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            「……ルナ?」 
 隣室に呼びかけても、返事はなかった。 
             カヤノに躾けられたルナは、主人より先に寝ることは絶対にない。まだ    機嫌を悪くしているのかもしれない。 
 あさとは溜息をついて、中央の寝台に腰掛けた。 
 あまりに沢山の出来事が一時に起こったせいか、ひどく身体が疲れていた。疲労が足元から頭の先まで蓄積している。 
 眠い、たまらなく眠い。 
 仰向けになって、ぼんやりと天井を見上げた。 
                 なんだか……帰りづらい感じになっちゃったな。 
(お姉様、ねぇ、お願い。明日には帰るなんて、そんなつれないことを仰らないで) 
(どうか、私とユーリ様を取り持ってくださると、お約束して……) 
             が、あれは、本気で言った言葉ではないだろう。 
             サランナが、恋の成就に自分を必要としているとは思えない。妹は……きっと寂しくなったのだ。久しぶりに皇都から来た懐かしい顔ぶれをみて。 
 そんな妹一人を、ナイリュに置いて帰るのは可哀想な気もしたが、さすがに今の状況で皇都に連れ帰るわけにはいかない。 
 それに、サランナも、ユーリの傍を離れることを、今は望んでいないだろう。 
                 とにかく、明日、セルジエに会って……早く安心させてあげなくちゃ。 
 そこまで考えて眼を閉じると、すぅっと闇に引き込まれていくような感覚があった。 
 早く……一日でも早く……皇都に帰らなきゃ……。 
 意識が、そこで、ぶつりと途切れた気がした。 
              
              
  
             寝ていたのは、ほんの    二、三分くらいだろうか。 
 あさとは、不意に眼を覚ました。 
                 え…? 
 部屋の中に、仄白い朝の日差しが差し込んでいる。 
                 朝? まさか。 
 寝台に横になったのは、真夜中近かったはずだ。 
             そんなに寝た感じはしない。目をつむって    すぐに目覚めたような気がするのに。 
                 頭……痛い。 
 起きあがろうとして、身体がひどくだるいのに気がついた。 
 全身に、妙な疲労感が沁みついている。 
 軽い吐き気がして、あさとは再び寝台に身体を沈めた。 
                 風邪かな……布団もかけずに寝ちゃったから。 
             それにしても、不思議な気がした。 
             時間の感覚がなくなるほど、眠りが深かったということなのだろうか。こんな奇妙な感覚は初めてだ。 
 再び起き上がろうとしたあさとは、身体が感じた不快感が、部屋にたちこめる匂いからきていることに気がついた。 
                 なに? この匂い。 
 ナイリュの香だろうか。頭の芯が痛くなるような、重苦しい甘い匂いが、濃密に漂っている。 
 部屋の空気を全て入れ替えたい。このままだと、頭痛がますますひどくなるような気がする。 
「クシュリナ、朝」 
 ノックと共に扉が開き、ルナの声がした。 
 あさとはほっとして、重い身体をようやく起こした。 
            「もうお湯の用意ができてるって。    何、この部屋、すごい匂い」 
 部屋に入ったルナは、顔をしかめて窓を開けはじめる。 
「香の匂いかな。……あまり、私たちには合わないわね」 
「合わないっていうより、気持悪い」 
 まだどこか不機嫌そうだったが、それでもルナの表情は、昨日よりいくらか和らいで見えた。 
「ルナったら、昨日はなんで、あんなに怒ってたのよ」 
 あさとは苦笑してそう言った。 
「だって」 
             ルナは唇を尖らすと、用意してきた着替えを、寝台の上に並べはじめる。 
「ルナ、法王様が好き。……法王様、可哀想だと思った」 
「え…?」 
 子供らしく純真な、まっすぐな瞳が、あさとを見つめた。 
「クシュリナ、法王様のこと、愛してない」 
「え? な、何言ってるの」 
 どういう意味だろう。ルナの責めるような眼差しに、あさとは戸惑って言葉を詰まらせる。 
「あの男の人の方が好き? どうしてはっきり、愛してるって言わないの」 
「………」 
「ルナは、言ってほしかった。あんな言い方、法王様が、可哀想だと思った」 
「ルナ……」 
             ウラディミール邸での、あの温室での会話のことだ。ルナは    どこかに隠れて聞いていたのだ。 
 どう言ったらいいのだろう。 
 あさとは、迷いながら視線を下げた。 
             言葉に出来ないくらい、彼のことが好きなのに。    好きだから、軽々しく口にしたくないだけなのに。 
「とにかく着替えて。ルナ、早く皇都に帰りたい」 
 ルナは、気を取りなおしたようにさばさばと言うと、衣服を手に取って、あさとの背後に回った。 
「ルナ……、私、誰よりも彼のこと、大切に思っているのよ」 
「………」 
「それを口に出して、他人に言いたくなかっただけなの。ルナのこと、傷つけたのなら謝るわ」 
「……なんで、ルナに謝るの」 
 一瞬間を置いて、返ってきた声は震えていた。 
「ルナ……?」 
 ばさっと音がして、衣装が折り重なって床に落ちた。 
 ルナがそれを投げつけたのだと、しばらくあさとは理解することができなかった。 
「謝るなら、法王様に謝って! クシュリナの馬鹿! 大嫌い!」 
            「    ルナ?」 
 激情に頬を染め、激しく肩を震わせた少女は、猛然ときびすを返すと、部屋を飛び出していった。 
                 ルナ……。 
 わけがわからない。それほどまでに、彼女が怒るようなことを言ってしまったのだろうか。 
 しばらく悄然と考えて、あさとは、ようやくひとつの可能性に思い至った。 
                 ルナは……もしかして。 
 本気で、アシュラルのことを、好きになっているのかもしれない。 
             考えてもみなかった。でも、ルナは多感な時期で、アシュラルは    彼ほど見栄えのいい、美しい男は皇都にはいないのだから。 
                 恋をしても……少しも、おかしい相手じゃない。 
 あさとは複雑な思いで、ただ眉を寄せていた。 
              
