね」
「外出の……許可が下りなくて」
それはある意味、本当のことだった。アシュラルが それを、許さなかったのだから。
「……ラッセル、今朝、出て行ったわよ」
「そう……」
てっきり、カヤノも一緒なのだと思っていた。あさとの訝しい目に気がついたのか、カヤノはわずかに微笑する。
「私は、カラムで仕事を残してるし、ロイドがまだ、こっちにいるから……。落ち着いたら、ラッセルの後を追いかけて行くわ」
では、ラッセルはどこに行くのだろう。
聞きたかったが、これ以上話をする時間は、もうないようだった。
「……カヤノ、元気で」
手を握りしめた時、背後から声がした。
「女皇陛下、そろそろ乗船のお時間です」
「カヤノ」
あさとはカヤノの手を握りなおした。
「最後にひとつ、教えて欲しいことがあるの」
あさとの視線に気おされたように、カヤノは無言でうなずいた。
「ラッセルは……昔の名を捨てて、青州で暮らしていたのよね」
「……ええ、そうね」
「彼の名は 今、彼が名乗っている名は、もしかして」
「コハクよ」
カヤノはあっさりとそう言った。
あさとは、自分の身体がバランスを失いそうになるのを、かろうじて耐えた。
やっぱり、そうだった。
ゴドバは、ラッセルの昔馴染みだと言っていた。なのに、彼のことを「コハクのだんな」と呼んでいた。その時から ずっと、ひっかかっていたのだ。何故、昔馴染みに、昨日今日つけた偽名を使うのかと。
「それがどうかしたの?」
あさとの顔色を見て、カヤノはわずかに眉をひそめた。
「クシュリナは<コハク>のことを、ラッセルから何か聞いてるの?」
あさとは首を横に振った。 今更 どうなるものではない。それは最初からわかっていたことだ。
「ラッセルね、……子供の頃、半日近く意識を失っていたことがあったの……私はまだ小さかったけど、すごい騒ぎだったから、なんとなく覚えてる。彼はアシュラルと衣服を変えて、アシュラルに代わって法王庁の行事に出席するところだったんですって」
カヤノは思い出を手繰るように言葉を続けた。
「アシュラルを、危篤の母親に会わせるために、そんな真似をしたらしいんだけど、……でも、法王庁へ赴く行進の最中、森の中で、ふいにラッセルの姿が見えなくなって」
森の中………。
静かな、まるで夢のような記憶の断片。
「一夜明けた翌朝、樹の下で、意識をなくしたまま倒れている所を見つけられたらしいの。目が覚めた時、ラッセルはひどく錯乱していて、自分のことを<コハク>と名乗ったり、あと……何か、知らない人の名前を口にしていたらしいわ」
あさとは、自分の唇が震え始めるのを感じた。
子供の頃の夢、樹の下で眠っていた顔のない少年、 初めてのキス。
「カヤノ、……ラッセルが、発見された場所って……」
聞いて、どうするのだろう。どうすればいいのだろう いまさら。
「どこだったかな……なんとかの樹って、知ってる? 世界のはじまる前からあったとかいう、そんな、いわくつきの樹の下だったって聞いたけど」
「………」
では、 ではあれは、夢ではなくて。
そして、<彼>は、アシュラルではなくて。
<彼>は琥珀だった。
<彼>はラッセルだった。
それはもう、間違いない事実だった。
カヤノは、あさとの表情の変化に気づかないままに、続けた。
「後からラッセルに聞いたんだけど、彼自身は、錯乱していた間のことを全く覚えてないみたいなの。なんだか怖い話だけど、……でも、あの人にとっては、きっと印象深い名前だったのね、コハクというのは」
そして琥珀には、私や雅のことが 判らないのだ。
まだ、思い出してはいない、覚醒してはいないのだ。
「女皇陛下」
背後でまた、乗船を促す声がした。
「カヤノ、ラッセルに伝えて」
あさとは言った。
「私、いい女皇になるわ。……今までありがとう、さよならって」
もう、彼には会えない。
その方がお互いのためなのだ。
そのことを、あさとは、はっきりと自覚していた。
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