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 鷹宮家の居城    シュバイツァに着いたあさとは、休む間もなく、アシュラルを迎えるための身支度を整えた。
 鷹宮家の御殿医は、即座に休息を要請したが、休む気持ちにはなれなかった。
 アシュラルに会える。
 やっと、会える。
 溢れるような喜びと、同じくらい大きな不安が胸の中に混在している。
     彼は、……許してくれるだろうか。
 あんな馬鹿な真似をした私を、受け入れてくれるだろうか?
 食事も喉を通らないまま、やがて日は暮れ、夜の闇が青州の城を包み込んだ。
    船が遅れたって、ダーシー様が言ってたから、……夜になったし、大事をとったのね」
 カヤノは嘆息して、組んでいた腕を解いた。
 彼女はあれから、ずっと、あさとの傍についてくれている。
「……私、そろそろ部屋に戻るから。もう寝なさいよ、クシュリナ、あんたは……ただの身体じゃないんだから」
「わかった……」
 素直にうなずくと、カヤノは安心したように、扉に手をかけた。そして、言いにくそうな顔で振り返った。
「私……明日は、いったん家に帰るから」
 カヤノとラッセルは、郊外にある村落に家を借り、そこで暮らしていたらしい。
「ラッセルが帰ってきても、多分、ここには寄らないと思うの。私……あの家で、ラッセルとロイドを待たなきゃ」
「うん……」
 心細かったが、仕方がないことだ。ラッセルとロイド。二人の安否の行方もまた、あさとの胸を重く沈み込ませている。
「もし、来られるようだったら、アシュラルと二人で、私たちの家に遊びに来て。何もないけど……たまには、みんなでお喋りするのもいいじゃない」
 最後に明るくそう言って、カヤノはあさとの部屋から出て行った。
     みんなで、お喋りって……。
 あさとは少し可笑しくなって、それと同時に寂しくなった。
 そんなアシュラルは想像できない。そんな風に、普通の人と同じように楽しい時間を過ごすことが……果たして、彼の人生にあるのだろうか?
 寝台に横になったものの、あさとは、なかなか寝つけなかった。
 気がかりが二つあり、それが胸苦しく心を締めつけている。
 ひとつは、自分の中に息づいた新しい命のことだ。
 予言書によれば、この胎児こそが、世界を救う救世主となるはずなのだ。
 あさとはずっと考えていた。
 自分がこの世界で、雅の前世かもしれない<クシュリナ>の中で、生き続けている意味を。
     もしかしたら。
 あの嵐の夜    <クシュリナ>の心は、死んでしまったのではないだろうか。
 ダーラを死なせてしまった罪悪感。ラッセルからは憎悪の目を向けられ、サランナがいるすぐそばで、密かに恋していたアシュラルに無残な目に合わされた。
 あさとですら、ショックのあまり、死んだように心を閉ざしてしまった。意識の何かかが突然弾け、覚醒するまで、まるで自分の身体が自分のものではないような、    そんな不思議な感覚がずっと続いていた。
 雅は、解離性同一性障害だと……琥珀はそう言っていた。
 多重人格。ひとつの身体に、複数の人格が存在する心の病気。
 ひどく乱暴な例えだけど、私という存在も、クシュリナの身体に存在する人格のひとつなのではないだろうか。
 クシュリナの中でずっと眠り続けていて    何かのはずみで、覚醒した。
 以来、主人格になりかわって、この身体を支配しづつけている。
 もし、そうなのだとしたら?
 だとすれば、この世界の私とは、人格の欠片であって……人としての存在ではない……?
 それは、足元が崩れるような不安な想像だった。いったい私とは何者だろう。人格とは、人の意識とは、どう定義すればいいのだろう。
 が、いずれにしても、今、この身体の中に<クシュリナ>という意識は明確には存在しない。<あさと>の考え方や行動に、深い部分で影響を与えているような気はするけれど、実感としてその意識までは関知できない。
 もし、自分の乱暴な想像が正しければ、あの嵐の夜、死んでしまった<クシュリナ>はきっと知らないのだ。
 あの後の生が、どれだけ幸福であったかということを。
 アシュラルに恋をして、そして、胸が痛むほど切なく、夢のような至福の時が、彼女を待っていたかということを   
 ラッセルの言うとおり、クシュリナとアシュラルは、きっと運命の糸で結ばれていたのだろう。
 最初から、クシュリナの全てがアシュラルに向っていて、アシュラルの全てもまた、クシュリナに向っていたような気がする。
 二人を結びつけた度重なる偶然も、そこでは、きっと、必然だった。
 何故    ? これが、最初から予定されていた<救い>だから?
     全ての運命が、予言を実現するためのものだとしたら……。
 そのために    自分が、心をなくしたクシュリナの代わりに、この世界で生きているのだとしたら……。
     でも……、何故、それが私なの? 雅ではなく。
 それだけが、どうしても理解できない。自分の中にいるようで、いない。いないようで、いつも傍にいるような気がする    雅。
     あなたは……どこにいるの……? 
 あさとは、自分の腹部にそっと触れた。ここに、自分ではない、別の命が宿っている。それは不思議で、そして神聖な感覚だった。
 この子供を産めば、私の役割は、終わる……。
 それは同時に、この世界での、旅の終わりを意味しているような気がした。
 琥珀の後を追い、小田切の手を取り、わけがわからないままに飛びこんだ世界だった。むろん偶然だ。けれどそれは    上手くは言えないが、最初から予定されていたことだったような気もする。
 そして、もう一つ。
 あさとは寝返りを打ち、それでもひどい寝苦しさから逃れられず、寝台から身を起こした。
 ラッセルのことだった。夕方になって、ふと気がついたことがあり、それがずっと、心の底に澱のように溜まったまま、離れなくなっている。
 彼は、もしかして    本当は。
 それ以上考えるのが辛くなって、あさとは上衣を羽織ると部屋を抜け出した。
 シュバイツァ城の中のことなら、金羽宮以上によく知っている。
 深夜だというのに、煌々と灯りのともされた宮殿の中は、階下に降りると、多くの人がざわめいている気配があった。
    