              
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「君の気持は判るが、やはりクシュリナは、今日にでもウラディミールのところへ返さなければならない」 
 一晩明けて顔を出してくれたユーリは、即座にサランナの<提案>を一蹴した。 
 椅子に腰掛けたままだったあさとは、少しほっとして、ユーリ綺麗な横顔を見上げた。 
「まぁ……ひどいわ、ユーリ様。お姉様はこんなにお疲れのご様子ですのに」 
 サランナは眉をひそめ、悲しそうな顔になった。 
「すぐに皇都への船旅を続けるのは、自殺行為ではなくて? もう少しお休みになっていかれたらよろしいのに」 
            「俺も君と同じ気持だが、これ以上引き止めると、ウラディミールの立場がなくなる」 
 ユーリは、優しい微笑をサランナとクシュリナの相互に向けた。 
「今、皇都の黒竜軍を呼びにいかせた。直に君を迎えに来るだろう」 
「でも、ユーリ様」 
 遮るように口を挟んだサランナは、ちら、と、あさとを見やった。 
「お姉様は、本当にお身体を悪くしていらっしゃるようなの。どうやら風邪でもお召しになられたのではないかしら」 
             ユーリの目が、問うようにあさとら向けられる。 
             あさとは、慌てて首を横に振った。 
「大丈夫よ、ユーリ。まだ船旅の疲れが取れないだけなの。それに慣れない場所で、少し緊張してしまって」 
「いや……確かに少し、顔色が優れないようだ」 
「本当に大丈夫なの。それよりユーリ、私に着いてきた侍女のことだけど」 
 ユーリが歩み寄ってくる。あさとは立ち上がろうとして、それが出来ないことに気がついた。 
「……?」 
「クシュリナ?」 
             身体の芯に、けだるいような痺れがある。 
             歪むように、視界が揺れた。 
「お顔の色が、お悪いわ……」 
「クシュリナ、本当に気分が悪いのか?」 
             二人の声が、どこか遠くで回るように聞こえる。 
                 そんなことより。 
             あさとはユーリに言おうとした。 
             今朝から、ルナの姿が見えないの    ねぇ、探して……。 
               
              
           
