視界が、ひどく朦朧としている。
 虚ろな気持ちのまま、あさとはぼんやりと瞬きを繰り返した。
「クシュリナ、気がついた?」
 目の前に、覆い被さるようにして、のぞきこんでいる影がある。
「よかった……。まだ、熱があるんだから、しっかり寝ておきなさいよ」
 薄闇の中に輪郭が浮きあがった。    カヤノだ。
 カヤノ………    ラッセル。
 あさとは、我に返って跳ね起きていた。
    ラッセルは?!」
 その剣幕が激しかったのか、カヤノの眼が驚いている。
 叫んでから、ようやくあさとは、気がついた。ここは    何処だろう。暖かな掛布。何日ぶりかの心地よいぬくもり。
「……ラッセルは……?」
 もう一度、そう聞きながら、自分の記憶が、    まるで本を紐解くように、一気に蘇って行くのを感じていた。
 そうだ、ラッセルは。
 ナイリュの海岸で、彼は   
 彼は、ユーリの軍勢に囲まれて。……
「……カヤノ……」
 目の前のカヤノを見た。尖った顎、色褪せた唇、心労でやつれ果てたラッセルの妻。海岸で、あんなにも幸せな再会を果たしていた二人を    また、私は。
「カヤノ……ごめんなさい……」
「クシュリナ」
 戸惑ったような腕が、優しく肩を抱いてくれた。
「馬鹿ね、なんであんたが謝るのよ。ラッセルなら、絶対大丈夫だから」
 その声は、弱くはあったが、気丈な響きをたたえていた。
「海に飛び込むところまでは見たの。あの人、泳ぎは昔から得意だったから、大丈夫。すぐにロイドを連れて戻ってくるわよ」
 自分に言い聞かせているような口調だった。が、カヤノの表情は、本当に落ち着いて見えた。それが妻の自信というものなのだろうか    あさとには判らなかった。少なくとも、アシュラルの時ですら平静ではいられなかった自分に、判るはずがない。
「……ここは、船の中なのね」
 身体が覚えている嫌な感覚。薄暗くて狭い室内。染み付いた潮の香り。あさとは自然に口元を押さえていた。わずかだが吐き気がする。
「そう、あんたは、まる二日眠りっぱなしだったのよ。明日には、青州につくから安心して」
 船の中、    だから気分がひどく悪いのだ。
 そう思い、身体を起こしかけた時だった。
「それから」
 カヤノはあさとをじっと見て、何かを言いかけて口をつぐんだ。少しの間躊躇して、それから、取り繕ったような笑みを浮かべた。
「おめでとうって言っていいのよね」
    ?」
 こんな時に何を言うんだろう。
 言葉の意味も、その表情の意味も判らず、あさとは眉をひそめていた。
「あんたを診た船医がね、どうも妊娠してるようだって言うの。身重の身体でよくもまぁ、あんな真似ができたものね。アシュラルが聞いたら、そりゃ怒るわよ」
 あさとの顔を見もせずに一気に言う。
「………」
     妊娠?
「アシュラルがイヌルダにいたのって、もう五ヶ月も前だから……今、それくらいになるのかしらね。あんまり痩せてるから、浜辺では判らなかったけど」
「………」
「……クシュリナ…」
「………」
「……もしかして、全然、……気がついてなかったの?」
 何時からだろう。いつから   
 混乱して、記憶が上手く手繰れない。
 <クシュリナ>の月のものは、昔から不安定で、長くなかったりすることは再々だったから、    そういった変化を、特に気にしたこともなかった。
