11
夜が、完全にその帳を下ろすまでに、ラッセルが行きついたのは、山奥の洞窟だった。
よどみない彼の足取りから、あさとにも、判っていた。
彼は、あらかじめこの場所を知っていて、最初から真直ぐに、ここを目指していたのだ。
山肌にぽっかりと口を開けた洞窟。入口は、生い茂る木々と雑草に覆い隠されていた。それと知らなければ、容易に見つけることはできなかったろう。
洞内で、ようやく彼は、あさとの身体を地に下ろした。さすがに疲労の滲んだ顔を上げ、素早く周囲へ視線を巡らす。
「もっと、奥へ参りましょう」
促されるままに、奥へ 深部へと進んでいく。たちまち外界の光は途絶え、闇が、幾重にも重なるように濃くなった。
「ここへ」
ラッセルが上着を脱ぎ、それを地面に敷き詰めてくれた。
壁面を背にして、あさとは彼の指示どおりの場所に腰を下ろした。
何も喋りたくはなかったので、彼の言うままに水を飲み、出された固い木の実を口にする。
彼もまた無言だった。
日が落ちたのか、闇はますます深くなり、やがて手元さえ見えなくなる。
あさとから少し離れた対面に、ラッセルもまた、同じように腰を下ろす気配が感じられた。
やがて石を打つ音がして、淡い光が闇に浮かぶ。
蝋燭一本、それが唯一の光だった。
揺らぐ焔が、ラッセルを照らし、淡い輪郭を浮かびあがらせた。けれど、その表情までは判らない。
こんな場所で、騎獣が防ぎきれるのだろうか。
あさとは、そう思ったが、黙っていた。どうせラッセルには考えがあるし、聞いたところで、教えてくれないことも判っている。
「………」
「………」
沈黙だけが、洞窟内に満ちる。蝋燭の焔がじりじりと朽ちていく。
二人でいる時に感じる孤独。それが、一人の時より辛いことを、あさとは初めて知った気がした。
「……私が、怖いのですか」
ラッセルがふいに言った。
あさとは吃驚して顔を上げた。
「先ほどから、そんな顔をしていらっしゃる」
「………」
揺れる光と闇の中、その声は、不思議なくらい優しく聞こえた。
顔が見えない分、声だけは確かに、かつてのラッセルのものだった。優しくて、いつも傍にいてくれた 彼の声。
「仰りたくなければ、結構ですが」
「………」
耐えかねたものが爆発しそうになって、あさとは両手で口元を押さえた。抑えた唇から嗚咽がもれ、それは肩を震わせた。
「はっきり、言って……」
せきあげるものを堪え、あさとは呟いた。
「……私のこと、許せないと思っているならそう言って、……もう、前みたいに思えないなら……」
ラッセルは黙っている。彼を抱いたまま、闇は静かに動かない。
「ラッセルは変わった。私、……今のあなたが、……怖い、好きじゃない」
「………」
言ってしまってから後悔した。感情のままに出た言葉だったが、命を賭けて自分を守ろうとしている男に対し、なんと我儘な振る舞いだろうか。
自分の幼さに腹が立った。わかっている。結局はこれも甘えなのだ。昔から いつもあさとは、ラッセルに甘えている。
「少し……話をしましょうか」
けれど、ラッセルの声は優しいままだった。
「……何を」
「何でも、……陛下のお話しになりたいことを」
「………」
あさとは目を凝らし、蝋燭の焔に揺れる男の面差しを追い求めた。彼の表情、そのわずかな断片でも、掴み取りたかった。
ラッセルは静かな口調で続けた。
「……陛下の言われる通り、私は変わったのかもしれません。否定はしません。何故ならあの時、確かに私は、一度死んでしまったのですから」
まるで他人のことを話すように、淡々とした口調だった。
「命を取り止めた時、私は皇都を去る決意をいたしました。以後、私は、アシュラル様の下を離れ、獅子堂ラッセルという名を捨てることにしたのです。そして青州に渡りました」
あさとは少し迷いながらも、以前から気がかりだったことを、訊いてみた。
「それは アシュラルのことが、嫌いだったからなの?」
「いえ」
闇が、わずかに苦笑する気配がする。
「そうではありません。私を救ったのはアシュラル様です。私が皇都を去ったのは別の理由で、……アシュラル様も、それはご承知なされていることです」
