5
「皇都に……帰るんだってね」
背後から、気遣うような声がした。
あさとは、ゆっくりと振り返った。
射るような午後の陽射しが逆光になっていたが、その声だけで、誰だか判る。
「うん……、明日の午後の船で、戻れることになったから」
少し眼を細めながら、そう答える。
立っていたカヤノは嘆息し、そしてあさとが座っていたベンチの隣に腰掛けた。
城の広い庭園 本殿から通路続きの一角に設けられたベンチに腰掛け、あさとはぼんやりと空を見ていた。
日に一度は、日光に当たった方がいい。御殿医にそう薦められ、午後のわずかな一時、あさとはいつもそうしていた。
「カヤノには、随分色々、迷惑かけたね」
あさとは呟いた。
この数日というもの、カヤノは毎日のようにゼウス城に通ってきてくれている。
辛いのは、むしろ いまだ夫から連絡のないカヤノだろうに、それでも、哀しむ素振りさえみせず、なにかれとなく、話相手になってくれる。
「もう、体調は大丈夫なの?」
「食欲もあるし、全然大丈夫」
あえて明るい声で言った。
「体重も増えたし、健康すぎるほど健康なんだって。御殿医も、これなら大丈夫だって言ってくれたの。だから、船旅の許可も出たのよ」
カヤノには 本当に、どれだけ感謝しても足りないほど、感謝している。だからこそ、これ以上の心配はかけたくない。
けれどカヤノの顔は、暗く翳ったままだった。
「アシュラルに……あれから、会えたの?」
「………」
アシュラルは、最初の夜から一夜明けた翌朝には、法王軍を率いて、別の小城へ移ってしまった。
あさとに詳しい事情は分からなかったが、ここ、青州で、大規模な軍事演習をするのが、彼の元々の目的だったらしい。
だから 結局、あの夜以来、あさとはアシュラルに会っていない。
「ねぇ、触って」
あさとはカヤノの手を取った。
「お腹がね、少しだけど、大きくなったような気がするの」
「……」
「気のせいかな、時々動くような気もするの、どう? 判る?」
「……クシュリナ……」
「……なんで、泣くの」
「……だって……」
ごめんね。
そう言うと、カヤノは眼をこすりながら立ち上がった。
「風が冷たいよ。……ここにいるなら、何か膝にかけた方がいい、もってくるから」
きびすを返した小さな背中が、宮殿のある方角へと消えていく。
アシュラル……。
あさとは、最初と同じように、咲き乱れる花の園に、ぼんやりと視線を預けた。
一人になると、いつも、彼のことを考えてしまう。
彼の閉ざされてしまった心を、取り戻す方法を考えてしまう。
まだ、望みが全て失われたわけではない。きっと……子供の顔さえ見れば、彼も。
( 何故なら、ラッセルは俺の兄だからだ)
希望はそこで、儚く揺らぐ。
兄。
二人に血のつながりがあることは、想像していなくもなかった。
アシュラルはコンスタンティノ大僧正の養子で、その出自は堅く秘密にされている。 だとしたら、隠れた兄弟がいてもおかしくはない。あり得ない話ではない。
でも。
ラッセルがアシュラルの…… 兄だなんて。
「クシュリナ様」
ふいに、懐かしい声が耳をついた。
さすがに驚いて振り返ったあさとの視界に、庭園の入り口にそびえたつポーチの柱、その影から、金羽宮の黒竜騎士の隊服が飛び込んできた。
黒のクロークを翻しているのは、見上げるほどの長身、そして、美しい口髭を生やした 。
「ジュール!」
思わず叫んで、立ちあがった。
「お元気そうで、なによりでございます」
ジュールは静かに歩み寄ると、膝をついた。そのまま顔を上げ、喜びを隠そうともせずに、口元をほころばせる。
「あなたも……」
最後に金羽宮で別れてから、どれくらいの時が過ぎたのだろう。
肩まで短く切りそろえられていた男の髪は、再び肩甲骨あたりまで伸びている。
そして、今、かつては背の半ばまであった長い髪を切っているのは、あさとの方だった。
「……髪を、お切りになられたのですね」
「うん……」
「お似合いになっておられます」
少し驚いて、そして、あさとは苦笑した。
ジュールは、多分、気を使ってくれているのだろう。そうでなければ、この男が、そんな言葉を口にするはずはない。
「そんなお世辞を言ったのは、ジュールが初めてよ。みんな、何も言わないけれど、非難めいた眼で見ているわ」
