4
鷹宮家の居城 シュバイツァに着いたあさとは、休む間もなく、アシュラルを迎えるための身支度を整えた。
鷹宮家の御殿医は、即座に休息を要請したが、休む気持ちにはなれなかった。
アシュラルに会える。
やっと、会える。
溢れるような喜びと、同じくらい大きな不安が胸の中に混在している。
彼は、……許してくれるだろうか。
あんな馬鹿な真似をした私を、受け入れてくれるだろうか?
食事も喉を通らないまま、やがて日は暮れ、夜の闇が青州の城を包み込んだ。
「 船が遅れたって、ダーシー様が言ってたから、……夜になったし、大事をとったのね」
カヤノは嘆息して、組んでいた腕を解いた。
彼女はあれから、ずっと、あさとの傍についてくれている。
「……私、そろそろ部屋に戻るから。もう寝なさいよ、クシュリナ、あんたは……ただの身体じゃないんだから」
「わかった……」
素直にうなずくと、カヤノは安心したように、扉に手をかけた。そして、言いにくそうな顔で振り返った。
「私……明日は、いったん家に帰るから」
カヤノとラッセルは、郊外にある村落に家を借り、そこで暮らしていたらしい。
「ラッセルが帰ってきても、多分、ここには寄らないと思うの。私……あの家で、ラッセルとロイドを待たなきゃ」
「うん……」
心細かったが、仕方がないことだ。ラッセルとロイド。二人の安否の行方もまた、あさとの胸を重く沈み込ませている。
「もし、来られるようだったら、アシュラルと二人で、私たちの家に遊びに来て。何もないけど……たまには、みんなでお喋りするのもいいじゃない」
最後に明るくそう言って、カヤノはあさとの部屋から出て行った。
みんなで、お喋りって……。
あさとは少し可笑しくなって、それと同時に寂しくなった。
そんなアシュラルは想像できない。そんな風に、普通の人と同じように楽しい時間を過ごすことが……果たして、彼の人生にあるのだろうか?
寝台に横になったものの、あさとは、なかなか寝つけなかった。
気がかりが二つあり、それが胸苦しく心を締めつけている。
ひとつは、自分の中に息づいた新しい命のことだ。
予言書によれば、この胎児こそが、世界を救う救世主となるはずなのだ。
あさとはずっと考えていた。
自分がこの世界で、雅の前世かもしれない<クシュリナ>の中で、生き続けている意味を。
もしかしたら。
あの嵐の夜 <クシュリナ>の心は、死んでしまったのではないだろうか。
ダーラを死なせてしまった罪悪感。ラッセルからは憎悪の目を向けられ、サランナがいるすぐそばで、密かに恋していたアシュラルに無残な目に合わされた。
あさとですら、ショックのあまり、死んだように心を閉ざしてしまった。意識の何かかが突然弾け、覚醒するまで、まるで自分の身体が自分のものではないような、 そんな不思議な感覚がずっと続いていた。
雅は、解離性同一性障害だと……琥珀はそう言っていた。
多重人格。ひとつの身体に、複数の人格が存在する心の病気。
ひどく乱暴な例えだけど、私という存在も、クシュリナの身体に存在する人格のひとつなのではないだろうか。
クシュリナの中でずっと眠り続けていて 何かのはずみで、覚醒した。
以来、主人格になりかわって、この身体を支配しづつけている。
もし、そうなのだとしたら?
だとすれば、この世界の私とは、人格の欠片であって……人としての存在ではない……?
それは、足元が崩れるような不安な想像だった。いったい私とは何者だろう。人格とは、人の意識とは、どう定義すればいいのだろう。
が、いずれにしても、今、この身体の中に<クシュリナ>という意識は明確には存在しない。<あさと>の考え方や行動に、深い部分で影響を与えているような気はするけれど、実感としてその意識までは関知できない。
もし、自分の乱暴な想像が正しければ、あの嵐の夜、死んでしまった<クシュリナ>はきっと知らないのだ。
あの後の生が、どれだけ幸福であったかということを。
アシュラルに恋をして、そして、胸が痛むほど切なく、夢のような至福の時が、彼女を待っていたかということを 。
ラッセルの言うとおり、クシュリナとアシュラルは、きっと運命の糸で結ばれていたのだろう。
最初から、クシュリナの全てがアシュラルに向っていて、アシュラルの全てもまた、クシュリナに向っていたような気がする。
二人を結びつけた度重なる偶然も、そこでは、きっと、必然だった。
何故 ? これが、最初から予定されていた<救い>だから?
