第四章 囚われた光
 
 
                 
 
 
 あれから、どのくらいの時間が過ぎたのだろう……。
 締め切られた部屋には、始終蝋燭と香の匂いが漂っていて、時折、熱に浮かされるように目を覚ますあさとには、今が朝か夜かさえ分からない。
 あさとは、寝台に仰臥したまま、すっかり痩せてしまった自分の腕を見つめた。もともと船旅でやつれ気味だったものが、今は、骨の形が浮き出るほどに細くなってしまっている。
 目覚める度に視界に映るのは、いつもと同じ光景である。
 濃い緑色の天蓋。重たく揺れるレースの帳。室内はいつも薄暗く、ずっと同じ香りが漂っている。
 何度も起き上がろうとした。せめて、自分の足と目で、今の状況を確かめようと試みた。
 が、たちまち襲いかかってくる頭痛と眩暈。絶え間ない嘔吐感で、扉に辿りつく間もなく、歩けなくなる。そして物音を聞いて駆けつけてきた女官たちに、寝台に連れ戻されてしまうのだ。
 が、少し前からあさとは、自身の体調にバイオリズムとでもいうべきパターンがあるのに気がついていた。
 立っていられないほどの異常な疲労感は、眠りから目覚めた時が一番激しい。
 あえぐほどに苦しくて、いつも出される水薬を急くようにして飲み干してしまう。
 すると    やがて身体は楽になって、安らいだ時間の後、静かな眠りが訪れる。が、目覚めた時には、同じ苦しみが待っているのだ。
     なんだろう……。
 不安で胸が締め付けられる。
 これが病気だというなら、いったい何の病だろう。しかも伝染性なのに    、毎日訪れるサランナは、何故平然としているのだろう。
 感染期間が終わるまで、とユーリは言った。
 もう、かなりの日数、ここにいるような気がするのに、病状がよくなる兆しは全くない。それどころか、日に日に体調は悪化し、体力はますます衰えているような気がする。
 医術師らしき老婦人が、時折様子を見に訪れるが、これといって治療をするようでもない。
 ただ、毎日薬を飲むようにと念を押していくだけだ。
     皇都はどうなってしまったのだろう……。
 そして、奥州で籠城しているアシュラルは。
「……お姉様」
 かすかな足音が忍び寄ってくる。いつもの時間にいつものように、サランナがそっと帳を払って顔をのぞかせる。
「また、お食事を残されたんですって?」
 不安気に寄せられる眉。見下ろされる瞳に、悲しみと同情が満ちている。
「ごめん、……まだ、食欲、なくて」
 あさとは無理に笑顔を作った。
 こうして床についてからというもの、サランナは毎日のように枕元まで様子を見に来てくれる。
「果物を絞った飲み物をお持ちしたわ。少しなら、お飲みになられるかしら……」
 妹は優しくそう言い、寝台の傍に備え付けてある椅子に腰を下ろした。
「さぁ、そのままで構いませんことよ。お口をお開けになって……、そう」
 匙にすくいとられた透明な液体が、薄く開けた唇から流し込まれる。
 ほのかに甘く、喉に染みるほどに酸っぱい。重苦しかった胃のあたりが、少しだけ楽になった。
「……ありがとう、サランナ」
 あさとを見つめるサランナの瞳が、泣いた後の人のように濡れている。
「まさか、こんな風にお姉さまの看病をする日が来るなんて……想像してもいなかったわ」
 表情は暗いのに、声だけは何故か楽しげに聞こえた。
「さ、どんどんお飲みになってね。気に入られたら、もっと沢山作ってくるから」
     サランナ……。
 やはり妹の声は明るい。気にしすぎなのだろうか、考えすぎなのだろうか。
 金羽宮で、一度だけ果実酒に毒が混ぜられていたことがあった。それで    つい、警戒してしまったが、サランナが持ってくる果実や飲み物は、本当にすっきりと美味しく、女官たちの言葉では、それは妹自らが庭で採取し、手ずから作ったもののようだった。