 そうだ、確かにずっと訪れはなかった。アシュラルが金羽宮にいて    最後に二人で過ごしてから、ずっと。
 でも。まさか、そんな。
 ずっと気分が悪かったのも確かだ。船酔いだと思っていた。もしそれが悪阻だったとしたら?
     あの人の、子供……?
 アシュラルはどれだけ喜ぶだろう。それを想像するだけで、自らの身体の変調など、気にならなくなるほど嬉しい。
 でも。   
    君は妊娠している、俺の子供だ)
 じゃあ、あれは   
 あれは、なんだったの?
 込み上げる不安が、喉を詰まらせる。
 何故、ユーリは、あんなことを言ったのだろう。
 あさとに覚えはない。覚えがあるのはただ一人、アシュラルだけだ。
     覚え……。
 覚えてないとしたら?
 ふいに目の前が暗くなり、あさとは自分の身体を抱きしめた。指がかすかに震えている。
「クシュリナ……?」
 覗き込むカヤノの顔は、ひどく不安そうだった。
「カヤノ、……私、本当に今、五ヶ月くらいなの?」
「……何いってんの、そんなの」
「医術師は……なんて言ってたの?」
「……それは、……あんたにしか、判らないことじゃない」
 カヤノの声が揺らいでいる。眼を合わそうとしない曖昧な表情。
「……医術師も、……はっきりと、産月までは、わかんないって、……あんたの、その、……時期とか、身体の変化とか」
「もう、いい……」
「クシュリナ」
 あさとは、カヤノの顔を見られなかった。恐ろしかった。口調で判る、カヤノもまた、私と同じ疑念に取り付かれている。
 あれは    悪阻だったのだろうか、それとも船酔いだったのだろうか。
 ずっと気分が悪かった。今だって吐き気がする。
 もし、今が妊娠して三ヶ月くらいだったなら   
 ぞっとした。想像するだけで、胃の中のものを全て嘔吐してしまいそうだった。
 そして、ようやく理解した。
 ラッセルは知っていたのだ。
 だから、馬を使わなかった。だから、走らせるような真似をしなかった。だから、再々休みをとってくれたのだ。
 では、何故   
 妊娠しているということを、一言も言ってはくれなかったのか。
「………」
 黙りこんでしまったあさとのせいか、カヤノは、ますます不安気な顔になった。 そして、意を決したように、膝を折ると、うつむいたあさとの手を握った。
「ごめん。なんか、こういうの嫌だから、はっきり聞くけど」
「………」
「クシュリナ、まさかとは、思うんだけど……」
「………」
「アシュラルの……じゃ、ないの……?」
 はっきりと問われ、逆にあさとは、我に返ったように確信していた。
     違う。
 違う、絶対に違う。
 これは    、この子は、アシュラルの子供だ。誰がなんと言おうと。誰がどう疑おうとも。私には判る、確信できる。
 彼しかいない、彼しか    あり得ない。
 いくらユーリが私を恨んでいたとしても、そんな真似、絶対にできるはずがない。
「いいえ、カヤノ」
 あさとはゆっくりと首を横に振った。
「彼の子供だわ……」
     では、この子が。
 もしかして、世界を変えるという救世主……?
 カヤノは、複雑な表情のまま、苦しそうに目を逸らす。
 それさえも気にならないほど、今、別の感情が、ゆっくりとあさとを不安にさせていた。
 世界を救う救世主。では、この子を産んでしまえば。
     私の、この世界での役割は終わるのだろうか……。
  
