森を抜け、街に出ると、あさとは早くも疲労を覚えていた。
 まだいくらも歩いていないし、日は高い。
 休みたい、と言いたかったが、肩を抱いたまま、黙々と歩くラッセルの横顔を見ると、どうしても、それが言い出せなかった。
 街のいたるところで、鷹の刺繍が入ったクロークが翻っている。彼らはナイリュ木犀(モーヴ)軍に属する騎士たちで、兜の下からのぞく眼を光らせ、若い女    特に、色白で、髪の長い女を引き止めては、何事か話を聞き取っているようだった。
 彼らとすれ違う度に、肩に置かれたラッセルの手に、力がこもるのが判る。
 街中をさ迷うことは、危険なのだと、あさとにもはっきりと理解できた。
     どうするつもりなんだろう……。
 並んで歩く男の横顔を、そっと見上げる。
 そもそも、どこへ向かっているのかさえ、あさとは聞かされてはいない。てっきり港を目指すものだとばかり思っていたが、ラッセルの足は、それとは反対の方向を目指しているようでもある。わからない、夜まで、こうして歩くつもりなのだろうか?   
 街に人や露天商が増えて行くにしたがい、金褐色の甲冑をまとった騎士たちの数も増えているような気がする。
 このままでは、いつか足止めされ、正体を見破られてまうのではないだろうか……。
     何故、馬を使わないんだろう。
 普通に歩くより、その方が何倍も効率がいいはずなのに。
 けれど、ラッセルの足取りには、ひとかけらの躊躇もなかった。彼の足は、あらかじめ決められた場所を淡々と目指しているようにも思える。
 そして    、意外にも彼は、まだ太陽が沈む時間には間があるのに、街中にある、一軒の宿屋に足を踏み入れた。外は人通りも多く、陽射しが燦燦と照っている。
 あさとは不思議に思いながらも、宿の主人と交渉を済ませたラッセルの後について、二階に用意された部屋に入った。
     何……?
 扉を開けた途端、異様な匂いが鼻をついた。
たった一間しかない小さな部屋。すえたようなアルコールの匂いが、室内のあちこちに澱んでいる。おそらく前泊者の名残なのだろう。小さな木製の長椅子に、半身ほどの大きさしかない長椅子、家具らしきものはそれだけだった。
 部屋に入ってもラッセルは無言のまま、何度も窓の外、そして廊下の様子を確認しているようだった。
「あなたは、ここで、しばらくお休みになっていてください」
 全ての窓の施錠を確認してから、ラッセルは早口で言った。
「何処へ行くの?」
 不安にかられて反射的に聞く。
「イヌルダから来ているはずの密偵を探してみます。夜までには戻ります」
 彼はそのまま、素早く身をひるがえした。あさとの返事を聞きもせずに。
「ラッセル」
 扉が閉まり、靴音が遠ざかる。
     行かないで。
     私も、ついて行く。
 言いたかった言葉は、むなしく喉元で消えて行く。
 不安だった。サランナの館で過ごした恐怖の日々が蘇る。もう一人にはなりたくない。ラッセルに、傍にいてほしいのに。   
 でもその気持ちは……ラッセルには届いていないようだった。
 我儘だと判っていても、どうしようもない寂しさが押し寄せる。以前の彼なら、こんな時、絶対に一人にはしなかった。以前の私なら、以前の彼なら   
 涙が滲みそうになる。そうだ、もう彼は、昔の彼とは違ってしまったのだ。頭では判っているのに、私の心は昔の未練を引きずったまま、彼に甘えてしまっている。……
 あさとはヴェールを外し、そのまま寝台に横になった。
 疲労がいちどきに全身を襲い……いくらも考える間もなく、深い眠りに落ちていた。
 
 
                  
 
 