別の、理由。
なんだろう、あさとは眉をひそめている。
「……忌獣を倒す方法を、私独自のやり方で探してみるつもりでした。ご存知のとおり、青州はシュミラクール一忌獣の多い州。そこに何か、忌獣が生まれた原因があるのではないかと、私はかねてより思っておりました」
「………」
あさとは、アシュラルの言葉を思い出していた。忌獣は 人の恐怖が形になったものだと言った、彼の言葉を。
「前に、ジュールに聞いたわ。……青州を治めていたグレシャム公が亡くなられて、忌獣の害がうんと減ったって」
「仰られる通りです。では、もうご存知でございましょう。忌獣の本質とは見る者の心の闇。恐怖が形になったものなのです」
「……恐怖?」
「そうです」
暗闇に響く声。
怖い話をしているのに、不思議と心が落ち着いていく。それは それは、ラッセルの声が、とても優しく聞こえるから。
「そんなことが、あるのかしら。……恐怖が形になって、しかも、人を殺してしまうなんて」
ここは、なんでもありの異世界かもしれない。が、それでも、魔法や怪物が当たり前に存在しているわけではない。世界の成り立ち、環境、生態系、それら全てはあさとのいた世界と酷似している。例えば、リュウビの時と呼ばれる現象にしても、ハレー彗星や惑星直列と似たようなものだろう。星と星の接近により、異常気象が起こる。科学的に説明できないわけではない。
そこに ひとつだけ、全く説明のつかない異質なものが混じっている。
それが忌獣だ。
「……何かがこの世界に、負の作用をもたらしているのです」
沈んだ声で、ラッセルは続けた。
「人の心に掬う不安、怒り、呪詛、そして邪心、それらを吸い上げ、何かの意思が膨張させているのです。闇は人の心を不安にさせる、だから 闇に、騎獣は現れる……」
ラッセルの声が、ふと翳った。
「が、それだけでは説明のつかない具象も多々ございます。何故、月が満ち欠けを止めてしまったのか。何故、忌獣があのような形態をしているのか」
ぞっとするような寒気を覚え、あさとは自身の身体を抱いていた。
金羽宮で、一度だけ見た忌獣の姿。
いや、見たとはいえない。おそらく 完全に変化する前の気を感じただけなのだ。闇が凝結し そして、巨大な獣に変容していく姿を。
「ラッセルは、蒙真に……行っていたんでしょう?」
ジュールの言葉を思い出しながら、あさとは訊いた。蒙真にこそ、忌獣の謎を解くカギがある。 。
「ご存知でしたか」
ラッセルが頷く気配がした。
「青州に出現した忌獣を調べて行くうちに、私は、村落に伝わる奇妙な民間伝承に行きあたりました。様々な形ではありますが、全てに共通しているのが、闇の夜に人獣が現れて人を食らう 。そういったくだりでございます。シュミラクールで初めて忌獣が出たとされる何百年も前から、そのような伝承が、青州の各地で言い伝えられていたのです」
「…………」
「調べて行くと、その伝承の発信は、青州ではなく、海を隔てた蒙真でした。蒙真族が発祥したという蒙真半島に、全ての伝承が集約されていたのでございます」
ジュールは、なんと言っていただろう。蒙真に……忌獣を操る異能力者がいる……。確か、そんなことを言ってはいなかっただろうか。
あさとが問うと、ラッセルはそれには、しばらく答えを躊躇う風でもあった。
「その噂は根強く、そういった人物を暗示した伝承も多々ございます。が、同時に、蒙真では絶対に口にしてはならない禁忌のようでございました。未だ私にも、真偽のほどはわかりません」
そこで、彼はわずかに言葉を切った。
「けれど、蒙真で様々な事例を調べていくうちに、これだけは確かだと思うようになりました。忌獣は、人の意思によって生まれ、人の意思よって制御できる幻獣なのです。私は以前、忌獣を見たことがないと申し上げましたが」
「……知っているわ。ジュールに……聞いたから」
自らの命を賭けて 自身を持って、その理論を実証したと。
