ここから、出なければ……。
 翌朝、激しい頭痛と共に、一人目覚めたあさとは、そう決意した。
 どうあっても、この忌まわしい囚われの館から逃げなければならない。
 ずっと考えないようにしていたが、自分の身体に起きている異常、これは、間違いなく薬物依存による中毒症状だ。
 昨夜、苦しい息の下、いつもの薬が唇から流し込まれるのを感じた。
 その途端、胸苦しさも寒気も不思議なくらい引いていって    あさとは、眠りに落ちたのだった。
 何度も疑念を感じながら、それでも打ち消し続けてきた。けれどもう、認めざるを得ない。
 ユーリもかつて、蛇薬を飲まされ、その中毒で苦しんでいた。
 父、ハシェミも、何者かによって蛇薬を投与され、廃人同様になってしまった。
 何者か、    それは……やはり、サランナだったのだろうか。
 妹を信じていた。信じようとした。それが、そもそもの間違いで、取り返しのつかない迂闊だった。
 何をしても、もう失われたセルジエの……場合によっては、もっと大勢の仲間たち命は戻らない。
 それは全て、自身の判断の誤りのせいなのだ。
 皇都に戻ったところで、もう居場所などないかもしれない。アシュラルは……もう、許してくれないのかもしれない。
 それでも、これ以上、この屋敷にいることだけはできないと思った。
 ユーリの言葉が本当なら、本当に、ナイリュがイヌルダと開戦するつもりなら、ことはもう、個人の問題ではすまされない。何とか活路を開いて脱出しなければ、自身の存在そのものが、この後、イヌルダにとって、大きな足枷になりかねないのだ。
 枕元には、いつもと同じ薬が置かれている。
 自分の身体が、どの程度麻薬に蝕まれているのか、あさとには見当もつかなかった。今、なんら医学的処置も受けないまま、ここを逃げ出して    身体にどのような反動が起こるのか、予測もつかない。
 怖かった。
 けれどこのままでは、いつか必ず、父ハシェミと同じ運命を辿ることになる。
「………」
 少しの間逡巡し、あさとは意を決っして、それを飲み干した。
 もう、感覚はよく判っている。わずかな間だが、気持ちが落ち着く。身体も動くようになる。この時間を利用して、脱出を試みるしかない。
 数時間後には薬の効果が切れてくる。その苦しみとだるさは、ここを無事に抜け出してから耐えていくしかない。
 
 
                 
 
 
