10
「……ルナ?」
隣室に呼びかけても、返事はなかった。
カヤノに躾けられたルナは、主人より先に寝ることは絶対にない。まだ 機嫌を悪くしているのかもしれない。
あさとは溜息をついて、中央の寝台に腰掛けた。
あまりに沢山の出来事が一時に起こったせいか、ひどく身体が疲れていた。疲労が足元から頭の先まで蓄積している。
眠い、たまらなく眠い。
仰向けになって、ぼんやりと天井を見上げた。
なんだか……帰りづらい感じになっちゃったな。
(お姉様、ねぇ、お願い。明日には帰るなんて、そんなつれないことを仰らないで)
(どうか、私とユーリ様を取り持ってくださると、お約束して……)
が、あれは、本気で言った言葉ではないだろう。
サランナが、恋の成就に自分を必要としているとは思えない。妹は……きっと寂しくなったのだ。久しぶりに皇都から来た懐かしい顔ぶれをみて。
そんな妹一人を、ナイリュに置いて帰るのは可哀想な気もしたが、さすがに今の状況で皇都に連れ帰るわけにはいかない。
それに、サランナも、ユーリの傍を離れることを、今は望んでいないだろう。
とにかく、明日、セルジエに会って……早く安心させてあげなくちゃ。
そこまで考えて眼を閉じると、すぅっと闇に引き込まれていくような感覚があった。
早く……一日でも早く……皇都に帰らなきゃ……。
意識が、そこで、ぶつりと途切れた気がした。
寝ていたのは、ほんの 二、三分くらいだろうか。
あさとは、不意に眼を覚ました。
え…?
部屋の中に、仄白い朝の日差しが差し込んでいる。
朝? まさか。
寝台に横になったのは、真夜中近かったはずだ。
そんなに寝た感じはしない。目をつむって すぐに目覚めたような気がするのに。
頭……痛い。
起きあがろうとして、身体がひどくだるいのに気がついた。
全身に、妙な疲労感が沁みついている。
軽い吐き気がして、あさとは再び寝台に身体を沈めた。
風邪かな……布団もかけずに寝ちゃったから。
それにしても、不思議な気がした。
時間の感覚がなくなるほど、眠りが深かったということなのだろうか。こんな奇妙な感覚は初めてだ。
再び起き上がろうとしたあさとは、身体が感じた不快感が、部屋にたちこめる匂いからきていることに気がついた。
なに? この匂い。
ナイリュの香だろうか。頭の芯が痛くなるような、重苦しい甘い匂いが、濃密に漂っている。
部屋の空気を全て入れ替えたい。このままだと、頭痛がますますひどくなるような気がする。
「クシュリナ、朝」
ノックと共に扉が開き、ルナの声がした。
あさとはほっとして、重い身体をようやく起こした。
「もうお湯の用意ができてるって。 何、この部屋、すごい匂い」
部屋に入ったルナは、顔をしかめて窓を開けはじめる。
「香の匂いかな。……あまり、私たちには合わないわね」
「合わないっていうより、気持悪い」
まだどこか不機嫌そうだったが、それでもルナの表情は、昨日よりいくらか和らいで見えた。
「ルナったら、昨日はなんで、あんなに怒ってたのよ」
あさとは苦笑してそう言った。
「だって」
ルナは唇を尖らすと、用意してきた着替えを、寝台の上に並べはじめる。
「ルナ、法王様が好き。……法王様、可哀想だと思った」
「え…?」
子供らしく純真な、まっすぐな瞳が、あさとを見つめた。
「クシュリナ、法王様のこと、愛してない」
「え? な、何言ってるの」
どういう意味だろう。ルナの責めるような眼差しに、あさとは戸惑って言葉を詰まらせる。
「あの男の人の方が好き? どうしてはっきり、愛してるって言わないの」
「………」
「ルナは、言ってほしかった。あんな言い方、法王様が、可哀想だと思った」
「ルナ……」
ウラディミール邸での、あの温室での会話のことだ。ルナは どこかに隠れて聞いていたのだ。
どう言ったらいいのだろう。
あさとは、迷いながら視線を下げた。
言葉に出来ないくらい、彼のことが好きなのに。 好きだから、軽々しく口にしたくないだけなのに。
「とにかく着替えて。ルナ、早く皇都に帰りたい」
ルナは、気を取りなおしたようにさばさばと言うと、衣服を手に取って、あさとの背後に回った。
