翌朝、まだ日が昇りきらない内に、二人は宿を後にした。
 宿場街の外れまで出ると、ラッセルは、あさとを木陰で休ませた。
「ここで、お待ちを」
 彼は、そのままきびすを返し、雑居宿の中に消えていく。そしてすぐに、一頭立ての荷馬車を引いて戻ってきた。荷台には、わずかながらも家具めいたものが積まれている。
「どうしたの、これ……」
 思わず問うと、
「昨夜、旅の商人と話をつけてまいりましたので」
 短い返事が返ってくる。
 そうか。
 ようやくあさとにも、合点がいった。
 夕べ、彼が酒場にいたのは、馬車を借りる算段をつけるためだったのだ。
「……ごめんなさい」
「え?」
「……ううん」
 あさとは、一時でも彼を疑ったことを後悔し、そして同時に、それを今まで、一言も口にしてくれなかった旅の同伴者に、言いようのない寂しさを感じていた。
「お急ぎください、日が高いうちに、この界隈を抜けなければ」
 ラッセルは、あさとを荷台に乗せると、自分は御者席の人になった。
 馬は駄馬で、お世辞にも、手入れが行き届いているとは言えなかったが、彼がそれに頓着している様子はない。
 馬車は緩やかなスピードで、明け方の市街を駆け始めた。
     どうして……。
 あさとは不思議な気持ちで、手綱を操る男の背を見つめた。
 どうして馬を使わないのだろう。その方が、ずっと早く街を抜けることができるのに。
 乗馬なら自信がある。体重が軽い分、あさとは有利だ。多少の追手なら振り切れる。
 今だって、こんなにのろのろ進まなくても、もっとスピードを上げればいいのに、と思う。
 けれど、今日のラッセルも、やはりどこか近寄りがたく、何一つ話しかけることができなかった。
 行き先はもちろんだが、他にも聞きたいことは、唇まで溢れている。
 今まで何をしていたの?
 どうして結婚したの?
 どうして……。
 助けに来てくれたの?   
 なのに、何も聞けない。言葉だけでなく、視線を交わすことさえできない。
 彼の気持ちが判らない。嫌われているのか、憎まれているのか、それとも    大切にされているのか。
 ぼんやりと考えていた時、突然馬車が停止した。
「……?」
 人気のない一本道だった。周囲には、木々と、そして荒れ果てた農地が広がっている。
「どうしたの……?」
 顔を上げ、そう問った唇を手で覆った。
 翼を広げた鷹の紋章を施したクローク。それを風に翻した騎士が二人、馬上から、馬車の行く手を遮っていた。
「イリマの宿に泊まっていた夫婦連れだな」
 濃い口髭をたくわえた騎士が、そう言って顎をしゃくった。
 馬車を降りろ、ということらしい。
「何かございましたか」
 ラッセルは、従順に御車台を降りると、背後のあさとを振り返った。
 こちらへと、目が言っている。
 あさとも馬車を降り、ラッセルの背に隠れるようにして、その傍に立った。
「ふぅん……」
 騎士の目は、ラッセルを通り越し、あさとだけをじろじろと見つめていた。
「私どもが、何かいたしましたでしょうか」
 庇うように前に立つ彼の、その背が、緊張しているのがわかる。
「お前たちは何処から来た」
 もう一人、やや若く見える騎士が、馬上から轟然と聞いた。
「私たちは、青州から参りました」
 ラッセルは淀みなく答える。
「青州で猟を生業としておりましたが、戦に巻き込まれ、家を失ったのでございます。こちらの国に古くからの知り合いがおりますので、知己を頼り、こうして妻と二人、身一つで移住してまいりました」
 彼はそう言うと、身分証明書とナイリュ国の旅券を差し出した。そういったものを、あらかじめ用意していたことも、あさとはその時、初めて知った。
「知り合いとは、どこにいる」
 若い騎士は、なおも居丈高に質問したが、ラッセルは淀みなくそれに答えた。
「馬車と荷は、青州から持ってきたのか?」
