7
サランナ……。
揺れる馬車の中で、あさとは、アシュラルからもらった短剣を握りしめていた。
再度奪われてしまったそれを、サランナは 最後の別れ際に、あっさりと返してくれたのだった。
(月白桜の家紋……アシュラルが持っていたものね。どうぞ、お持ちになって行かれたら?)
妹の態度が、あさとにはまるで理解できなかった。
が、それでも素直に、それだけは 礼を言わなければならないと思った。この刃で、最初あさとは、サランナを傷つけようとしたのだから。
が、サランナは、冷笑と共にあさとの言葉を遮った。
(お姉様は本当に馬鹿ね。こんなものより、もっと役に立つものを、私はお姉様から奪ってしまったのに。……最もお姉様には、もう重荷でしかなかったのかもしれないけれど)
あれは どういう意味だったのだろう。
揺れる馬車が、唐突に止まった。
不意にこみあげた吐き気を堪え、あさとは、窓から顔をのぞかせてみた。
陽射しが陰りを帯びている。
黒服の男が クロウが、ゆっくりと御者席から、降りている所だった。
郊外の、なだらかな牧草地の途中だった。すぐ傍には奥深い森が迫っている。
「追手が来たようです」
クロウの声は落ち着いていた。
「どうするの?」
静かな男の佇まいに、不思議な恐ろしさを感じ、思わずあさとは問っている。
「あなた様は、森に」
馬車を降りたあさとは、異様な地響きを感じて背後を振り返った。牧草地の向こうに、土ぼこりが舞いあがっているのが見える。騎馬の群れが近づいているのだ。おそらくは先陣きって飛び出した一団だろう。
「……ミシェル様の、追手なの?」
「おそらく」
クロウは淡々と頷く。
それだけの会話の間にも、みるみる騎馬隊は接近してくる。
「逃げましょう、あなたも」
弱々しく、あさとは叫んだ。相手はどう見積もっても五、六騎。武装して各々槍のようなものを携えている。男一人で太刀打ちできるはずがない。が、男は動こうとしない、水のように静かな眼差しのまま、じっと迫る騎馬隊を見据えている。
「何をしているの、早く!」
が、その刹那、男の黒服から、いきなり長刃が二本、天を衝くように左右に滑り出た。
あさとは驚いて、足を引いている。
それは腕の二倍の長さほどもある、鋭い、鋼鉄の剣だった。
腕の形に添って、肘のあたりに仕込んであったものなのか、男の手の動きにあわせ、鋭く空を切って煌めく。
諸手に二本の刃を携えた男は、黒衣を翼のように広げ、滑るように前に出る。
「森へ、 すぐに仕留めます」
無表情にそれだけを言い捨て、突進してくる騎馬の群れに向かって、ほぼ正面から男は駆けた。
それはあたかも魔風が舞うごとくだった。人間離れした異様な速さに、あさともそうだが、向かって来た騎馬の先陣が、まず驚いて馬脚を止めた。
金褐色の鎧に臙脂のクローク。あさとには初めてだったが、三鷹家の正規隊の木犀軍の隊服なのかもしれない。
騎馬の一群が槍を引き抜くより早く、クロウの足が地を蹴った。
怪鳥が空を舞っている そう思った刹那、黒衣が左右に広がり、二本の凶刃が風を切って回転した。
驚愕するあさとの目の前で、馬首を切り落とされた二頭の馬が、同じく一瞬で斬殺された主人もろとも、前のめりに地面にたたきつけられる。
おののき乱れた馬脚、舞い上がる砂と、血しぶき。
人馬の中央に舞い降り、黒衣の男は無表情で広げた刃を旋回させる。
恐怖の雄叫びと死者の悲鳴。ざーっと大地に降り注ぐ血潮。
あさとは悲鳴をあげて、顔を手で覆った。
「なっ、なにやつ」
「きゃつ、天魔か!」
人馬の絶叫。阿鼻叫喚の地獄が、手のひらを隔てた世界で繰り広げられている。
「やめて……」
震えながら、それでも耐えきれずにあさとは叫んだ。
同時に誰かの、断末魔の悲鳴が尾を引いた。
「やめてぇ! それ以上殺さないで!!」
その時にはすでに、周囲には死の沈黙が満ちている。
強張った手を離して、顔を上げると、まさに地獄さながらの光景が、眼前に広がっていた。
仰向けになって凄まじい痙攣を繰り返している馬。胴から切り落とされた頭部だけの亡骸。人体の断片、まき散らされた臓腑。 。
吐気のするような血の匂いの中、黒衣の男は、最初と同じ能面のような顔で悠然と立っていた。
