2
視界が、ひどく朦朧としている。
虚ろな気持ちのまま、あさとはぼんやりと瞬きを繰り返した。
「クシュリナ、気がついた?」
目の前に、覆い被さるようにして、のぞきこんでいる影がある。
「よかった……。まだ、熱があるんだから、しっかり寝ておきなさいよ」
薄闇の中に輪郭が浮きあがった。 カヤノだ。
カヤノ……… ラッセル。
あさとは、我に返って跳ね起きていた。
「 ラッセルは?!」
その剣幕が激しかったのか、カヤノの眼が驚いている。
叫んでから、ようやくあさとは、気がついた。ここは 何処だろう。暖かな掛布。何日ぶりかの心地よいぬくもり。
「……ラッセルは……?」
もう一度、そう聞きながら、自分の記憶が、 まるで本を紐解くように、一気に蘇って行くのを感じていた。
そうだ、ラッセルは。
ナイリュの海岸で、彼は 。
彼は、ユーリの軍勢に囲まれて。……
「……カヤノ……」
目の前のカヤノを見た。尖った顎、色褪せた唇、心労でやつれ果てたラッセルの妻。海岸で、あんなにも幸せな再会を果たしていた二人を また、私は。
「カヤノ……ごめんなさい……」
「クシュリナ」
戸惑ったような腕が、優しく肩を抱いてくれた。
「馬鹿ね、なんであんたが謝るのよ。ラッセルなら、絶対大丈夫だから」
その声は、弱くはあったが、気丈な響きをたたえていた。
「海に飛び込むところまでは見たの。あの人、泳ぎは昔から得意だったから、大丈夫。すぐにロイドを連れて戻ってくるわよ」
自分に言い聞かせているような口調だった。が、カヤノの表情は、本当に落ち着いて見えた。それが妻の自信というものなのだろうか あさとには判らなかった。少なくとも、アシュラルの時ですら平静ではいられなかった自分に、判るはずがない。
「……ここは、船の中なのね」
身体が覚えている嫌な感覚。薄暗くて狭い室内。染み付いた潮の香り。あさとは自然に口元を押さえていた。わずかだが吐き気がする。
「そう、あんたは、まる二日眠りっぱなしだったのよ。明日には、青州につくから安心して」
船の中、 だから気分がひどく悪いのだ。
そう思い、身体を起こしかけた時だった。
「それから」
カヤノはあさとをじっと見て、何かを言いかけて口をつぐんだ。少しの間躊躇して、それから、取り繕ったような笑みを浮かべた。
「おめでとうって言っていいのよね」
「 ?」
こんな時に何を言うんだろう。
言葉の意味も、その表情の意味も判らず、あさとは眉をひそめていた。
「あんたを診た船医がね、どうも妊娠してるようだって言うの。身重の身体でよくもまぁ、あんな真似ができたものね。アシュラルが聞いたら、そりゃ怒るわよ」
あさとの顔を見もせずに一気に言う。
「………」
妊娠?
「アシュラルがイヌルダにいたのって、もう五ヶ月も前だから……今、それくらいになるのかしらね。あんまり痩せてるから、浜辺では判らなかったけど」
「………」
「……クシュリナ…」
「………」
「……もしかして、全然、……気がついてなかったの?」
何時からだろう。いつから 。
混乱して、記憶が上手く手繰れない。
<クシュリナ>の月のものは、昔から不安定で、長くなかったりすることは再々だったから、 そういった変化を、特に気にしたこともなかった。
そうだ、確かにずっと訪れはなかった。アシュラルが金羽宮にいて 最後に二人で過ごしてから、ずっと。
でも。まさか、そんな。
ずっと気分が悪かったのも確かだ。船酔いだと思っていた。もしそれが悪阻だったとしたら?
あの人の、子供……?
アシュラルはどれだけ喜ぶだろう。それを想像するだけで、自らの身体の変調など、気にならなくなるほど嬉しい。
でも。 。
( 君は妊娠している、俺の子供だ)
じゃあ、あれは ?
あれは、なんだったの?