全ての運命が、予言を実現するためのものだとしたら……。
そのために 自分が、心をなくしたクシュリナの代わりに、この世界で生きているのだとしたら……。
でも……、何故、それが私なの? 雅ではなく。
それだけが、どうしても理解できない。自分の中にいるようで、いない。いないようで、いつも傍にいるような気がする 雅。
あなたは……どこにいるの……?
あさとは、自分の腹部にそっと触れた。ここに、自分ではない、別の命が宿っている。それは不思議で、そして神聖な感覚だった。
この子供を産めば、私の役割は、終わる……。
それは同時に、この世界での、旅の終わりを意味しているような気がした。
琥珀の後を追い、小田切の手を取り、わけがわからないままに飛びこんだ世界だった。むろん偶然だ。けれどそれは 上手くは言えないが、最初から予定されていたことだったような気もする。
そして、もう一つ。
あさとは寝返りを打ち、それでもひどい寝苦しさから逃れられず、寝台から身を起こした。
ラッセルのことだった。夕方になって、ふと気がついたことがあり、それがずっと、心の底に澱のように溜まったまま、離れなくなっている。
彼は、もしかして 本当は。
それ以上考えるのが辛くなって、あさとは上衣を羽織ると部屋を抜け出した。
シュバイツァ城の中のことなら、金羽宮以上によく知っている。
深夜だというのに、煌々と灯りのともされた宮殿の中は、階下に降りると、多くの人がざわめいている気配があった。
?
階段を下りて廊下に出ると、囁きのような声は、明確な響きに変わっていった。怒声、忙しなく交わされる会話、複数の靴音、 そんな音がいっしょくたになって、轟音のような響きをかもし出している。
あさとは回廊を抜け、二階の階段脇にある露台に出てみた。
そこは吹き抜けになっていて、一階の広場の様子を上から見る事ができる。
階下 そこは大きな広間だった。通常は、ただの広いだけの通路だが、公式の行事があれば、そこが式典の場に当てられていたはずだ。
その広間に、今、驚くほど多くの騎士たちがひしめいている。
みな、揃いの天色の騎士服を着て、クロークまで折り目正しく着用している。
こんな…時間に…?
輪の中心に、一際長身の、ダーシーの姿があった。彼は甲冑を身にまとい、何事かを周囲の者たちに伝達しているようだった。厳しい横顔は、普段の彼らしくない、苛立ちを顕わにしているようだ。周辺の騎士たちも、同じような緊張感をまとったまま、慌しく行き来している。
なんだろう……?
もしかして、ナイリュと開戦したのだろうか?
あさとは眉をひそめ、しっかりと手すりを掴んで、ダーシーの声を聞き取ろうと、身を乗り出した。
そのダーシーの顔が、ふと上がった。
たちまち緊張の色が、彼の表情に滲み出る。
同時に、広場にいたもの全てが動きを止め、我に返ったような素早さで、正面から進んでくる隊列に道を開けた。
整然と進み入ってくる隊列は、二十名ほどの騎士たちで構成されていた。みな白銀の甲冑に、紫のクロークを身につけている。あさとには、初めてみるような出で立ちだったが、クロークに記された紋章は、見慣れた法王軍の証である。
「法王様の御なりである」
誰かが、低く告げる声がした。
アシュラル…?
あさとが、はっと身を乗り出した時、隊列が割れ、その中心から、ひときわ目だって背の高い男が現れた。
……あ。
その刹那、心臓が、停止するのではないか、と思っていた。
彼は、紫模様の縁取りがついた銀の兜を被っていた。顔半分がそれで覆われ、顎の輪郭と唇、肩にかかるほど伸びた黒髪が、兜の下からのぞいている。
黒とみがまう紫のマントは一際長く、歩くたびに金刺繍を煌かせて翻っている。
「これは 法王様」
ダーシーは素早く駆け寄ると、少し離れた場所にかしずいた。
「このような時間に、よくぞわが城へ」
アシュラル。
アシュラルだ。
あさとは、きつく手すりを握ったまま、彼の姿を目で追った。
兜をしていても、その輪郭、その唇、 それだけで、彼だと判る。判る……でも、それは同時に、やはりラッセルと酷似していた。目が隠れているだけ、余計に。
アシュラルはダーシーに向かい、何かを言ったようだったが、その言葉はあさとには届かなかった。
広間は静まり返り、みなが、法王の存在に瞠目している。
白銀の甲冑に身を包んだ騎士たちは、法王の周囲をぐるりと囲み、四方に鋭い視線を向けている。まるで 主人の傍に、誰一人近づけまいとしているかのように。
ふと、兜に覆われた彼の顔が、あさとのいる方を見たような気がした。
気づかれた……?
