涙が溢れ、それは激しい嗚咽に変わった。
 その場から一歩も動けないまま、あさとは顔を覆って、泣き続けた。
     どうしたらいい?
 これから私は、どうしたらいいの?
 どうしようもない。この小さな命はもう、あさとの一部になっている。どうしたって、何を犠牲にしても    守りぬかなければならないのだから。
「……この子は、じゃあ」
 ふと、そのことに気づき、あさとは呆然と顔を上げた。
     …救世主ではない……?
 アシュラルは昔、誰の子でもいいから、子供を産めと言っていた。
 それを俺の子にしよう、と。
「…………」
 涙も枯れ果て、ふいに何もかも馬鹿馬鹿しくなった。
 彼にとって、所詮子供は、理想を実現するための道具にすぎなかったのだろうか。それが実子であろうがなかろうが、政治に利用できればそれで   
「予言は、現実になりました」
 けれど、ジュールは暗い口調で呟いた。
 彼はまだ、あさとの背後に立ったままだった。
「クシュリナ様、以前私は申しました。ダンロビン様の時と違い、三鷹ミシェル様とあなたは    結婚なされば、離婚などする必要はないのだと」
「……どういう、こと……?」
 三鷹ミシェルとの結婚が決った時、ジュールは確かにそう言っていた。その時も意味がよく判らなかった。
 ジュールはわずかに言いよどみ、そして、意を固めたように、はっきりとした口調で言った。
「三鷹ミシェル……いえ、鷹宮ユーリもまた、アシュラル様と同じ、青の年、クィンティリスの獅子なのです」
     えっ……?
 思わず振り返って見たジュールの顔は、苦いもので満ちていた。
「真実の獅子が、アシュラル様なのか、蒙真と三鷹家の血を引く異形の皇子なのか    従来、法王庁では、意見が真っ二つに分かれていたのでございます」
「………」
「二人の獅子が生まれる何年も前から」
 暗い口調のまま、ジュールは続けた。
「予言の解釈は、大きく二つに分かれていました。……それが予言の後半、天と地のくだりです」
 