 階段を下りて廊下に出ると、囁きのような声は、明確な響きに変わっていった。怒声、忙しなく交わされる会話、複数の靴音、    そんな音がいっしょくたになって、轟音のような響きをかもし出している。
 あさとは回廊を抜け、二階の階段脇にある露台に出てみた。
 そこは吹き抜けになっていて、一階の広場の様子を上から見る事ができる。
 階下    そこは大きな広間だった。通常は、ただの広いだけの通路だが、公式の行事があれば、そこが式典の場に当てられていたはずだ。
 その広間に、今、驚くほど多くの騎士たちがひしめいている。
 みな、揃いの天色の騎士服を着て、クロークまで折り目正しく着用している。
     こんな…時間に…?
 輪の中心に、一際長身の、ダーシーの姿があった。彼は甲冑を身にまとい、何事かを周囲の者たちに伝達しているようだった。厳しい横顔は、普段の彼らしくない、苛立ちを顕わにしているようだ。周辺の騎士たちも、同じような緊張感をまとったまま、慌しく行き来している。
     なんだろう……?
 もしかして、ナイリュと開戦したのだろうか?
 あさとは眉をひそめ、しっかりと手すりを掴んで、ダーシーの声を聞き取ろうと、身を乗り出した。
 そのダーシーの顔が、ふと上がった。
 たちまち緊張の色が、彼の表情に滲み出る。
 同時に、広場にいたもの全てが動きを止め、我に返ったような素早さで、正面から進んでくる隊列に道を開けた。
 整然と進み入ってくる隊列は、二十名ほどの騎士たちで構成されていた。みな白銀の甲冑に、紫のクロークを身につけている。あさとには、初めてみるような出で立ちだったが、クロークに記された紋章は、見慣れた法王軍の証である。
「法王様の御なりである」
 誰かが、低く告げる声がした。
     アシュラル…?
 あさとが、はっと身を乗り出した時、隊列が割れ、その中心から、ひときわ目だって背の高い男が現れた。
     ……あ。
 その刹那、心臓が、停止するのではないか、と思っていた。
 彼は、紫模様の縁取りがついた銀の兜を被っていた。顔半分がそれで覆われ、顎の輪郭と唇、肩にかかるほど伸びた黒髪が、兜の下からのぞいている。
 黒とみがまう紫のマントは一際長く、歩くたびに金刺繍を煌かせて翻っている。
「これは    法王様」
 ダーシーは素早く駆け寄ると、少し離れた場所にかしずいた。
「このような時間に、よくぞわが城へ」
     アシュラル。
 アシュラルだ。
 あさとは、きつく手すりを握ったまま、彼の姿を目で追った。
 兜をしていても、その輪郭、その唇、    それだけで、彼だと判る。判る……でも、それは同時に、やはりラッセルと酷似していた。目が隠れているだけ、余計に。
 アシュラルはダーシーに向かい、何かを言ったようだったが、その言葉はあさとには届かなかった。
 広間は静まり返り、みなが、法王の存在に瞠目している。
 白銀の甲冑に身を包んだ騎士たちは、法王の周囲をぐるりと囲み、四方に鋭い視線を向けている。まるで    主人の傍に、誰一人近づけまいとしているかのように。
 ふと、兜に覆われた彼の顔が、あさとのいる方を見たような気がした。
     気づかれた……?
 鼓動が高鳴る。
 この場合、どうしていいのか、あさとにはわからない。
 このような普段の服で、公式の場に立つ彼の傍に出て行っていいはずはない。広間にいるダーシーたちは、先ほどからひどく緊張していて、    今、この瞬間にも、何かの作戦を遂行しているかのようだ。
 しかし、法王は、何か一言囁いて、そのまま騎士の輪を離れた。周囲の人々の視線が、皆、彼の姿を追っている。
 法王は    アシュラルは、まっすぐ階段に歩み寄ると、あさとの方に向って階段を上がり始めた。
 ダーシーの視線が、ちら、とこちらを見上げ、納得したように下ろされる。
 法王を囲んでいた騎士たちは、そのまま隊列を崩して四方に散った。
 広場は、再びざわめきをとりもどした。けれど、あさとの耳には    階段を上る彼の靴音しか聞こえなかった。
 歩くたびに翻るクローク、そして、表情の判らない兜の下。
 唇が険しい、怒っているようにも見える。
 顎の線が、前よりきつくなったような気がした。痩せたのかもしれない。
 彼の足が止まった。
 人一人の距離を置いて、二人は殆ど半年ぶりに対峙した。
「………」
     どうして何も言わないの……。
 あさとは不安にかられ、彼の見えない表情を探った。
 怒っているの? もう、……嫌われてしまったの……?
 それとも。
 はっと、胸に閃くものがあり、思わず目を逸らしていた。
 そこで    決して、自分から逸らしてはいけないと判っていたのに、彼の視線を受け続けることが出来なくなっていた。
 心臓が、怖いほどに高鳴っている。実際その思いは恐怖に近かった。
 まさか   
 まさか、小田切さんが、覚醒してしまったんじゃ……。
 視界の端にある、彼のクロークがふいに動く。
 はっとする間もなく、あさとは腕を掴まれ、そのまま彼の胸に引き寄せられていた。
 咄嗟に身体を硬くしていた。この胸の中にあるものが    小田切直人の感情であるのなら、雅の顔を持つクシュリナをどう思うのか。それが怖い。
 けれど、アシュラルの腕は容赦なかった。乱暴とも言える力であさとを抱き寄せると、長いクロークで覆うようにして抱きかかえた。
「やめて」
 ねじられる腕の痛みに、思わず驚いて抵抗した。
 しかし彼は何も言わず、そのまま、あさとが元来た通路へと足を進めた。
 