あさとのような身分の女で、ここまで短く髪を切る者はまずいない。
「そうでしょうか。私にはむしろ、その方があなたらしく見えますが」
ジュールはそう言って立ち上がった。
少し日に焼けているのは、ここまでの道中のせいだろう。イヌルダから青州までは、波が順調でも二十日ほどかかる。
彼の優しさ、髪のことをそんな風に言ってくれた気遣いに、 胸がいっぱいになったまま、あさとはしばらく何も言えなかった。
「ジュール? 嘘、ジュールなの?」
二人の背後から大きな声が響く。掛布を手にして駆け寄ってくるカヤノだった。顔いっぱいに、驚きと喜びを爆発させている。
「カヤノ」
ジュールは、飛びつくように駆け寄ってきたカヤノの肩を、両手で優しく抱きとめた。
「カヤノ、ラッセルは無事だぞ」
「本当に?」
ジュールの言葉は、あさとにとっても衝撃だった。
「港で一緒になった。今しがた、私と別れて自宅に戻ったところだ。お前も行ってやるがいい、さすがに疲れているはずだから」
「ロイドは」
「ラッセルと一緒にいる」
「…………」
カヤノの大きな眼に、みるみる涙の粒が膨れ、それは幾筋も頬を伝った。
強がっていても、明るく振舞っていても、その実、震えるほど心配していたのだろう。
よかった……。
あさとも、胸の奥が熱くなった。
よかった、ラッセルもロイドも無事だった……。これで、彼ら夫婦は、再び幸せな時を取り戻せるはずだ。
「カヤノ、早く行ってあげて」
「うん……」
涙を拭った瞳が、込み上げる嬉しさで輝いている。
その歓喜が、涙の美しさが、羨ましかった。
「外は冷える、中に戻りましょう」
駆けていくカヤノを見送った後、ジュールはそう言って振り返った。
6
「……私、随分、皆に心配を……」
庭園から宮殿に通じる渡り廊下を歩きながら、あさとは、ジュールの横顔にそう言った。
彼は何も言わないが、女皇不在の間、金羽宮は、相当混迷していたのだろう。
三笠宮ジョーニアス。あさとのナイル行きを最終的に決断してくれた貴族院長が、その役職を退いたと聞かされたのも、辛すぎる結末だった。
消息を絶っているセルジエは おそらくナイリュで極秘に暗殺されたのだろう。共に渡った騎士たちが、全員ではないにしろ、無事に戻ったと聞かされたことだけがせめてもの救いだった。
「いいのです、ご無事であらせられたのですから」
鉄面皮の横顔は静かなままだった。
「松園ルシエが、金羽宮から逃亡したことは、お聞きですか」
聞いている。あさとには何も言えなかった。
信じられなかったが、これまでの振る舞いを鑑みると、もう、疑う余地はない。ルシエは 金羽宮に居た頃から、サランナと通じていたのだ。
「さすがは灰色狼の娘というべきか。 全てはフォード公の謀りごとだったのでしょう。あの緊迫した情勢で、陛下を責められるものは誰もおりません」
ジュール……。
なぐさめだと判っていても、あさとは瞳の奥が熱くなるのを感じている。
が、ジュールはそこで表情を引き締め、初めてわずかな溜息をもらした。
「それでも、もし三鷹家がクシュリナ様を人質として拘束していたら、取り返しのつかない事態になっていたでしょう。 そうならなかったのは、本当に僥倖としか言いようが無い」
「………」
サランナが 逃がしてくれなかったら。
あさとは複雑な思いでうつむいた。
妹の目的は何なのだろう。私一人を追い詰めるために、ナイリュという国さえもないがしろにする その真意が、どうしても理解できない。
アシュラルを、取り戻すためなのだろうか? 判らない、彼女の奥底にあるものは、そんな単純な感情ではないような気がする。
「……アシュラルは、いま、どこにいるの?」
あさとが聞くと、ジュールは、少し、言いよどんだ。
「アシュラル様も、私と共に、さきほどこの城に到着なされました」
「………」
「……今、……お休みになっておいでですので」
その表情、口調で判った。ジュールもまた、全てを知っているのだと。
「………」
足を止めてしまったあさとに気づき、男は苦しそうに横顔を伏せた。
「お気持ちはお察しいたしますが、あの方の胸中もまた、複雑なのだとご理解ください」
「……ジュールも、……信じていないのね……」
「………」
「私だけなのね、信じているのは」