青き月、欠けることなき暗黒の時代。
陰と陽が解け、闇が永き眠りから目覚める。
 
黄金の国は力を失い、人獣が地を支配する。
竜の時、世界は黒塵と消えるであろう。
 
民よ、祈れ。
天の年。
ユリウスの蛟に生を受けし乙女。
 
地の年。
クインティリスの獅子に生を受けし子。
二つの血を受け継ぐ者が、シュミラクールに永き平安をもたらすことを。
 
 よどみなく予言を暗じたジュールは、静かな目色で、あさとに向き直った。
「まず、天とは、天迎の年を指すという解釈がございます。そして地とは地迎の年。ご承知のとおり、シュミラクールの年号は原則女皇の代によって代わり、その号名は数百代後まで決められております」
 知っている。あさとの即位により、現在年号は聖となっている。単漢字と迎の字の組み合わせからなる年号は、この世界に年号が用いられた時に定まり、これから続くであろう何世代先まで決められている。
    この解釈を採れば、アシュラル様は地迎の年の生まれ、そしてユーリ様は、天迎の年の生まれとなります。したがって、地迎の年に生まれたクィンテイリスの獅子    ディアス様によって選ばれたアシュラル様が、確かな予言の子となるのです」
「もうひとつの、解釈はなに」
 続きを聞くのが、おそろしいような気がする。あさとの問いに、ジュールはわずかに頷いてみせた。
「それは、天と地を、年号とみるのではなく    その生を受けた星を指すという解釈です」
     星……?
「すなわち、天をシーニュ、地をマリスと読む解釈です。これは、解釈不明とされている前半のくだりにも繋がってきます。陰と陽が解ける時    古来陰陽学では、陽の天星をシーニュ、陰の地星をマリスと表しました。そのように解釈をするのなら、天とはすなわち、シーニュの血を引く皇室……」
「…………」
「そして地とは、マリスの血を引く……それは、あくまで伝承にございますが、蒙真一族であろうと言われております」
「蒙真?」
 あさとは、呆然としてジュールを見上げている。
「……マリス神は、シーニュとの戦いの末、ナイリュの彼の地に封印されたと言われております。全ては伝承    神話の時代の話です。蒙真族が、その血を引いているといっても、真偽のほどを確かめるすべなど、ございません」
 重々しく、ジュールは続けた。
「が、蒙真の血を引く三鷹家の皇子が、予言で言う所の獅子であることもまた確か。地を星と解釈すると、ユリウスの乙女とクインティリスの獅子とは、紛れもなくクシュリナ様と鷹宮ユーリ様を指すのです」
「…………」
 ようやく、不可解だった今までの全ての謎が、解けていくような気がした。
 もう間違いない。それが    アシュラルが抱えている、重大な秘密だったのだ。彼は、……彼は、予言の子では、なかったかもしれないのだ。
 なのに、その事実を、完全に隠ぺいしたまま、彼は   
「クシュリナ様、全ては、言葉づらだけの解釈にすぎません」
 ジュールは、呆然とするあさとを、励ますように声を強めた。
「確かに法王庁は、仇敵である三鷹家の存在を頭から認めようとしませんでした。ゆえに、ユーリ様を闇に葬り去り、もう一人、獅子の星の下に生まれたアシュラルを、予言の子として引きずり出したのです。    が、忘れてはならないのは」
「…………」
「それでも、ディアス様がお選びになられたのは、アシュラルだったということです」
「…………」
 アシュラル……だった。
「ディアス様の判断が誤りだったことは、今まで一度もございません。あなた様の夫として、ディアス様はアシュラルを選ばれた。それは、絶対に間違いではないのです」
「この子は、何……?」
 恐ろしくなって、あさとは訊いた。
 結ばれる運命の人が、アシュラルなら    この子は、もしかするとユーリの血を引いているかもしれないこの子は、いったい何なのだろう。
「……ディアス様が、以前申されたことがございます」
 言葉を切ったジュールは、そこで一時、唇を噛んだ。
「予言とは、必ず実現するものなのだと。憂うことも、謀ることもない。ただ、時を待てばよいのだと」
「……時……」
