サランナ……。
 揺れる馬車の中で、あさとは、アシュラルからもらった短剣を握りしめていた。
 再度奪われてしまったそれを、サランナは    最後の別れ際に、あっさりと返してくれたのだった。
月白桜(コライユ)の家紋……アシュラルが持っていたものね。どうぞ、お持ちになって行かれたら?)
 妹の態度が、あさとにはまるで理解できなかった。
 が、それでも素直に、それだけは    礼を言わなければならないと思った。この刃で、最初あさとは、サランナを傷つけようとしたのだから。
 が、サランナは、冷笑と共にあさとの言葉を遮った。
(お姉様は本当に馬鹿ね。こんなものより、もっと役に立つものを、私はお姉様から奪ってしまったのに。……最もお姉様には、もう重荷でしかなかったのかもしれないけれど)
 あれは    どういう意味だったのだろう。
 揺れる馬車が、唐突に止まった。
 不意にこみあげた吐き気を堪え、あさとは、窓から顔をのぞかせてみた。
 陽射しが陰りを帯びている。
 黒服の男が    クロウが、ゆっくりと御者席から、降りている所だった。
 郊外の、なだらかな牧草地の途中だった。すぐ傍には奥深い森が迫っている。
「追手が来たようです」
 クロウの声は落ち着いていた。
「どうするの?」
 静かな男の佇まいに、不思議な恐ろしさを感じ、思わずあさとは問っている。
「あなた様は、森に」
 馬車を降りたあさとは、異様な地響きを感じて背後を振り返った。牧草地の向こうに、土ぼこりが舞いあがっているのが見える。騎馬の群れが近づいているのだ。おそらくは先陣きって飛び出した一団だろう。
「……ミシェル様の、追手なの?」
「おそらく」
 クロウは淡々と頷く。
 それだけの会話の間にも、みるみる騎馬隊は接近してくる。
「逃げましょう、あなたも」
 弱々しく、あさとは叫んだ。相手はどう見積もっても五、六騎。武装して各々槍のようなものを携えている。男一人で太刀打ちできるはずがない。が、男は動こうとしない、水のように静かな眼差しのまま、じっと迫る騎馬隊を見据えている。
「何をしているの、早く!」
 が、その刹那、男の黒服から、いきなり長刃が二本、天を衝くように左右に滑り出た。
 あさとは驚いて、足を引いている。
 それは腕の二倍の長さほどもある、鋭い、鋼鉄の剣だった。
 腕の形に添って、肘のあたりに仕込んであったものなのか、男の手の動きにあわせ、鋭く空を切って煌めく。
 諸手に二本の刃を携えた男は、黒衣を翼のように広げ、滑るように前に出る。
「森へ、    すぐに仕留めます」
 無表情にそれだけを言い捨て、突進してくる騎馬の群れに向かって、ほぼ正面から男は駆けた。
 それはあたかも魔風が舞うごとくだった。人間離れした異様な速さに、あさともそうだが、向かって来た騎馬の先陣が、まず驚いて馬脚を止めた。
 金褐色の鎧に臙脂のクローク。あさとには初めてだったが、三鷹家の正規隊の木犀(モーヴ)軍の隊服なのかもしれない。
 騎馬の一群が槍を引き抜くより早く、クロウの足が地を蹴った。
 怪鳥が空を舞っている    そう思った刹那、黒衣が左右に広がり、二本の凶刃が風を切って回転した。
 驚愕するあさとの目の前で、馬首を切り落とされた二頭の馬が、同じく一瞬で斬殺された主人もろとも、前のめりに地面にたたきつけられる。
 おののき乱れた馬脚、舞い上がる砂と、血しぶき。
 人馬の中央に舞い降り、黒衣の男は無表情で広げた刃を旋回させる。
 恐怖の雄叫びと死者の悲鳴。ざーっと大地に降り注ぐ血潮。
 あさとは悲鳴をあげて、顔を手で覆った。
「なっ、なにやつ」
「きゃつ、天魔か!」
 人馬の絶叫。阿鼻叫喚の地獄が、手のひらを隔てた世界で繰り広げられている。
「やめて……」
 震えながら、それでも耐えきれずにあさとは叫んだ。
 同時に誰かの、断末魔の悲鳴が尾を引いた。
「やめてぇ! それ以上殺さないで!!」
 その時にはすでに、周囲には死の沈黙が満ちている。
 強張った手を離して、顔を上げると、まさに地獄さながらの光景が、眼前に広がっていた。
 仰向けになって凄まじい痙攣を繰り返している馬。胴から切り落とされた頭部だけの亡骸。人体の断片、まき散らされた臓腑。   
 吐気のするような血の匂いの中、黒衣の男は、最初と同じ能面のような顔で悠然と立っていた。
