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 雑然とした港で、青州行きの船に乗せてもらえる目途がたったのは、それから三日後のことだった。
 山を降りた二人が辿りついたのは、異国籍の民が雑多に同居している街だった。丁度貿易ルートの只中にあり、治安は悪いようだったが、街は富み、驚くほど自由な空気に溢れている。「密売人がよく利用する街です。自治権が強く、三鷹家にも蒙真族にも多額の税を収めているため、ナイリュにあって唯一戦火を逃れ、中立を勝ち得ているのです」
 確かに、ラッセルの言う通り、その街は安全だった。蒙真族の影も、三鷹家の騎士もいない。いってみればナイリュにあって、半独立を勝ちえた無法地帯のようなものだろう。
 船長とやりとりしているラッセルの背を見ながら、あさとは、思った。
 あの夜を境に、ラッセルの表情が、和らいできたような気がする。
 あさとにも細かなことを相談し、時々ではあるが、雑談めいた話もしてくれる。
     でも……。
 その時、背を向けていたラッセルがふと振り返った。わずかにあさとを見て、すぐに、そっけなく視線を逸らす。
「………」
 どこか、他人行儀で、冷たい眼差しは変わらない。
 あさとは、軽く息を吐いて、うつむいた。
 彼の態度の変化は、単に、ナイリュを脱出できる算段がついたことへの安堵からきているのだろう。
 あさとにとって、今のラッセルは、やはり、近寄り難い存在だった。
「参りましょう、客室を一間、空けてもらえましたから」
 やがてラッセルは、足取りを速めて戻ってきた。そして、懐から取り出した木札    ナイリュ国の旅券をあさとに手渡す。
「これからは必要になる。お持ちになっていてください」
「こんな急に、……よく用意できたわね」
 思わず呟いていたが、その問いには、ラッセルは答えてくれなかった。
 国外を出るには、国家の許可    ナイリュの旅券が必要となる。昨夜、渡された荷の中に、旅券はなかった。この港で、わずかな時間の内に、彼はそれを、どこかから調達してきたのだろう。 
 あさとが改めて驚いたのは、ラッセルがこの国の地理に非常に詳しく、また、多くの協力者を持っている、ということだった。
 彼はそのことについては、何も説明しようとはしなかったが、おそらく蒙真に潜入している間、彼はナイリュという国全体についても、細かく探索していたのだろう。
 どこか秘密めいた影が、行く先々で顔をあわせる人たちに滲んでいる。
 漠然とした予感だったが、それはきっと、ディアス様やアシュラルも承知していることで   
 ラッセルが皇都を出て青州に移り住んだのは、忌獣の調査という目的もあったのだろうが、真実は    ナイリュの国力を探ることにあったのではないか。
 三鷹家が政権をとった以上、いずれ、皇都との開戦は避けられないと判断した上で。
     イヌルダと……このナイリュは、どうなってしまうんだろう……。
 目の前には、凪いだような海原が広がっている。あさとは、船に乗り込む人たちの列に並び、ぼんやりと考えていた。
 アシュラルとユーリが戦を始める。
 まさかこんな日が来ようとは    夢にも思っていなかった。
「顔色がお悪いようですが」
 傍らのラッセルが、気遣うような声で言った。
「……大丈夫」
 そうは言ったものの、潮の香りが生臭く、さきほどから軽い吐き気が続いている。
 船旅で体験した強烈な船酔いの記憶。それが、潮の香りさえ忌わしいものに変えてしまったのかもしれない。
 港は、大きな荷を抱えた者たちでごったがえしていた。夫婦者、家族連れ、希望に満ちた顔もあれば、生活に疲れた顔もある。
 桟橋には、すでに大きな船舶が停留しており、彼らはみな、その船で青州に移住する者たちばかりだった。
「三鷹王は、イヌルダと、戦争をはじめられるらしい」
「なんとおそれおおい、女皇のおられる皇都に刃を向けるとは」
「今にみていろ、きっと、神の罰がくだるぞ」
 ひそやかな囁きが、あさとの耳にも入ってくる。
 港に詰め掛けた人の群れは、みな    ナイリュの行く先を憂いて、青洲へ逃げようとしている者たちばかりだったのだ。