     誰かが……騒いでいる。
 火事……?
 女の悲鳴がした。それから、慌しい足音。
     なんだろう、……夢…?
「蒙真軍の残党だ!」
「扉を閉めろ! 女は絶対に外に出るな!」
 同時に、ガシャンとガラスのようなものが割れる音が響いた。
 夢じゃない    。がばっとあさとは跳ね起きた。
 部屋の中は真っ暗だった。
 起き上がろうとした途端、地響きのような音が戸外を震わせる。
 闇の中、窓の外だけが真っ赤に燃えている。
 窓辺に駆け寄ったあさとは息を引いていた。宿の前、狭い復員の道幅いっぱいに、異形の集団がひしめていている。
 ターバンにも似た帽子に、派手な宝飾を巻き締めた男たちが、馬で群れなして駆けている。白いぼろ布のような衣装、日焼けした赤黒い肌。
 赤く燃えているのは、各々が手にしている松明の焔だった。まるで騎馬の洪水のように、異形の群れは尽きることなく流れ続ける。
 目を引くほど大きな剣を天高く突き上げている者が幾人かおり、よく見ればその先に人の首様のものが突き刺さっている。
 あさとは目を背けていた。
 奇声、咆哮、そして女たちの悲鳴。
 列の最後に幌馬車のようなものが現れ、中には女たちや若い男が詰められているようだった。助けを求めているようにも見えるが、周囲を騎馬に囲まれ、もちろん助ける者は誰もいない。通り面した全ての家々の扉は閉ざされている。
     蒙真の……残党。
 かつてこの国はその支配者の属名から、蒙真、と呼ばれていた。つい、この間までのことだ。
 あさとがいるこの街も、かつては蒙真の支配下におかれていたはずだ。
 それが    一度は滅亡したはずの旧王族、三鷹家の復興により、蒙真族は主たる座を奪われた。勢力の大半はサマルカンドの都を追われ、南部に移動したと言われている。今でもその残党が、こうやって再々、都近くに攻め込んでくるのだろう。
     ひどい……。
 連れ攫われた者たちはどうなってしまうのだろうか。
 あさとは、暗い気持のまま、唇を噛みしめた。
 ナイリュの治安は最悪だとロイドも言っていたが、本当にひどい。
 が、あさとが閉じ込められていたサランナの館に、戦の影は感じられなかった。そうだ、国が乱れると、まず被害を受けるのは力のない無辜の民なのだ……。
 これで、皇都と開戦すれば、ナイリュは    この国の人たちはどうなってしまうのだろうか。
「やれやれ、肝が冷えたぜ」
 ようやく戸外が静かになり、扉の外から声が響いた。
「やつら、見境なしだからな。隣の町が襲われたそうだ。可哀想に、ありゃ小間物屋の女房だった」
「止めに入った青州の客人が、切り殺されたそうだぜ」
     ラッセル。
 はっと、あさとは振り返っていた。むろん、闇に包まれた室内には、あさと以外の人影はない。
 不安が、黒雲のように、胸の底から湧き上がる。
     ラッセルが……まさか。
 夜までには戻る、と言っていた。
 今は何時だろう、外がこの闇ならば    相当遅い時間いであることは間違いない。
 いても立ってもいられず、あさとは扉を開けて外に出た。
 廊下には人気がなかった。先ほど聞こえた声の主もいないようだ。けれど階段を途中まで降りると、一階のホールから、にぎやかな笑い声と音楽が聞こえてくる。
 こんな時に、と反射的に眉をひそめたが、ホールは無人で、それらの騒ぎは、扉一つ隔てた隣接の酒場から聞こえてくるようだった。
 その時、受付台の奥から、宿の女主人が姿を見せた。女は、階段を駆け下りてくるあさとを見咎め、驚いたような顔になる。
「お客さん、今は外に出ないほうがいいよ。騒ぎが聞こえなかったのかい」
「私の連れは戻ってきていない?」
 急くようにあさとは聞いた。「まだ、部屋に戻っていないの。着いてすぐに外に出たんだけど」
 恰幅のよい女主人は、いぶかしそうに眉を寄せる。
    その人なら」
「何をしている!」
 厳しい声が、ホールに響いた。
 あさとは弾かれたように顔をあげた。
 ラッセルだった。彼の背後    開け放たれた扉の向こうから、賑やかな喧騒が一際大きく聞こえてくる。ラッセルはその前に立ち、燃えるような眼であさとを睨みつけていた。
 その顔が余りに恐ろしくて、あさとは声を出せないでいる。
 彼はそのまま猛然と歩み寄ると、不意に手をあげ、あっという間もなく振り下ろした。
 鈍い衝撃が頬を震わせる。
    