「……クシュリナ様」
美髯の下の唇から、嘆息がもれる。
「この話は、もうやめましょう。……あなた様は、ご無事にご出産なさることだけをお考えください」
「………」
「全てはその後のことです」
風が、強く吹き抜けて、庭園の花片を二人の周囲に舞い上げた。
陽射しは陰り、石畳の影が輪郭を滲ませている。
「……子供が産まれたら、彼は判ってくれるかしら」
ジュールは、それには答えなかった。
「皇室には、代々女の子しか産まれないと聞いたけれど、この子も女の子なのかしら」
言いながら、あさとは涙がこぼれそうになった。
こんな話をアシュラルとしてみたかった。産まれる子供の名前、性別、未来、 彼と話すことができたら、どれだけ嬉しかっただろう。
一人で、産むしかない。
それだけは確かだった。いずれにしろ、他に選択の余地はない。
ジュールは黙ったままだった。彼もまた、胸の内で苦しんでいるに違いない。彼が心を痛めるのは、おそらくアシュラルの内心を察してのことだろう。
もう、アシュラルの話はやめよう、とあさとは思った。
子供が生まれるまでは、 彼のことは、忘れた方がいい。
「ジュール……」
傍らの男を見上げた。最後にひとつだけ、どうしても聞いておきたいことがある。
「ラッセルが生きていたことを、どうして教えてくれなかったの」
「………」
「ラッセルと、……アシュラルは兄弟なのね」
その言葉に、引き結ばれていた男の唇が反応した。
「誰に、それを」
「アシュラルがそう言っていたわ。彼は……私とラッセルのことを疑っているみたいだった」
「………」
しばらくの沈黙の後、ようやくジュールは口を開いた。
「 そうです、アシュラルとラッセルは、兄弟、……双子の兄弟です」
7
双子……。
舞い上がる花片が視界を遮り、それは頬をかすめて、首筋に滑り落ちた。
あさとは、目から何かが落ちたのではないか、と思った。
双子。
その可能性を、考えたことはある。
余りに酷似した容姿、体格。 その、底に流れる本性。
でも……。
でも、それは、それだけは、ありえないと思っていた。だから否定し続けてきた。
彼らが双子だったとしたら。
青の年、クインティリスの獅子とは 。
ラッセルもまた、その人ということになるのではないか?
あさとの目を見て、ジュールはその疑念に気づいたのか、静かに首を横に振った。
「……一日早く生まれたのがラッセルであり、遅く産まれたのがアシュラルでした。その数時間の差が、二人の運命をわけたのです。片方は予言書にいうクインティリスの獅子として、産まれながら重い宿命を負うことになった。それが――アシュラルでした」
違った……
一瞬、自分の中に芽生えた複雑な感情を、あさとはどう表現していいかわからなかった。
「サランナは……アシュラルには、証があったと言ったわ」
予言の子としての、確かな証が。
「あったといいます。が、それはアシュラルの母と、アシュラルしか知らぬこと」
淡々とジュールは続けた。
「彼らが五つの年に、コンスタンティノ大僧正が、アシュラルを引き取りにやってきました。後は……以前お話したとおりです。一家はばらばらに引き離され、父親は収容され、母親は心を病んだまま病死しました。兄弟もそれぞれ、別の孤児院に引き去られました」
ジュールの横顔に、苦悩の影が滲んでいた。
あさとは、ふと顔を上げた。
ジュールは今、 アシュラルと呼んでいる。アシュラル様ではなく。
「それから、三年後のことでした。ばらばらになった兄弟たちを、千賀屋ディアス様が、呼び集められたのです。アシュラルを護る者として、彼の血縁者全てを、カタリナ修道院へ呼び集めた それが、ラッセルであり、彼らの長兄であるこの私でした」
あさとは今度こそ、本当に驚いていた。
ジュールが、アシュラルの、そしてラッセルの兄だった。 それは、想像さえしていなかった。
時折、ジュールのアシュラルに対する態度が、過剰すぎると思ったこともある。けれど、実の兄なら、その感情の機微も納得できる。
「……アシュラルは多分、ラッセルを憎んでいるのだと思います。いや、憎みながら愛しているのかもしれません。同じ双子として産まれながら、自分にないものを全て持っている自由な兄を……」
ラッセルが自由?