鼓動が高鳴る。
この場合、どうしていいのか、あさとにはわからない。
このような普段の服で、公式の場に立つ彼の傍に出て行っていいはずはない。広間にいるダーシーたちは、先ほどからひどく緊張していて、 今、この瞬間にも、何かの作戦を遂行しているかのようだ。
しかし、法王は、何か一言囁いて、そのまま騎士の輪を離れた。周囲の人々の視線が、皆、彼の姿を追っている。
法王は アシュラルは、まっすぐ階段に歩み寄ると、あさとの方に向って階段を上がり始めた。
ダーシーの視線が、ちら、とこちらを見上げ、納得したように下ろされる。
法王を囲んでいた騎士たちは、そのまま隊列を崩して四方に散った。
広場は、再びざわめきをとりもどした。けれど、あさとの耳には 階段を上る彼の靴音しか聞こえなかった。
歩くたびに翻るクローク、そして、表情の判らない兜の下。
唇が険しい、怒っているようにも見える。
顎の線が、前よりきつくなったような気がした。痩せたのかもしれない。
彼の足が止まった。
人一人の距離を置いて、二人は殆ど半年ぶりに対峙した。
「………」
どうして何も言わないの……。
あさとは不安にかられ、彼の見えない表情を探った。
怒っているの? もう、……嫌われてしまったの……?
それとも。
はっと、胸に閃くものがあり、思わず目を逸らしていた。
そこで 決して、自分から逸らしてはいけないと判っていたのに、彼の視線を受け続けることが出来なくなっていた。
心臓が、怖いほどに高鳴っている。実際その思いは恐怖に近かった。
まさか 。
まさか、小田切さんが、覚醒してしまったんじゃ……。
視界の端にある、彼のクロークがふいに動く。
はっとする間もなく、あさとは腕を掴まれ、そのまま彼の胸に引き寄せられていた。
咄嗟に身体を硬くしていた。この胸の中にあるものが 小田切直人の感情であるのなら、雅の顔を持つクシュリナをどう思うのか。それが怖い。
けれど、アシュラルの腕は容赦なかった。乱暴とも言える力であさとを抱き寄せると、長いクロークで覆うようにして抱きかかえた。
「やめて」
ねじられる腕の痛みに、思わず驚いて抵抗した。
しかし彼は何も言わず、そのまま、あさとが元来た通路へと足を進めた。
5
あさとを抱きかかえたまま、アシュラルが扉を開けたのは、あさとの元いた部屋ではなかった。
彼は妻の部屋を知らない。 おそらく適当に扉を開けたのだろう、そこは、侍従たちが待機している雑居部屋だった。
激しい物音で目を覚ました彼らは、法王と、そして女皇の姿を認め、狼狽した。
「邪魔だ、出て行け」
アシュラルは低く言った。
声 彼の声。
こんな時でも、あさとは胸が高鳴るのを感じた。
何ヶ月ぶりに聞く、懐かしい響き。
ラッセルが、その声だけは、やはり元の彼であったように、アシュラルの声は、やはり、懐かしくて愛しい人のものだった。
「し、失礼しました」
失礼なのは、唐突に入ってきたアシュラルとあさとなのだが、むろん、侍従たちに逆らう意思はない。
彼らが慌てて出て行くと、部屋には二人だけが取り残された。
アシュラルが腕を解いたので、あさとは、彼から身を離し、少しの距離を置いて向き合った。
愛しい。嬉しい。胸が痛いほどに彼が恋しい。なのに 。
どうしていいのか判らない。
何を言っていいのかさえ判らない。
アシュラルは、身じろぎもせずに、じっと目の前に立つ女を見下ろしている。兜ごしだから、むろん、目の動きまでは判らない。でも、確かに、彼の強い視線を感じる。痛いほどの 眼差しを。
「………」
どうして……。
何も言わないのだろう。
どうして、兜を取ってはくれないのだろう。
不安だけが広がっていく。怖くて 眼を逸らしたくなる。
やがて、アシュラルの手が静かに上がり、顔半分を覆う兜に添えられた。
ゆっくりと外される兜の下に、黒い布のようなものが現れる。
何……?