右腕側の刃だけが、新しい血を滴らせたまま、前に向かって突き出されている。
男の前に、腰をついたままがくがくと震え、動けないでいる騎士の姿が見えた。
「殺さないで……」
足をよろめかせながら、それだけを、あさとは言った。
「もう、闘えないなら、見逃してあげて」
「逃がせば、追手は倍になります」
淡々と、男は答えた。
「はっ、母上っ」
弾かれたように、追い詰められた騎士が叫んだ。一瞬眼があったその騎士の思わぬ若さに、あさとははっと息を引いている。
次の瞬間、まるで虫でも叩くようなあっけなさで、男は刃を軽くひねった。鈍い音とわずかな呻き声だけを発し、青年騎士は二度と動かなくなる。
いや……。
あさとは震えながら、両手で口を覆っていた。
ひどい、ひどすぎる。
どうして どうして、こんな、残酷なことが……。
「参りましょう。お急ぎにならなければ」
何事もなかったように、平然と男は振り返った。それはまさに死神の形相だった。
「こないで」
あさとは、咄嗟に言っていた。「私に……近づかないで」
怯えるあさとを、足を止めた男は、能面にも似た眼差しで見下ろした。
「何を畏れているのでございますか」
「…………」
「あなた様を、護るためにしたことにございます」
「…………」
わかっている。判っているからこそ許せない。でも同時に、それがひどく甘い綺麗事だということも判っている。あさとは、何も言うことができなかった。
「あなたも私も、しょせん、血ぬられた世界で生きている……」
囁くような声で、男は続けた。
「アシュラルという人は、さらに多くの命を、シュミラクール中で奪い続けているのではないのですか」
「…………」
「目的を果たすために流す血を、畏れることはございません」
心の奥の、決して眼にしたくない部分を、淡々とえぐられた気分だった。
一瞬凍りついていたあさとは、それでも首を横に振り、クロウを拒否するように後ずさった。
ようやく思い至っていた。ユーリが、金羽宮を脱出した夜、彼の背後にいたのはこの男だったのだ。
忌獣の化身……沢山のパシクを殺した……アシュラルが呟いた言葉、「アリュエスの爪」。そう、いつかそれをサランナに確かめたいと思っていた。
アリュエスの爪。金羽宮で、ずっとサランナを護っていた存在。 。
「あなたとは、……行けない」
後ずさりながら、あさとは呟いた。
「私のために流れた血なら、それはいつか、きっとイヌルダに禍根となって帰ってくる……。だから……これ以上あなたが血を流すのを、私は許すわけにはいかない……」
「仰られている意味が、私には判りません」
男は、やはり無表情であさとを見下ろした。
「では、どうやって青州までお戻りになるのですか」
「………」
表情がないせいか年齢が判りづらいが、決して若くはない年輪のようなものが、どこか静かな佇まいから窺い知れる。
刃を収め、男は一歩、近づいてきた。
「あなたは、ご自身を護りたくはないのですか?」
「…………」
「それともこのまま、囚われの人として生きて行くおつもりですか」
何故かそれを、目の前の男ではなくサランナに問われているような気がした。いや、サランナではなく 雅に。
「森へ」
冷やかな男の目が、ふと別の方に流れて行った。
「今度は先ほどより大勢います。どうぞ、森へ」
あさとにも判った。先ほどとは比較にならないほど大きな地響きが、さほど遠くない背後から聞こえてくる。
ざっと鋭い音と共に、男の両腕から刃が飛び出す。
「殺すことは、許さないわ」
頭で考えるよりも先に、言葉がそう命じていた。
男の目が、初めて不思議そうにあさとを見つめる。
「あ、あなたの任は、今この瞬間なくなりました。サランナのところに戻りなさい。……もう あなたの手は借りない」
後ずさりながら、あさとは一言一言を自分に言い聞かせるように続けた。
「……その刃を収めて。私のために、あなたが誰かを傷つける必要は……ありません」
男は、無言のままあさとを見ている。その眼が、どこか戸惑っているようにも感じられる。
騎馬の足音が、いっそう激しさを増してくる。あさとははっとして、森の方を振り仰いだ。