 右腕側の刃だけが、新しい血を滴らせたまま、前に向かって突き出されている。
 男の前に、腰をついたままがくがくと震え、動けないでいる騎士の姿が見えた。
「殺さないで……」
 足をよろめかせながら、それだけを、あさとは言った。
「もう、闘えないなら、見逃してあげて」
「逃がせば、追手は倍になります」
 淡々と、男は答えた。
「はっ、母上っ」
 弾かれたように、追い詰められた騎士が叫んだ。一瞬眼があったその騎士の思わぬ若さに、あさとははっと息を引いている。
 次の瞬間、まるで虫でも叩くようなあっけなさで、男は刃を軽くひねった。鈍い音とわずかな呻き声だけを発し、青年騎士は二度と動かなくなる。
     いや……。
 あさとは震えながら、両手で口を覆っていた。
 ひどい、ひどすぎる。
 どうして    どうして、こんな、残酷なことが……。
「参りましょう。お急ぎにならなければ」
 何事もなかったように、平然と男は振り返った。それはまさに死神の形相だった。
「こないで」
 あさとは、咄嗟に言っていた。「私に……近づかないで」
 怯えるあさとを、足を止めた男は、能面にも似た眼差しで見下ろした。
「何を畏れているのでございますか」
「…………」
「あなた様を、護るためにしたことにございます」
「…………」
 わかっている。判っているからこそ許せない。でも同時に、それがひどく甘い綺麗事だということも判っている。あさとは、何も言うことができなかった。
「あなたも私も、しょせん、血ぬられた世界で生きている……」
 囁くような声で、男は続けた。
「アシュラルという人は、さらに多くの命を、シュミラクール中で奪い続けているのではないのですか」
「…………」
「目的を果たすために流す血を、畏れることはございません」
 心の奥の、決して眼にしたくない部分を、淡々とえぐられた気分だった。
 一瞬凍りついていたあさとは、それでも首を横に振り、クロウを拒否するように後ずさった。
 ようやく思い至っていた。ユーリが、金羽宮を脱出した夜、彼の背後にいたのはこの男だったのだ。
 忌獣の化身……沢山のパシクを殺した……アシュラルが呟いた言葉、「アリュエスの爪」。そう、いつかそれをサランナに確かめたいと思っていた。
 アリュエスの爪。金羽宮で、ずっとサランナを護っていた存在。   
「あなたとは、……行けない」
 後ずさりながら、あさとは呟いた。
「私のために流れた血なら、それはいつか、きっとイヌルダに禍根となって帰ってくる……。だから……これ以上あなたが血を流すのを、私は許すわけにはいかない……」
「仰られている意味が、私には判りません」
 男は、やはり無表情であさとを見下ろした。
「では、どうやって青州までお戻りになるのですか」
「………」
 表情がないせいか年齢が判りづらいが、決して若くはない年輪のようなものが、どこか静かな佇まいから窺い知れる。
 刃を収め、男は一歩、近づいてきた。
「あなたは、ご自身を護りたくはないのですか?」
「…………」
「それともこのまま、囚われの人として生きて行くおつもりですか」
 何故かそれを、目の前の男ではなくサランナに問われているような気がした。いや、サランナではなく    雅に。
「森へ」
 冷やかな男の目が、ふと別の方に流れて行った。
「今度は先ほどより大勢います。どうぞ、森へ」
 あさとにも判った。先ほどとは比較にならないほど大きな地響きが、さほど遠くない背後から聞こえてくる。
 ざっと鋭い音と共に、男の両腕から刃が飛び出す。
「殺すことは、許さないわ」
 頭で考えるよりも先に、言葉がそう命じていた。
 男の目が、初めて不思議そうにあさとを見つめる。
「あ、あなたの任は、今この瞬間なくなりました。サランナのところに戻りなさい。……もう    あなたの手は借りない」
 後ずさりながら、あさとは一言一言を自分に言い聞かせるように続けた。
「……その刃を収めて。私のために、あなたが誰かを傷つける必要は……ありません」
 男は、無言のままあさとを見ている。その眼が、どこか戸惑っているようにも感じられる。
 騎馬の足音が、いっそう激しさを増してくる。あさとははっとして、森の方を振り仰いだ。
「あなたも早く逃げて、私のことは、もういいから」
