5
暖かな日差しの気配を頬に感じ、あさとはゆっくりと目を覚ました。
「………」
小屋の中は、柔らかな光に包まれている。
どこかから、ぱちぱちと火のはぜる音がする。
隣室で、ラッセルが食事の支度をしているのだ。ここに来てからの いつもと同じ、朝の情景。
ゆっくりと身体を起こした。多少の吐き気は残っているものの、この数ヶ月の変調が信じられないほど、身体に力が漲っている。
日に日に、体力が戻ってくるのが、はっきりと感じられる。
「お目覚めになられましたか」
扉が開き、盆を片手に持ったラッセルが現れた。
肩上あたりまで伸びた髪を、後ろで一まとめに括っている。そのせいか、ひどく年上のようにも見える。
彼は、濃い茶の上着を羽織り、アンクルシューズの上に、長い皮のフットレスブーツを履いていた。手には皮の手袋をつけている。
その格好が、この界隈に見られる猟師のものだと、あさとは彼から教えられていた。
「いつも……悪いわ」
湯気の立つスープ皿を受け取りながら、あさとはうつむいていた。
気持ちにも身体にも、こんなに張りが戻っている。なのにまだ、彼は、あさとが寝台から降りるのを許さない。
「ロイドは、もう、船に乗れたのかしら」
眼が合うたびに、ぎこちなくなる。そんな自分の態度を悟られないよう、あさとは何気なく聞いてみた。
「おそらく」
いつものことだが、ラッセルの答えは、そっけない。
「無事に、青州に着くといいけれど」
「………」
返事はなかった。
これ以上、会話を続ける勇気をなくし、あさとは無言でスープを口に運んだ。
あの錯乱の一夜から、 数日。
その翌朝、目覚めた時の自分の姿を思い出すと、今でも、恥ずかしさで頬が赤くなる。
私……、何を言ったんだろう。何をしたんだろう。
記憶は曖昧に抜け落ちていた。はっきり思い出せないだけに、余計に怖い。
それでもひとつだけ、あさとは不思議な感覚を記憶していた。
解き放って……私を。
意識が錯綜していた最中、あふれ出た感情の一端。あれは、あさとの言葉であって、そうではないような気がした。自分の中の、コントロールできない何かに突き上げられたような 叫びだった。
「……こ…はく」
私を、解放して 。
あれは、雅の叫びでもあったのだろうか。それとも、 私の中のクシュリナの叫びだったのだろうか……。
「どうかなさいましたか」
はっとして、顔を上げていた。
窓辺に立つラッセルが、いぶかしげな視線を向けている。
「ううん、あの、……」
あさとは少し迷い、そして、思い切って口にした。
「私……あの夜、色々、おかしなことを言ったと思うんだけど」
「…………」
「誰か、あなたの……知り合いの名前とか、口にしなかったかしら」
「いえ、別に」
ラッセルの反応は、それだけだった。わずかに眉を動かしたものの、すぐに視線を窓の外に転じる。
ラッセルは、琥珀ではないのかもしれない。
あさとは、ため息と共に、背を向けたままのラッセルから視線を逸らした。
確かな確信を感じたのに、あれは、ただの思いこみだったのだろうか。
彼が琥珀で、そして小田切直人と同じように夢で自らの過去を見ていたとしたら 勝手な解釈ではあるけれど、琥珀とか、雅とか、そう言った名前に、ある程度、記憶があってもいいような気がする。
ラッセルの記憶に、その名が残っていないということは。
あなたは……琥珀では、なかったの?
