ひどい寒気で、目が醒めた。
 全身が、寒さとは別の何かで、小刻みに震えている。
     寒い……。
 喉が焼けるように痛い。乾く、苦しい、息ができない。
 もがくように身を起こし、枕元の杯を探した。夢中で手にすると、唇から溢れるにまかせて飲み干した。歯の根があわない。指が震える。
 杯が音をたてて、床に転がる。
     だめ、こんなんじゃ全然足りない。
 寒い、寒い寒い寒い寒い。
     何かが、足を這っている。細かいものが、さわさわさわさわ這い上がってくる。
 あさとは、恐怖に駆られて悲鳴を上げた。
 扉が勢いよく開いた。
 薄闇に浮かぶ、長身のシルエット。
 あさとは振り返った。
 そして、叫んだ。寝台から滑り落ち、腰で這って後ずさった。
 闇に光る銀の髪、灰色の冴えた瞳。
    ユーリ……」
 見つかったんだ。ユーリが、ここまで追って来たんだ。
 男の手に、シーツのような長い布が巻き付いている。    何? これで、私を拘束するつもり?
「来ないで……」
 後ずさる。背中に壁があたる。
「いやぁ、来ないで、私に触らないでっ」
 ユーリの手が、指が、服を剥がし、唇が身体のあちこちに触れるイメージが、まるでフラッシュバックのように、頭の中を駆け巡った。
     何? 
 これは何なの? 私の記憶? それとも妄想?
 泣きながら、あさとは金きり声をあげ、懸命に抵抗した。
 しかし相手の力も容赦なかった。ものすごい力で引き起こされ、そのまま寝台の上に押し倒される。抗う間もなく、正面から抱きすくめられた。
「いやっ、いやっ、助けて、ロイド、ロイド、ラッセル!」
 声を限りに叫んだ。二人は    本当にいたのだろうか。それすらも自信がなくなりかけている。
     ここは、まだ、サランナの館で……。
 私はまだ、囚われたままなのではないだろうか。
 男の腕は、あさとの両腕を掴み取ると、そのまま強く、背後に回した。あさとは、相手の胸に顔を押し付けられるような形になった。
「いやぁ、アシュラル、助けて、どこにいるの、アシュラル!!」
 背中に回された両手首が、しっかりと縛り上げられる。そこで、ようやく抱きすくめる力から開放された。けれど息つく間もなく、再び寝台に横倒しにされ、今度は足を、同じように縛られる気配がした。
    琥珀、助けて……」
 すすり泣きながら、あさとは殆ど無意識にその名を呼んだ。
「私はここよ、ここにいるのに、琥珀、琥珀、    どうして気がついてくれないの!」
 膝から下をきつく縛られ、足の動きが封じられる。
「もう嫌、もう帰る、雅、私をもとにもどして、琥珀なんていらない、誰もいらない、もう嫌、嫌、いやぁ!」
 ユーリが、上から見つめている。その手が伸び、肩に掛かる。
 寒い、怖い、苦しい、膨れ上がる不安、殺されてしまう、自分が自分でなくなっていく。
「あ    っ」
 唇から自然に叫びがこぼれる。身体を九の字に折って、あさとはもがいた。
「殺さないで、殺さないで」
 のしかかってくる大きな身体。強く抱かれ、再び身動きが出来なくなる。
 拘束されて、息ができない。ほんの僅かも、肩先すら動かせない。
「離して、この……卑怯者!」
 突然、狂暴な怒りが突き上げた。爆発しそうな感情で目の前が暗くなり、あさとは自分の口元に伸びてきた男の手に噛み付いた。
 一瞬、相手の身体が、驚いたように反応する。
 口の中に血の味がした。それでもユーリは、抱き締める力を緩めなかった。あさともまた、我を忘れて    突き動かされる狂暴な感情のままに、その抵抗をやめなかった。
 相手も、自分も、肩で呼吸を繰り返している。根負けしたのは、呼吸が苦しくなってきた、あさとの方だった。
     死のう。
 唐突に、そう思った。
 もう、それしか、この苦痛から逃れる方法はない。
 舌を噛めば、死ねるかもしれない。今なら    この感情に身を任せて、それは容易に出来るような気がした。
 その時だった。ユーリが、さっと半身を起こした。
 彼の顔が、真正面からあさとを見据えた。
「陛下」
「………」
「ご辛抱ください」
 あさとの目の前で銀の髪は黒に、灰の瞳は褐色に、    ゆるやかに変化していった。
 それは別の意味で、ユーリよりも怖い男の顔だった。
「ラ……」
     ラッセル……。
 あさとは、唇だけで呟いた。
 判っていたものの、自分を見下ろす面差しは、驚くほどアシュラルに似ていた。以前よりも、一層似ていた。
 目のせいだ。
 眩暈を感じながら、あさとは思った。ラッセルの目に、闇にも似た焔の色が宿っている。輪郭が厳しく削げたきつい相貌。どこか    哀しそうな、それでいて怒っているような眼差し。
 それが、アシュラルと酷似しているのだ。
「今夜、一晩、ご辛抱ください」
 彼はそう囁くと、しっかりとあさとの身体を抱きしめた。
 感情から抱くというのではなく、身体の動きを封じたいための、拘束するための抱き方だと    やっと気がついた。
     幻覚だった……。
 自分の中の、恐怖、不安、そんな感情が、まるで雪が溶けていくように、緩やかに消えて行く。
     薬の、禁断症状だったんだ……。
 ユーリではなかった。
 幻覚だった。ラッセルの顔が、ずっとユーリに見えていただけだったんだ。
「……ラッセル…、あの…」
 気持ちが冷静になると、この状況が、別の意味で耐え難いものに思えてくる。
 彼の首すじが、あさとの頬に密着している。髪が額に触れ、吐息が髪を揺らしている。眼を逸らしても、視界に入るのは逞しい腕の線と、なだらかな手首、きれいな指。
 お互いの胸が息苦しいほど合わさって、同じリズムで鼓動を刻む。
     私、おかしい。
「腕を……離して、落ち着いてきた…から…」
 あさとは呟き、ラッセルの胸を肩で押し戻した。
「お願い、息が……苦しい」
 ラッセルは、少し迷うような素振りを見せたが、すぐに拘束する腕を解いてくれた。
 両手でいたわるように肩を抱かれ、ゆっくりと引き起こされる。そして、彼の胸で支えるようにして、座らせてくれた。
「朝まで……このままで、構いませんか」
「うん……」
 頷いたあさとをふと見下ろし、ラッセルは手に巻きつけた白い布で、唇のあたりを拭ってくれた。あさとはようやく、自分の口に錆の味が残っていることに気がついた。
「……私、ひどいことを…」
「かまいません、酷いことをしているのは、私なのですから」
 冷静な声は、感情を殺しているようにも聞こえる。
 けれど、その声だけが、確かにかつてのラッセルのものだった。目を閉じて、聞いているだけで、安心できる声だった。
     生きてた……。
 本当に、夢じゃなかった、嘘じゃなかった、ラッセルは。
     ラッセルは生きていたんだ……。
 素直な喜びと感動が、胸の底から込み上げてくる。
「……っ…」
 が、安堵は長く続かなかった。小康は束の間で、急激な悪寒と吐気が同時におしよせてくる。
 寒い。そして、乾くような喉の痛み。
 身体が、小刻みに震えはじめる。
「……陛下…」
 ラッセルの腕が、もう一度あさとを抱こうとして、そして、迷うように止められた。
「少しの間、ご辛抱ください」
 彼は傍らの布団やシーツを幾枚もはがすと、それであさとの身体を包みこんんだ。
「今夜一晩の辛抱だと、ロイドも申しておりました」
 あさとは頷いた。寒くて、不安で、恐ろしかった。昔のように、目の前にある広い胸に、そのまますがり、しっかりと抱き締めてほしかった。
 でも、今は、その腕も胸も、私のものではない    いや、昔から、彼が私のものだったことなど一度もないけれど、今のラッセルは、フラウオルドの騎士でさえないのだ。
 唇を痛いほど噛み締め、あさとは自分の衝動と不安と苦痛に耐えた。
 一人で、……耐えなきゃ。 
 私がすがるのはこの腕ではないし、彼にすがっていいのもまた、私ではないのだ。
 けれど、自制が利いたのはわずかな間だった。
 