 胸に浮かぶさざ波のような疑念や不安は、サランナの染み入るような優しさに触れる度に、申し訳なさと共に溶けて行く。
「おかわいそうなお姉様……」
 果汁の器を脇に押しやりながら、サランナはゆっくりとあさとの髪に指を絡めた。
「ユーリ様も、お姉さまのことを死ぬほど心配なされているのよ……。でも、今は、ご公務が多忙で、お見舞いに来られる暇もないようなの」
「ユーリは……本当に来ていないの?」
「あの方のお立場では、そう簡単に青州まで来られないわ」
「………」
 そう、    そうなのだろう。サランナの言う通りだ。
 確かに、皇都を襲った悲劇を伝えられた日。あの日を境に、ユーリの姿を見ることはなくなった。でも。……
 妹の目に笑いが滲む。
「お姉様、寂しいの? ユーリ様が来られなくて」
「そうじゃないわ……。サランナ、あなただって」
 あさとは、無意識に妹の指を振りほどこうとしていた。けれど延ばした手は、力なく途中で落ちた。
「私の傍に来ても大丈夫なの……? だって、私は」
 サランナの顔に、笑みがいっぱいに広がった。
「お姉様は、とにかく、ご病気のことだけを考えていればいいのよ」
 その笑顔が、たまらなく怖いのは何故だろう。
「お願い、サランナ、教えて、……皇都は、今どうなっているの」
「余計なことは、お考えにならないで」
「アシュラルは? 金羽宮は?」
「病に触るわ、もうお喋りにならないで」
 微笑と共に、翻るドレスの裾。
「ルナは? ルナは何処へ行ってしまったの……?」
 足音が遠ざかり、ゆっくりと扉が閉まった。
 それもいつものことだった。サランナは    決してあさとの質問に答えてはくれない。サランナだけではない。この部屋に顔を出すものはみな、サランナと同じ反応しか示さない。
 もう、聞いても無駄なのだと、あさとは諦めて目を閉じた。
 妹と交わしたわずかな会話。それだけで、身体が沈み込むほど疲労している。最近は、口を聞くのもおっくうになってきていた。できるなら    ずっと目を閉じて眠っていたい。
     もう……。
 不意に、絶望的な思いが胸を掠めた。
     もう、全て終ってしまったのかもしれない。……
 いつまでたっても、皇都から迎えが来ないのはどういう理由なのだろうか。
 皇都は、すでに落ちてしまったのかもしれない。アシュラルは死んでしまったのかもしれない。
 ユーリが顔を出さないということは、知らせるべき情報がないからだ。サランナが何も教えてくれないのは、それが    悲劇的な結末を辿ってしまったから……。
 もう、終わりなんだ。    私は……もう。
 二度と、アシュラルには会えない。
(どこかへ、行こうか)
(どこでもいい、お前の行きたい所にだ)
 最後の日に聞いた、夢みたいに優しい言葉。あれが、あれが最後になるなんて。だったらもっと    もっと伝えたいことが、してあげたいことが沢山、沢山あったのに。
 アシュラルから託された剣は、皇都からずっと、肌身離さず持っていた。むろん、タタルに来た時も同じである。
 が、病に倒れた時、いつの間にか衣服は取りかえられ、持ち物は全て奪われた。サランナに何度か剣を戻してくれるように頼んだが、「お気の毒だけれど、今のお姉様に剣などお渡しするわけにはいかないわ」と、憐れむように断られ、結局はそれきりになっている。
 閉じた目から、涙が溢れ、頬を伝った。
 枕もとには、水薬の入った小瓶がある。
 就寝前に一瓶、必ず飲むように言われている。
 でも、そうして命を繋げたとして、なんの希望があるというのだろうか。
 生きると決めた、何があっても死なないと決めた。それも    守るべきものがあっての話だ。
 アシュラル   
 アシュラル、会いたい……。
 あさとは激しくなる嗚咽を両手で押さえ、そのまま枕につっぷした。
 