「……似過ぎている者がいるということは、因果なものです」
あさとは眉をひそめていた。
ラッセル 彼が、自由だったことなどあるのだろうか。
彼はいつも、誰かに膝をついていた。誰かの命令下にあり、決してそれに逆らおうとはしなかった。弟であるアシュラルにかしづき、黙として服従していた。ダーラが死んだ夜でさえ。
「……ラッセルは、弟に課された運命が不憫だからこそ、影に徹したのだと思います。けれど、一度死を経験してから、ラッセルは変わった。もう、アシュラルには関わりたくないと、初めてあの我慢強い男は、言いました」
もう、アシュラルには関わりたくない……。
「それは……」
ラッセルはもう、アシュラルを見限ったということなのだろうか。
あさとの問いに、ジュールは少し寂しそうに首を横に振った。
「……そうではないのです。いえ、どのみち、ラッセルは逃げられない、 逃げることなど、最初から出来ないのです。ただ、彼が傍にいれば、アシュラルが苦しむ。それを慮ってのことだと思います」
「どうして……アシュラルが苦しむの……?」
ジュールはそれには答えず、黙って口を引き結んだ。
それは彼の癖で、それ以上何かを語ることを拒んでいる、ということだった。
時がくれば、やがて判る 彼の目は、そう言っている。
「ジュール、もう一つだけ、確認したいの」
あさとは、自分の声がわずかに震えるのを感じた。
「ダーラの、お腹の子供は、……本当は、アシュラルの」
「クシュリナ様」
ジュールの声は厳しかった。
「それは、ダーラにしかわからないことです。実際はラッセルにも、アシュラルにもわからなかったのではないかと思います」
あなたのお腹の子供がそうであるように。
ジュールがそう続けるような気がして、あさとは思わずうつむいていた。
「アシュラルの子供よ……」
呟いた途端、収まっていた涙が、再びこぼれそうになった。
馬鹿だ、と思った、もう考えないと決めたのに、その端から、こんなにも彼のことで 頭が一杯になってしまっている。
「どうして、誰も頷いてくれないの? どうしてみんな、そんな悲しい眼で私を見るの?」
ジュールの目が、言い難い苦衷を湛えて見下ろしている。
「私には判るの、絶対にアシュラルの子供だわ、間違いないの。 なのに、どうしてみんな、それを信じてくれないの?」
「 信じられないからよ」
鋭い声が、あさとの耳を刺すように貫いた。
あさとは、はっとして顔を上げた。
庭園の半ばまで伸びているテラス。その大きな支柱の向こうに、見覚えのある姿があった。
背丈が随分伸び、長い髪が風に揺れていた。胸元の大きく開いた白いドレスが、彼女を実際より、随分年上に見せている。
「 ルナ」
あさとは眼を見開いた。ルナだ、ルナ 青州で別れたきりになっていたルナ。無事に皇都に戻ったとは聞いていた。が、誰に聞いても、ルナが今どこでどうしているか それを知る者はいなかった。
「ルナ……」
再会できた喜びと驚きで、少女の表情に気づくこともなく、あさとは傍へ駆け寄ろうとした。
「無事だったのね、ルナ、今まで一体 」
どこにいたの?
そう言おうとした時、彼女の影から、顔の上半分を兜で隠した男が、すっと姿を現した。
支柱が視界を遮っていたため、その長身に気づかなかった。
兜は白銀に紫の紋様。肩まで伸びた漆黒の髪。
アシュラル……?
あまりにも唐突だったので、あさとは言葉を失っていた。
彼はクロークを右肩にかけ、金刺繍の軍服を身につけていた。頭にはあの夜と同じ兜。紫に縁取られた底辺から、唇と、鋭い顎だけがのぞいている。
アシュラルは、そのまま、ルナの背後で足を止めた。
表情が 読めない、何を考えているのか判らない。
「ルナ、見たんだから、クシュリナの背中」
ルナの目は燃えていた。怒りとも、憤りともつかない何かで。
「クシュリナの背中に、いっぱい誰かのキスの痕がついてた。クシュリナ、ユーリって人に、法王様のこと、愛してるってはっきり言わなかった。クシュリナはずるい、汚い」
彼女の口から出てくる言葉の意味が、あさとにはわからなかった。
眩暈がして、立っていられなくなるほど息苦しくなった。
「クシュリナはユーリが好きなんだ。好きだから、あんなことを許したんだ。ルナは許さない、法王様を裏切ったクシュリナ、大嫌い」
「ルナ、よさないか」
あさとの背後にいたジュールが、溜まりかねたように口を挟んだ。
あさとは、何も言えなかった。まだ、ルナの怒りが理解できなかった。
背中に……キスの痕?