  
                 
  
  
 翌日、ようやく甲板に出ることを許されたあさとは、外の景色を見て息を飲んだ。
 そこはすでに青洲の港カラムだった。船は昨夜遅く、港に寄航していたのだ。
 ようやくナイリュの支配権から抜けた。ここはもうイヌルダ、皇都の支配下にある州なのだ。   
 無事に……戻って、こられたんだ。
 海風に髪をなぶられながら、あさとは薄く滲んだ涙を拭った。
 安堵の中、けれど、やるせない悲しみが突き上げる。
 きっと、これから青州に着くたびに、同じ思いにさいなまれるだろう。
 セルジエ……そして、皇都から自分を護ってくれた騎士たちを、あさとはこの街で失くしたのだ。いや、自分の愚かさから、むざと死なせてしまったのだ。
 この償いを    重すぎる罪を、これから、どうやって贖っていけばいいのだろうか。
 強くなる風を避けた時、ふと、あさとは視線を止めていた。
 わずかに離れた場所に停まっている軍船。明らかに客船とは違う、灰色の大きな船が、港から少し離れた入り江に、列を組むようにして停泊している。船の側面には    法王の記章が記されていた。
「法王軍……?」
 まさか、あれが皇都からの迎えだろうか。それにしては大げさだし、ものものしすぎる。
 異常な光景は、港内でも同じように広がっていた。
 天色の甲冑。揃いの馬具。鷹宮家の騎馬軍が隊列をなし、港全体を占拠している。
「やれやれ、大変なことになっちまった」
 背後に立つ、密輸船の船長    ゴドバがぼやくように呟いた。
「お尋ね者の密航船に、領主様の出迎えとはね。天地がひっくり返っちまう」
 昨夜、寄航してすぐに、カヤノがダーシーに使者を飛ばしてくれたのだろう。カヤノの話では、ダーシー自らが兵を率いて港まで赴いているらしい。
「いいじゃない、今回に限り、ダーシー様は、あんたを見逃すって言ってるんだから」
 カヤノは両手を腰にあて、ぼやくゴドバを睨みつけた。
「しかも、褒美をたんまりと取らせるそうよ。あんたは、行方不明の女皇陛下を送り届けた英雄なんだから、いつまでもぐずぐず言わないで」
 軍に占拠された港は、厳粛な緊張感に包まれ、怖いくらいに静まり返っていた。行き交う街の人々も、畏れをなしてか、みな無口だ。
     こんなに、大げさにするなんて。
 社交辞令を嫌うダーシーらしくない、とあさとは思った。そして、ふいに不安になった。
 ひょっとして……もう、イヌルダとナイリュは、開戦したのではないだろうか   
 その想像が、どうしようもなく胸をざわつかせる。
 今、開戦してしまったら、ラッセルとロイドは、あの国に足止めされてしまうだろう。帰る術はあるのだろうか、本当に、正体は露見していないのだろうか……。
 沈うつな気持ちのまま、あさとは、下船の時を待った。とにかくダーシーと話さなければならない。
「すいませんがね」
 ようやく船を下りる段になった時、突然ゴドバが、あさとの傍に寄ってきた。傍らに立つ、カヤノの眼を盗むようにしている。
 彼の肩には、ナイリュの港で見た翡翠色の小鳥が乗っていた。
 あの日と同じ声で、甲高く三度囀る。
(あれは、ゴドバの鳥で、仲間内への合図がわりに使うのだそうよ。あんなに可愛いがっているのに名前をつけてないの。本当に男って野放図なんだから)
 旅の途中に、カヤノにそう聞かされていた。
 港で、木犀軍に取り囲まれた時、    ラッセルが海に飛び込む直前、確かにあさとも、この鳥が空を横切るのを見た。とすれば、それがゴドバとラッセルの間で交わされた合図だったのだろう。
「ちょいと、確認しておきたいことがあるんで」
 カヤノの様子を盗み見るようにしながら、ゴドバは続けた。
「船代のことなんですがね。後で、だんなに請求するつもりでしたが、だんながおっ死んでた場合は、どうすりゃええんで」
 無慈悲な物言いに、あさとは少し驚いた。
 けれどすぐに思い直した。、ゴドバにしてみれば、それは最もな要求だ。
 ダーシーが、別途、報酬を渡すのだろうが、確かに、最初にゴドバと契約したのはラッセルだし、そして、この一見薄気味悪い容貌の男は、契約を護り、命がけでナイリュを脱出させてくれたのだ。
「私が用立てるわ、金額を言って」
 あさとは男の要求を聞き、後でダーシーから払ってもらうよう、算段をつけた。無論それは、後日自身で負担しなければならない。
「ありがとうごぜえやす」
 ゴドバは慇懃に礼を言った。あさとも、敬意をこめて礼を言った。実際、彼の機転のおかげで、窮地を脱することができたのだから。
「コハクのダンナが、生きていたら、よろしく言っておいてくださいよ」
