馬車が目的の場所に着いたとき、もう日差しは夕暮れ色に染まっていた。
     今夜は……泊まりになるかもしれない。
 道中の思わぬ長さに、あさとは不安の眼差しで空を仰いだ。
 奥深い山中。黒欅(くろけやき)が館の周り全体を取り囲んで、天高く枝を広げている。塀は蔦に覆われ、庭木にもどことなく廃墟の香がする。鱗様の屋根を持つ灰色の館は、同じ所有者のものとは思えないほど、雰囲気が暗く沈んで見えた。
 が、門扉を取り巻く天色の甲冑は、紛れもなく青州コンチェラン。各々が胸に抱くエンプレムはウラディミール家の家紋、胡蝶であった。
「皇都から来られたお客様には、別室でお休みいただいている」
 降車を手伝う、ユーリの声は優しかった。
 タタル行きを決めたあさとが、ユーリと共にウラディミール家の用意した馬車に乗り込んだ時から    ユーリは、思いつめていた硬さが取れたかのように、安らいだ優しい表情を見せるようにになっていた。
「セルジエは、きっと怒っているわ」
「君は女皇で、彼はその配下だ。君を怒れるはずがない」
「でも」
「女皇になっても、君はひとつも変わらないね。いつも誰かの顔色ばかり窺っている」
 ユーリの、彼らしい皮肉なものいいに、知らずあさとも苦笑している。
「彼らの職責は、君を守ることだろう? それは俺が保障する。どこの誰にだってわずかも君を傷つけさせるものか」
「信頼してるわ」
 実際、あさとが今、拠り所にしているのはユーリだけだった。ユーリがいなかったら、とてもこんな冒険には踏み出せなかっただろう。
 再会前、あれほどためらっていたのが嘘のように、あさととユーリは元の関係を取り戻していた。馬車の中、ずっとナイリュの珍しい食べ物や舞踊の話をしてくれたユーリは、完全に青州時代の幼馴染の顔に戻っている。
 それでもあさとは、ひとつだけ、ユーリに……謝らなければいけないと思っていた。
「ユーリ」
「ん?」
「前に……ユーリが私にくれた」
 その時、背後からわっと人がどよめく声がした。
 振り返ると、護衛の騎士たちの隊列が乱れている。「こらっ」「子供、どこから紛れ込んだ!」怒声の中、「だから私は、ラウル様の侍女だって言ってるじゃない!」甲高い、どこか幼い声が響いた。
「ルナ??」
 あさとは驚いて、ユーリの手を解くようにして、騒ぎの中に駆けよった。
 信じられない。    皇都から来た者たちには判らないように、そっと抜け出したつもりだったのに。
 白の侍女服をまとったルナは、両方の手をコンチェラン騎士に捕われている。
 救いを求めるようにあさとを見上げた少女は、が、次の瞬間、ぷいっと不機嫌そうに顔を背けた。
     ルナ……?