込み上げる不安が、喉を詰まらせる。
何故、ユーリは、あんなことを言ったのだろう。
あさとに覚えはない。覚えがあるのはただ一人、アシュラルだけだ。
覚え……。
覚えてないとしたら?
ふいに目の前が暗くなり、あさとは自分の身体を抱きしめた。指がかすかに震えている。
「クシュリナ……?」
覗き込むカヤノの顔は、ひどく不安そうだった。
「カヤノ、……私、本当に今、五ヶ月くらいなの?」
「……何いってんの、そんなの」
「医術師は……なんて言ってたの?」
「……それは、……あんたにしか、判らないことじゃない」
カヤノの声が揺らいでいる。眼を合わそうとしない曖昧な表情。
「……医術師も、……はっきりと、産月までは、わかんないって、……あんたの、その、……時期とか、身体の変化とか」
「もう、いい……」
「クシュリナ」
あさとは、カヤノの顔を見られなかった。恐ろしかった。口調で判る、カヤノもまた、私と同じ疑念に取り付かれている。
あれは 悪阻だったのだろうか、それとも船酔いだったのだろうか。
ずっと気分が悪かった。今だって吐き気がする。
もし、今が妊娠して三ヶ月くらいだったなら 。
ぞっとした。想像するだけで、胃の中のものを全て嘔吐してしまいそうだった。
そして、ようやく理解した。
ラッセルは知っていたのだ。
だから、馬を使わなかった。だから、走らせるような真似をしなかった。だから、再々休みをとってくれたのだ。
では、何故 。
妊娠しているということを、一言も言ってはくれなかったのか。
「………」
黙りこんでしまったあさとのせいか、カヤノは、ますます不安気な顔になった。 そして、意を決したように、膝を折ると、うつむいたあさとの手を握った。
「ごめん。なんか、こういうの嫌だから、はっきり聞くけど」
「………」
「クシュリナ、まさかとは、思うんだけど……」
「………」
「アシュラルの……じゃ、ないの……?」
はっきりと問われ、逆にあさとは、我に返ったように確信していた。
違う。
違う、絶対に違う。
これは 、この子は、アシュラルの子供だ。誰がなんと言おうと。誰がどう疑おうとも。私には判る、確信できる。
彼しかいない、彼しか あり得ない。
いくらユーリが私を恨んでいたとしても、そんな真似、絶対にできるはずがない。
「いいえ、カヤノ」
あさとはゆっくりと首を横に振った。
「彼の子供だわ……」
では、この子が。
もしかして、世界を変えるという救世主……?
カヤノは、複雑な表情のまま、苦しそうに目を逸らす。
それさえも気にならないほど、今、別の感情が、ゆっくりとあさとを不安にさせていた。
世界を救う救世主。では、この子を産んでしまえば。
私の、この世界での役割は終わるのだろうか……。
3
翌日、ようやく甲板に出ることを許されたあさとは、外の景色を見て息を飲んだ。
そこはすでに青洲の港カラムだった。船は昨夜遅く、港に寄航していたのだ。
ようやくナイリュの支配権から抜けた。ここはもうイヌルダ、皇都の支配下にある州なのだ。 。
無事に……戻って、こられたんだ。
海風に髪をなぶられながら、あさとは薄く滲んだ涙を拭った。
安堵の中、けれど、やるせない悲しみが突き上げる。
きっと、これから青州に着くたびに、同じ思いにさいなまれるだろう。
セルジエ……そして、皇都から自分を護ってくれた騎士たちを、あさとはこの街で失くしたのだ。いや、自分の愚かさから、むざと死なせてしまったのだ。
この償いを 重すぎる罪を、これから、どうやって贖っていけばいいのだろうか。
強くなる風を避けた時、ふと、あさとは視線を止めていた。
わずかに離れた場所に停まっている軍船。明らかに客船とは違う、灰色の大きな船が、港から少し離れた入り江に、列を組むようにして停泊している。船の側面には 法王の記章が記されていた。