最初、何があるのか判らなかった。しかし正面を向いた男の顔を見た途端、あさとは息を飲んでいた。
彼の端整な顔、その右半分は、片目ごと黒布で覆われていた。
「……これを外せば、二目と見られぬ醜い傷痕がある」
アシュラルの声は冷たかった。
残された瞳は暗く、陰鬱な光りが滲んでいる。
「命と引き換えに片目を失った。安いものだがな」
言うなり、彼はクロークを脱ぎ捨てた。
甲冑を着けていない男の身体は、以前よりも鋭さを増していた。衣服の上からでも、しなやかに痩せているのが判る。
彼の腕に両肩を抱かれ、そして、そのまま床に抱き倒されても あさとにはまだ、わからなかった。迷うような戸惑いと、恐ろしさ。
この人はアシュラル ?
それとも、小田切さん……?
いつものアシュラルではない、それだけは確かだ。
残酷なほどに冷たくて、容赦がない。まるで、最初の夜のように。
「いや……」
思わず、両腕で拒んでいた。
怖かった。
「俺が怖いか」
冷たい声。
「こんな顔になって、もう、見たくはないだろう」
違う。
そんなんじゃない。
肩でアシュラルの手を遮り、自分の衣服を併せて胸元を押さえながら、あさとは叫んだ。
「あ、あなたは、アシュラルなの?」
「……何?」
「あなたは……」
小田切さんじゃないの?
「 何を言ってる」
アシュラルが、微かに笑う気配がした。その冷淡な笑い方に、あさとは凍りついていた。
彼は確かに怒っているのだ。それも 尋常の怒り方ではない。
「お前には俺が誰に見える、ラッセルにでも見えるのか」
「………!」
怖いほどの力で、あさとは両肩をつかまれ、引き起こされた。
そのままアシュラルは、肩から衣服を引き下ろした。
「それとも、三鷹ミシェルに見えるか」
な。
何を言ってるの?
両腕をねじられるように押し倒された時、彼の膝がひどく腹部を圧迫しているのに気がついた。
あさとはもがいた。
「やめて、 お腹が」
「それがどうした」
「あ……」
赤ちゃんが。
容赦ない手が、あさとの右の乳房をつかんでねじりあげる。
「っ……」
痛い、わけがわからない、アシュラルが判らない。
痛みと、力で屈服させられる無力感で、悔し涙が滲む。
けれど、アシュラルは動かなかった。あさとの胸の一点を見つめたまま、男は氷のように動かなくなった。
?
うつむいた彼の表情は影に覆われ、それがどんな感情を抱いているか、判らない。
かなりの時間、彼はそのままの姿勢でいた。
やがて静かに手を離し、男はゆっくりと顔を上げた。
その眼は、まるで無表情だった。冷め切った眼差しのまま、アシュラルはあさとに背を向けた。
「……子供は産ませてやろう」
彼から発せられた言葉の意味が、あさとには判らなかった。
脱ぎ捨てたクロークを手早く羽織る背に、あさとは震える声で言った。
「……あなたの、子供なのよ」
「………」
彼は無言だった。
クロークを身に着け、元通りに兜を被ると、アシュラルはようやく振り返った。
「今更堕胎しても、お前の命に関わると医術師が言った。俺にとってはどうでもいい話だが、お前は一応女皇だからな、もう少し生きてもらった方が都合がいい」
何を言ってるの?
あさとは眩暈を感じた。何か言いたいのに、言葉が何も出てこなかった。
「子供は産め、しかし、俺が許すのはそこまでだ。お前の手元に置くことは許さん」
どうして!
愕然とし、そして理解した。アシュラルは 信じていないのだ。私を。
「あなたの子供なのよ」
あさとはもう一度繰り返した。
「絶対にあなたの子供なの。信じて、生まれたら判るわ、きっとあなたに」
あなたに、よく似た 。
アシュラルの唇が、歪んだように笑んだ。
「それが例え、銀の髪、灰の眼をしていなくても」
あさとは自分の足が震えるのを感じた。
アシュラルの心は、完全に閉ざされている。
「それが、俺と同じ眼をし、俺と同じ髪をしていたとしても」
クロークが、無情に翻った。
「俺はもう、お前を信じることができない。何故ならラッセルは俺の兄だからだ」
………。
扉が閉まった。
あさとは、呆然としたまま、呼吸をすることさえ出来なかった。
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