「あなたも早く逃げて、私のことは、もういいから」
それでも男は動かない。感情が欠落した眼が、何度か瞬きを繰り返す。
「サランナに、……伝えて」
あさとは言った。
「私は……やっぱり、こうやって私を助けようとしてくれた、あなたのことを信じてるって」
そのまま踵を返し、あさとは森に向かって駆けだした。
無駄なあがきかもしれない。が、何もせずに諦めたくはない。
ユーリとサランナが言っていた。皇都の密偵がうろうろしている。 運よく誰かに巡り合えれば、まだ、活路を見いだせるかもしれない。
8
(アシュラルという人は、さらに多くの命を、シュミラクール中で奪い続けているのではないのですか)
(あなたも私も、しょせん、血ぬられた世界で生きている……)
夕暮れが近いのか、陽が、急速に翳って行く。
暗い森の中を懸命に駆けながら、あさとはアシュラルのことを考えていた。
このシュミラクールを、血の犠牲のもとに変革しようとしているアシュラルを、あさとは心のどこかで拒否している。
信じよう、理解しようと努めてはいるが、実際は彼の一面に眼をつむっているだけなのだ。
見ないようにしているだけだ。自分の愛する部分だけを、 必死で追い求めているだけなのだ……。
迷っている。確かにそれは、サランナの言う通りだった。
もしかして、自分でも無意識の内に、私は……。
彼を愛していると、その言葉を口にすることを、 避けていたのだろうか?
森を取り巻く騎馬の足音が、はっきりと聞こえるほど近くなっている。
クロウはどうしたろうか。逃げたのだろうか。そして、彼の手を離した私は、ひどく馬鹿なことをしたのだろうか。
が、それでも、多くの犠牲を黙認しながら助かる道を選ぶのは、 あさとにとっては正解ではないような気がした。心のどこかに潜んでいる雅の声に、負けてしまうような気がした。
できるだけのことは、やってみせる。
歯をくいしばるようにして、あさとは、森の奥へ、さらに奥へと駆け続けた。
木陰に身を隠し、肩で呼吸を整えて、背後を振り返る。まさにその刹那、 金褐色の甲冑をまとった騎士を乗せた馬が四騎、猛然と駆け抜けていった。
ぞっとするようなひと時の後、再び森に静寂が訪れる。
急がなきゃ……。
眩暈と、絶え間ない吐き気に耐えながら、あさとは、森の深部へと足を進めた。
勝算はただひとつ、夜まで逃げきることだった。
夜になれば、確実に追っ手は引く。騎獣が出るかもしれないからだ。むろん、そうなれば、自身の命も危うい けれど、圧倒的に不利なこの状況を脱するには、もう闇を利用する他ない。
森の奥は薄暗く、滅多に人が通らないのか、生い茂る草が腰のあたりまで伸びていた。それは、柔らかい指を切り、幾筋も血を滲ませた。
再び、近づいてくる騎馬の足音がする。
あさとは、止まりそうな脚を引きずりながら、このまま捕まるわけにはいかない、と必死に自分に言い聞かせた。
アシュラルにふさわしいのは、私ではないのかもしれない、私では、あの人の足手まといになるだけなのかもしれない 。
でも、それでも、私はアシュラルを必要としているし、彼もまた、私を必要としているんだ。
願いにも似たその思いだけに、絶望の中、すがり続ける。
その時、殆んど背後で、木々を踏みしだく、騎馬の足音がした。
馬の鼻息さえ聞こえてきそうな距離 。
「 !」
振り返る余裕すらなく、あさとはもつれる足で、草を掻き分けて必死に走った。奥へ、さらに、奥へ。
「いたか?」
正面から、野太い男の声が、ふいに静寂を破って耳に響く。
はっとして脚を止める。
「この先にはいない。少し戻ろう」
木々の間から垣間見える金褐色の甲冑。
先ほど、あさとを追い抜いて行った騎馬たちかもしれない。
背後からは別の足音が迫っている。もう、走るだけの力はなかった。あさとは、ほとんど息も絶え絶えになったまま、その場にしゃがみこんでいた。
まだ、男たちは何かを喋っている。頭の芯がぼうっとして、遠いのか、近いのか、その距離感すらつかめない。
「おい、こっちだ!」
「いたぞ!」
いきなり別の方角から響いた、その声はごく近くだった。騎馬の足音が大地を揺らす。
見つかる……!