「ルナ……、私、誰よりも彼のこと、大切に思っているのよ」
「………」
「それを口に出して、他人に言いたくなかっただけなの。ルナのこと、傷つけたのなら謝るわ」
「……なんで、ルナに謝るの」
一瞬間を置いて、返ってきた声は震えていた。
「ルナ……?」
ばさっと音がして、衣装が折り重なって床に落ちた。
ルナがそれを投げつけたのだと、しばらくあさとは理解することができなかった。
「謝るなら、法王様に謝って! クシュリナの馬鹿! 大嫌い!」
「 ルナ?」
激情に頬を染め、激しく肩を震わせた少女は、猛然ときびすを返すと、部屋を飛び出していった。
ルナ……。
わけがわからない。それほどまでに、彼女が怒るようなことを言ってしまったのだろうか。
しばらく悄然と考えて、あさとは、ようやくひとつの可能性に思い至った。
ルナは……もしかして。
本気で、アシュラルのことを、好きになっているのかもしれない。
考えてもみなかった。でも、ルナは多感な時期で、アシュラルは 彼ほど見栄えのいい、美しい男は皇都にはいないのだから。
恋をしても……少しも、おかしい相手じゃない。
あさとは複雑な思いで、ただ眉を寄せていた。
11
「君の気持は判るが、やはりクシュリナは、今日にでもウラディミールのところへ返さなければならない」
一晩明けて顔を出してくれたユーリは、即座にサランナの<提案>を一蹴した。
椅子に腰掛けたままだったあさとは、少しほっとして、ユーリ綺麗な横顔を見上げた。
「まぁ……ひどいわ、ユーリ様。お姉様はこんなにお疲れのご様子ですのに」
サランナは眉をひそめ、悲しそうな顔になった。
「すぐに皇都への船旅を続けるのは、自殺行為ではなくて? もう少しお休みになっていかれたらよろしいのに」
「俺も君と同じ気持だが、これ以上引き止めると、ウラディミールの立場がなくなる」
ユーリは、優しい微笑をサランナとクシュリナの相互に向けた。
「今、皇都の黒竜軍を呼びにいかせた。直に君を迎えに来るだろう」
「でも、ユーリ様」
遮るように口を挟んだサランナは、ちら、と、あさとを見やった。
「お姉様は、本当にお身体を悪くしていらっしゃるようなの。どうやら風邪でもお召しになられたのではないかしら」
ユーリの目が、問うようにあさとら向けられる。
あさとは、慌てて首を横に振った。
「大丈夫よ、ユーリ。まだ船旅の疲れが取れないだけなの。それに慣れない場所で、少し緊張してしまって」
「いや……確かに少し、顔色が優れないようだ」
「本当に大丈夫なの。それよりユーリ、私に着いてきた侍女のことだけど」
ユーリが歩み寄ってくる。あさとは立ち上がろうとして、それが出来ないことに気がついた。
「……?」
「クシュリナ?」
身体の芯に、けだるいような痺れがある。
歪むように、視界が揺れた。
「お顔の色が、お悪いわ……」
「クシュリナ、本当に気分が悪いのか?」
二人の声が、どこか遠くで回るように聞こえる。
そんなことより。
あさとはユーリに言おうとした。
今朝から、ルナの姿が見えないの ねぇ、探して……。
「クシュリナ……」
朦朧とする意識の泥沼から、引きずられるように眼が覚めた。
滲んだ視界。見下ろす顔は、ユーリのものだった。
「……ユーリ…」
重い頭を動かし、ゆっくりと視線をめぐらす。見慣れない深緑の天蓋。黄みがかったレースの帳。
「ここ……どこ?」
「タタルの屋敷だ……。部屋を変えたんだ。君のために」
「私のため ?」
ではまだ、それほど時間は経っていないのだ。
再会した温室で、ユーリは明日にでもナイリュに帰ると言っていた。なのに、まだこうしてタタルに残っているのだから。
「私……帰らなきゃ」
あさとは呟き、額にかかる髪を払った。
また……眠ってしまったのだ。倒れたのかもしれない。頭がひどく痛くて……眩暈のような感じがして 。
今、何時頃だろう。どうやら室内は締め切られていて、蝋燭灯りだけが隅々で揺れている。
身体を起こそうすると、ユーリの腕が、肩を抱くようにして押し留めた。
「まだ起きてはだめだ」
「でも」
「君は病気なんだ。クシュリナ」
病気?