皇都中を進軍しているアシュラルら法王軍が、忌獣に襲われたという話は聞こえてこない。戦場によく現れると言われる忌獣。法王軍の快進撃は、おそらくラッセルの言葉を信じ、ある程度忌獣を防ぐすべを知っているからだろう。
「忌獣とは、恐ろしき獣の態をしておりますが、最後には、……見る者の、最も畏れる姿になります」
「どういう意味?」
「それは人であり、……過去であり……心にすくう自身の闇そのものです。……己が抱く闇に打ち勝たねば、忌獣に勝つ術はございません」
12
闇が、じりじりと光を侵食している。
あさとは、おぼろげに揺れるラッセルの横顔を見ていた。
ラッセルは、最後に何を見たのだろう。
こうして生きている彼は では、忌獣が最後に変化した姿を見て、そして打ち勝ったということだろうか。
聞きたいような気がしたが、同時に聞くのが恐ろしいような気もした。
私がもし、最後まで忌獣を見るとしたら 私に、それは、いったいどんな姿に見えるのだろうか。
「青州は……こういう言い方をしてよいのなら、グレシャム公統治の時代、過酷な労役と重税が課されておりました。呪詛と怒りが民の心を重く占め、農村部を中心に忌獣は夜毎、人を襲っておりました」
「………」
思わず、うつむいてしまっていた。
それは以前、ジュールにも聞かされた。あさともまた、同じ時期に青州で暮らしていたのだ。何も気づかなかった、考えたことさえなかった。
「けれど今、青州では、格段に忌獣の害が減っております。ダーシー様のご慈悲ある統治が、人々の心を癒しておられるのだと思います」
「………」
「民の心が癒えれば、忌獣が出ることもないでしょう。シュミラクール規模でそういう世界を実現できれば、予言の呪縛からこの世界は解き放たれる 私はそう信じています」
あさとは黙って、胸に沁みる雨のような、彼の言葉を聞いていた。
アシュラルもまた、ラッセルの言葉を聞き、その意を汲んだのに違いない。でも 。
「アシュラルは……だから、民を苦しめている諸侯を……彼らの権力を奪おうとしているの? そのために闘っているの?」
本当に、そのやり方しかなかったのだろうか? あさとはずっと思っていた。
恐怖にそれ以上の恐怖を持って対峙する。本当に そんな血塗られた方法しかなかったのだろうか 。
「……予言に言う救世主が」
そう言いかけたラッセルは、そこで言葉を途切らせた。
「……悠長なことを言っている間に、忌獣は、シュミラクール全体を覆い尽くしてしまうでしょう。アシュラル様には、世界を変える力がある 。この時代、彼のような才能が生まれたのも、何か意味があるのかもしれません」
世界は変わるのだろうか、仮に変わったとしても 。
その後のアシュラルに、一体何が残るのだろうか。
「ディアス様は……黒血病だと聞いたけど」
あさとがそう言うと、暗闇の中で、ラッセルが一瞬息を引くのが判った。
「ロイドが、忌獣と黒血病には関わりがあるようなことを言っていたわ。……もし、この世界から忌獣が消えてしまえば、ディアス様の病も治るのかしら」
「……そうかもしれません。そうであって欲しいと思いますが」
返ってきた返事は、どこか精彩を欠いていた。
「ナイリュも、黒血病患者で溢れています。……それもまた、予言の言うところの終焉の前兆なのかもしれませんね」
あさとは何も言えなくなった。
今は 闇の時代なのだ。金羽宮にいる時は、何も知らず、この世界が滅びることなど、想像もしていなかった。終焉は確かに迫っている。それももう、足元まで。
「私が、陛下に無断で身を隠したことを、ご不信に思われておられるでしょうが」
ふいにラッセルがそう続けた。
あさとは、はっとして、顔を上げる。
「アシュラル様と陛下が、ご結婚なされると決まった時、私は 皇都での私の役目もまた、終わったのだと思いました」
「………」
「お分かりになりましたか、……背中の傷のことが」
「………」
あさとは鼓動が高まるのを感じた。いずれ、判る、とラッセルは言った。
それは アシュラルの妻になった自分が、いずれ彼の、裸の背を見るということを、意味していたのだろうか……?