ラッセルは、窓辺に立ち、険しい視線をじっと窓の外に向けていた。
その横顔に日差しが影を作っている。どこか暗い眼差しのまま、彼の意識は、ひたすら戸外に向けられているようだった。
まるで とりつくしまがない。
あさとと二人きりになってから、ラッセルの態度は、ずっとそんな風だった。自分の周囲に壁を作り、その中に、決してあさとを入れようとはしない。
仕方ないわ。
あさとは、沈む気持ちを無理に奮い立たせ、食事を続けた。
私が変わってしまったように、彼も変わった……。私たちは、もう以前の関係ではないのだから。
本音を言えば、 聞きたいことは沢山あった。何故今まで、連絡してくれなかったの? 何故生きていることを隠していたの? あなたとアシュラルは、もしかして 。
「陛下、食事を終えられたら、ここを出なければなりません」
突然ラッセルの視線が向けられたので、あさとは慌てて目を逸らした。
「どこへ行くの?」
ロイドが救援を呼んで戻って来るまで、ここからは動かないと聞かされている。
「ここはもう駄目だ。見つかるのも時間の問題でしょう」
厳しい口調だった。
あさとは、はっとして顔を上げた。
それで 先ほどから、彼は外を気にしていたのだ。
「こういうこともあろうかと、お召し物を用意してあります。恐れ多いことですが」
ラッセルは少し言いよどみ、それから軽く息を吐いた。
「何度か街を探索しましたが、港はもとより、領地内のあちこちに、陛下を探すための追手が、潜伏している様子でした。しばらくの間……、私たちは、夫婦者として行動した方がよろしいかと思います」
夫婦……。
あさとは、戸惑って瞬きをする。
彼が言いにくそうにしている理由が、ようやく理解できていた。
「ご身分のことを考えれば、これほど無礼な振るまいはないと、心得ておりますが」
あさとが黙っているので、彼は、ますます苦しげな口調で続けた。
「その御髪も、……少し、お切りになった方がよろしいかと存じます」
長く、そして豊かに艶めく、茶褐色の髪。
茶褐色の髪色は皇都では珍しく、長く垂らしていたら確かに目立つ。即座に頷こうとして、あさとは、ふと、髪に触れるアシュラルの唇を思い出していた。
絶対に切るなよ、全部俺のものだから……。
何度も撫でられ、愛された髪を、今ここで切ってしまうことに、未練のような迷いがあった。
「髪は、まとめて帽子で隠せば平気だと思うわ」
あさとはそう言い、探るようにラッセルを見上げた。彼は、わずかに黙ったものの、特に気にした風でもなく頷いた。
「では、そのようになさいませ。それと人前では、私は陛下のことを、名で呼ばねばなりません。……お嫌でなければ、私の妻の名でお呼びしても構わないでしょうか」
カヤノ?
あさとは黙った。どうせ、人前で名乗る偽名で、特に気にする必要はない。けれど……。
漠然とした嫌悪が胸の底にある。カヤノも決して、それを快く思わないだろう。 ラッセルの無神経さに、少しだけ苛立った。
「あの……もし、どんな名前でもよかったら」
少し、胸がドキドキしていた。 私、私は、何を言うつもりなんだろう。
「セナって、呼んでもらえるかしら」
「 それは……構いませんが」
ラッセルはわずかに眉を動かしたが、あっさりと頷いた。
「判りました。私の名も、一応偽名を使いたいと思います、私は」
「琥珀」
咄嗟にそう言っていた。
口にしてから、後悔した。 私は何をしているんだろう、私は……多分、試したいんだ。彼が本当に琥珀かどうか、確認したいと思っているんだ。でも、知って、それを知って、一体どうしようというのだろう。
私はもう、彼の手を取るつもりはないし、彼もまた 苦しむだけだと判っているのに。
「 ……コハク」
ラッセルは、今度は少し、驚いたような顔をした。
その表情の、わずかな変化も見逃さないつもりで見つめていたあさとは、心臓が、急速に高鳴るのを感じた。
「その名前、聞いたことがあるの? 」
先ほどの逡巡も忘れ、思わずそう聞いていた。
「……いえ」
ラッセルは戸惑ったように目を伏せる。
「先日も、陛下はその者の名を呼ばれていました。……コハクというのは、陛下のお知り合いの方なのでしょうか」
「………」
違った……。
あさとは肩を落とし、ラッセルから視線を逸らした。
先日というのは、多分薬の禁断症状で、ひどく錯乱した夜のことだ。だから、ラッセルは言いにくそうにしているのだ。
私、馬鹿だ。いったい何を、ラッセルに期待しているんだろう。
けれど、ひとつだけはっきりした。
ラッセルは 、琥珀ではない。
その瞬間感じたものが、落胆なのか、安堵なのか、あさとには判らなかった。
6
その日の午後、あさとは、巻きつけ型のドレスに着替えさせられた。スカートの裾を革ベルトにたくし込み、ウールのアンダースカートの、裾部分だけを表に出す。
これが、一般的な作女の着る衣装だと、着つけを説明しながら、ラッセルが教えてくれた。
髪は堅く後ろでまとめ、木綿のヴェールで覆い隠す。
着替えをしながら、時々軽い眩暈を感じた。多分、久しぶりに寝台から降りたせいだろう。
身支度を済ませ、部屋を出ると、すでに荷物を背負ったラッセルが、待っていてくれた。
彼は振り向き、すっかり様子の変わったあさとの姿を、上から下までじっくりと見つめた。
え……。
その視線が、彼にしては、あまりにぶしつけで 少し驚いて、目のやり場をなくしている。
「……目立つな」
けれどラッセルは、厳しい面差しのまま、呟くように言った。
何……?