「とんでもない子供です。馬車の御台の下に、もぐりこんでいたのです」
 騎士の一人が、怒りとも驚きともつかぬ声で訴える。あきれたのはあさとも同じで、あさとは急いで、騎士の手から、ルナの身体を抱きとった。
「ルナ、どうしてそんな、危ない真似をしたの」
 怒った目をしたルナは、それには答えずに、ずっと別の方向を睨み続けている。
「侍女というには、随分幼い子供だね」
 背後で、ユーリの感嘆ともつかぬ声がした。
「いや、そんなことより、驚きだ。この子は、君と、とてもよく似ている……」
「私も、最初はそう思ったけれど」
 あさとは、苦笑してユーリを見上げた。
「ルナのほうが、随分整った目鼻立ちをしているわ。もっと大きくなったら、私なんかよりずっと美人になるんじゃないかしら」
「……そう、もう少し大きくなったら」
 ユーリは、何故かひどく楽しそうに続けた。
「むしろ、今より君に似てくるような気がするよ。もう少し、    この娘が成長したら」
 ルナは、そんなユーリを、まるで憎んででもいるような眼で睨み続けている。
 ルナの剣幕も、ユーリの不思議な感嘆も、あさとには上手く理解できなかった。
「さぁ、行こう。クシュリナ」
 ユーリが、優しくあさとの背を抱いて促した。
「君に、誰よりも会いたいと思っている人が待っている……。夜が更ける前に、対面を済ませてしまおう」
 
 
                
 
 

「お姉様!」
 扉を開けた瞬間、華やかな    喜びを爆発させたような声がした。ユーリの肩ごしに確認するまでもない、それはサランナの声だった。
 駆け寄ってきた妹の姿を見て、あさとは目を瞠っていた。
 健康的な薔薇色の頬、以前よりもますます輝きを増した艶めく美貌、その美貌をより際立たせている    金刺繍を施した贅沢なカヤリヤ色のヘッドドレス。
 一目で、今の妹の幸せを察することができた。
「嬉しい、本当に……本当に来てくださったのね」
 サランナは、感極まったようにそう言うと、いきなりあさとに抱きついて肩に額を押しあてた。
「……ごめんなさい……お姉様、本当にごめんなさい。私、馬鹿だった、本当に馬鹿だったの……!」
 泣きむせんでいるのか、肩が細かに震えている。
「私の手紙、読んでくださったかしら」
 顔をあげた瞳は、涙で柔らかく潤んでいた。あさとが頷くと、妹の双眸に新しい涙が溢れた。
「私、……私は、取り返しのつかない罪を犯してしまったの。……アシュラルが……好きだったから、どうしても彼を手に入れたくて」
 再び顔を伏せ、妹は肩を震わせる。
「サランナ」
 たまらなくなって、あさとは妹の華奢な背を抱いた。    だとしたら、サランナの罪は、やはり私自身の罪でもあるのだ。私と、そしてアシュラルの。
 やがてサランナは、涙を両手でぬぐいながら、泣き笑いのような顔をあげた。
「アシュラルを手に入れるためなら、マリスにだって魂を売ろうと思っていたわ。でも、不思議なの。こうして離れていると、どうして彼にあんなに固執していたのか判らない。彼のどこを好きだったのかさえ、思い出せないの」
 言葉を切ったその瞳に、優しい笑みが広がった。
「今は、お姉様とアシュラルを、お幸せにしてさしあげること    、それだけが、私にできる唯一の罪滅ぼしだと思っているのよ。本当に、心から」
 サランナは、ゆっくりとあさとから身を離すと、傍らに立っているユーリを振り返った。
「ユーリ、お姉様は来てくださったわ。あなたは絶対に無理だと仰っておられたけど、私の言うとおりだったでしょう」
「そうだな」
「さぁ、私との約束を果たしてもらうわ。今、ここで、南陽に軍を送る勅書を書くのよ。私と、お姉様の目の前で」
 ユーリは少し苦い眼で眉をあげると、あっさりと頷いた。
「確かに、俺はそう約束した。援軍を出そう。すぐに勅書をナイリュに届ける」
     えっ。
 あさとは顔を上げていた。
 その視線を受けたユーリは、一瞬間を置くと、かすかに笑う。
「イヌルダとナイリュの同盟は成立だ。すぐに援軍を南陽に送る。    俺自身はアシュラルが嫌いだ。だが、民のために政をしようという、奴の思想には共鳴している」
     本当に……?