人形のように美しいユーリの眼は、暗い光を宿していた。
「さぁ……」
背に片腕が回され、抱き支えられるようにして、再び寝台に倒される。
その所作に、以前のユーリには決してみられなかった不思議な慣れ慣れしさを感じ、あさとは無意識にサランナの姿を探していた。ユーリが何かするとは思えなかったが、ひどく誤解を招く状況には違いない。
「驚かないで聞いてくれ。落ち着いて、冷静に」
立ったままであさとを見下ろし、ユーリは子供に言って聞かせるような口調で続けた。
「倒れた君を医術師に診せたところ、この地方特有の……重篤の、伝染性の病だということだった。おそらく、乗船中に感染したのではないかと言われたよ」
伝染性の……病気?
それが、自分のことを言われているのだと、すぐには理解できなかった。
「どういうことなの?」
病気?
私が?
「どういうことなの? ユーリ」
問う唇が震えている。
「大丈夫……。処置が早かった。死ぬようなことはない」
ユーリは静かな微笑を浮かべる。優しく髪に触れる指。
どういうこと? セルジエは? ルナは?
「伝染病がウラディミール邸から青州全土に広まったら、大変なことになる……。俺の言う意味は、判るだろう?」
ユーリの声は優しい。でも、あさとにはそれが、まるで見知らぬ人の声のように聞こえた。
「感染の恐れがなくなるまで、あと二カ月、君にはここで隔離生活を送ってもらう。セルジエも理解してくれた。……彼らは、さきほど、ウラディミール邸へ帰ったよ」
嘘だ。
咄嗟に身体を硬くしていた。セルジエは、恐ろしいほどの忠義心を持つ青年だ。間違っても自分を置いて帰ったりはしない。
「……俺を、疑っているんだな」
あさとの表情から察したのか、ユーリは悲しそうな顔になった。
「ユーリ様、本当のことを仰られたらどう?」
背後で、衣擦れの音がした。サランナだ。あさとは起きあがろうとした。けれど、身体に力が入らない。
サランナはゆっくりと、あさとの枕元に顔を寄せた。妹もまた、ひどく曇った眼差しをしている。
「……お姉様、薫州とウラヌスの同盟軍が、ついに皇都に攻め込んだのよ」
えっ。
即座にその意味を理解したあさとは、衝撃で息を詰まるのを感じた。目の前が揺れ、サランナの声も、顔も、一瞬意識から消えている。
ユーリが静かな声で後を継いだ。
「今、皇都は、州境が封鎖され、他州と行き来できない状況にあるらしい。セルジエはその一報を受け、急ぎ皇都に戻ったんだ。……君を、連れて行かせるわけにはいかなかった」
その声が、どこか遠くの人のもののように、霞んでいく。
「大丈夫だ、すでにナイリュ国軍が応援に向っているのだから。 アシュラルが皇都に戻れば、一気に形成は逆転する。君が案ずることはない」
本当に……?
「アシュラルは……無事でいるの?」
「南陽に変化はないと聞いている。まだ、籠城が続いているのだろう」
アシュラル……。
「君は病気なんだ。いいね、アシュラルだってそれは判ってくれるさ。今は、病気を治すことだけを第一に考えるんだ」
病気……私が……。
髪をなでる優しい手が、そっと離れた。
「サランナ、クシュリナを頼む」
「ええ、お任せになって」
扉が軋み、ユーリが退室する気配がした。
私が……病気? 本当に……?
眼を閉じると瞼が熱い。確かにこのだるさ、疲労感は普通ではない気がした。でも 。
「ウラディミール様は……?」
「この青州も、今、皇都が侵攻された余波で大変なようなの」
サランナの冷たい指が、そっとあさとの額に触れた。
「ユーリ様は、今からすぐにナイリュにお戻りになられるわ。大丈夫、私がここに残ります。お姉様が健康を取り戻しになられるまで、私がお傍についていますから」
「ルナは……私が連れてきた娘は?」
「ご安心なさって。ユーリ様が、いいようにしてくださったはずよ」
「………」
運命を呪いたかった。信じられない、こんな こんなところで、こんな時に。
アシュラル……。
私は、あなたに、もう一度会うことができるのだろうか。
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