 驚いたことに、壁際に置かれた衣装棚には、あさとがここに来た時の衣装や荷物が、殆どそのまま収められていた。
 身体は重く、足にはまるで力が入らない。指先は痺れたように強張って、ささいな作業にも手間取ってしまう。
 が、泣き言を言っている時間はない。取り出した衣服を身に着けると、何度も倒れそうになりながら、ケープを羽織り、羽根帽子を取り上げた。    途端、軽い金属音がして、足元に何かが転がった。
 あさとは、はっと目を見開いた。
 月白桜(コライユ)の紋章が刻まれた、銀の短剣。
     アシュラル……。
 震える手でそれを拾い上げる。あさとは胸に寄せて抱きしめた。
 信じられなかった。サランナの手に渡った以上、もう    二度と戻らないものだと思っていた。
 奥州に立つ前のアシュラルが、最後に残してくれた剣。
「アシュラル……」
     お願い、私を、護って。
 もう一度、あなたに逢わせて。
 それでも感傷の中、わずかな疑念が首をもたげる。サランナは    剣を返すわけにはいかないと言った。では、何故、いったん奪われたもの全てが、囚われの部屋に置いたままになっていたのだろうか。
 訝しく思いながらも、あさとは胸に短剣を押し抱いたまま、元いた寝台に向かった。
 どういう理由であれ、武器が手に入ったのは僥倖としか言いようがない。
 この館から、誰にも怪しまれずに脱出するには、女主人であるサランナに案内させるほかない。むろん、妹が積極的に案内などしてくれるはずがないから、それは暴力か、脅迫という手段を使うしかないことになる。
 が、再び寝台に横たわり、白光りする刃を見つめている内に、あさとは漠然と不安になった。
 この剣で、本当に私は人を傷つけることができるのだろうか。場合によっては、誰かの命を奪うことができるのだろうか。
 細い刃は、指で触れるだけで吸い込まれそうに鋭く、護身用としてはもちろん、攻撃用としても、十分役立ちそうな代物だった。むろん、アシュラルは、自身の身を護れという意味をもこめて、この剣を託してくれたのだ。でも、それでも。
「…………」
 どこかで雅が冷笑しているような気がした。
 まだそんな綺麗事を言っているんだね、あさと。   
 その時、ひそやかな衣擦れがどこからともなく聞こえてきた。
 はっと息をひそめ、あさとは布団を頭まで引っ張り上げる。心臓の音だけが、どきどきと聞こえた。
 そうだ、今は無謀でもなんでもやってみるしかない。
 山を下れば、人家がある。馬さえ手に入れられれば、どうにでもなる。なんとかして、父のような身体になる前に、この館を逃げ出さなければ……。
「……お姉様」
 やがて、扉の軋む音がして、いつもの優しい声がした。
「ご気分はどう? お食事をお持ちしたのよ」
 サランナ……。
 帳が開かれ、甘い妹の香りが、そっと覗きこんでくるのが判る。
 布団の中で、大きく息を吐いたあさとは、そのままものも言わず、握りしめた剣を突き出した。
「動かないで」
 サランナの背後で、甲高い悲鳴と共に、食器の割れる音がした。驚いたのはあさとも同じだった。珍しくサランナは一人ではなかった。侍女に、食事を運ばせていたのだ。
 しまった   
 激しく悔いたが遅かった。いつも部屋に入ってくるのはサランナ一人だったから、今日もそうだと思いこんでいたのだ。が、もう、後には引けない。
 喉に刃を突きつけられたサランナは、綺麗な眉を不思議そうに上げたまま、その場に立ちすくんでいる。
 あさとは剣を握りしめたままで、半身を起して身構えた。
「命が惜しかったら……言う通りにして」
 睨みながら、じりじりと動く。
「騒がなければ、何もしないわ」
「だ、誰か」
 侍女が、おろおろした態で後ずさっている。あさとは動かないサランナの腕をつかみ、その喉元に、さらに深く剣を押しあてた。
「静かにして、声を出さないで」
 威嚇したつもりだった。が、次の瞬間、蒼白になった侍女が、我を忘れたように声を張り上げた。
「誰か……誰か来てぇ! たすけてぇ!」
「静かになさい、大丈夫だから」
 動揺したあさとが何か言う前に、それをやんわりと遮ったのは、サランナだった。
 妹の表情は、優しいまま、唇には愛らしい微笑さえ漂わせている。
「で、でもアイラ様」
 アイラ様?
 呼ばれたサランナは動じず、おかしそうに微笑した。
「ラウル様、お身体のほうは、もうよろしくていらっしゃるの?」
 今度は、あさとが逆に唖然としている。
「何を焦っておられるのか判りませんけど、お食事はとられたほうがよろしいのではなくて?」
(うまや)まで案内して」
 剣を握りしめたまま、あさとは妹の耳元で囁いた。
 部屋の隅に後ずさった侍女は、迷うような目で二人を見上げている。
「厩などに行って、どうするの?」
「ここを出て行くわ。ウラディミールのところへ戻ります」
 何故かその刹那、サランナが苦笑を浮かべたような気がした。が、妹は逆らわず、そのまま、あさとの腕の中に収まっている。
「……馬は、危なくてよ。逃げる手段としてはお奨めできないわ」
「黙って」
 自分の声の方が震えている。息もあがりかけている。
「案内するの? しないの?」
「そんな真似をなさらなくても、いつだって、出て行かれてかまわないと言ったのに」
「………」
「だから帰りの御支度も、用意しておいて差し上げたのに」
 優しい眼差しで見あげられ、あさとは言葉を失っていた。
 妹の眼に、畏れの色は微塵もない。剣を突きつけている自分の方が、明らかに動揺している。
「ひとつ教えて差し上げるわ」
 サランナの指が、そっと剣に添えられる。優しげに、まるで楽器でも操るように。
    金羽宮の時とは、決定的な違いがあるのよ、お姉様」
 あさとは動けなかった。逆らうこともできなかった。
「私は、平気でお姉様を傷つけることができるけど」
 サランナの指が、しっかりと短剣を絡め取る。そのまま腕を引かれ、刃の切っ先が彼女自身の白い肌に食い込んでいく。
「なっ、なにするの?」
 あさとは驚いて、手を離していた。
 逆に、剣を掴み取った妹は、にっこりと微笑んだ。
「お姉様は、私を傷つけることができないでしょう?」
「………」
 背後の侍女が、弾かれたように駆け寄ってくる。全ては終わった。    全て、サランナの言う通りだった。
     かなわない……。
 力なく腕を下ろしながら、あさとは絶望で目の前が暗くなるのを感じていた。
     私は、絶対に、サランナにはかなわない……。
「さ、参りましょう、ラウル様。おふざけはもうおしまい」
 けれど、サランナは、驚くほど明るい笑顔でそう言うと、優しくあさとの腕を絡め取った。
「少し二人で外を散歩するわ。供はいりません。ラウル様がようやくお元気になられたのですもの。きっとミシェル様もお喜びよ」
 傍らの侍女が、あっけにとられるほどの落ち着きぶり。もちろんあさとにも、わけがわからない。
     サランナ……?
 妹は首をかしげ、愛らしく微笑した。
「さ、ラウル侯爵様、私について来て」
 そう囁くと、さっさと腕を引いて歩き出した。
 
 
                  
 
 