 
                  
 
 
 あさとを抱きかかえたまま、アシュラルが扉を開けたのは、あさとの元いた部屋ではなかった。
 彼は妻の部屋を知らない。    おそらく適当に扉を開けたのだろう、そこは、侍従たちが待機している雑居部屋だった。
 激しい物音で目を覚ました彼らは、法王と、そして女皇の姿を認め、狼狽した。
「邪魔だ、出て行け」
 アシュラルは低く言った。
 声    彼の声。
 こんな時でも、あさとは胸が高鳴るのを感じた。
 何ヶ月ぶりに聞く、懐かしい響き。
 ラッセルが、その声だけは、やはり元の彼であったように、アシュラルの声は、やはり、懐かしくて愛しい人のものだった。
「し、失礼しました」
 失礼なのは、唐突に入ってきたアシュラルとあさとなのだが、むろん、侍従たちに逆らう意思はない。
 彼らが慌てて出て行くと、部屋には二人だけが取り残された。
 アシュラルが腕を解いたので、あさとは、彼から身を離し、少しの距離を置いて向き合った。
 愛しい。嬉しい。胸が痛いほどに彼が恋しい。なのに   
 どうしていいのか判らない。
 何を言っていいのかさえ判らない。
 アシュラルは、身じろぎもせずに、じっと目の前に立つ女を見下ろしている。兜ごしだから、むろん、目の動きまでは判らない。でも、確かに、彼の強い視線を感じる。痛いほどの    眼差しを。
「………」
     どうして……。
 何も言わないのだろう。 
 どうして、兜を取ってはくれないのだろう。
 不安だけが広がっていく。怖くて    眼を逸らしたくなる。
 やがて、アシュラルの手が静かに上がり、顔半分を覆う兜に添えられた。
 ゆっくりと外される兜の下に、黒い布のようなものが現れる。
     何……?
 最初、何があるのか判らなかった。しかし正面を向いた男の顔を見た途端、あさとは息を飲んでいた。
 彼の端整な顔、その右半分は、片目ごと黒布で覆われていた。
「……これを外せば、二目と見られぬ醜い傷痕がある」
 アシュラルの声は冷たかった。
 残された瞳は暗く、陰鬱な光りが滲んでいる。
「命と引き換えに片目を失った。安いものだがな」
 言うなり、彼はクロークを脱ぎ捨てた。
 甲冑を着けていない男の身体は、以前よりも鋭さを増していた。衣服の上からでも、しなやかに痩せているのが判る。
 彼の腕に両肩を抱かれ、そして、そのまま床に抱き倒されても    あさとにはまだ、わからなかった。迷うような戸惑いと、恐ろしさ。
 この人はアシュラル   
 それとも、小田切さん……?
 いつものアシュラルではない、それだけは確かだ。
 残酷なほどに冷たくて、容赦がない。まるで、最初の夜のように。
「いや……」
 思わず、両腕で拒んでいた。
 怖かった。
「俺が怖いか」
 冷たい声。
「こんな顔になって、もう、見たくはないだろう」
     違う。
 そんなんじゃない。
 肩でアシュラルの手を遮り、自分の衣服を併せて胸元を押さえながら、あさとは叫んだ。
「あ、あなたは、アシュラルなの?」
「……何?」
「あなたは……」