「法王軍……?」
まさか、あれが皇都からの迎えだろうか。それにしては大げさだし、ものものしすぎる。
異常な光景は、港内でも同じように広がっていた。
天色の甲冑。揃いの馬具。鷹宮家の騎馬軍が隊列をなし、港全体を占拠している。
「やれやれ、大変なことになっちまった」
背後に立つ、密輸船の船長 ゴドバがぼやくように呟いた。
「お尋ね者の密航船に、領主様の出迎えとはね。天地がひっくり返っちまう」
昨夜、寄航してすぐに、カヤノがダーシーに使者を飛ばしてくれたのだろう。カヤノの話では、ダーシー自らが兵を率いて港まで赴いているらしい。
「いいじゃない、今回に限り、ダーシー様は、あんたを見逃すって言ってるんだから」
カヤノは両手を腰にあて、ぼやくゴドバを睨みつけた。
「しかも、褒美をたんまりと取らせるそうよ。あんたは、行方不明の女皇陛下を送り届けた英雄なんだから、いつまでもぐずぐず言わないで」
軍に占拠された港は、厳粛な緊張感に包まれ、怖いくらいに静まり返っていた。行き交う街の人々も、畏れをなしてか、みな無口だ。
こんなに、大げさにするなんて。
社交辞令を嫌うダーシーらしくない、とあさとは思った。そして、ふいに不安になった。
ひょっとして……もう、イヌルダとナイリュは、開戦したのではないだろうか ?
その想像が、どうしようもなく胸をざわつかせる。
今、開戦してしまったら、ラッセルとロイドは、あの国に足止めされてしまうだろう。帰る術はあるのだろうか、本当に、正体は露見していないのだろうか……。
沈うつな気持ちのまま、あさとは、下船の時を待った。とにかくダーシーと話さなければならない。
「すいませんがね」
ようやく船を下りる段になった時、突然ゴドバが、あさとの傍に寄ってきた。傍らに立つ、カヤノの眼を盗むようにしている。
彼の肩には、ナイリュの港で見た翡翠色の小鳥が乗っていた。
あの日と同じ声で、甲高く三度囀る。
(あれは、ゴドバの鳥で、仲間内への合図がわりに使うのだそうよ。あんなに可愛いがっているのに名前をつけてないの。本当に男って野放図なんだから)
旅の途中に、カヤノにそう聞かされていた。
港で、木犀軍に取り囲まれた時、 ラッセルが海に飛び込む直前、確かにあさとも、この鳥が空を横切るのを見た。とすれば、それがゴドバとラッセルの間で交わされた合図だったのだろう。
「ちょいと、確認しておきたいことがあるんで」
カヤノの様子を盗み見るようにしながら、ゴドバは続けた。
「船代のことなんですがね。後で、だんなに請求するつもりでしたが、だんながおっ死んでた場合は、どうすりゃええんで」
無慈悲な物言いに、あさとは少し驚いた。
けれどすぐに思い直した。、ゴドバにしてみれば、それは最もな要求だ。
ダーシーが、別途、報酬を渡すのだろうが、確かに、最初にゴドバと契約したのはラッセルだし、そして、この一見薄気味悪い容貌の男は、契約を護り、命がけでナイリュを脱出させてくれたのだ。
「私が用立てるわ、金額を言って」
あさとは男の要求を聞き、後でダーシーから払ってもらうよう、算段をつけた。無論それは、後日自身で負担しなければならない。
「ありがとうごぜえやす」
ゴドバは慇懃に礼を言った。あさとも、敬意をこめて礼を言った。実際、彼の機転のおかげで、窮地を脱することができたのだから。
「コハクのダンナが、生きていたら、よろしく言っておいてくださいよ」
ゴドバは最後にそう言って、蓬髪を翻し、逞しい背を向けた。
コハク。
あさとは吃驚して立ちすくんでいた。
コハク、……ああ、そうか、ラッセルは、私の願いどおりに偽名を使ってくれていたんだ。
律儀な彼らしい、けれど。
ラッセル。
……私、我慢した、あなたを見捨てて、一人で逃げた……。これで、よかったの? 本当にこれで……よかったの?