「これが、女皇の力です」
 ラッセルが低く言った。
「お判りですか。あなたは、何があっても皇都へ帰らなくてはならない。あなたを人質にとられてしまえば」
「………」
「この戦、法王軍は必ず負けます」
     だったら、何故……。
 あさとの胸に、苦く蘇る面影がある。
「サランナは、私を逃がしてくれたわ。私が皇都へ戻れば、少なくとも……ナイリュは戦には不利になるのに」
 そう呟くと、ラッセルの横顔も、どこか憂いたものになった。
「あの方の胸中は、私には図りかねますが、    サランナ様もまた、何らかの意思を持って行動なされているはず」
「何かの……意思……?」
「それも、ディアス様が」
 そこまで言いかけて、ラッセルの身体に緊張がかすめた。
 二人の傍らを、乗馬した騎士が悠然と通り過ぎていく。馬具にも、金褐色の甲冑にも、ナイリュ木犀(モーヴ)軍の証である鷹の文様が刻まれていた。
 振り返ると、他にも、複数の騎馬が目を光らせて巡回しているようだった。
「どうして、この街に木犀軍が?」
「さぁ……なんでも、サマルカンドから重罪人が逃げ出したらしいぞ」
 不審な声が、あちこちから聞こえてくる。
 あさととラッセルも、何度か呼び止められ、手荷物などを調べられた。けれど、ラッセルの準備と口上は、彼らの疑心の眼よりもなお、周到で狡猾だった。
 二人は昨夜泊まった宿で、衣装も髪型も全て変え、偽の身分証も手にしている。彼は卸商人、あさとはその妻として、身分登録が記されていた。
「おかしいな……」
 緊張したままのラッセルが、やがてふと呟いた。
「どうしたの?」
「出航の時間が、随分遅れています」
 そういえば、先ほどから、人の列はわずかも動かない。幾重にも続く長蛇の列から、不満と不平の声が漏れ聞こえてくる。
「………」
 長身のラッセルの視線が、厳しく周囲を伺っている。
「……列を、離れましょう」
 騎馬が数騎、ゆったりと桟橋に歩みを進めている。遠目ではあるが、あさとにもそれは確認できた。
 ラッセルは、あさとの肩を抱き寄せて、まるで気分を悪くした人を介抱するような所作で、出航を待つ人たちの輪を離れていった。
「どうしたんだ?」
「さぁな、よくは判らんが、船に乗る際、女が一人一人、衣服を脱がされて、身体を調べられているようだぞ」
 そんな声が、背中から聞こえてきた。
「ラッセル……」
「まだ、手はあります」
 足取りを速めながら、男の声は落ち着いていた。
 力強く繋がれた手が暖かい。
 あさとは、ようやく安堵して、彼の腕に身体を預けた。
 
 
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 月は真円を描き、黄白色の陰りを帯びて輝いていた。
     きれいだな……。
 あさとは、短くなった髪を指で梳きながら、月光を受けて輝く、なだらかな海面を見つめていた。
 潮を含んだ風が心地よく頬をなで、洗ったばかりの髪を乾かしていく。
 こんな風に    穏やかな気持ちになれたのは、どれくらいぶりのことだろう。
 港の傍にある土産物屋の一間。それが、ラッセルが選んだ宿代わりだった。
 あさとは湯を借りた後、美しい月光に誘われるまま、庭先の露台で一人、佇んでいた。
 ラッセルは何も言わないが、この土産物屋の主人もまた、潜入した密偵の一人なのだろう。宿に身を落ちつけてから、数日姿を消していたラッセルが戻ってきたのは、今日の夕のことである。
(明日、青州の密輸船が西の海岸に到着します。荷を降ろした後、すぐに青州に向けて出発する予定になっております。)
 そう告げたラッセルの表情に、この旅で初めて見せる安堵がにじみ出ていた。
     旅の、終りが……。
 旅の終りが近づいている。
 あさとは無言で、けぶるように輝く月を見つめ続けていた。
     この旅が終われば、おそらく、もう。……
「こんなところにおられたのですか」
 背後から、非難するような声がかかる。
 あさとは振り返った。
 ラッセルだった。すでに旅支度を整えたその姿を見て、あさとは少し驚いていた。
「外は危険です、夜は   
