第六章 悪夢
 
 
               
 
 
「それは、間違いないんだな」
「ああ……少なくとも今は……から、動かせない」
 
     誰の……声だろう。
 
「ひと月は、安静が必要だ。船旅など、自殺行為に等しいぞ」
「イヌルダへ使いを送り……の救援を求めるほかないな」
「俺が行こう、お前が残るんだ」
「いや、……それは」
 
     ひどく遠くから囁くように聞こえる、所々が聞き取れない声。
 
「何を恐れている? それしかない。三鷹家からの追手は次々来るだろう、俺じゃ、自分一人守るのが精一杯だぜ」
「……わかった…」
「カヤノのことは心配するな。あいつを連れてくるべきだったな」
「危険すぎる、カヤノは巻き込めない」
 
     ラッセルの声……。
 ああ……。
 また、私は夢を見ているんだ……。
 
 
                
 
 
「クシュリナ」
 自分を呼ぶ懐かしい声に、あさとは夢うつつで目を開けた。
 見下ろしている大きな人影。蝋燭灯りが逆光になって、誰の顔なのか見分けがつかない。
「よう、    久しぶりだな、俺が判るか?」
 ウェーブを巻いた榛色の美しい髪、丸眼鏡に、蝋燭の焔が揺れている。
     ロイド……?
 まさか   
 驚きとともに、ようやく意識ごと覚醒した。
「ばか、まだ起きなくてもいい」
 肩を抱いて押し戻す腕。まだ、夢を見ているような気持だった。ロイド    滝沢ロイドだ。
 切れ長の細い目も、きれいな髪も、皮肉めいた声も――彼のものに間違いない。
 一瞬、これまでのことは全部夢で、自分は今、金羽宮にいるのではないか……。そんな風にさえ思えていた。
「ロイド……」
 しかし、出そうとした声は、力なく掠れ、再度起きあがろうとした体には、全く力が入らなかった。
 そして、ロイドもまた、あさとが知っている、いつもの彼の姿ではない。白い病院服ではなく、臙脂の上着に粗末なシャツ、まるで旅人のような出で立ちをしている。
 うだ、彼は薫州との戦が再び始まった頃、忽然と皇都から消えたのだ。
 でも何故    何故、今、彼がここにいるのだろう。というより、ここはいったい何処だろう。
「安心しろ、ここは森の番小屋だ。お前は三鷹家の追手から逃げる途中で、気を失ったんだ」
 ロイドの声は優しかった。
 では……まだ、ナイリュ……?
 室内は薄暗く、外は    おそらく夜になったのだろう。蝋燭灯りだけが、周辺を淡く照らしている。室内には、ロイドと、そしてあさとしかいないようだった。
 丸木を積み上げただけの壁面、室内中に、湿った木の匂いが満ちている。室内の床には、いたるところに木の枝が積み上げてあり、他に、家具らしいものは何もない。
「もう夜だ、追っ手は諦めてサマルカンドに戻った。それに、ここは安心だ。三鷹家の領地を遠く離れている」
 あさとが寝ていたのは、屑木を組み上げたの粗末な寝台だった。おそらく、この小屋の持ち主が、仮眠するために備えつけていたものだろう。けれど、幾枚もの布が、重ねて敷き詰められており、寝心地はよく、暖かい。
     あれは……。
 あさとは、ひどく強張った気持のまま、それまでの記憶を辿った。 
 あれは、    では、夢だったのだろうか。ラッセルが私を抱き上げて、そして、……夢の中で、確かに彼の声を聞いたような気がしたのに。
 そうだ    夢だ。……現実であるはずがない。
    っ…」
 もう一度身を起こそうとして、鈍い痛みに顔をしかめた。
 腹部に、うずくような痛みがある。
「無理をするな、身体のあちこちがやられてるんだ。こんなにガリガリに痩せちまって……ほとんどろくに食ってないだろうが」
「ロイド、どうして……ここに…」
 言いさして、咳き込んだ。声を出す事さえ、ひどく辛いことにようやく気付く。
 傍らの水差しを口元に近づけ、ロイドはそれをそっと流し込んでくれた。
「いきなり姿を消しちまって悪かったな。……実はってわけでもないんだが、ちょっとばかり事情があってね。今、こっちで暮らしてるんだ」
 こっち    ナイリュで。
「どうして、皇都を」
「……ま、色々、口にはできない揉め事があったと思ってくれ。今はこの街で小さな診療所を開いている。てか、この際、俺のことはどうでもいいだろ」