「いえ、こちらで調達いたしました。イリマの宿で、旅商人から買い受けたのでございます」
「ふむ……」
 馬上の騎士は、まだどこか不審気だったが、旅券をひねくり返していた口髭の騎士は、納得したようだった。
「まぁ、間違いないだろう。確かに夫婦連れのようだ」そして、旅券を投げるように返すと顎をしゃくる。
 「もうよい、行け」
 あさとはほっとした。けれど、背を向けた途端に、「おい、そこの女」
 騎馬の上から声が掛かった。
 若い方の騎士だった。
「お前、……綺麗すぎるな、本当に猟師の妻か」
 冷たい目が、頭上からじっと見下ろしている。疑いというより、それは好奇の視線に見えた。
「念のためだ、そこで、裸になってみろ」
     えっ。
 愕然として顔を上げた。
 戸惑って、前に立つラッセルの背中を見た。騎士の要求の理由が、わからない。
「我々は、乳房の下に傷のある女を探しているんだ」
 からかうように騎士は言った。「むろん、お前のような下等な女じゃない、が、まぁ、万が一ということもある。胸を開いて見せてみろ」
 彼の要求の本質が、違うことにあるのは明らかだった。
 それでも、実際    あさとの胸には傷があった。アシュラルを護るため、右乳房の下に刻まれた刀傷が。
「騎士様、どうかお許しを」
 ラッセルは膝をつき、頭を下げた。「誓って、妻の身体にそのようなものはございません。どうか、ご容赦くださいませ」
「猟師ふぜいが、騎士に逆らうか」
 若い騎士は怒鳴るように言うと、馬から飛び降り、長剣の束を振り上げた。
 あさとは思わず目を覆った。
 鈍い音がした。
     ラッセル!
「女、来い」
 腕を掴まれたあさとの視界に、前のめりに倒れたラッセルの背中が飛び込んでくる。一瞬心臓が止まったような衝撃を感じたが、若い騎士は高慢な笑いを薄い唇に浮かべた。
「安心しろ、虫けらを殺さない程度の慈悲はある」
 もう一人の口髭の騎士は、止めても無駄だと踏んだのか、馬上で見物を決め込んでいる。
「こっちへ来い」
 腕を引かれ、あさとは木陰へと引きずっていかれた。
「いやっ、離して!」
 もがいたが、騎士の腕は力強く、容赦がない。振り向いた顔に、下卑た笑いが滲んでいた。
「逆らうか、逆らえば、亭主ともども命はないぞ」
 その言葉で、あさとは凍りついていた。
 騎士の手には、長剣が握られたままになっている。
     ラッセル……!
「大人しくしていろ、楽しませてくれたら、旅の駄賃くらいくれてやる」
「女、犬に噛まれたと思って諦めるんだな」
 押し倒された頭上で、口髭騎士の、苦笑交じりの声がした。
「おい、具合がよかったら俺にもやらせろ」
「悪いが溜まってるんだ。しばらくかかるぜ」
 交わされる会話が、信じられなかった。彼らが身にまとう衣装は、紛れもなく三鷹家の正規隊のものである。国に仕える騎士が    これではまるで、夜盗と同じだ。
 ナイリュの治安とは、騎士も含め、ここまで乱れているのだろうか。
 男が馬のりになってくる。あさとは抗ったが、ラッセルのことを思うと、抵抗は自然に弱くなる。
 絶望的な思いがかすめる。どうしたって力では敵わない。だったら、ラッセルの無事を確認するまで、なんとか時間を稼げないだろうか   
 でも、こんなこと    耐えられない。こんな連中に好きにされるくらいなら、死んだほうがましだ。
 あさとは懸命に懐に隠した短剣を取ろうとした。が、男は、あっさりとその抵抗を押さえつけると、片手で襟元を掴み、容赦なく押し広げた。
「いや……っ」
 その時だった。男の口元に浮かんだ笑みが、ふいに静止した。
「……?」
 笑みとともに、動きさえ止めてしまった若い騎士は、そのまま虚ろな目になった。
 ぐらりと顔をのけぞらせ、仰向けにどっと倒れる。
     何……?