 あさとは、ぼんやりと呟いた。
 つまりは、それが、ユーリの子供でも、アシュラルの子供でも。
 どちらでも    つまるところ、それが予言にいう結果、ということになるのだろうか。
 父親など、どちらでも構わない。
 だから、アシュラルは身体をいたわれと、あんな皮肉を言ったのだろうか。
 ジュールはますます辛そうな顔になった。
「……いずれにしろ、ナイリュとイヌルダの開戦は時間の問題です。あなた様の身柄は、    その、お腹の子供と共に、鷹宮ユーリの最後の切り札になるでしょう。今後、常に三鷹家が、あなた様を狙うものとお覚悟ください」
 頷くしかなかった。産むしかないのだと    むろん、そのつもりではあったが、あさとはその事実を、改めて思い知らされていた。
 そして、もうひとつ。
 アシュラルから告げらられた言葉で、気がかりな事がもうひとつあった。
「アシュラルは……子供は、女でなければいけないと、そう言っていたけれど」
 あれは、どういう意味なのだろうか。
 ジュールはさらに苦い顔になって、嘆息した。
「……皇室には、代々女しか誕生しない、それは、ご存知ですね」
「………」
 知っている。皇室には、創生以来、一度も男児は誕生していない。
 だからあさとは、自分も女児を産むのだろうと、漠然と思っていた。仮に男児が産まれたとしても、その先を深く考えた事も無かった。
 ジュールの暗い表情が、ざわめくような胸騒ぎを感じさせた。
「皇室に男児は誕生しない。それは    神話の時代から護られている大切な伝統。それを破る女皇は、国に滅びをもたらすと言われています」
「………」
「けれど女皇も、その夫も神ではない。人の子である以上、いつの時代でも、二分の一の確立で、やはり男児は誕生しているのです」
 だから    それで?
 自分の胸に、黒雲のような不安が増殖していく。
「……それでも、皇室には女児しか生まれない、その意味を、お察しください」
     それは。
 生まれた子供が、男児だったら   
「……禍根は、断たねばなりません」
 ジュールは、短く言うと、うつむいた。
 その言葉の意味することに、あさとは凍りついていた。
「それが救世主でも?」
「………」
「そんなのおかしい、だったら、予言の意味なんてないじゃない!」
「クシュリナ様」
 激昂するあさとの肩を、ジュールはいたわるように抱いた。
「……これは……あなた様が想像される以上に、根の深い問題なのです」
「嫌よ、だって、あなたとアシュラルは、色んなことを……いつだって勝手に変えているじゃないの、どうして、     どうして、子供のことだけが!」
「人の作ったしきたりは変えられる。けれど、人々の心に根ざした神話までは変えられません」
 男の声は厳しかった。
「法王庁も、皇室も、人民の信仰心によってのみ支えられているという事実を、お忘れになってはいけません。神話がまやかしだと判れば、人心は離れ、我々の成し遂げようとしている志も、頓挫しかねない」
「……そんなの、許さない」
 あさとは震える声で言った。
 頭では、判る。ジュールの言う意味も、彼自身の苦衷も。    でも。
「そんなこと……そんなこと、子供の親なら、絶対に、できるわけない」
 震えている指先。その腕で、きつく自分の腹部を抱きしめる。
「クシュリナ様……」
 あさとは絶望で気を失いそうになりながらも、考えていた。
 ここ数ヶ月のことを、そして、アシュラルと過ごしたわずかな日々のことを。
「…ジュール、大丈夫よ……」
 そして、ようやく呟いた。
 苦しいほど揺れながらも、ようやく自分の気持ちが確かになるのを感じていた。
「この子は、やっぱりアシュラルの子供だわ、私には判るの、    絶対に、間違いない」
「………」
「アシュラルは、絶対にこの子を殺したりしない。護ってくれる、私は    信じてる」
 ジュールは何も言わず、ただ無言であさとの手を強く握った。握り締めた。
「そうであれば、何よりだと思います」
 その瞼が、哀しみと戦うように揺れている。
「……そうでなければ……アシュラルが、むごすぎる…」
 