彼は無言で腰をかがめると、片手だけ手袋を外した。傍らの囲炉裏にその手を差し入れ、掌で灰をすくいあげ、軽くはたく。
そして、つかつかと革の靴音を響かせて、あさとの面前に立った。
「少し、お顔を汚します」
えっ。
ラッセルの掌と指が、いきなり頬にあてられ、なでるようにこすられる。
「な、」
何をしているか、何のためなのか、すぐに理解できたが、それよりも羞恥が勝る。思わず逃げ腰になっが、ラッセルはひるまなかった。
顔と首、剥き出しになった腕に、彼はやや強引とも言える動作でそれをやり遂げ、そして、こともなげに言った。
「用心のためです」
「………」
あさとは何も言えず、ただ、頷いた。
ラッセルは表情を変えずに、再び背を向け、下ろした荷物を持ちあげる。
「行きましょう。時間がない」
声は、必要以上に冷淡に聞こえた。
ラッセルは……本当に、変わってしまったんだ。
歩き出した形良い背を見ながら、あさとは、自分が、ひどく寂しい感情にとりつかれているのを感じていた。
ラッセルはラッセルだ。……でも、以前の彼とは、まるで違う。
「お疲れになったら、すぐに言ってください」
振り返る横顔が険しい。声は丁寧なのに、態度はひどくよそよそしい。まるで、単なる臣下のように。
むろん臣下には違いない、二人の関係は、出会った最初からそうだった。けれど、決して他人が入りこめない絆があった。二人にしか共有できない何かがあったはずだった。
なのに、今は 。
生い茂る木々に閉ざされた森の深部。静まり返ってほの暗いそこには、二人の他に人の気配はないようだった。
ラッセルの後を遅れて歩きながら、あさとは次第に、気持が重く沈みこむのを感じていた。
そもそも彼は、私のことを、本当に許してくれたのだろうか。……
死に際の言葉は、本当に彼の真実から出た気持だったのだろうか。
本当に許してくれたのだったら、何故彼は、自分が生きていたことを私に隠していたのだろうか。
本当は……私の顔など、もう見たくはなかったから……。
それだけをことを、あさとはしてしまったのだ。
ラッセルの大切なもの全てを、あさとは奪い、壊してしまった。
あの嵐の夜、自分を見つめた憎悪にも似た悲しい眼差し あれは、決して見誤りなどではなかった。あの夜の出来事が、あるいは彼の中の何かを、決定的に変えてしまったのではないだろうか。 。
( 危険すぎる、カヤノは巻き込めない)
夢うつつで聞いた、あれは、確かにラッセルの声だった。
あの時彼が胸に思ったのは、カヤノのことだけだったのだろうか。ダーラの悲しい運命を思い、それに今の妻を重ねたのではないだろうか。
もう、絶対に、自分の愛する者を、私の傍には近づけたくないと……そんな風に思ったのではないだろうか。
突然腕を取られ、あさとははっとして顔を上げた。
何時の間に、肩を並べていたのか、それはかなり先を歩いていたはずのラッセルだった。
「お疲れですか」
見下ろす目が、やはり、どこか冷たいと思うのは、気にしすぎなのだろうか。
あさとは無言で首を横に振り、掴まれた腕を払おうとした。
「平気、歩けるから」
「ならば、不自然に離れないでください」
「………」
「怪しまれる、私たちは夫婦なのですよ」
その声に、微かな苛立ちが滲んでいる。
だったら。
自分が私に合わせればいいじゃない、馬鹿。
自分の子供じみた反発に、あさとは泣きたくなった。
確かに、あえてラッセルと距離を開けていたのは事実である。でも、それとは別に、やはり身体が思うように動かなかった。これ以上早く歩く事など、できそうもない。
言いすぎたことに気づいたのか、ラッセルも黙ったまま、しばらくあさとの腕を掴んでいた。
「……私の傍に、いてください」
彼はそれだけ言うと、あさとの腕を離し、肩に手を回して抱き寄せた。
どこかぎこちない所作だった。
「あなたは、ご病気なのです。……これからも、そのつもりでいてください」
彼の心音を間近で聞きながら、嬉しいというよりは寂しかった。
こんなに、近くにいるのに。
心はひどく離れてしまった。それが、とても悲しかった。
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