 痛みを感じるよりは、驚きのほうが先だった。
 何が起きたのか判らなかった。
「女のくせに勝手に出歩くな、さっさと部屋に戻るんだ!」
 信じがたい言葉と共に、ぐい、と腕を引っ張られる。
「まぁまぁ、酒乱のだんなさんを持つと、女も大変だよ」
 背後で、女主人の呆れたような声がした。
 酔ってるの……?
 あさとは、ただ愕然としていた。
 他人に平手打ちされたのは生まれて初めてのことだった。あのアシュラルでさえ、一度も手を上げたことはないというのに。
「ぐずくずするな、早く来い」
 信じられない。……しかも、お酒に、酔っていただなんて……。
 ひきずられるように階段を上がりながら、あさとは自分の目に涙が滲んでいくのを感じていた。
 違う。
 こんなの、絶対に違う。
 絶対にラッセルじゃない   
    離して」
「………」
     ラッセルじゃない、ラッセルのはずがない。
 階段の途中で、あさとは掴まれた腕を、全身の力で振りほどこうとした。
「いやっ、離してっ」
 ラッセルは何も言わず、部屋の扉を乱暴に開ける。あさとを押し込み、そして後ろ手に扉を閉めた。
「………っ」
 腕が解かれ、床に膝をついた途端、堪えていた涙が溢れた。
 肩を震わせている女を、立ったままの男は、無言で見下ろしているようだった。
 かなりの時間、あさとも    そしてラッセルも、そのままの姿勢で動かなかった。
 やがて嗚咽も収まり、あさとはようやく顔を上げた。
 相手の沈黙に耐えかねて、顔を上げざるを得なかった。
「……ご無礼は、謝ります。お腹立ちなら、いかようにも罰してください」
 ラッセルは、あさとを見てはいなかった。横を向き、そして視線を伏せていた。 その横顔は、全く普段の彼で、酔いの色など微塵もなかった。
「ただしそれは、生きてこの国を出られたら、の話です」
「………」
「あなたは、何故、皇都を離れられた……」
 声だけが、ひどく陰鬱な色を帯びている。主君の顔を見ないまま、彼は重い口調で続けた。
「アシュラル様を案じられたためなのですか。そのご軽率が、一体幾人もの犠牲を産んだとお思いか」
 はっと、胸を衝かれるような言葉だった。
「……今も、そうだ。私を案じていただいたのでしょうが、それがいかに、馬鹿げていて危険な行動だったのか、あなたにはまるで判っておられない」
 悲しみとも、怒りとも取れる口調でラッセルは続ける。
 あさとはようやく、自分の背に流れる長い髪に気がついた。特徴的な茶褐色の髪、この髪をなびかせて、私は階下に行き    そして、大きな声で叫んだのだ。
 それがいかに、愚かで軽率なことだったのか、ラッセルが何故怒ったのか、    全てが、目が覚めるように理解できていた。
「あなたが過去の事件から、何も学んでおられないなら、……彼女の死は無駄だったということになる」
     彼女。
     ダーラ。
 ラッセルはそれだけ言うと、静かにあさとに背を向けた。
「もう、お休みくださいませ。ここも長居はできない、朝一番で出発します」
 口調は穏やかだったが、それは骨身に沁みるほど冷たく厳しい、裂帛の叱責だった。
 彼の言葉、それは全て的を得ていた。その通りだった。いつもあさとは情に流され、大きなものを見失っている。
 再会したラッセルが、どこか怒っているように感じられたのは、決して間違いではなかったのだ。