       
                  
 
 
 ひどく遠くで、扉の軋む音がした。
「それは、間違いないんだな」
 囁くような声がする。
 夢だろうか    。あさとは、うとうとと瞳を瞬かせた。
 途端に、全身を震わせるほどの寒気に、ぞっと身をすくませる。
 なにこれ。なに……、この感じ。
 歯の根があわないほど、気持が悪かった。喉が渇いて、頭の芯で熱の塊が渦を巻いている。
 誰か    。助けを呼ぼうとした時、もう一度、夢で聞いた声が聞こえた。
「本当に間違いないんだな、サランナ」
 それはユーリの声だった。
 あさとは、気持の悪さも忘れ、はっと全身をすくませている。何故かその声を今聞いてしまうことに、安堵というより、取り返しのつかない過ちを知ってしまったような恐ろしさを感じていた。
 帳の向こうから響く声は、はっきりとした輪郭を有していた。
 蝋燭灯りの前で、ふたつの人影が揺れている。
     夢じゃない……。
 枕に顔を埋め、息を殺すようにして、あさとは声に神経を集中させた。
 ユーリはあれ以来、来ていない。    サランナは確かにそう言ったけれど、時々、朝目覚めると、まるで夢の続きのように、彼の声が、匂いが、記憶の底に滲んでいることがある。
     ユーリは、……もしかして、私が眠っている間に来ているのではないだろうか。
 その恐ろしい疑念が、今さらのように胸をざわめかせている。
「ええ、確かだそうよ。時期からみても、……だわね」
 サランナの声だ。よく響くはっきりとした声は、一部分だけひどく低くて聞きとれなかった。
「しっ、声が大きいぞ」
「平気よ、お薬のせいで、いつもぐっすり眠っていらっしゃるから」
     私のことだろうか……?
 いや、間違いなくそうなのだろう。
 サランナの声に、あざけるような刺がある。
 その口調が胸をざわつかせた。妹の、こんな毒のある声を、久しぶりに聞いた気がする。
「馬鹿なお姉様……。今ごろアシュラルは、怒り狂っているわね。やっとの思いで金羽宮に戻ったら、奥方様が行方不明になっているだなんて」
      
