「君に、誰かを責める資格があるとでも?」
 
 
 
 男の声は、冷めた侮辱を浮かべていた。
 
「あの夜、君がどこで誰と過ごしていたか、僕が知らないとでも思っているのかな」
 
 灼熱の刃に、胸をえぐられ、息さえ止まる。
 足元で揺れる、白い百合。
 そうだ、これは夢だ。いつもの夢だ。
 
「教えてあげよう。君が    君の夢や人生をかなぐりすててまでしようとしていることは、全て、無意味だ。考えてもみるがいい。君は知らなかった。僕は知っていた」
「…………」
「君に電話はなかった。僕にはあった」
「…………」
「それがすべてだとは思わないか」
「…………」
「もう一度、言っておこう。彼女のお腹にいたのは、君の子供じゃない」
「…………」
「僕の子だ」
 
 
 夢だ。
 
 夢だ    なのに、何故覚めない?    
 
 目の前に、手を伸ばして微笑んでいる人がいる。それは    その顔は……。
 
 
「アシュラル!! 何をしてるんだ!」
 
 
 凄まじい怒声で我に帰る。 
 目の前に、巨大な闇が迫っていた。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第七章 宿縁
 
 
 
 
                 
 
 
「クシュリナ、こっちへ来い!」
 騎馬の上から、ユーリが手を差し伸べていた。金褐色の甲冑と臙脂色の飾り紐。闇を思わせるマントが、激しく風に踊っている。
 背後の騎馬を静止させ、ユーリは単独で馬を進めた。
「……クシュリナ……」
 彼の髪は逆立つように舞い、灰の目は焔を孕んで揺れていた。
 そんな時でも、間近で見れば見るほどに、彼は、ひどく優雅で美しい男だった。
「いやよ、……行かない」
 あさとは後ずさった。恐怖で膝が震えていた。ラッセルが、つい、とその前に身体を入れて、立ちふさがる。
     ラッセル……。
 広い背を見て、ようやくわずかに安堵した。
 船は、出港間近だった。早く乗っておけばよかった。痛烈な後悔が込み上げる。あと少し、ここからあと少しのところに、丸太を積み上げた桟橋があり、そこまで行けば、船に乗ることができるというのに。
 騎馬の群れは、二十騎程度、全て、国章旗を背につけている。
 三鷹家の正規隊、木犀(モーヴ)軍である。
 彼らの背後から、更なる追手が来ていることも考えられる。それに対して、あさとの味方はラッセルしかいない。今となっては、カヤノがこの場にいないことだけが救いだった。
 前方にはナイリュ軍、背後は海。いずれにしろ、退路はなかった。
「お前は、……ラッセル?」
 馬上のユーリの視線が、ふと、あさとから逸らされた。
 彼の眼は、あさとの前に立つ男を見ていた。
「驚いたな、ひどく印象が違って見える……」
 ユーリは、ラッセルと青年期を共に過ごしているし、イヌルダでも一度再会している。だから、今のラッセルの容貌に戸惑っているのだろう。
 が、同時に不思議な事実をあさとは思い知らされていた。
     そうか、ユーリは、アシュラルの顔を知らないんだ。
 知っていれば、もう少し驚いてもいいはずだ。時にあさとでさえ迷うほど、二人の印象は重なっているのだから。
「お久しぶりです、ユーリ様」
 ラッセルの声は、恐ろしいほど落ち着いていた。
「そうか、まだお前がクシュリナの傍にいたのか……」
 ユーリは自嘲気味に呟くと、ひらり、と馬を飛び降りた。
「では、話が早い。ラッセル……彼女を俺の妻にしたい、今の俺にはその資格がある」
 ゆっくりと、距離を縮めてくる。
 あさとは、その顔をまともに見ることができなかった。どうしてだろう    あんなに信じていたのに。あんなに大好きな友達だったのに。
 彼はサランナと通じて、自分を長い間監禁し、あろうことか禁じられた蛇薬を投与し続けていた。あの夜の苦しみを思い出すと、今でも吐き気がするほど厭わしい。
「来ないで……!」
 あさとは叫んだ。それでもまだ、ユーリを信じたいと願う、すがりたいような気持があった。
「どうしてそんな無理を言うの? 私は、結婚しているのよ!」
「君にもいずれわかる、俺たちは結ばれる運命なんだ」
「来ないで!」
 男の足が、躊躇するように止まった。
 激しい拒絶が、ユーリを傷つけているのが判った。彼の繊細な心を、あさとはよく知っている。
     ユーリ……。
 辛そうな男の顔を見ると、あさとは何も言えなくなった。