「金羽宮で、陛下が忌獣に襲われた夜、 まさかと思いました。……アシュラル様らしいといえばそれまでですが、ああも無謀をなさるお方とは思わなかった。……そう、あの方と陛下とは」
「………」
「まるで生まれる前から決められていたように、結ばれるさだめでした。お互いが惹かれているのを、お互いだけが気づかないでおられる。 私にはそう思えました」
そうかもしれない。あさとは素直にそう思った。
初めてアシュラルを見た時に感じた、嫌悪と不安。それは すでに自分の心が彼に奪われていた証だった。あの日から、多分、<クシュリナ>は、ずっとアシュラルに恋をしていたのだ。
「陛下の私を見る目が、時々……、何かの意味を持つように、感じられることがございました」
ラッセルはいきなり核心に触れた。
あさとは衝撃を隠せずに、うろたえた。
「ご安心なさいませ、……私は、こう思っておりました。昔から私は、アシュラル様と、よく似ていると言われていました。きっと陛下は」
胸が激しく動悸を打っている。
「陛下は、アシュラル様にないものを、無意識に私に求めていたのでございましょう。私にはそれが、よく判っておりましたから」
そうなのだろうか。 そうなのだろう。でも、本当にそれだけだったのだろうか。
それだけなのだ。 本当に?
本当に、今、彼を目の前にして、それだけだと言いきれるのだろうか。
駄目。
いけない。
また、 馬鹿なことを考えている。
彼は琥珀じゃない。琥珀じゃない、ラッセルなんだ。ラッセルでしかあり得ないんだ。
「カヤノと、……結婚したのは、いつ?」
そう聞くと、ラッセルはわずかに沈黙した。
「……つい、先月のことです」
「急だったのね」
「彼女には、随分苦労をかけましたから」
短く答えると、彼は再び口を閉ざした。
沈黙が、もうあさとには耐えられなかった。
「……まだ、話していて」
「………」
「怖いから、ずっと何か、喋っていて」
「……怖いとは?」
静かな声が返ってくる。
怖いのは 忌獣?
それとも、淡い闇の中で見え隠れする、この人……?
「き、忌獣が、出たらどうするの」
あさとは、声をつまらせながら言った。本当に怖いのは、忌獣でも目の前の男でもない、揺れつづける自分自身の気持ちだった。
「忌獣は」
ラッセルが何か言いかけた時、突然舞いこんだ突風が、前ぶれもなく蝋燭灯りを呑み込んだ。
わずかな光に慣れてしまった視界が、いきなり漆黒の闇に閉ざされる。
「 ラッセル?」
恐怖にかられて、あさとは叫んだ。
恐怖は忌獣を呼ぶ、刹那にそれを思い出し、急速に不安が膨れ上がる。
「ラッセル、どこなの!」
立ちあがった瞬間、足がもつれた。よろめいた体を、腕をついてなんとか支える。
「ラッセル!」
あさとはその姿勢のまま、叫んだ。
前も、後ろも、上も下もない。この世の果てのような深い闇。
怖い 。
計り知れない孤独と不安。この世界で、たった一人になってしまったような感覚。
ふいに指が、暖かなものに触れた。
指先でそれを探り、手繰り、そして、絡めた。それはラッセルの指だった。
ラッセルの手が、あさとの腕を掴み、引き寄せて肩を抱いた。
彼は無言だった。
触れる肌の感覚と、そして、微かな息遣いが 。
まるで、眩暈のように、あさとを幻惑していった。
ありえない……。
闇の中、触れている感覚。絡めた指、そして肩を抱き寄せる腕の力、髪の香り、胸のぬくもり、鼓動。
琥珀。
琥珀、琥珀、琥珀……。
その感覚は、全てあさとの記憶に残っていた。大好きな琥珀に触れた時の、五感の記憶。
「忌獣は出ません」
ラッセルは静かな声で言った。苛立つほど冷静な口調だった。
「忌獣は、闇であっても閉ざされた場所には、出てはこないのです。……最初に説明すべきでした。ここは、安全です」
あさとは何も言えなかった。
ただ、うつむいて自分の感情に震え続けた。
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