 何かを言おうとして、そのまま、あさとは言葉を詰まらせていた。こんなに早く、ユーリが決断してくれるなんて、夢にも思っていなかった。
 私が……その真摯な気持ちを裏切って、傷つけてしまったユーリが。
「ありがとう……」
 うつむいた眼に、涙が滲んだ。全てを失うことを覚悟して、ここまで来た。そして今、全てが報われようとしている。
 サランナもユーリも、何も言わずに黙っている。あさとは涙を拭って顔を上げた。
「ただ   
 溜息をつきながら、ユーリが再び口を開いた。
「君がこんな真似をしたことを、アシュラルは絶対に許さないような気がするよ。これは男のプライドの問題だが、俺だったら多分、耐えられない」
「……覚悟は、しているわ」
 そう、覚悟は決めている。
 ユーリが口にしたことは、無論、考えに考えた。アシュラルの性格、気性    彼は決して、あさとのしたことを快く思わないだろうし、ことによれば、激昂するかもしれない。
 わかっている。けれど、その上で、あさとはユーリと会うことを決断した。
 何故なら    アシュラルが窮地に陥った要因は、間違いなくあさと自身にあるからだ。
 彼は……ジュールの言い方を借りれば、その進退を誤ったのだ。彼の理想、志を貫くためには、当初ジュールが言っていたとおり、サランナを傍に置くべきだった。たとえそれが、毒を含んだ両刃の剣であったとしても。
 さらに、あさと自身が過去に犯した過ち    ユーリとの確執が、今、見えない形でアシュラルを苦しめている。それは、どうあっても自分自身で解決しなければならない問題だった。
 アシュラルを永遠に失うことを考えたら、彼に嫌われることなどなんでもない。
 実際に、これでアシュラルが救われるなら、あさとは、今ここで命を失っても惜しくはないとさえ思っていた。
「とにかく、俺と君がこうして再会したことは、絶対に秘密にすべきだね。俺も……あえて口にするつもりはないよ」
 ユーリはそう言うと、そっとあさとの頬に指で触れた。
 突然だったので驚いたが、拒めなかった。子供だった頃は、互いの頬に手を当てることくらい、何の気なしにやっていたことを思いだし、あさとはその指が頬を抱くのに任せていた。
「……ひどい痩せ方だ……今夜は、この屋敷で休むといい。ナイリュから料理人を連れてきている。最高の食事を用意させよう」
「でも」
「空を見てごらん。今夜は月が出ていない」
 吸い込まれるほど美しい灰色の目が、窓を仰いだ。
「この山道をウラディミールの館まで戻るのは危険だ。皇都の連中だってそれは判っている。明日の朝早く戻れるように手筈をつけよう。君は何も心配しなくていい」
「セルジエは、どこにいるのかしら」
 あさとは救いを求めるように訊いた。
「彼らは、ここから少し離れた別宅で休んでもらっている。わかるだろう。サランナを……彼らの目に触れさせるわけにはいかないんだ」
 寂しげな瞳で見つめられ、それ以上何も言えなくなった。わずかな不審を感じながらも、心の何処かで別の自制が働いている。    ユーリの気持ちを損ねたくないと。
 セルジエは、無理な取引には応じるなと念を押したし、自分もそのつもりだった。
 でも   
 仮に無理を強いられたとしても、今の自分に、抗することなどできるのだろうか。アシュラルの命が懸かっているかもしれない、この土壇場で。
「大丈夫、明日の朝には、ウラディミールの元へ送り届けるよ。今夜は、この館で、サランナの話相手になってやってくれないか」
 ユーリの声は優しかった。
 
 
                   
 
 
 その日の夕食は、サランナと二人だけで取ることになった。
 ずっと機嫌を悪くしていたルナは、他の侍女たちと食事を取ると言って、あさとの傍を離れていった。
 料理は素晴らしく、全てに贅が尽くされていたが、長い船旅の間にすっかり食が細くなってしまったあさとには、濃い味付けや匂いのきつい香辛料は、ただ辛いばかりだった。サランナにあれこれ勧められても、自然、飲物ばかりに手が行っている。
 食事がすすまない理由はもう一つあった。