 恐ろしさでまだ胸が躍っている。何が起きたか理解できない。あさとは、乱れた着衣をあわせて立ち上がろうとした。が、上手く立てない。自分の膝が、他人のもののように震えている。
 騎士は死んでいた。白く濁った目は天を仰ぎ、口はぽっかりと開いたままになっている。地面に伏したその背中から、じわじわと血のしみが広がっていく。
「ご無事ですか」
 頭上から、落ち着きはらった声がした。
 ラッセル   
 目の前にラッセルが立っていた。
 平然と立つ彼の右手には、血濡れた短剣が閃いていた。逆光の中、その切っ先から雫が滴り落ちている。
 あさとは、息を引いていた。
     殺した? ラッセルが……?
 ラッセルは無表情だった。瞳は冷静に屍を見据え、騎士が持つ長剣を、その動かない掌から抜き取った。それまで持っていた短剣を一振りし、血の雫を払い落とすと、腰の鞘に、すとんと収める。
 全ては一瞬の所作だった。
「お、おいっ……貴様、猟師、何をした」
 背後で、片割れの騎士の怒声が響く。
 おそらく、あまりにもラッセルの反撃が早すぎて、何が起きたのか理解できなかったのだろう。
 ものも言わず、ラッセルはあさとの腕を掴んで、自分の背に庇いこんだ。そのまま、仰天して駆けてきた口髭の騎士と対峙する。
「貴様ら……まさか」
 口髭の騎士は馬から飛び降りると、何かをわめいて剣を抜いた。
「まさか、本物の」
 言葉を遮るように、ラッセルの刃が風を切った。
 が、迎え撃つ騎士の判断も早かった。鈍い音をたてて剣と剣が噛み合い、空に青白い火花が飛ぶ。
 体格では明らかに、皇都育ちの騎士が劣っていた。
 剣を重ね合わせたまま、じりじりと押されていく。
 が、次の瞬間、ラッセルは剣を滑らせるようにすくいあげた。はっとした男が、一歩下がる。畳みかけるように懐に飛び込んだラッセルは    見事な間合いで、騎士の銅を跳ね上げていた。
 あさとは震えながら、その悪夢のような光景を見つめていた。
「行きましょう」
 まるで何事もなかったように、平然と長剣を投げ棄てると、ラッセルは振りかえった。きれいな額には、汗ひとつ滲んではいない。
     怖い……。
 初めてラッセルに恐怖を感じた。
 足元の遺体を顧みもしない、これが、この冷酷さが、彼の本性だったのだろうか。
 それとも、これが、この世界でのまっとうな価値観なのだろうか。
 彼らは確かに悪党だった。殺されても仕方がなかったのかもしれない。でも、    でも。
     判らない……。
 一片の慈悲さえ見せずに、躊躇いさえみせずに命を奪うラッセルは、あさとには、まるで知らない人のように思えた。
 私は    ラッセルが、この人のことが、もう判らない……。
 彼が変わってしまったのか。それとも、私が    本当の意味での彼を、今まで知らなかっただけなのか。
「急ぎましょう、騒ぎが大きくなる前に、ここを離れなければ」
 ラッセルが促す。ためらいつつも言われる通り荷台に乗ろうとして    あさとは、騎士の馬が二頭、その場に取り残されていることに、気がついた。
 いかにも丈夫そうな駿馬である。死者の持ち物だと思うと胸は痛むが、二度と今のような奇禍に巻き込まれないためにも、一刻も早く安全な場所に辿りついたほうがいい。
「ラッセル、馬を使いましょう」
 が、ラッセルは厳しい眼で振り返った。
「いえ、馬車にお乗り下さい」
「………」
「追手がすぐに来るでしょう    。皇都からの応援を待つつもりでしたが、この情勢では、自力で国外に脱出する他ないのかもしれません」
 横顔に、かすかだが苦渋の色が浮かんでいる。