     小田切さんじゃないの?
    何を言ってる」
 アシュラルが、微かに笑う気配がした。その冷淡な笑い方に、あさとは凍りついていた。
 彼は確かに怒っているのだ。それも    尋常の怒り方ではない。
「お前には俺が誰に見える、ラッセルにでも見えるのか」
「………!」
 怖いほどの力で、あさとは両肩をつかまれ、引き起こされた。
 そのままアシュラルは、肩から衣服を引き下ろした。
「それとも、三鷹ミシェルに見えるか」
      な。
 何を言ってるの?
 両腕をねじられるように押し倒された時、彼の膝がひどく腹部を圧迫しているのに気がついた。
 あさとはもがいた。
「やめて、    お腹が」
「それがどうした」
「あ……」
     赤ちゃんが。
 容赦ない手が、あさとの右の乳房をつかんでねじりあげる。
「っ……」
 痛い、わけがわからない、アシュラルが判らない。
 痛みと、力で屈服させられる無力感で、悔し涙が滲む。
 けれど、アシュラルは動かなかった。あさとの胸の一点を見つめたまま、男は氷のように動かなくなった。
    
 うつむいた彼の表情は影に覆われ、それがどんな感情を抱いているか、判らない。
 かなりの時間、彼はそのままの姿勢でいた。
 やがて静かに手を離し、男はゆっくりと顔を上げた。
 その眼は、まるで無表情だった。冷め切った眼差しのまま、アシュラルはあさとに背を向けた。
「……子供は産ませてやろう」
 彼から発せられた言葉の意味が、あさとには判らなかった。
 脱ぎ捨てたクロークを手早く羽織る背に、あさとは震える声で言った。
「……あなたの、子供なのよ」
「………」
 彼は無言だった。
 クロークを身に着け、元通りに兜を被ると、アシュラルはようやく振り返った。
「今更堕胎しても、お前の命に関わると医術師が言った。俺にとってはどうでもいい話だが、お前は一応女皇だからな、もう少し生きてもらった方が都合がいい」
     何を言ってるの?
 あさとは眩暈を感じた。何か言いたいのに、言葉が何も出てこなかった。
「子供は産め、しかし、俺が許すのはそこまでだ。お前の手元に置くことは許さん」
     どうして!
 愕然とし、そして理解した。アシュラルは    信じていないのだ。私を。
「あなたの子供なのよ」
 あさとはもう一度繰り返した。
「絶対にあなたの子供なの。信じて、生まれたら判るわ、きっとあなたに」
 あなたに、よく似た   
 アシュラルの唇が、歪んだように笑んだ。
「それが例え、銀の髪、灰の眼をしていなくても」
 あさとは自分の足が震えるのを感じた。
 アシュラルの心は、完全に閉ざされている。
「それが、俺と同じ眼をし、俺と同じ髪をしていたとしても」
 クロークが、無情に翻った。
「俺はもう、お前を信じることができない。何故ならラッセルは俺の兄だからだ」
     ………。
 扉が閉まった。
 あさとは、呆然としたまま、呼吸をすることさえ出来なかった。
 
 
 
 
 
 

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