     ここ……どこだろう。
 階段を下りて回廊を歩きながら、あさとは不思議な違和感を覚えていた。
 気のせいだろうか。最初にこの館に来た時と、随分雰囲気が違ってしまったように思える。
 長く床に伏せっていたから、季節が変わってしまったのかもしれない。そのせいか、どこか陰鬱に思えた館は、華やいだ    明るい、いかにも若い女性の館らしい造りに変わってしまったように思える。
「どこに、行くの?」
 あさとが問うと、サランナは不思議そうに眉をあげた。
「厩に案内してほしいのではなくて?」
「…………」
 館の玄関を抜けて庭に出ても、あさとにはまだ、半信半疑だった。
 サランナは、いったい何を考えているのだろう。というより、ここは本当に、タタルのウラディミールの別宅なのだろうか。
 緑に映える庭の木々の美しさや建物の外壁、全てが、全く別の物のような気がしてならない。
 ひどく嫌な予感がした。それが何か判らないまま、あさとは再度訊いていた。
「ここは……どこ?」
「私の館よ、お姉様」
 含んだように言って、妹は笑った。
     サランナの……館?
 どういうこと?
 青州に、何故サランナの館があるのだろうか。
「ここがどこかさえ判らないお姉様に、お一人で皇都に戻ることができるのかしら」
「………」
「ねぇ、お姉様? 本当にここがどこだか、お判りにならない?」
 あさとは黙っていた。
 何か、理由の判らない不安とまがまがしさで、息苦しささえ覚えている。
「ふふ……」
 くすぐるように笑ったサランナも、それ以上何も言わず、あさとの腕を取ったまま、優雅に庭の中を歩き続ける。
 濃淡を違えた黄花が咲き乱れる庭園のほぼ中央、歩いていた妹の歩みが、何故かふと、そこで止まった。
 あさとも立ち止まり、サランナの視線の先を追っている。
 庭園の向こうに、花と蔦が形作る巨大なアーチがあり、その下に、きらびやかに着飾った女性の一群が見えた。
 ずらりと供を従えた貴婦人たちが、午前の散歩を楽しんでいる。    そんな光景に、あさとには見えた。
 その輪の中心に、薄い若草色のヘッドドレスを被った細面の女性が、悠然と立っている。まるで日輪のように、彼女の全身を、いっそう明るい光が取り囲んでいるように見える。
     きれいな人……。
 花霞のように可憐で、なおかつくっきりした美貌は、遠目でも目立つほどだった。
 何故かサランナは動こうとしない。女たちの群れは、最初からサランナに気づいているようで、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
 近くで見ると、その    若草色のドレスを着た女性の相貌は、露の雫のように清廉で、眩しいほどに美しい。が、女は、どこか傲然とした表情で足を止めると、冷やかにサランナを見下ろした。
「ごきげんよう」
 軽蔑と嫌悪が、その美しい眉に滲んでいる。
 あさとは内心驚いていた。サランナを    そんな眼で見ることができる人がいるなんて、想像してもいなかったからだ。
 サランナはかしずき、女の方に向って頭を下げている。
 そんなサランナの姿も、あさとには驚きだった。
「こちらが、ラウル侯爵様?」
 女の霞がかったような瞳は、けれどあさとではなく、じっとサランナを見つめている。
 線の細い、どこか病的な美貌。それは、かつてのユーリを連想させた。
     ううん、本当にこの人は、体調がすぐれないのかもしれない……。
 ようやくあさとは気がついた。女の衣装は、明らかに妊婦のそれだ。この人は、妊娠しているのだ。
「はい、ミシェル様のご友人でいらっしゃいます」
 サランナは頭を下げたまま、丁寧な口調で答える。
「そう……それで毎夜、ミシェルはあなたの館に通われておられるのね」
 あさとはその刹那、頭を殴られたような衝撃を感じていた。
 この人は……、まさか……。
 ユーリの、奥様……? 結婚したというレイア様?
 では、では、ここは。
 ここは、もしかして。
 美貌の女は続け様にサランナに問いかけた。
「ラウル様はご病気ではなかったのかしら」
「このように、お散歩を楽しむまでに、よくなられました」
「ミシェルはまだ、ひどく悪いようなことを言っていたわよ」
「……では、ミシェル様に、よくなられたとお伝えを」
 初めて、女の咎めるような眼差しがあさとに向けられた。
「ご友人ね」
 あさとを見下ろす、レイアの目は冷ややかな侮蔑を含んでいる。その眼差しに耐え切れず、思わず目を逸らしていた。
 女たちが交わした会話はそれだけだった。
 レイアは悠然と背を向けると、取り巻き立ちに囲まれるようにして、再び庭園の中に消えていった。
「……言っておくけれど、これで、ユーリが気づくのは時間の問題になったわよ」
 立ち上がったサランナは、どこか投げやりな声で言った。
「サランナ」
 あさとは、激しい動揺を押さえたままで、訊いた。
「ここは……いったい、何処なの」
 ユーリの正夫人が、しかも妊娠中の夫人が、敵国である青州に来ているはずがない。
 だとすれば、だとすれば    ここは。
「あら、もうお判りになられたとばかり思っていたわ」
 サランナは可笑しそうに眉を上げた。
「ナイリュよ。ここは王都サマルカンド。お姉様お一人でこの島を抜け出すなんて、絶対に無理だし、不可能なんじゃないかしら」
 
 
 
 

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