 愕然としていた。全身の血が一気に凍りついていた。
 何……? 今、サランナは、なんて言った?
 哄笑が闇に響く。
「ああ、愉快愉快、たまらないわ。で、どうするの? 計画どおりお姉様を皇都へ帰すおつもり?」
 あさとは、一度冷えた全身の血が、沸点に達していくのを感じた。もう、唇を噛んで吐気を堪える必要もなくなっていた。
「いや……、もう、帰すつもりはない。クシュリナは俺の傍においておく」
 ユーリの声だ。
 あさとは絶望的な思いで、闇から漏れる二人の会話に耳をこらした。
「皇都の密偵がこの界隈を詮索している。セルジエを殺した時点で決まっていた。イヌルダとの開戦は避けられないだろう」
「いいじゃないの、もともとそのつもりで、薫州との同盟を進めていたのでしょう?」
「まぁな」
     殺した。セルジエを?
     薫州と……同盟?
 まさか、ユーリが!
 あさとはベッドから身体を起こした。上体がよろめき、そのままずり落ちるように床に転倒した。それでも何とか、支えを掴んで立ちあがった。
 帳の向こうに、死んだような沈黙が降りるのが判る。
 あさとはよろめいては、躓き、そして、歩いて、    レースの帳を握りしめるようにして身体を支え、並び立つ二人と対峙した。
「クシュリナ……」
 最初に口を開いたのは、立ちすくんだままのユーリだった。
 膝までの白のガウンを羽織っているせいか、もともと白い顔が、ますます蒼ざめて見える。瞳は見開かれ、こめかみは僅かに痙攣していた。
     ユーリ……。
   危ない」
 一瞬バランスを失いかけたあさとを、ユーリは手を伸ばして支えようとした。あさとは満身の力でそれを拒み、そのまま床に膝をついた。
「……どういう、ことなの……」
「あらあら、これで終わりになっちゃったわね」
 サランナがつまらなそうに言って、傍らの長椅子に腰を下ろした。
「聞いてらしたんでしょう? おめでとう、お姉様」
 信じられなかった。眩暈がした。
 サランナは    この妹は、何一つ以前と変わってはいなかったのだ。
 ゆっくりと首をかしげ、サランナは嫣然と微笑した。かつての、彼女らしい微笑み方で。
「本当に人のいいお姉様。イヌルダで開戦なんて嘘も嘘、アシュラルは自力で活路を開いて、もう一月も前に金羽宮に収まっているわよ」
 あさとは顔を上げた。
     アシュラルが。
 アシュラルが生きている   
「……本当に?」
「今話したことはね」
「アシュラルは、無事に金羽宮に戻ったのね?」
 あさとが念を押すと、サランナは呆れたように眉をあげた。「お姉様が気になさることは、もっと他にあると思うけれど」
「……あ…」
     アシュラル……。
 膨れ上がった涙があふれ、頬を伝った。張り詰めていた気持ちが、一時に解放されて解けていく。
 よかった……。アシュラルが生きている。生きて……皇都に戻っている。
 それだけで、今の何もかもが耐えられるような気がした。
「……帰るわ、私」
 あさとは言った。「    金羽宮に……帰るわ」
「クシュリナ」
 何か言いかけたユーリを、サランナが遮った。
「ええ、お帰りになられたら?」
 あさとはサランナを見上げた。妹の目に宿る、ようやく剥き出しになった本性を見つめた。
     雅……。
 同じ眼だった。
 サランナは、あの夜の、恐ろしかった雅と同じ眼をしている。
 金羽宮で、彼女がアシュラルと対峙した時もそうだった。こんな眼をした妹を見るのは    これで二度目だ。
「あなたの取り巻きは、もう誰もいないわよ。憐れでお気の毒なお姉様。イヌルダでは、女皇の身代わりが、アシュラルの妻の代役まで、器用にこなしていらっしゃるそうよ」
「………」
     信じない。
「でないと、どうしてこんなに長い間、アシュラルはお姉様を放っておかれるのかしら? お姉様が青州におられるのは、皇都のみんなが知っていることなのでしょう?」
     アシュラルは、来てくれる。絶対に私を助けてくれる。
 あさとの思いを読み取ったように、妹は鼻先でかすかに笑んだ。
「きっと、アシュラルは怒っているのねぇ。自分を信じず、のみならず他国と勝手な交渉をし、大切な配下を死なせてしまったお姉様を」
     ………。
「私は、よく知っているの。アシュラルはね、そうやって自分の足を引っ張られることを、何よりも嫌う人なのよ」
 あさとには、もう何も言えなかった。
 それだけは、確かにサランナの言うとおりだった。
 アシュラルがどれだけ怒っているか    特に、セルジエを死なせたことで、どれだけ彼が逆鱗しているか、それは、言われるまでもない。
「そんな弱ったお身体で、お一人きりで、どうやってイヌルダまで帰るつもり?」
 サランナはあざけるように追い討ちをかけた。
「私は止めないわ。さぁ、お好きに、いつでも出て行かれてかまわないのよ」
「やめないか!」
 溜まりかねたように遮ったのはユーリだった。あさとの前に膝をつく、その肩がが小刻みに震えている。
「……もう、気はすんだはずだ」
「いいえ、まだよ」
 あさとは、ただぼんやりと、ユーリの膝を見続けていた。
 サランナは    結局のところ、自分を憎みつづけていたのだ。彼女の涙も、悲鳴も    あれは幻か、別の意味のものだったのだ。
 悲しいのと、虚しいのとで、思考が停まったまま動かない。
 サランナを信じようとしたばかりに、私は……最悪の形で、アシュラルとジュールの信頼を裏切ってしまったのだ。……
「クシュリナ」
 ユーリの視線がゆっくりと向けられる。優しくて、透き通るように綺麗な眼差し。けれど、あさとはもう、その眼を、以前と同じ気持ちで見ることはできなかった。
「こないで……」
 うめくように言っていた。
「ずっと私を騙していたのね……。サランナと、一緒に」
 闇から聞こえた二人の会話。
 まるで別人のように冷たかったユーリの声。……。
「話を聞いてくれ、クシュリナ、君は」
 不意に、強い嘔吐感を覚え、口を押さえたあさとは、にわかに手足が生理的に震えだすのを感じた。冷たい汗が、じわっと全身に浮き出してくる。
「クシュ、」
「触らないで」
 全てが欺かれていたなら、この奇妙な症状は    もしかして。
「私に何を飲ませていたの? 私が飲まされていたのは、あれは」
     薬なんかじゃ、なくて。
「……クシュリナ…?」
 意識が、再び曖昧になっていく。足元が回っている。
「サランナ! どういうことだ、お前は、彼女に」
 ユーリの声が、ひどく遠い。
「ユーリ、お姉様をどうされようと好きになさっていいけれど」
「俺の質問に答えろ、貴様   
 二人の声だけが、意味もなく頭の中で回っている。
 もう、立っていることさえできなかった。
    私の邪魔だけはしないでね。邪魔をすれば、あなたはおしまいっだってこと、忘れないで」
 サランナの声。そして荒々しく扉が閉まる音。
 それがあさとの意識できたことの最後だった。
 ユーリの腕が、崩れる身体を抱きとめる。それを、拒むことさえできなかった。
 
 
 

BACK    NEXT    TOP
Copyright2009- Rui Ishida all rights reserved.