どういうことなのだろう。ルナの嘘なのか、勘違いなのか 、一体何の話なのか。
「ルナ、もういい」
アシュラルが低く言い、ルナの髪に指をからめて引き寄せた。
その仕草が持つ意味に、あさとは声を失った。
まさか。
ルナは逆らわずにアシュラルの胸に頬をよせ、愛しそうに眼を閉じた。
「……まるで、男のような髪だな」
彼の口元が、わずかに上がった。それが自分のことを差しているのだと、しばらくあさとにはわからなかった。
「昔のダーラに似ている、なるほど、ラッセルの好みというわけか」
初めて、怒りに近い感情が、胸にこみあげた。
「……下品な想像はやめて」
あさとは彼の見えない目を睨みながら言った。
「この間から何? 随分もってまわった言い方をするのね。言いたいことがあるなら、はっきりと言ったらどうなの」
「言ってもいいが、後悔するのはお前だぞ」
「何が言いたいわけ? そういう言い方が男らしくないっていうのよ」
「何だと?」
「 アシュラル!」
たまらず、ジュールが二人の間に割って入った。
「よせ、こんな公の場で、言い争うのは」
「三鷹ミシェルからご丁寧に書簡が届いた」
しかし、その静止を無視して、アシュラルは続けた。
「お前が奴の愛撫にどう反応し、どう応えたか、お前の身体のどこに、いくつ黒子があるのか、ありがたいほどこと細かく記してあった」
「……嘘よ」
あさとは震える声で言った。
「それは、嘘だわ」
覚えがない、そんなこと、記憶にない。
それでも、先日、湯あみを手伝ったくれた女官に、「こんなところに、珍しい黒子がおありなんですね」と右乳房の下を指して言われたことを、 その時にも、不思議な不吉さを感じたことを、あさとは思いだしていた。
乳房の下に並んだ三つの黒子……昔、一度みたことがある。雅の身体にあったものと同じ場所……。
そんな場所に、かつて黒子などなかった。丁度傷を負ったところだから、間違いない。
再会の夜、アシュラルは 何を見ていたのだろうか。
「サランナは、不思議な薬を使う。あれはそういう意味ではとても便利で、恐ろしい女だった」
「アシュラル、もうやめろ」
「お前など、サランナが本気になれば、いつでも彼女の意のままにされていたということだ。そんなことも知らず、ナイリュなどにのこのこと出かけて行った、己の軽率さを悔やむんだな」
「……何を……言ってるの……」
意味が判らない。理解できない。
「身体をいたわっていろ。なにしろ、お前が温めているのは、この世界を救う大切な救世主様だ。そして、せいぜい神にでも祈るんだな。生まれてくる子供がお前に似る事を、それから、なによりも女であることを」
………。
アシュラルの言葉が、意味を持たないままに、通り過ぎていく。
「お前の役目は、もうそれだけだ」
最後に冷たく言い放つと、アシュラルはルナを抱き寄せるようにしてきびすを返した。
あさとは動けなかった。衝撃で、言葉も出てこなかった。
「……ジュール、……」
自分の発する声が、自分のものとは思えなかった。
「……今のは、……どういうことなの……」
ジュールは苦い吐息を吐いた。そのままうつむき、彼は何事が逡巡していた。
あさとは考えていた。
確かに身に覚えはない。けれど 意識を失っていた時間はいくらでもある。
夜、床につき、気がついたら朝で、全身に倦怠感が残っていたことが何度もあった。何度も、何度も。
それは、薬の影響だと思っていたけれど。
「いや……」
あさとは口を覆った。吐き気がした。
想像するだけで、それは死を思うよりも辛いことだった。
「いや、いや、そんなの……そんなの、信じない」
「クシュリナ様」
じゃあ、この子は?
このお腹の子は?
ユーリの………。
「 いやぁっ」
叫んで、あさとはうずくまった。
夢なら覚めてほしかった。
( 誓ってもいいわ)
サランナの声がした。闇から聞こえた妹の哄笑。
( 金羽宮に戻っても、破局が待っているだけだから)
だから彼女は、私を逃がしてくれたのだろうか? このために、この絶望を思い知らせるためだけに。
こんなこと、あり得ない。あってはならない。アシュラルはもう戻らない、彼の心は このお腹の子がいる限り、私のところへは戻って来ない。
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