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「…………」
ナイリュ 。
眩暈を感じ、あさとは咄嗟に、妹の腕にすがっていた。
ナイリュの……王宮……。
青州ではなかった。ここは 海を越えた異国、ナイリュだった。
サランナの落ち着きの意味が、含んだ笑いの底にあったものが、あさとにもようやく理解できていた。
それが本当なら、どうやったって、あさと一人ではこの国を出ることはできない。
「嘘でしょう……?」
最後の望みをつなぐように、あさとは訊いた。
「私はずっと、タタルの屋敷にいたはずだわ。船に乗った記憶さえないのよ」
苦笑したサランナは、.憐れむような眼差しになる。
「そもそもお姉様は、本当にタタルの屋敷においでになったのかしら?」
「……どういう、意味」
呆然と訊き返すあさとを馬鹿にしたように、美しい眉があがった。
「青州で、お姉様がユーリと一緒に向かわれたのはね、ウラデイミールの別宅じゃなくて、全くの別の場所だったの」
「………」
「ユーリは最初から、お姉様を皇都の連中から引き離すために、人のいいウラディミールを利用したのよ。お気の毒に、ウラディミールはあの後職を解かれて、病に伏せってしまわれたそうよ」
「…………」
「 翌日には私たちは全員、あの仮住まいを引きはらって船でナイリュに戻ったわ。お姉様はぐっすり眠っておられたから、全くお気づきにならなかったのでしょうね」
「…………」
遅れてきた衝撃で、ようやく手足が、震えだす。
それが本当なら いや、どんなに否定しようと、すでに眼にした景色の全てが、サランナの言葉を裏付けている。
どうすればいいのだろう。どうやって私は、皇都まで戻ればいいのだろう。
「セルジエは……」
「何度も来たわ。ミシェルに面会を求めに」
「殺したの?」
自分の声が、無様なほど震えている。
「王宮内部に、無理に侵入しようとしたからよ。当然の結果ね」
「…………」
ああ !
なんて私は愚かだったのだろう。
セルジエ……私の、私のせいで 。
また私は、私自身の謝った判断のせいで、大切な人を失くしてしまった 。
「ルナは……どうなったの」
「ああ、あの子」
一縷の望みをこめて訊いたことだったが、何故かサランナは楽しそうに笑った。
「私とあの子は、すっかり仲良しになったのよ……、お姉様。もうあの娘はね、お姉様の顔もみたくないんですって。だから私が無事に皇都まで送り届けてあげたわ。ご安心なさってかまわなくてよ」
もう、何を信じていいのかあさとには判断できなかった。
ひとつだけはっきりしているのは ユーリは……最初から、温室で再会した最初から、あさとと、そしてあの優しいウラディミール夫妻を騙すつもりだったのだ……。
何が、ユーリの心を変えてしまったのだろうか。それはやはり、私の罪なのだろうか。
あさとは、こみあげてきた涙を、歯をくいしばるようにして耐えた。今は泣いている場合ではない。泣いたって 何も、変わらない。
「さ、どうなさるの? お姉様。もちろん、このまま、私の館にいてくださってもかまわないのよ?」
「……皇都に、帰るわ」
「どうやって?」
「………」
方法は判らなくても それでも、これ以上ユーリの元に居続けることはできない。イヌルダとナイリュが開戦するなら、なおさらだ。今、自分が人質として留め置かれてしまったら、アシュラルにとってはとんでもない足枷になる。
「私を、逃がして」
力ない声で、それだけを、あさとは言った。
「ここに閉じ込められるくらいなら……私……」
皇都の足枷になるくらいなら、死を選ぶしかない。
「やはりお姉様は馬鹿だわね」
くすっと笑ってサランナは再び、あさとの腕を取って歩き出した。
「どこに行くの?」
「どこって、逃がしてほしいのでしょう?」
「…………」
「言っておくけど、もう時間はあまりないわ。すぐにユーリが気付いて追手を回すでしょうから」
「…………」
どういうこと?
本当にサランナは、私を、逃がしてくれるつもりなのだろうか。
それともこれも、何かの罠? 。
「私……ここでは、どういう立場になっているの?」
動揺を押さえながらあさとが訊くと、妹は思い出したようにくすりと笑った。
「ミシェル様の隠し女」
「…………」
「だからさっき、レイア様はあんな冷たい目でお姉様を睨んでいかれたのよ」
サランナは冷ややかな目であさとを振り仰いだ。
「言っておくけど、ユーリは、今さら、お姉様を手放したりはしないでしょうよ。絶対にアシュラルの所へは返さないって意味よ。私にできるのは、青州まで送ってさしあげることだけ、 すぐにユーリが追っ手を出すでしょうから、それも上手くいくかどうか判らないけれど」
「どうしてなの……?」
声が震えた。
ユーリには、結婚した妻がいる。先ほどの女性がそうならば、あれほどに美しい女性を見たのはあさとには初めてだ。しかも、妊娠までしているのに。
今更、何を求めて私を留め置くというのだろうか。
「イヌルダと、戦を始めるからなの?」
私はそのための、人質という意味なのだろうか。
「そんなに頭の回る男じゃないわ」
サランナは鼻で笑った。
「ユーリは単純に、お姉様が好きなのよ。忘れることができないの。ご自分を抑えられないほどにね」
その口調は冷たかった。冷たいというより、わずかな怒りさえ感じられた。
「京極レイア様との結婚は、この国で彼が力を得るための政略よ。本当に愛しているなら、いえ、愛されているなら、レイア様はあんな眼で私やお姉様を見たりしないわ」
サランナ……?