 少し真面目な目で睨まれた。
「あんたが青州で行方不明になってから、何人もの皇都の密偵が、ナイリュ入りしたんだよ。    俺はこっちの地理に詳しいからね、それで協力を求められたってわけだ」
「……セルジエと、…それから、ルナ、は…」
 一縷の望みをこめて、あさとは訊いた。
「私と一緒に、皇都を出た人たちは……どうなったの」
 ロイドは、無言のまま微笑する。
「……詳しい事は俺にもわからん。でも安心しろ、今も、密偵がサマルカンドの探索を続けている。きっと無事に救い出すだろうよ」
 ロイドは優しく、あさとの手をもって布団の中に収めてくれた。
 が、それはあさとには    絶望の宣告にしか聞こえなかった。
 あれから、どれくらいの時が過ぎたのか判らないが、皇都から旅を供にした者たちが生きているとは思えない。今でも行方が知れないのなら    おそらく。
「しっかりしろ」
 顔を背けた時、溜息と共に軽く頭を小突かれた。
「あんたは、自分のだんなを助けるために頑張ったんだろうが。誰にも迷惑をかけないように、議会の承認も得ずに、一人でさ。……口で言うほど簡単にできることじゃない。結果はどうあれ、俺は認めてるよ、あんたのこと」
「…………」
「あんたについてった連中は、全員、最悪アシュラルに殺されるくらいの腹は括ってたさ。気に病むことは……いや、気に病んでもいいけど、それをいつまでも引きずっちゃいけない。あんたが今すべきことは、一日も早く元気になって、無事に皇都に戻ることだ」
 温かく、同時に厳しい声だった。
 私が……今、すべきこと……。
 泣き伏せたい衝動を懸命にこらえ、あさとは唇を噛みしめた。
 そうだ、どうやっても生きること    生きて、皇都に帰ることだ……。
「さて、俺はそろそろ行かなきゃいけない」
「どこに?」
 立ち上がったロイドを、あさとはすがるように見上げていた。
「とりあえず青州まで、……あんたが見つかったことを皇都の連中に知らせなきゃいけない。皇都との開戦を控えてる以上、三鷹家も必死になってあんたの行方を捜すだろう。恐ろしいことを言うようだが、この島を抜けるのは、容易じゃないぜ」
「…………」
 黙ったあさとを見下ろし、ロイドは考えるような眼差しになった。
「あんたの世話をする女手が必要だったな。カヤノを、なんとか、こっちまで連れて来られたらいいんだが」
     カヤノ……。
 あさとの顔色が変わったのが、ロイドにも分ったのだろう。彼はふっと真剣な目になった。
「カヤノは今、青州のカラムにいる。お前のことを案じて、ついていくと言い張ったそうだが、ラッセルが許さなかった」
 さりげなく口にされた名前が、あさとには心臓が凍りつくほどの衝撃だった。
「ラッセル……」
 彼は。
 彼は、生きて、いた……?
「再会したときは、俺もさすがに驚いたがね。カヤノの執念には脱帽だよ」
     本当に?
 本当に?
 あさとは呆然と天を仰いだ。
「ど……して、どうして、ラッセルが」
「ラッセルは確かに一度、死んだ。でも、……運ばれる最中に蘇生したんだそうだ。助かるはずのない命を救ったのは、例の蛇薬で作った試薬だよ。いってみればアシュラルが、ラッセルの身体でそれを試したんだろう」
「…………」
 アシュラル………。
「ラッセルは、しばらく病床に臥せっていたが、その後、青州へ移り住むことにしたそうだ。皇都を飛び出した俺に、ナイリュに渡れるよう、算段をつけてくれたのもラッセルだよ」
 ロイドの口調は、すでに、全ての事情を了承しているのか、淡々としている。
    少し、飛ばします。)
 彼の声、夢にまで見たラッセルの声。 
 あれは夢ではなかった。でも、あの人が    あの冷たい目をした人が、本当にラッセルだったのだろうか。
 信じられない。あまりにも変わってしまった。あんなに暗い、闇のような眼差しを持つ男が    本当にラッセル……?
「クシュリナ」
 かすかに嘆息して、ロイドは傍らの椅子を引き寄せ、座った。
「……カヤノは、ラッセルの嫁さんになってた」
 心臓のどこかが、いきなり動きを止めたような気がした。
「二人は今、青州の田舎で家を借りて暮らしている。幸せにやってるんだ。ラッセルとは過去に色々あったようだが、お前さんが気に病む必要は、もう、何もないんだよ」