 言いさして、彼は黙した。この冷静な男もまた、その夜の月光の凄絶とも言える美しさに、一瞬気を呑まれたようだった。
「……夜明け前には、ここを出ます」
 彼は低い声で呟いた。
「うん……」
「朝は早い、お部屋に戻って、お支度を」
「……うん」
 あさとは動けなかった。ラッセルもまた、そのまま黙ったきりだった。
「ラッセル、私、考えていたんだけど」
     月……。
 美しい月。
 欠けない月。
「忌獣がこの世界に現れた時期と、……月が満ち欠けを止めてしまった時期は、同じなのよね」
「……おそらくは」
「この世界には、きっとね」
 月光。柔らかな輝き。慈愛の光。
「邪の心と、慈の心、それがきっと、両方存在しているんだと思う。忌獣が現れて、人々を襲う。そして    同時に月が、満ち欠けをやめて、人々を護っている」
「………」
「どちらもきっと、同じものなの。これからこの世界がどうなっていくのか、私にはわからない。アシュラルのしていることが……」
「………」
「正しいのかどうか、それも、私にはわからない。でも    救いはきっと、最初から用意されている」
「………」
「そんな気がするの……」
「………」
 ラッセルは無言だった。
 あさともまた、彼が傍にいて    初めて安らいだ気持ちになっていた。
 月光は雫のように髪に光の粒を煌かせ、男の横顔を、きれいに照らし出していた。
「あなたは、お幸せですか」
 ラッセルが呟いた。
「………」
 彼が、万感の思いをこめて、その言葉を口にしたのが、あさとには判った。
 この刹那     有り得ないことだけれど、もし、万が一、あさとが「逃げたい」と口にすれば、そのまま彼は、あさとをつれて、どこか遠くに逃げてくれそうな気がした。確かに、その刹那、そんな気がした。
「ええ、とても、幸せよ」
 だからこそ、こう言わなければいけないと、思っていた。
「アシュラルを、愛しているから   
 
 
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 翌朝。
 まだ、朝日も昇りきらない蒼い闇の中、あさととラッセルは宿を出て、密輸船が到着するという浜辺に向かった。
 先日、乗船することができなかった港、    その西側にある入り江が、ラッセルの目指す目的地だった。馬の背にあさとを乗せ、ラッセルはその手綱を引いて歩いた。
 砂浜まで出ると、海面は凪いだように穏やかだった。まだ薄く残る月が、波間に淡い光を落としている。
     太陽と月が同時に見えている……。
 あさとは、東の空に滲む朝の兆しと、そして、明けの夜空にかすむ月の光を、同時に見つめた。
 アシュラルと、そしてラッセル。
 何故か二人の男のことを考えていた。
 二人は、近いようでいて遠く、遠いようでいて近い。
 この月と太陽のように。
 ラッセルと再会して以来、あさとは、ずっと思っていた。
     二人は、もしかすると……。
「陛下」
 ラッセルの声が掛かり、はっとして我にかえった。
「ここで、しばらくお待ちください。私は、船長と話をしてまいります」
 見ると、大きな岩肌に隠れるようにして、一隻の帆掛船が、薄闇に身をひそめている。
 昨日、港で見た客船よりは一回り小さい。よく眼を凝らすと、浜辺には、荷を運ぶ者たちの姿がちらほらと見えている。
「密輸船……って、悪い人の船なの?」
 ラッセルの腕を借りて下馬しながら、そう聞くと、この旅の間に、ますます精悍になった男は、わずかに笑んだ。
「船長は私の馴染みの男、悪い人間ではございません。人が生きていくということは、きれいごとではすまされない。色々なやり方があるのです」
     ここを、動かないでください。
 ラッセルは念を押し、きびすを返して、早い足取りで船の方へと歩いていった。
 すぐにその背中は、淡い闇の中に消えて行く。
     人が生きていくということは、きれいごとではすまされない……。
 あさとは自分のことを考えていた。クシュリナのことではない、自分自身    瀬名あさとのことを考えていた。
 琥珀が欲しかった。雅から奪いたかった。
 雅が……憎かった。嫌いだった、厭わしかった。
 この世界で気づいた、それがあさとの真実だった。