 
               4
 
 
 あさとは自分の叫び声で、はっと我に返っていた。
 いつの時点か    それすらも記憶にない、唐突に意識が途切れ、多分    その間に、ひどく錯乱して、暴れたのだろう。
「あ……っ…あ…」
 何か言葉を発しようにも、声さえまともに出てこない。
 喉が焼けるように痛い。わずかな声を立てるだけで、破れて血を吐いてしまいそうだ。
 寝台の上は滅茶苦茶で、着ている衣服は乱れていた。剥き出しになった肩と腿、ばらばらに解けた髪は顔を覆い、そして、全身が汗に濡れている。
 ぜっぜっ、と荒い息だけが、静まり返った部屋に響いている。
「琥珀……!」
 あさとは叫んだ。喉が燃える、けれど、無意識に叫び続けた。
「琥珀、琥珀……っ」
 助けて、聞こえているなら、届いているなら、私を助けて、解き放って。
 この闇から、迷宮から。
     琥珀。
「琥珀、こ……はく、琥珀!」
 私を……開放して       
「………!」
 ふいに、身体ごと、包み込まれるように抱きすくめられた。
 それは、ラッセルの腕だった。
 あさとはようやく、今の状況を、認識した。
 ああ、そうだ。
 今、私の傍にいてくれるのは   
 ラッセルの身体が熱くなっている。首筋に汗が浮き、肩でする呼吸が乱れている。
 意識が飛んでいる間、二人の間にどんな格闘があったのか、あさとには記憶がない、そして、考える余裕もない。
「ラッセル……」
 呟いた途端に、涙が滲みそうになった。
 ラッセルの身体のどこかから、彼の心音が伝わってくる。髪が頬に触れている。苦しいほどに懐かしい    彼の香り。
 この人が琥珀だったとしたら。
 自分は今、琥珀に抱かれているのかもしれないのだ。
 あんなにも恋して、苦しいほど恋して、そして追いかけて来た男に。
 あさとは目を閉じた。全身は泥のように疲労している。なのに、意識だけが冴え渡っていた。
 記憶の余韻にひたる間もなく、次の衝撃が襲ってきた。
 そんなことが……最後に意識がとぎれるまで、二、三回は続いた。

 
 
 
 

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