 ゴドバは最後にそう言って、蓬髪を翻し、逞しい背を向けた。
     コハク。
 あさとは吃驚して立ちすくんでいた。
 コハク、……ああ、そうか、ラッセルは、私の願いどおりに偽名を使ってくれていたんだ。
 律儀な彼らしい、けれど。
     ラッセル。
 ……私、我慢した、あなたを見捨てて、一人で逃げた……。これで、よかったの? 本当にこれで……よかったの?
 涙が滲みそうになるのを、慌てて堪える。
     泣いていいのは、私じゃない。妻であるカヤノが哀しみに耐えているのに、他人の私が泣いている場合じゃない……。
 自分に言い聞かせ、あさとはようやく顔を上げた。
 桟橋に、一頭の騎馬が悠然と近づいてくるところだった。
 一際豪華な天色の甲冑。陽射しに煌くコンチェランの紋章。藍色のクロークが風にたなびく。
 長身の男は、馬を飛び降り、歩みを速めて桟橋を上がった。
 あさとが、カヤノに手を取られて船を降りると、男は、その前に膝をつき、静かに、顔を覆う兜を外した。
 闇にも似た黒髪が、ゆるくうねって肩に落ちる。暗く翳る瞳、無骨な頬骨。父親譲りの整った顔だちは、亡くなった兄と比べてみれば確かに地味だが、鷹宮家特有の華麗さを仄暗くひめている。
「クシュリナ様   
 それは、青州公、鷹宮ダーシーだった。
 彼は感極まったようにそう言ったきり、しばらく言葉を無くしていた。
「……よくぞ、ご無事で」
 あさとが、青州に滞在していた時、彼は追い詰められたアシュラルを助けるために奥州に赴いていた。ダーシーもまた、死地を脱することができたのだ。
 なにも領主自らが兵を出すこともなかったろうに    ダーシーは、ヴェルツが起こした政変の際、命を救ってくれたアシュラルに、最後まで義理だてしようとしたのだろう。
 彼の律儀さ、義心の厚さには、胸が熱くなる。何があろうと裏切らない心もある、変わらない人もいる。アシュラルは、それをどう思ってくれたのだろうか。
「……迷惑を、かけてしまって…」
 あさとも胸が詰まり、それだけしか言えなかった。
 ダーシーの顔を見た途端、自分は、ようやく、母国に帰ってきたのだと実感していた。
 むろん、ここはイヌルダとはいえ、皇都とは遠く離れている。航路で二十日、陸路ではそれ以上の時間をかけなければ、金羽宮には戻れない。それでも    それでも、ここはもう、ナイリュではない。あの、悪夢のような忌わしい国ではないのだ。
「ダーシー……ウラディミール様のことだけれど……」
 勇気を振り絞ってそう訊くと、、ダーシーの端正な顔が、わずかに翳った。
「全て私の浅慮から出た過ちなの。……もし、彼が、何かの罰を受けているのなら」
「ウラディミールは、自ら死を願い出ました。なれど、私が止めました」
 静かな口調で、ダーシーは続けた。
「法王様の格別なお計らいもあり、ウラディミールは職を辞し、今は謹慎中の身にございます。陛下が無事にお戻りになったと聞き、かの者もどれだけ喜んでいるかしれません」
 法王様の格別なお計らい   
 では、アシュラルが、ウラディミールを許すと、そう言ってくれたのだろうか。そうだとしたら、どれだけ嬉しいか知れなかったが、彼の性格を知るあさとには、にわかには信じられないような気がした。
「とにかく、わが城シュバイツァへ参りましょう。ここから城まで、私が陛下を護衛いたします」
 ダーシーは、切れのよい口調でそう言い、感慨を振り切るようにして立ち上がった。
 そして自ら、あさとの手を取り、抱きかかえるようにして、馬の上に乗せてくれた。
 あさとを見上げ、わずかに笑んで、ダーシーは続けた。
「今朝方、知らせが届きました。アシュラル様は、今夜にもに青州にご到着なさいます」
 一瞬、心臓が跳ねあがるかと思うほどに、鼓動が激しくなっていた。
 アシュラルが……?
「折り良く、わが州の視察に来られる最中だったのです。そうでなければ、法王様との再会は、まだ先になっていたでしょう。戦時下の折り、なかなか    金羽宮にはお戻りになれないと、お聞きしていますから」
「………」
「すでに、クシュリナ様が戻られたことも、お知らせしています。ご懐妊のこともお聞きいたしました。    法王様が、どれだけお喜びになられていることか」
 普段寡黙な男は、心から嬉しそうだった。
 あさとは何も言えなかった。
 嬉しいだけではない、複雑な気持ちが、重苦しく胸を塞いでいた。

 
 
 
 
 

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