 彼が何を迷い、何に逡巡しているのか、あさとには今一つ判らなかった。
 あさとの知らない何かを、彼は知っていて、それが彼の行動を著しく制限している    。そんな風にも感じられる。
「南に行きましょう」
 やがて静かに顔を上げ、ラッセルは言った。
「ナイリュ南部は蒙真族の勢力圏内です。危険は伴いますが、監視の目は少ない。ひとまず三鷹家の支配圏から抜けましょう」
 
 
              10
 
 
 日が、翳りを帯びつつあった。
 街を抜けると、やがて、辺りの景色は、山林と草原だけになる。そこまで来て、ラッセルはあっさりと馬車を捨てた。乗ってきた馬に鞭を当て、もと来た方角に、空の車を走らせる。
 もう、夕陽は残骸さえとどめてはいなかった。
 周辺に、人家らしきものは、まるで見えない。その代わり、荒れ果てた草原に、墓標にも似た石が無数に積み重ねられている。
「ここは……?」
 不安にかられ、あさとは訊いた。
「蒙真とナイリュの、いってみれば国境のようなものです」
 言葉すくなに、ラッセルは答える。
「国境……?」
「この国は、今、ふたつに分断されているのです。旧蒙真族の支配権に、いまだナイリュは手が出せないでいます。だから、争いも絶えない……」
 では、この先はもう、あの恐ろしかった蒙真族の領域なのだ。さらし首を槍にかかげ、若い女たちを攫っていた様を思い出し、あさとは身震いを覚えている。
 確かに三鷹家の追手もいないだろう。が、あんな連中に見つかってしまえば、自分とラッセルもただですむとは思えない。
     どうするつものなの……?
 不安と焦燥で息苦しい。けれど、ラッセルの表情は冷静なままだった。
「こちらへ」
 彼は当然のように、あさとの手を引き、道さえない山に向って歩き出した。
「……どうするの?」
 空を見上げて、あさとは不安を口にした。
 薄闇が、空を淡く染めている。雲の多い空だった。月が霞めば、……騎獣が出るのではないだろうか。
「この山を越えれば、安全な村落があります。そのまま港に向います」
「でも」
     夜が。
 そう言いかけた時、ラッセルが足を止めて振り返った。
「私の背に、お乗り下さい」
「………」
「少し急ぎます、夜まで間がありませんので」
 あさとは躊躇した。木々に閉ざされた山道は見る限り急こう配で、いかなラッセルといえど、女を背負って進むには負担が大きすぎる気がする。
 それに    感情的な躊躇いもある。
 よくわからないが、これ以上ラッセルに近づきたくない。
「私だって走れるわ。その方が早いと思うし」
 少し後ずさりながら、そう言いかけた途端、彼はものも言わず、距離を縮め、横抱きにあさとを抱き上げた。
「や……」
 驚きと羞恥で、頬が熱くなった。腕から逃れようと抗ったが、ラッセルは構わずに、歩みを速める。
「大丈夫、一人で歩けるわ」
 答えはなかった。
「ラッセル……」
 見上げた顔が余りに厳しく、緊張の色が濃かったため、あさとは言葉を失った。
 彼はそのまま、夕闇の山道を、まるで夜行獣のような身軽さで駆けた。
 汗ばむ肌の熱さを感じながら、あさとは、また、言いようのない虚しさを感じていた。
 どうしてラッセルは、何も言ってはくれないのだろう。何故、こんな風に、強引に何もかも決めてしまうのだろう。
 まるで信用されていない、まるで    対等に見られてさえいない。
 何かを問う気力もなくなり、あさとは黙って顔だけを逸らし続けた。
 それが唯一できる、彼への意思表示だった。
 
 
 
 
 
 
 

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