 もし、元の世界に戻れたとしても、それから    その後、私と琥珀、そして雅はどうなってしまうのだろう。また、同じことを繰り返し、苦しんで、傷つけあって、それでも諦めきれずに、互いを求め続けるのだろうか。
     お前はそれが、怖くないのか。
 頭の中で、あの時の小田切の声がした。
 その時のあさとには、怖くなかった。けれど小田切は、怖かった。
 きっと彼は知っていたのだ。    その繰り返しの果てにある、絶望を……。
 不意に、目の前で何かが羽ばたいた。
「きゃっ」
 あさとは吃驚して、思わず、後ずさっている。
 それは、どこからともなく舞い降りてきた小鳥だった。
 掌に収まるくらいの小ささで、綺麗な宝石を思わせる翡翠色の羽を持っている。
 人を全く恐れないのか、あさとの足元に降り立った小鳥は、地面に散らばった穀物のようなものをつつきはじめた。
「かわいい……」
 しゃがみこんで、その様子を見守っても、鳥は羽を広げる兆しさえ見せない。
 金波宮では、鳥獣類を飼う習慣がない。だからあさとにとっては、こんなに間近で小動物を見るのは、初めてのことだ。
 試しに指を伸ばすと、ためらいもなく、鳥はあさとの手の上に飛び乗った。
 チィ、チィ、チィと、三度、甲高く囀る。
     連れて帰りたいな。
 そう思い、ラッセルが向かった方角を、ちらり、と見た。
 薄紙を剥がすように、蒼い闇は明るさを増しつつある。ラッセルは、丸太を積み上げた即席の桟橋の前で、誰かと熱心に、話し合っているようだった。
     無理だよね、……それに、きっと誰かが飼っている鳥だろうし。
 野鳥とは思えぬほど、人なつっこい。おそらく、船に乗る誰かのものなのだろう。
 そっと、鳥を乗せたままの手を空に掲げる。
「バイバイ、元気でね」
 まるで言葉を読み取ったように、翡翠色の鳥は、天に向かって羽ばたいた。
 その時だった。
    瀬名」
 声がした。
 それは一瞬、確かに琥珀の声に聞こえた。
    琥珀」
 あさとは反射的に口にして、振り返った。
 ラッセルが、こちらを見て、手招きしている。
「こちらへ」
     今、……今の、ラッセルが……?
 胸が熱くなり、心臓が爆発しそうになっていた。セナ    瀬名、この世界で、そう呼ばれたのは、初めてだ。
     そうだ、私がそう呼んでって……言ったから。
 踊る鼓動を、なんとか押さえて、あさとはラッセルの傍へ駆け寄った。
「彼はゴドバ、この船の船長で、私の知り合いだ」
 ラッセルは口早にそう言った。
 彼の傍に、その肩先までしか身長のない、腹の突き出た中年の男が立っている。濁ったような肌には無数の黒子が浮き出して、双眸がぎょろりと剥き出しになっていた。一度見たら忘れられない容貌だ。
「先ほどお話した私の妻だ、なんとか青州まで、送り届けてもらいたい」
「それは……ようがすが」
 赤く日焼けし、白い蓬髪を風になびかせた男は、値踏みするような顔になった。
「路銀は倍、いただきますぜ、だんな。なんたって面倒な奥方をお預かりするんだから」
「かまわない、いくらでもふっかけてくれ」
 ラッセルはあっさりと言った。それからあさとを振り返った。
「済まないが、ここで別れよう。どうやらロイドが、サマルカンドで捕らえられているらしい」
「えっ……」
 一瞬、頭の中が白くなっていた。ロイドが    そんな。
「大丈夫だ、まだ、素性までは知れていない、必ず助ける」
 ラッセルの声は確かだった。あさとはわずかに安心した。この人が大丈夫というなら、きっと、本当にそうなのだろう。
「ま、奥さんのことは、あっしらに任せて、だんなはお仲間の所へ、早くいってやんなされ」
 ゴドバという男は、そう言って、にやにやとあさとを見つめた。
「今回は、無茶を引き受けちまいましたよ。本当は、三日後に出航のはずだったんだが」
「だから、その分、報酬ははずむと言っている」
「だんなには、かなわないな」
 二人の会話に戸惑って、あさとが黙ったままでいると、ラッセルが優しい目で肩を抱いてくれた。
「ゴドバは、いったん引き受けた仕事は何があっても遂行する。……心配ない」
     うん……。
 あさとは、うなずいた。