 それでも男は動かない。感情が欠落した眼が、何度か瞬きを繰り返す。
「サランナに、……伝えて」
 あさとは言った。
「私は……やっぱり、こうやって私を助けようとしてくれた、あなたのことを信じてるって」
 そのまま踵を返し、あさとは森に向かって駆けだした。
 無駄なあがきかもしれない。が、何もせずに諦めたくはない。
 ユーリとサランナが言っていた。皇都の密偵がうろうろしている。    運よく誰かに巡り合えれば、まだ、活路を見いだせるかもしれない。
 
 
                   
 
 
(アシュラルという人は、さらに多くの命を、シュミラクール中で奪い続けているのではないのですか)
(あなたも私も、しょせん、血ぬられた世界で生きている……)
 夕暮れが近いのか、陽が、急速に翳って行く。
 暗い森の中を懸命に駆けながら、あさとはアシュラルのことを考えていた。
 このシュミラクールを、血の犠牲のもとに変革しようとしているアシュラルを、あさとは心のどこかで拒否している。
 信じよう、理解しようと努めてはいるが、実際は彼の一面に眼をつむっているだけなのだ。
 見ないようにしているだけだ。自分の愛する部分だけを、    必死で追い求めているだけなのだ……。
 迷っている。確かにそれは、サランナの言う通りだった。
 もしかして、自分でも無意識の内に、私は……。
 彼を愛していると、その言葉を口にすることを、    避けていたのだろうか?
 森を取り巻く騎馬の足音が、はっきりと聞こえるほど近くなっている。
 クロウはどうしたろうか。逃げたのだろうか。そして、彼の手を離した私は、ひどく馬鹿なことをしたのだろうか。
 が、それでも、多くの犠牲を黙認しながら助かる道を選ぶのは、    あさとにとっては正解ではないような気がした。心のどこかに潜んでいる雅の声に、負けてしまうような気がした。
     できるだけのことは、やってみせる。
 歯をくいしばるようにして、あさとは、森の奥へ、さらに奥へと駆け続けた。
 木陰に身を隠し、肩で呼吸を整えて、背後を振り返る。まさにその刹那、    金褐色の甲冑をまとった騎士を乗せた馬が四騎、猛然と駆け抜けていった。
 ぞっとするようなひと時の後、再び森に静寂が訪れる。
     急がなきゃ……。
 眩暈と、絶え間ない吐き気に耐えながら、あさとは、森の深部へと足を進めた。
 勝算はただひとつ、夜まで逃げきることだった。
 夜になれば、確実に追っ手は引く。騎獣が出るかもしれないからだ。むろん、そうなれば、自身の命も危うい    けれど、圧倒的に不利なこの状況を脱するには、もう闇を利用する他ない。
 森の奥は薄暗く、滅多に人が通らないのか、生い茂る草が腰のあたりまで伸びていた。それは、柔らかい指を切り、幾筋も血を滲ませた。
 再び、近づいてくる騎馬の足音がする。
 あさとは、止まりそうな脚を引きずりながら、このまま捕まるわけにはいかない、と必死に自分に言い聞かせた。
 アシュラルにふさわしいのは、私ではないのかもしれない、私では、あの人の足手まといになるだけなのかもしれない   
 でも、それでも、私はアシュラルを必要としているし、彼もまた、私を必要としているんだ。
 願いにも似たその思いだけに、絶望の中、すがり続ける。
 その時、殆んど背後で、木々を踏みしだく、騎馬の足音がした。
 馬の鼻息さえ聞こえてきそうな距離   
    !」
 振り返る余裕すらなく、あさとはもつれる足で、草を掻き分けて必死に走った。奥へ、さらに、奥へ。
「いたか?」
 正面から、野太い男の声が、ふいに静寂を破って耳に響く。
 はっとして脚を止める。
「この先にはいない。少し戻ろう」
 木々の間から垣間見える金褐色の甲冑。
 先ほど、あさとを追い抜いて行った騎馬たちかもしれない。
 背後からは別の足音が迫っている。もう、走るだけの力はなかった。あさとは、ほとんど息も絶え絶えになったまま、その場にしゃがみこんでいた。
 まだ、男たちは何かを喋っている。頭の芯がぼうっとして、遠いのか、近いのか、その距離感すらつかめない。
「おい、こっちだ!」
「いたぞ!」
 いきなり別の方角から響いた、その声はごく近くだった。騎馬の足音が大地を揺らす。
     見つかる……!