 自分に、彼を責める資格がないことはよく判っている。最初に、この優しい友人の心を踏みにじったのは私なのだ……。
「クシュリナ、……許して欲しい、俺のしたことを」
 うつむいたまま、ユーリは言った。
「………」
「……君を……許せなかった」
 玲瓏とした美貌が、苦悶のためかゆがんで見える。
 ユーリは胸元に手を差し入れ、一滴の紅い欠片を取りだした。
 あさとは、はっと息を引いている。それは    私が……かつて、皇都を脱出する時に失くしてしまった……。
 悲しげな目で、ペンダントを掲げながら、ユーリは訴えるような眼差しで、あさとを見つめた。
「俺を好きだと言って、俺の口づけを受けながら、君はアシュラルを愛した。……俺にとってそれは、裏切り以外のなにものでもなかった」
 どうして、失くしてしまったはずのペンダントを、今、ユーリが持っているのか。
 あさとは、幻でも見ているような気持になり、ただ、瞳を震わせた。判っているのは、あの夜の軽率な行為が、ここにも尾を引いているということだ。ユーリが余りに憐れで、彼を一人にさせたくなくて    つい、彼の腕を受け入れてしまった、あの夜の行為が。
「君は、……君は俺の全てで、俺の存在する意味そのものだった。それなのに、まるでただの女のようにアシュラルを受け入れ、彼を愛した。……俺にはそれが、我慢ならなかった」
 自分の身体が震えるのを感じて、あさとは自らの腕を抱いた。
「……だから、サランナの計画に乗った。馬鹿なことをしたと、……今は死ぬほど後悔している、でも、もう遅い」
 ユーリは顔をあげ、何かを憐れむような顔になった。
「俺は、君が幸せなら、そのままイヌルダに返してやるつもりだった。でも、今はもう、それは出来ない」
     どうして。
 問いかけるように上げた視界に、先ほどまであったラッセルの背中はなかった。
 その代わり、藍色の空を横切る小さな鳥影が見えた。
「君は妊娠している、俺の子供だ」
 え?
 何、今の   
 今、なんて言った   
 視界が、ぐらっと揺れた気がした。
 ユーリの背後で、騎馬兵が色めき立つ。
 微かな舌打ちが、耳元で聞こえた。
 自分がラッセルに横抱きにされている    そう気がついた時には、すでにラッセルの足は地を蹴っていた。
 桟橋が一気に近づき、次の瞬間、あさとは、ふわり、と身体が浮くのを感じた。
 目の前に、暗い海面が悪夢のように迫る。
     落ちる……!
 咄嗟にラッセルの首にしがみついた。その途端に、全身を衝撃が包みこむ。 水飛沫、激しい水音。海中にいったん沈み、混乱したまま、ただ、ラッセルの身体だけを抱きしめ.る。
 閉じた唇の隙間から海水が流れこんだ。
 脇から救い上げるように抱き起こされる。ラッセルの腕。そのまま彼の身体に身を預け、あさとは、かろうじて息を繋いだ。
 海面に顔が出た刹那、現実の声が聞こえてきた。
「落ちたぞ!」
「探せ」
 怒声と、いななく馬の鳴き声。
 衣服がまとわりついて、身体の自由が利かなかった。あえぐように呼吸を求めた口に、容赦なく海水が流れこむ。
「……っ」
「しっかりしろ!」
 ラッセルの声がした。まだ薄暗い海面に、彼の頭だけが浮いている。必死であさとを抱えたまま、水をかき、彼は何かを目指していた。
 やがて強い力で背後から押し上げられ、あさとは自分の手が、堅いものに触れたのを感じた。
 それは、一隻の木舟だった。救命用なのか    ごく小さなものだ。
 自分を下から支える男の力が、ふいに緩んだ。
 あさとは我に返り、自力で船べりに掴まると、渾身の力でよじ登った。
 肩で息をしながら、なんとか舟内に這いあがる。喉につかえた海水を吐き出し、何度も咳き込み、ようやく顔を上げていた。
     ラッセル。
 ラッセルの姿は、どこにもない。
 波打ち際から、木犀軍の騎士が数名、二艘の小船に分乗して、こちらへ向って漕いで来るのが見えた。距離はそう遠くはない。
     ラッセルは、どこ?
 恐ろしさに粟立ちながら、あさとは視線を巡らせた。
 ふいに、木舟がもう一隻、流れるように死角から現れて、目の前の光景を遮った。
 ラッセルが、舟上に立っている。あさとに背を向けたまま、その髪だけが風を受けて揺れている。
 彼は    別の舟に乗ったのだ。でも、何故。
 ラッセルは長剣を構えていた。そして、水中で衣服を脱ぎ去ったのか、上半身が裸だった。
 雲間から漏れた、透き通るような朝の陽射しが、その刹那、海上に浮かぶ人々を照らし出した。
     