 うなずきながら、あまりに唐突な別れが、まだ受け入れられないでいる。
 けれど、沸きあがる寂しさと同じ強さで、確かな安堵も感じていた。
 もう、これ以上惑わされたくない。
 もう、これ以上迷いたくなかった。
 これ以上二人でいると、<瀬名あさと>の気持ちだけが暴走しそうで恐ろしい。
「船は、三日もすれば青州に着く。    ゴドバが、カヤノの所まで送りとどけてくれるそうだ。後のことは、彼女に任せろ」
 ゴドバの目を気にしてか、夫婦者に相応しい口調でそう言い、ラッセルはあさとの肩を抱いて、促した。
 桟橋を離れ、周囲に人影がないことを確認してから、ラッセルは囁いた。
「ロイドと合流できたら、私も青州に帰ります。陛下のことはダーシー公にお伝えしてある。それまでに、皇都から迎えが来ると思いますが」
 そこまで言うと、彼はあさとの肩から手を下ろした。
 視線が、ある一点で静止している。
「カヤノ……?」
 彼の唇がそう呟き、そのまま、あさとをすり抜けるようにして、歩みを速める。
 あさとには、彼の広い背中しか見えなかった。背中が遠くなると、その肩越しに、駆けて来る懐かしい顔が見えた。
    ッセル!」
 カヤノは叫び、駆け寄ったラッセルに身体ごとぶつかるようにして抱きついた。カタリナ修道院で、初めてあさとが、彼女を見た時と同じように。
 ラッセルは女を緩く受け止め、そして、両手で、その顔をすくい上げた。
「カヤノ、お前、どうして」
 ひどく声が戸惑っている。
「馬鹿、迎えに来たに決まってるじゃないの! ずっと探していたのよ。    ロイドと出かけたきり、なんの連絡もないんだから……」
 勝気な目に、涙がうっすら滲んでいる。
 ラッセルの横顔に怒りが浮かんだ。
「だからって馬鹿な真似をするな、今、ナイリュがどれだけ危険か判っているのか」
「だって……」
 あさとは目を逸らしていた。その会話の一言一言が、鈍い痛みとなって胸を衝いた。
 どうして? どうしてこんな気持ちになるの? これじゃあ、私、まるで……。
 自分の感情に愕然とした。これでは、まるで   
     カヤノに、嫉妬しているみたいだ……。
 カヤノの視線があさとに気づき、その顔に、驚きと歓喜の色が同時に浮かんだ。けれど、駆け出そうとしたカヤノの肩を、ラッセルが抱きとめる。
 そのまま彼は、再会した妻に唇を寄せ、何事か囁いた。
 艶めいた感じはしない。おそらく    今の状況を教えているのだろう。
 やがてカヤノは、待ちかねたようにあさとの傍に駆け寄ってきた。
「せ……セナ」
 少しぎこちない口調でそう呼ばれ、力いっぱい抱き締められる。
「カヤノ……」
「あんた……一瞬、誰かわかんなかったわよ。こんなに痩せて、髪だって、男みたいになっちゃって」
 抱きしめる肩が震えている。
 その肩も、以前よりはひとまわり小さくなっている。ここ数日の心労のせいだろう。そう思うとたまらなくなった。
「ごめんね……私のせいで、カヤノにも迷惑かけて」
「いいのよ、ラッセルはどうせ、あんたに説教したんだろうけど……私にはわかる、あんたの気持ち」
 カヤノは、涙に潤んだ瞳をあげた。
「好きな人が死ぬかもしれないって時に、追って行かないなんて、女じゃないもの」
「………」
「アシュラルはね、籠城していた城を後方から脱出したのよ。地下に脱出口を作って、相手に隙が生じる時まで待っていたんですって、    あの人が、そう簡単にだまし討ちにあったりするもんですか」
 うん。
 あさとは頷いた。……うん、アシュラルが死ぬはずない。私を置いて、逝ってしまうはずがない。
 ふいに暖かな涙が溢れ、あさとの頬を幾筋も伝った。
 今、とても会いたい。    アシュラルに会いたい……。
「帰ろう、皇都に。青州までは私も一緒だからね。私がついてる限り、もうあんたに馬鹿な真似はさせないから」
「カヤノ……」
 嬉しくて、新しい涙で視界が滲んだ。あさとは、カヤノの身体を抱き締めた。
     カヤノに傍にいてもらえたら、どれだけ心強いだろう、でも……。
 身体を離し、あさとは、涙を拭いながら言った。
「ラッセルはどうするの、彼はここに残るのよ」