 あさとは、まだ息をつめていた。その刹那、自分がどんな表情をしていたのか、考えるのが恐ろしいほどだった。
「お前さんも驚いたろうが、俺も奴を目の前にして、まるで幽霊でも見たような気になったよ。……ラッセルの幽霊ってわけじゃないぜ、俺はあいつが死んだなんて、実のところこれっぽっちも信じてなかったんだから」
「………」
「アシュラルの幽霊だよ。驚いたな、もう、暗がりだと見分けがつかないほどだ」
 確かにそうだった。
 暗がりとはいえ、横顔とはいえ、あさとには    その顔は、アシュラルのものにしか見えなかった。
 何がラッセルを変えたのだろう。穏やかさ、優しさが    跡形もなく削げ落ちて、冷たい、冷酷な眼差しだけが彼の印象の全てになってしまっている。
 そう、まるでかつてのアシュラルのように。
     生きていた。
 ラッセルが、    琥珀が。
 かつてのラッセルのそれではない、アシュラルの顔を持つ、いや、琥珀の顔を持つ、琥珀として。
 そして、それを    アシュラルは、知っていたのだ。
「……どう、して」
 掛布を握りしめながら、あさとは呟いていた。
「どうして、アシュラルは……」 
 何も教えてはくれなかったのだろう、知らなかった、知らされていなかった。ラッセルの死を信じて、涙を流さない日はなかったというのに。彼の死を無駄にしてはならないと    その一心で様々な苦しみを乗り越えてきたというのに。
     どうして……。
 どうして、アシュラルは。
 夫への不信が、どうしようもなく胸の底から湧きあがってくる。
「事情があったんだよ」
 ロイドが、嘆息する気配がした。「俺に判るのはそれくらいだ。ラッセルを死んだままにしておいた方がいいっていう   
 言葉を切り、面倒そうに頭を掻く。
「少なくとも、ディアス様の指示があったことだけは確かだよ。それに、あんたに、このことを隠しておくように言ったのは、ラッセル本人なんだぜ」
 ラッセルが……?
「だんなを逆恨みするなよ、アシュラルだって、胸中は複雑だったはずなんだ」
「………」
「……いずれにしても、あのまま死んだっておかしくなかったラッセルを蘇生させたのはアシュラルだ。相変わらず、奇妙な宿怨を待つ二人だよ。アシュラルだからこそ、ラッセルを呼び戻せたのかもしれないがな」
 これで話は終わり、とばかりにロイドは再度立ちあがり、「気分は悪くないか?」 と聞いてくれた。けれど、あさとにはもう、それどころではなかった。
「教えて、ロイド、どうして、ラッセルは私に   
「それは本人に聞くんだな」
     いるの?
 全身が凍りついたようになって、口をつぐんだ。ロイドの視線が、閉ざされた扉の向こうを示している。
     ラッセルが、ここにいる。
 それは畏怖に近い感情だった。
 あんなに恋していた人に、今、ここで……会うのが怖い。
 変わってしまった彼を見たくない。いや、アシュラルと同じ顔をしたラッセルを見るのが怖い。
 それに、心に重く突き刺さっている言葉がある。
    カヤノは、ラッセルの嫁さんになってた。)
 カヤノと、ラッセルが……結婚したのだ。
 ダーラの死から、ようやく一年が過ぎたばかりだというのに。    いや、そんな感情では括れない重苦しさが、胸を暗く塞いでいる。
「それより、寒いとか、震えるとか、そんな感じはないか?」
 ロイドは重ねて聞いてきた。
 あさとは我に返って顔を上げる。そう言われれば、先ほどから妙に寒気がしていた。
「少し……寒いけど」
「それから?」
「頭も、少し痛いかも。……なんだか、落ち着かない感じ」
「…………」
 眼鏡からのぞく眉が曇っている。あさとには、その理由が漠然と理解できていた。
「……私、蛇薬を飲まされていたのね」
「そうらしいな」
「体調がずっと悪かったのも、そのせいなのね」
 ロイドはそれには答えず、立ち上がった。
「少し眠っておけ。喉が乾いたら、水だけはいくらでも飲んでいい」
 水の入った壺が、枕元に置かれている。
「覚悟しておくんだな、」溜息まじりに、彼は呟いた。
「多分、今夜が峠ってやつだ」
 
 
 
 

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