最後の気力を振り絞って、あさとは立ち上がり、声とは逆の方向に駆けだしていた。
草地を抜け、後ろを振り返る暇もなく、懸命に駆ける。
「きゃっ……っ」
次の瞬間、何かに足をとられ、あさとはあえなく転倒していた。いままで被っていたのが不思議なくらいだった羽帽子が飛び、髪がほどけて額に落ちた。
反射的に手をついて、顔を上げた時、視界に飛び込んできた 馬の脚。
追手だ 咄嗟に反転して逃げようとして、強い力に腕を掴まれ、引き上げられた。
「離してっ 」
もがくこともできなかった。強い力は男のもので、それは、あさとを引き起こし、腰に腕を回して横抱きにした。
「いやっ」
抗いながら、あさとは初めて、自分を抱き上げる男の横顔を見た。
光が乏しい薄闇の中、確かに見覚えのある輪郭があった。
もつれるようにうねる肩までの髪が、男の顔半分を覆っている。
アシュラル……?
闇に光る、禽獣のような鋭い瞳。凛々しい眉。薄い唇。
薄いメッシュの防着を着て、肩から黒いマントを羽織っている。
随分雰囲気が変わってしまった まるで別人のように見える。殆ど半年ぶりに会うのだから。
でも、間違えるはずはなかった。ずっと会いたかった、夢にまで見た 愛しい人の横顔を。
「アシュラル……!」
あさとは小さく叫び、夫の首に腕を回して抱き締めた。
彼は来てくれた、私を助けに来てくれた。そうだ、いつも いつも、彼はそうしてくれた。どんな危険な状況であっても。
「アシュラル……、ごめんなさい、ごめんなさい、私」
温かな首筋に頬を寄せ、あさとは涙を堪えることができなかった。
ぬくもり、香り、心臓の音 懐かしくて全部愛しい。
これが夢なら、もうここで、死んでもいい。
「こっちだ、人の声がする」
その声が、あさとを現実に引き戻した。
草を踏みしだく音、馬のいななき。追手が、もうすぐ傍まで迫っている。
「アシュラル」
顔をあげて、その時はじめて、 アシュラルがどうしてここまで来ることができたのか、という疑問に気がついていた。
来られるはずがない、
戦の最中に、法王が、たった一人で。
不安が胸の中に渦を巻く。
アシュラルはどうして、さっきから黙ったままなのだろうか。無反応な横顔は、影に隠れ、表情が殆んど読み取れない。
男はものも言わず、あさとを馬の背に押し上げると、自分も素早く、その背後に飛び乗った。
……?
その所作に、不思議な違和感があった。
自分を抱くようにして馬を走らせる男の腕に、どことはなく、冷たい 他人行儀なものがあった。
そのくせ、あさとは、男の胸を、こうやって背後から抱かれる腕の感触をよく知っていた。それは 決して有り得ない錯覚だった。
アシュラル……?
「少し、飛ばします」
耳元で囁く声。
いきなり冷水を、頭から浴びせられたような気がした。
そんな。
馬鹿な。
この人は、死んだはずだ。
私の目の前で 確かに、死んだはずだ。
信じられない、これは夢だ。蛇薬で……頭がおかしくなってしまったんだ。
あさとは、手綱を手繰る男の左手を無意識に追った。
きれいな 傷痕のない指を、確かに見た。
「……ラッセル…」
呆然と呟いた。
馬鹿な、信じられない、これは 夢だ、幻覚なんだ……。
この人は ラッセル?
そして。
琥珀……?
あさとは愕然として、馬上の男を振り返った。
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