 それでも、彼は、決して私情でもって怒っていたわけではない。彼はただ    苛立っていたのだ。自分の妻を犠牲にしてもなお、全く成長のないかつての主君に。
 あさとは、以前、ロイドが言っていた言葉を思い出した。
    ラッセルは……、本当はかなりの激情家だぞ。怒らせて本当に怖いのは、むしろアシュラルでなくて、あいつの方かもしれない。)
 あさとは立ちあがった。まだ瞳を濡らす涙をぬぐい、顔を上げた。自分が今、何をなすべきなのか、ようやくはっきりと自覚できていた。
 扉の前に立っていたラッセルが、訝しく振り返る。
 あさとは構わず、懐に収めていた月白桜の短剣を取り出した。鞘から引き抜き、闇にかざす。
「……陛下」
 何を、と言いかけた男の言葉を遮るように、そのまま自らの髪を掴むと、刃を当てて、思い切り抜きさった。
 思いのほか鋭い刃は、勢い良く髪の束を切り落とし、ばさっと音がして、艶やかな髪が床に踊る。
「馬鹿な」
 残りの髪を切ろうと構えた腕を、ラッセルが捕らえた。
 男の顔に、初めて焦燥の色が浮かんでいる。
「離して」
 しかし、ラッセルは離さなかった。彼は反対の手であさとの握っていた短剣を掴み、抗う指から引き離した。
 緊張が解け、あさとはよろめいて膝をついた。それをラッセルは支え、二人は床に座ったまま、抱き合うような姿勢になった。
 合わさった鼓動が、同調している。
 あさとはようやく、自分が泣いていることに気がついた。
「……ごめんなさい」
 あさとは呟いた。「本当に、……ごめんなさい」
 ラッセルは無言だった。抱き支える腕は、緩みもせず、また、強まりもしなかった。
 首すじに、焼けるような痛みがあった。
 髪を切ったとき、刃の先が、皮膚をかすめていたのかもしれない。
 表情でそれとわかったのか、ラッセルの顔がふと動き、その視線が、痛む個所に向けられた。
「………」
 彼はあさとを片腕で抱いたまま、首筋に口を寄せ、傷から溢れる血の雫を、唇で拭い取った。
    ?」
 冷たい唇が首筋に触れた瞬間、まるで電流が走るような衝撃があった。
 それは、あの冬の夜と同じ感覚だった。琥珀の    唇と、同じ。
 ラッセルは、呆然とするあさとから静かに身体を離すと、外に出て、すぐに柔らかな布を濡らしたものを用意して戻ってきた。
「……お召し物が、汚れるところでしたので」
 低くそう言うと、傷を拭い、その部分を布で強く押さえた。
 あさとは息をつめ、鼓動を殺して、彼のなすままになっていた。
 頭の中が、どうにかなってしまいそうだった。
 いけない。
 薄く締まった唇が、目の前にある。
     こんなこと、考えるだけでも、恐ろしいことなのに!
「残りは、私が切りましょう」
 やがて傷の手当てを済ませ、そう言ってくれたラッセルを、あさとは激しく拒絶した。不自然な態度だと思われても、それだけは彼の手を借りてはならない。
 夫から託された銀の剣で、残っていた髪を切り落とし、切りそろえ、    まるで、元の世界のような長さに落ち着いた髪の感触を、指で梳いて確認した。
 その夜、ラッセルは壁に背をもたれて床で眠り、あさとは寝台に横になって眠った。
 どちらも、殆ど眠れなかったことを    寝たふりをしながら、研ぎ澄まされているラッセルの神経を    あさとは怖いような思いで、感じていた。
 
 
 
 
 
 

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