            「クシュリナ……」 
 朦朧とする意識の泥沼から、引きずられるように眼が覚めた。 
 滲んだ視界。見下ろす顔は、ユーリのものだった。 
「……ユーリ…」 
 重い頭を動かし、ゆっくりと視線をめぐらす。見慣れない深緑の天蓋。黄みがかったレースの帳。 
「ここ……どこ?」 
「タタルの屋敷だ……。部屋を変えたんだ。君のために」 
            「私のため    ?」 
 ではまだ、それほど時間は経っていないのだ。  
             再会した温室で、ユーリは明日にでもナイリュに帰ると言っていた。なのに、まだこうしてタタルに残っているのだから。 
「私……帰らなきゃ」 
 あさとは呟き、額にかかる髪を払った。 
             また……眠ってしまったのだ。倒れたのかもしれない。頭がひどく痛くて……眩暈のような感じがして    。 
 今、何時頃だろう。どうやら室内は締め切られていて、蝋燭灯りだけが隅々で揺れている。 
 身体を起こそうすると、ユーリの腕が、肩を抱くようにして押し留めた。 
「まだ起きてはだめだ」 
「でも」 
「君は病気なんだ。クシュリナ」 
                 病気? 
             人形のように美しいユーリの眼は、暗い光を宿していた。 
「さぁ……」 
 背に片腕が回され、抱き支えられるようにして、再び寝台に倒される。 
 その所作に、以前のユーリには決してみられなかった不思議な慣れ慣れしさを感じ、あさとは無意識にサランナの姿を探していた。ユーリが何かするとは思えなかったが、ひどく誤解を招く状況には違いない。 
「驚かないで聞いてくれ。落ち着いて、冷静に」 
 立ったままであさとを見下ろし、ユーリは子供に言って聞かせるような口調で続けた。 
「倒れた君を医術師に診せたところ、この地方特有の……重篤の、伝染性の病だということだった。おそらく、乗船中に感染したのではないかと言われたよ」 
                 伝染性の……病気? 
             それが、自分のことを言われているのだと、すぐには理解できなかった。 
「どういうことなの?」 
                 病気? 
 私が? 
「どういうことなの? ユーリ」 
             問う唇が震えている。 
「大丈夫……。処置が早かった。死ぬようなことはない」 
             ユーリは静かな微笑を浮かべる。優しく髪に触れる指。 
             どういうこと? セルジエは? ルナは? 
「伝染病がウラディミール邸から青州全土に広まったら、大変なことになる……。俺の言う意味は、判るだろう?」 
             ユーリの声は優しい。でも、あさとにはそれが、まるで見知らぬ人の声のように聞こえた。 
「感染の恐れがなくなるまで、あと二カ月、君にはここで隔離生活を送ってもらう。セルジエも理解してくれた。……彼らは、さきほど、ウラディミール邸へ帰ったよ」 
                 嘘だ。 
             咄嗟に身体を硬くしていた。セルジエは、恐ろしいほどの忠義心を持つ青年だ。間違っても自分を置いて帰ったりはしない。 
「……俺を、疑っているんだな」 
 あさとの表情から察したのか、ユーリは悲しそうな顔になった。 
「ユーリ様、本当のことを仰られたらどう?」 
             背後で、衣擦れの音がした。サランナだ。あさとは起きあがろうとした。けれど、身体に力が入らない。 
             サランナはゆっくりと、あさとの枕元に顔を寄せた。妹もまた、ひどく曇った眼差しをしている。 
「……お姉様、薫州とウラヌスの同盟軍が、ついに皇都に攻め込んだのよ」 
                 えっ。 
             即座にその意味を理解したあさとは、衝撃で息を詰まるのを感じた。目の前が揺れ、サランナの声も、顔も、一瞬意識から消えている。 
             ユーリが静かな声で後を継いだ。 
「今、皇都は、州境が封鎖され、他州と行き来できない状況にあるらしい。セルジエはその一報を受け、急ぎ皇都に戻ったんだ。……君を、連れて行かせるわけにはいかなかった」  
             その声が、どこか遠くの人のもののように、霞んでいく。 
            「大丈夫だ、すでにナイリュ国軍が応援に向っているのだから。    アシュラルが皇都に戻れば、一気に形成は逆転する。君が案ずることはない」 
                 本当に……? 
「アシュラルは……無事でいるの?」 
            「南陽に変化はないと聞いている。まだ、籠城が続いているのだろう」 
 アシュラル……。 
            「君は病気なんだ。いいね、アシュラルだってそれは判ってくれるさ。今は、病気を治すことだけを第一に考えるんだ」 
                 病気……私が……。 
 髪をなでる優しい手が、そっと離れた。 
「サランナ、クシュリナを頼む」 
「ええ、お任せになって」 
 扉が軋み、ユーリが退室する気配がした。 
                 私が……病気? 本当に……? 
             眼を閉じると瞼が熱い。確かにこのだるさ、疲労感は普通ではない気がした。でも    。 
「ウラディミール様は……?」 
            「この青州も、今、皇都が侵攻された余波で大変なようなの」 
 サランナの冷たい指が、そっとあさとの額に触れた。 
「ユーリ様は、今からすぐにナイリュにお戻りになられるわ。大丈夫、私がここに残ります。お姉様が健康を取り戻しになられるまで、私がお傍についていますから」 
「ルナは……私が連れてきた娘は?」 
「ご安心なさって。ユーリ様が、いいようにしてくださったはずよ」 
「………」 
             運命を呪いたかった。信じられない、こんな    こんなところで、こんな時に。 
                 アシュラル……。 
             私は、あなたに、もう一度会うことができるのだろうか。 
              
              
              
              
              
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