 最後の気力を振り絞って、あさとは立ち上がり、声とは逆の方向に駆けだしていた。
 草地を抜け、後ろを振り返る暇もなく、懸命に駆ける。
「きゃっ……っ」
 次の瞬間、何かに足をとられ、あさとはあえなく転倒していた。いままで被っていたのが不思議なくらいだった羽帽子が飛び、髪がほどけて額に落ちた。
 反射的に手をついて、顔を上げた時、視界に飛び込んできた    馬の脚。
 追手だ    咄嗟に反転して逃げようとして、強い力に腕を掴まれ、引き上げられた。
「離してっ   
 もがくこともできなかった。強い力は男のもので、それは、あさとを引き起こし、腰に腕を回して横抱きにした。
「いやっ」
 抗いながら、あさとは初めて、自分を抱き上げる男の横顔を見た。
 光が乏しい薄闇の中、確かに見覚えのある輪郭があった。
 もつれるようにうねる肩までの髪が、男の顔半分を覆っている。
     アシュラル……?
 闇に光る、禽獣のような鋭い瞳。凛々しい眉。薄い唇。
 薄いメッシュの防着を着て、肩から黒いマントを羽織っている。
 随分雰囲気が変わってしまった    まるで別人のように見える。殆ど半年ぶりに会うのだから。
 でも、間違えるはずはなかった。ずっと会いたかった、夢にまで見た    愛しい人の横顔を。
「アシュラル……!」
 あさとは小さく叫び、夫の首に腕を回して抱き締めた。
 彼は来てくれた、私を助けに来てくれた。そうだ、いつも    いつも、彼はそうしてくれた。どんな危険な状況であっても。
「アシュラル……、ごめんなさい、ごめんなさい、私」
 温かな首筋に頬を寄せ、あさとは涙を堪えることができなかった。
 ぬくもり、香り、心臓の音    懐かしくて全部愛しい。
 これが夢なら、もうここで、死んでもいい。
「こっちだ、人の声がする」
 その声が、あさとを現実に引き戻した。
 草を踏みしだく音、馬のいななき。追手が、もうすぐ傍まで迫っている。
「アシュラル」
 顔をあげて、その時はじめて、    アシュラルがどうしてここまで来ることができたのか、という疑問に気がついていた。
     来られるはずがない、
     戦の最中に、法王が、たった一人で。
 不安が胸の中に渦を巻く。
 アシュラルはどうして、さっきから黙ったままなのだろうか。無反応な横顔は、影に隠れ、表情が殆んど読み取れない。
 男はものも言わず、あさとを馬の背に押し上げると、自分も素早く、その背後に飛び乗った。
     ……?
 その所作に、不思議な違和感があった。
 自分を抱くようにして馬を走らせる男の腕に、どことはなく、冷たい    他人行儀なものがあった。
 そのくせ、あさとは、男の胸を、こうやって背後から抱かれる腕の感触をよく知っていた。それは    決して有り得ない錯覚だった。
     アシュラル……?
「少し、飛ばします」
 耳元で囁く声。
 いきなり冷水を、頭から浴びせられたような気がした。
     そんな。
 馬鹿な。
 この人は、死んだはずだ。
 私の目の前で    確かに、死んだはずだ。
 信じられない、これは夢だ。蛇薬で……頭がおかしくなってしまったんだ。
 あさとは、手綱を手繰る男の左手を無意識に追った。
 きれいな    傷痕のない指を、確かに見た。
「……ラッセル…」
 呆然と呟いた。
 馬鹿な、信じられない、これは    夢だ、幻覚なんだ……。
 この人は    ラッセル?
 そして。
     琥珀……?
 あさとは愕然として、馬上の男を振り返った。
 
 
 
 

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