 ルナが、ひどく冷たい眼をしているのだ。サランナやユーリと交わした会話を、隣室にいたルナが聞いているのは知っていた。が、何が気に触ったのか、それ以来ぎゅっと唇を噛みしめたまま、あさとと、眼を合わせようともしてくれない。
「お姉様、聞いてらっしゃるの?」
「え、ええ」
「それでね、その時のユーリ様ったら、おかしいの」
 あさとは、顔を上げて微笑した。
 気がかりはつきない。それでも、こうしてサランナと語り合えるのは楽しかった。
 別々に育てられた少女時代の思い出、別れてから今日までの日々の話は、たとえそれが表面だけの内容であっても、尽きることなく、互いの口から溢れ出る。
 サランナは、あのような深刻な手紙をくれたのが嘘のように、楽しい    互いにとって屈託のない話題しか話そうとしなかった。そこにはアシュラルもアデラも、二人にとっての父であるハシェミの名前も出てこない。
 あの、どろどろとした    忌わしい金羽宮での日々は、あたかも彼女の記憶には一切残っていないかのようだ。
 それでもあさとは、核心を訊かなければならないと思っていた。
「サランナ……あなたに、教えてもらいたいことがあるの」
「まぁ、なにかしら」
 サランナは、大きな瞳をあどけなく瞬かせてあさとに向きなおる。
 実際、こうして切り出してみると、聞きたいことは無数にあった。いや、判らないことだらけだと言ってもよかった。
 アシュラルの言い分、サランナの言い分、あさとにはまだ、何が真実なのかよく判らない。ふと漠然とした不安が這い上がる。私は    本当はまだ    この妹のことを、何も知ってはいないのではないだろうか。
「なんなの、お姉様、気になるわ。もったいぶらないで仰って」
 くすくすと笑いながら、サランナが促す。あさとは一息ついて、妹を見つめた。
「手紙に書いてあったことだけど、アシュラルの秘密って、なんのことなの……?」
 それまで、気にはなりながらも漠然と流していたことが    サランナの手紙で、今さらのように、胸に蘇りはじめている。
    私は知っているぞ、そうだ、ハシェミ様が漏らされた、お前は)
 戴冠式の日、捕縛の間際にわめいたダンロビンの言葉。
    サランナ様は、あまりにも沢山の秘密をご存知であられる)
 ジュールの言葉……。
 あさとはそれを、アシュラルの出自か、彼自身の身体の弱さを指しているのではないかと思っていた。でも、そうではなかったのかもしれない。
 終末の予言に関わること    コンスタンティノ大僧正様とお父様、そしてディアス様であれば、ご存じの話   
「お姉様……」
 サランナは張り詰めていた糸を切らしたように笑い、そっと唇を手で覆った。
「ごめんなさい、笑ったりして。でも、お姉様? 私がそれを知っていたら、いくらアシュラルでも私を見逃したりはなさらなかったわ」
 それには、さすがに気持が波立つのを押さえられなかった。サランナは驚いたように表情を改める。
「悪い意味で言っているのではなくてよ。それがアシュラルの立場では当たり前の反応だわ。あの人は私たちとは違うのよ。    大げさでなく、ひとつの世界の行末を担っているのだから」
 そして慰めるような眼差しであさとを見上げた。
「予言の解釈は、様々あると聞いているわ。その中におそらく、アシュラルが予言の獅子ではないという解釈もあるのではないかしら。それでも、ディアス様がアシュラルを選んだのだから、お姉様が心配なさる必要は何もないのよ」
「そうね……ありがとう、サランナ」
 気を取り直して微笑しながら、こうしてサランナに励まされる自分の立場に、不思議な悲しさを感じていた。
 アシュラルの妻は私なのに    私が、誰よりも彼を理解しなければならないのに、彼に拒絶された妹のほうが、より彼を理解しているような気がするのは、考えすぎなのだろうか。
 もうひとつ、妹に確かめたいことがあった。が、言葉を探している間に、サランナが屈託のない笑顔で口を開いた。
「ねぇ、お姉様。アシュラルが、二年も前からイヌルダにお戻りになっていたのは、前に、お話したわよね」
「……ええ」
 なんの話だろう。妹のほうからアシュラルの名前を出されると、無意識に緊張している自分がいる。