あさとは、初めて眼が覚めるような思いで妹の横顔を見た。
あなたは、……まさか。
「頭の悪い男は嫌いよ」
が、サランナは、不思議な微笑を浮かべて呟いた。
「その点、アシュラルは完璧だったわ。美しくて、凛々しくて、頭のいい人だった。私を抱くときの甘い囁き、とろけるような指の動き……お姉様はもう、お知りになっているのかしら」
「………」
突き上げるような嫉妬で、胸を塞がれ、あさとは黙ってうつむいた。
「彼の好む体位も、仕草も、全部知ってるわ。キスをする時の癖も、唇の温度も、私は全部記憶しているわ」
やめて……。
耳を塞いでしまいたかった。聞きたくない、聞くのが辛い、 どうしようもなく不安になる。
「どうしたの? 何故そのようなお顔をしていらっしゃるの? 自信がないの? 今のお姉様、さきほどのレイア様と同じ顔をしていらっしゃるわよ」
嫉妬と。
そして、不安。
「サランナ、あなたはどうして」
言いかけて、それ以上言葉にならなかった。
どうしてここまで、妹は私を傷つけ、 そして、追い詰めることができるのだろうか。
「アシュラルを愛しているからよ」
サランナはきっぱりと言いきった。
「お姉様、あなたはね、アシュラルを信じていないのよ。愛されている自信も、愛している自信もないままに、彼と結婚してしまったの」
サランナは瞳をきらきらと光らせて、まっすぐにあさとを見つめながら言った。
違う。……
あさとは首を横に振った。それは力ない動作だった。
サランナの瞳に、その圧倒的な自信に、呑みこまれてしまいそうになる。
「馬鹿なお姉様、アシュラルを信じているなら、どうして金羽宮で、そのまま彼の帰りを待てなかったの?」
「………」
「お姉様は、私を信じたことを失敗だとお思いになっておられるのかしら? 私に言わせればこうよ、お姉様の失敗はね、私を信じたことじゃない、アシュラルを信じられなかったことにあるのよ」
言葉は冷たい刃だった。
あさとは眼を見開いたまま、何も言い返すことができなかった。
「どうして、ユーリに、はっきりアシュラルを愛していると仰らなかったの? あれはユーリの最後の優しさだったのに。 あの馬鹿な男はね、お姉様が幸せなら、それで手を引くつもりだったのよ」
だって。
だって、それは……。
「あれから、お姉様と色々お話して、私にもわかったわ。お姉様は、アシュラルを本当の意味で愛してはおられない。迷っていらっしゃるんだってね。ユーリにもそれが判ったのよ、だから、彼も」
そこでサランナは言葉をきった。あさともまた、顔をあげていた。
いつの間にか黒い影が、寄り添うように妹の背後にかしづいている。
「馬車のご用意が」
低い、この世の別の場所から聞こえるような声だった。
何故かあさとは、その刹那ぞっとして、手肌が粟立つのを感じている。
「そう、じゃ、後はお前に任せたわ」
サランナが冷たい声で命じると、黒いクロークで全身を覆った男は顔をあげる。
切れあがった細い瞳。表情の一切が消えた能面のような顔。美しい白髪を背後に束ねた男は、すっくと立ち上がる。見上げるほどに背が高かった。
「彼はクロウ。腕がたつ男だから、きっと青州までお姉様を護るでしょうよ」
「…………」
「もちろん、すんなりとはいかないでしょうけれど」
意味ありげに妹は笑い、男は、無言で視線だけをわずかに下げる。
あさとは、ただ戸惑っていた。
正直言えば、この申し出を受けていいかどうか、判断がつかない。
サランナは、憐れむような眼で、悄然と立ちすくむ姉を見つめた。
「私がどうして、お姉様の逃亡の手助けをするのか……本当の理由がわかっていらっしゃるのかしら?」
本当の、理由……?
あさとの眼差しを受けとめ、サランナは顔中に笑顔を広げた。
「ここへ残る方が、お姉さまにとって幸せだからよ。誓ってもいいわ。金羽宮に帰っても、破局が待っているだけだから」
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