 あさとは愕然とした。
 前に立つ男の背に、幻のような傷痕があった。
 アシュラル……?
 そんな馬鹿な、    アシュラルと同じ場所、同じ大きさで……。
 敵を乗せた舟が二隻、どんどん距離を縮めてくる。
 右手で剣を構えたまま、ラッセルは、嵌めたままになっていた左の手袋を、歯で挟んで脱ぎ捨てた。
     手袋。
 そうだ。
 ずっと、あさとは不思議だった。
 ラッセルは、この旅の間、常に手袋をつけていた。必要がある時だけ、右手は外していた。でも    左は。
 長剣を左手に構え直したその手に、指に。
 あるはずのない傷痕を見た時、あさとは本当に    眩暈を感じた。
 今まで一緒にいたのは、本当はアシュラルで、ラッセルは最初からいなかったのではないか    そんな風にさえ、思えていた。
 しかし、振り返った横顔は、紛れもなくラッセルのものだった。彼は振り向きざま、片足であさとの乗っている木舟を蹴った。
 潮流の流れに乗り、そのまま舟は流されて行く。
「ラッセル!」
 あさとは叫んだ。
 そうだ、あの背の傷は、結婚式の当日、私を逃がそうとして出来た傷だ。彼は死にかけた。そして、運命のように生き返った。
 そして指は。
 あの錯乱の夜、口に残った錆の味。私はラッセルの指に噛み付いたのだ。でも、でも、そんな    そんな恐ろしい偶然が。
 ロイドの言葉が、稲妻のように閃いた。
    アシュラルとラッセルは、不思議な縁で結ばれている。片方が怪我をすれば、もう片方も同じ場所に傷を負う。)
     これが……。
 これが、この二人の宿縁なのだろうか? だとしたら、それは、なんと深い因業なのだろうか。
 そして、ロイドはこうも言っていたはずだ。
     片方が恋をすれば。
 ラッセルが振りかえった。
 あさとは立ちあがり、二人の視線が海上で絡んだ。
     片方も、
「陛下」
     同じ相手に恋をする……。
「ラッセル……」
「………」
 彼の目が何を訴えているのか、泣きたいくらいの切なさで、あさとには判った。
 行けと。
     今度こそ、自分を置いて行けと。
 とん、と彼の足が舟底を蹴り、跳躍した姿が、ナイリュの騎士たちが乗る船に向って飛んだ。
 すぐ背後で、「おーい、こっちだ」という声がした。
 何時の間に桟橋を離れていたのか、それは密航船だった。振り返った視界いっぱいに、ゆるやかに帆を掲げた船体が姿を現す。
 おそらくゴドバという男が    あさととラッセルの動きを察し、先回りして、海上で待っていてくれたのだ。
 甲板には、カヤノの顔も見えた。
「今、梯子を下ろしますぜ」
 手を振って叫んでいるのは、ゴドバだ。
 あさとは、震える手で、舟べりを掴んだ。痛いほど掴んだ。
 海上でひしめく幾艘もの小舟。混乱した金褐色の騎士たちが、剣を振るい、何事かわめいている。    ラッセルの姿はどこにもなかった。
 あさとは耐えた。
 ラッセルを追って行きたい衝動に、じっと耐え続けた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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