 
               
 
 
     もう一度、アシュラルと話し合おう。
 翳っていく空を見つめながら、あさとは迷い続けていた。部屋に運ばせた食事は手付かずのまま、傍らの卓上で冷めてしまっている。
「………」
 あさとは、窓を帳で覆い、ため息をついた。
 明日の午後には皇都行きの船に乗る。戻れば、二度と皇都から出ることは叶わないだろう。それを思うと、どうしてもアシュラルのことばかり考えてしまう。
     明日、別れてしまえば……。
 あさとは、胸が軋むような痛みを感じた。
 今度会えるのはいつになるか判らない。このまま別れたら、二度と判りあえないような気がする。
 今の彼に、子供のことで何を言っても無駄だろう。それを思うと気持ちが萎える。    けれど。
 ルナのことだけは別問題だ。あさとは自分に言い聞かせた。
 全ての起因が、己自身の過ちにあったとしても、それでも、彼がルナを傍に置いたことだけは許せない。あの少女が今まで辿ってきた人生を考えると、間違っても、愛妾にだけはしてほしくない。
 ようやく覚悟を決めて、あさとは自室から外に出た。
     アシュラル……どこで休んでいるんだろう。
 そんなことさえ、自分には知らされていない。その現実が胸を苦しく締め付けたが、迷いを振り切るように顔を上げた。
 話せば……判ってくれる。
 ユーリのことも、ラッセルのことも。全ては誤解で、話せばきっと、理解してもらえる。もう他人ではない。私とアシュラルは契りを交わした夫婦なのだから。   
 城内は、明日の旅立ちの準備のためか、誰もが気ぜわしく立ち働いていた。
 青州の白水仙(コンチェラン)騎士と黒竜騎士、そして法王軍が、いたるところに混在し、全体的に殺伐とした空気を漂わせている。
 まずは、ダーシーに会い、彼の口から法王の居所を聞きだすつもりだった。
 が、女官に案内され、ダーシーの居住する房まできた時、    突き当たりの廊下の角から、いきなり見慣れた顔が飛び出してきた。
    クシュリナ?」
 あさとは立ちすくみ、眼を見開いた。「    ロイド?」
「よう、まさかあんたを連れて青州まで逃げ切るとはね。さすがはラッセルだ、おそれいったよ」
 まるで散歩の途中のような気軽さで、歩み寄った男は、いつもの丸眼鏡のまま微笑した。
 ウェーブを描く髪は後ろに括り、さっぱりした衣服を身に着けている。
「どうしたの、こんなところで」
 懐かしさと、再会出来た嬉しさで、あさとは、胸がいっぱいになった。
 ナイリュの都で捕らえられたと聞いていた。ひどい目に合わされたのかもしれないと思っていた。だからなおさら、元気なロイドの姿が嬉しい。
 あさとの気持ちを察したのか、眼鏡の男は照れくさそうに頭を掻いた。
「言っておくが、ドジ踏んで掴まったわけじゃないからな。港で黒血病患者が出たって聞いて、つい、断り切れずに手当てをしちまった。で、それが仇になった」
 ふと、その横顔に影が落ちる。
「ナイリュは、昔の皇都と同じことをやってるんだ。黒血病患者を、徹底的に隔離して見殺しにする。俺は患者の吐血を胸で受けた。だから    港に詰めていた官兵に捕まって、そのまま、有無を言わさず隔離施設行きだ」
「……そんな…」
「ラッセルに助けられなきゃ、一生出られなかったろう。施設もひどいものだった……あれは、人の住む所じゃない」
 彼にしては、珍しく怒りを滲ませた声だった。
「ナイリュの黒血病患者の数は深刻だ。早くなんとかしなきゃいけない」
 そう言い差し、ようやくロイドは、元の表情を取り戻して顔を上げた。
「その話はいい。それよりクシュリナ、ラッセルとカヤノは、青州を出て行くそうだぞ」
     えっ。
「いつなの、どうして」
「さぁな。まぁ、色々あって、素性がダーシーの耳にまで入っちまったからじゃないのか?」
 ロイドは面倒そうに、頭を掻いた。
「で、お前さえよければ、これから、あいつらの家に行ってみないか。別れの挨拶がてらってやつだが」
     ラッセルと、カヤノの家に……?
 その情景は、わずかに、あさとの胸を痛ませた。
「カヤノが、どうしてもお前さんを連れて来いって言うんだよ。無茶を言うよ、あの女も。実はそれで今、ダーシー公にお伺いを立てて来たんだが」
「ダーシーは、なんて?」
 思わず急くように聞いていた。
 こんな時間の外出が許されるはずはない。それでもあさとは行きたいと思った。どうしても、    もし会えるのら、そして、もう会うことがないのなら、どうしてもラッセルに、自分の口から確かめておきたいことがある。
「法王の許可をとってくれとさ」
 ロイドは腕を組んで、唇をへの字に曲げた。
「俺は、あんな男と話すのはごめんだよ。今のアシュラルは、雰囲気が最悪だ。俺には恐ろしくて近づけない」
「……私、聞いてくるから、それに彼に話もあるし」
 ロイドから、アシュラルのいる部屋を聞き、あさとは急いできびすを返そうとして    足を止めた。肝心なことを聞くのを、忘れている。
「ロイドは、これからどうするの」
「俺も近い内に青州を出て行くよ。ま、後は気ままな一人旅だ」
 眼鏡の医術師は、あっさりと答えた。
「一人旅って……どこに」
 あさとは戸惑って訊いている。ロイドはひょいっと肩をすくめた。
「ナイリュに戻るには危険すぎるし、今さら皇都にも戻れない。ゼウスかタイランドにでも行ってみるかな。戦争が終わったらお前さんを訪ねて行くよ。それまでお互い元気でな」
「でも……、でも、こんな危険な時なのに」
 今にも背を向けようとするロイドを、すがるように止めている。ロイドが、何かを隠しているのは明らかで、今、彼を行かせてしまったら、もう二度と会えなくなるような予感がした。
 が、ロイドは、不思議に冷めた目で振り返った。
「あのな、危険なのはどこにいたって同じだよ。誰の命だって、明日はしれたもんじゃない。それに、戦争はもう直終わる。今、皇都と開戦すれば、ナイリュはあっさり負けるだろうよ」
 あっさりと    負ける?
 どういうこと?
 あさとの顔色を読んだのか、ロイドはわずかに訝しむような目になった。
「お前さん、薫州が、一日で制圧されたのを知らないのか」
 あさとは、目を見開いていた。
 ロイドはむしろ、憐れむような眼差しになる。
「たった半日の攻防で、法王軍は、薫州の城を壊滅させ、灰狼軍を皆殺しにしたんだとよ。薫州公フォードは逃げた    今でも、行方は判っていないそうだ」
「………」
「俺にも詳細はわからんがね、なんでも恐ろしい兵器が使われたって噂だよ。いままで、この世界には、有り得なかった新兵器だ」
 初めて暗い目になってうつむき、医術師は影のある微笑を浮かべた。
「この青州で、アシュラルとダーシーは、連日、その兵器を使った演習に明け暮れている。……いずれ、ウラヌスにもナイリュにも、新型兵器が使われることになるんだろう。おそらく法王軍は圧勝する。でも俺は恐ろしい、アシュラルは    一体、このシュミラクールをどう変えていくつもりなのかね」
「………」
 アシュラルと……話さなければ。
 あさとは重苦しい思いを抱いて、足を速めた。
 
 
 
 
 
 

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