「……知ってる。でも、私がいても、足手まといになるだけだから」
 カヤノの眉が初めて曇った。
「とにかくラッセルには、ロイドを助けてもらわなくっちゃ。あんな男でも、いないと患者が寂しがるじゃない」
 不意に垣間見せた不思議な強がりは、むしろ、ラッセルよりもロイドに向けられているような気がする。
 あさとは訝しく思ったが、傍にいるラッセルの前で、何も言うことはできなかった。
「私とラッセルのことは、気にしないで」
 あさとの沈黙をどう解釈したのか、カヤノは明るく笑って、傍らの夫の背を叩いた。
「私たちなら、少しくらい離れた方が、盛りあがるってもんだから、ねっ」
「ま、そうだな」
 ラッセルは微かに苦笑して、横を向く。
 彼の、こんなにも和んだ笑い方を見たのも    あさとには、久しぶりのことだった。
 何もかも失ったラッセルは、……きっと、カヤノに、生きる希望を見出したのだろう。
 この人には    今はカヤノが必要なのだ。妻の死という衝撃から、彼を立ち直らせ、救ったのはカヤノなのだ。
 そして、私にも   
 あさとは、そっと胸を押さえ、ずっと持ち歩いている月白桜の短剣の感触を確かめた。
 必要としてくれる人がいる。待っている人がいる。アシュラルがきっと待っていてくれる。そう    信じたい。
「あー、私、荷物を船に積んでくるから」
 カヤノは突然そう言うと、少し意味ありげにラッセルを一瞥した。「別れのあいさつもしてないんでしょ、ゆっくり話して、私は船で待ってるから」
 明るく言って、背を向けて駆けていく。
 出航時間が近いのか、人気の絶えた砂浜に、あさととラッセルだけが取り残された。
 彼は静かに歩み寄ると、あさとの前で立ち止まった。そして、丁寧な所作で一礼した。
「道中……随分、失礼なことをいたしました。……お許し下さい」
     ………。
 それが、別れの挨拶なのだと、あさとにも判った。
 彼の目が、もう二度と会えないことを、無言のうちに語っている。
「……元気で」
 あさとは、それ以上何も言えないまま、震える手を差し出した。握手をするつもりだった。
 ラッセルは少し驚いた顔をしたが、右手だけ手袋を外し、その手であさとの手を取った。そのまま静かに膝をつく。
     ああ、そうだ。
 こちらでは、男女が握手をする習慣はない。あさとは    最後の最後で、ラッセルを試している自分を感じた。そんな未練が情けなかった。
 彼は、手の甲にくちづけをした。
 冷たい唇がそっと触れて、すぐに離れた。
 たったそれだけのことなのに、あさとは、今しがたの確信が、もろく崩れそうになるのを感じていた。
 視線を下げたまま、しばらくラッセルは動かなかった。
「……ラッセル……?」
 手を引こうとしたが、男の指がそれを引き止める。
 見上げる眼差しに、抑しきれない感情が、一瞬かすめたように    感じられた。
 ラッセル……?
 幻惑される、困惑する    その眼を、その眼差しを、どう受け止めればいいのだろうか。
「アシュラルに、お伝えください」
 彼は言った。
     アシュラル……。
 あさとは、聞き間違いかと思った。
 ラッセルが、彼の名前を尊称で呼ばなかったことなど、今まで一度もなかったからだ。
「俺はもう、お前の運命に引きずられない」
 そう語る彼の唇が、かすかに笑んだような気がした。
「お前一人で活路を開け……と」
 あさとが、その言葉の意味を逡巡した    その時だった。
「クシュリナ!」
 波を、打ち砕くような声がした。
 あさとは、亡霊の声を聞いたような気がして振り返ったる
 騎馬の群れが、いつの間にか海岸沿いに、周囲一帯を取り囲んでいる。
 その先頭に、大きな鷹の国章旗がたなびいている。
 ひと際見事な騎馬の上で、鮮やかな銀の髪が、朝の光を受けて輝いていた。黒のクロークが風をはらんで踊っている。
「ユーリ……」
 あさとは、呆然と呟いた。
 悪夢は。
 悪夢はまだ、終わってはいなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 

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