涙が滲みそうになるのを、慌てて堪える。
泣いていいのは、私じゃない。妻であるカヤノが哀しみに耐えているのに、他人の私が泣いている場合じゃない……。
自分に言い聞かせ、あさとはようやく顔を上げた。
桟橋に、一頭の騎馬が悠然と近づいてくるところだった。
一際豪華な天色の甲冑。陽射しに煌くコンチェランの紋章。藍色のクロークが風にたなびく。
長身の男は、馬を飛び降り、歩みを速めて桟橋を上がった。
あさとが、カヤノに手を取られて船を降りると、男は、その前に膝をつき、静かに、顔を覆う兜を外した。
闇にも似た黒髪が、ゆるくうねって肩に落ちる。暗く翳る瞳、無骨な頬骨。父親譲りの整った顔だちは、亡くなった兄と比べてみれば確かに地味だが、鷹宮家特有の華麗さを仄暗くひめている。
「クシュリナ様 」
それは、青州公、鷹宮ダーシーだった。
彼は感極まったようにそう言ったきり、しばらく言葉を無くしていた。
「……よくぞ、ご無事で」
あさとが、青州に滞在していた時、彼は追い詰められたアシュラルを助けるために奥州に赴いていた。ダーシーもまた、死地を脱することができたのだ。
なにも領主自らが兵を出すこともなかったろうに ダーシーは、ヴェルツが起こした政変の際、命を救ってくれたアシュラルに、最後まで義理だてしようとしたのだろう。
彼の律儀さ、義心の厚さには、胸が熱くなる。何があろうと裏切らない心もある、変わらない人もいる。アシュラルは、それをどう思ってくれたのだろうか。
「……迷惑を、かけてしまって…」
あさとも胸が詰まり、それだけしか言えなかった。
ダーシーの顔を見た途端、自分は、ようやく、母国に帰ってきたのだと実感していた。
むろん、ここはイヌルダとはいえ、皇都とは遠く離れている。航路で二十日、陸路ではそれ以上の時間をかけなければ、金羽宮には戻れない。それでも それでも、ここはもう、ナイリュではない。あの、悪夢のような忌わしい国ではないのだ。
「ダーシー……ウラディミール様のことだけれど……」
勇気を振り絞ってそう訊くと、、ダーシーの端正な顔が、わずかに翳った。
「全て私の浅慮から出た過ちなの。……もし、彼が、何かの罰を受けているのなら」
「ウラディミールは、自ら死を願い出ました。なれど、私が止めました」
静かな口調で、ダーシーは続けた。
「法王様の格別なお計らいもあり、ウラディミールは職を辞し、今は謹慎中の身にございます。陛下が無事にお戻りになったと聞き、かの者もどれだけ喜んでいるかしれません」
法王様の格別なお計らい 。
では、アシュラルが、ウラディミールを許すと、そう言ってくれたのだろうか。そうだとしたら、どれだけ嬉しいか知れなかったが、彼の性格を知るあさとには、にわかには信じられないような気がした。
「とにかく、わが城シュバイツァへ参りましょう。ここから城まで、私が陛下を護衛いたします」
ダーシーは、切れのよい口調でそう言い、感慨を振り切るようにして立ち上がった。
そして自ら、あさとの手を取り、抱きかかえるようにして、馬の上に乗せてくれた。
あさとを見上げ、わずかに笑んで、ダーシーは続けた。
「今朝方、知らせが届きました。アシュラル様は、今夜にもに青州にご到着なさいます」
一瞬、心臓が跳ねあがるかと思うほどに、鼓動が激しくなっていた。
アシュラルが……?
「折り良く、わが州の視察に来られる最中だったのです。そうでなければ、法王様との再会は、まだ先になっていたでしょう。戦時下の折り、なかなか 金羽宮にはお戻りになれないと、お聞きしていますから」
「………」
「すでに、クシュリナ様が戻られたことも、お知らせしています。ご懐妊のこともお聞きいたしました。 法王様が、どれだけお喜びになられていることか」
普段寡黙な男は、心から嬉しそうだった。
あさとは何も言えなかった。
嬉しいだけではない、複雑な気持ちが、重苦しく胸を塞いでいた。
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