「彼ね。今だから言うけれど、バートル隊に紛れて、時々、金羽宮に忍んでいらしたのよ」
「………」
「今思い出しても、ドキドキするわ。気づくとあの隊服の中にアシュラルがいて、何気なく回廊や庭園を横切って行くの。ねぇ、想像しただけで素敵じゃない? お姉様はまるでお気づきになっておられなかったようだけど」
 その時、サランナと深い関係になったのだろうか。
 あさとは、複雑な思いでうつむいた。自分の知らないアシュラルの過去を……知りたいのに、知りたくない。知るのが怖い自分がいる。
    お前は、俺が足に触れるのを嫌う)
 そう言った、あの朝の彼の気持ちが、いまさらのように胸に響く。
     私も……嫉妬してるんだ。……アシュラル、あなたの過去に。
「アシュラルは、お姉様を見ていらしたのよ」
 けれど、サランナが口にしたのは、意外な言葉だった。
「私には判ったわ。……いいえ、最初から判っていたの。口では結婚を嫌がる素振りをしておられたけど、あの人は、随分以前から、お姉様のことを気にかけていらしたもの」
「私、を?」
 戸惑いながら、あさとは呟く。サランナは、どこか寂しげに頷いた。
「金羽宮で、ご成長されたお姉様をご覧になって、ますます心を動かされたのではないのかしら。ああいう気性の方だから、ご自分のそのような気持を、なかなかお認めになれないようだったけれど」
     そんな……。
「そんなこと、……ないと思うけど」
 口ごもりながら、あさとは再びうつむいている。
 確かに、考えて見れば不思議だった。アシュラルは    一体いつから、私のことを、好きでいてくれたんだろう。
 ジュールも、言ってくれた。私が子供の頃から、彼にとっては特別だったと。でも、だったら    あの冷たすぎる態度はなんだったのだろう。
 それに、アシュラルには……。
 ダーラと恋愛していた期間が、確かにあるのだ。
 それも……多分、ごく最近。
     何故……?
 あさとは急に判らなくなった。
 アシュラルは冷たかった。残酷なまでに冷たかった。なのに今は、それと同じくらいの激しさで、私のことを好きでいてくれる。    何故だろう。
 サランナの手紙の一文、<お姉様の大切な人の子を宿しているダーラ>。あの大切な人(・・・・)とは、いったい誰を指した言葉だったのか。
 妹はどこまで真実を知っているのだろう    。ふと恐ろしい疑念に囚われたが、やはり口にすることはできなかった。
 聞きたいのに、それもまた、聞いてしまえば取り返しのつかなくなるような怖さを感じている。
「……お姉様、……お姉様が忌獣に襲われた夜ことを、覚えていらっしゃるかしら」
 囁くようなサランナの声が、あさとの思考を遮った。
「白蘭宮でユーリ様と蒙真の刺客に襲われた時のこと……、その時に忌獣が現れたのでしょう?」
 うなずくこともできず、あさとはただ、返事に窮して妹を見つめる。
 あの事件は、極秘裏に伏せられたはずだった。サランナが、どうして知っているのだろうという疑念が、胸にうずまく。
「彼、    アシュラル、あの日ひどい怪我を負ったの。そして私のオルドに運び込まれたのよ。誤解なさらないでね。私のオルドには蛇薬があったから……。もうお姉様もご存知なんでしょう? 彼が、何のために蛇薬を欲していたか」
「………」
 カナリーオルドに向けて疾走していった黒馬車。
 それを、暗い目で見送ったラッセル。
 あれは……そういう意味だったんだ……。
 全てが今、腑に落ちたような気がした。
 あの日、あさとを庇ったアシュラルの背中には、生涯消えない傷跡が刻まれた。
 残酷な、けれど甘美な思い出は、今のささやかな告白で、わずかな影を帯びた気がする。
 知らずにすむことなら、知りたくはなかった。あの夜、彼の傷を癒したのは、サランナなのだ。   
 が、サランナの本題はそこではないようだった。妹は、どこか含んだ眼差しで、じっとあさとを見つめ、微笑した。
「あの夜の彼、平静な風でいて、どこか不機嫌そうだったの。それで……後で知ったのだけど」
 言葉を切り、意味ありげに見上げる妹の眼差し。
     なんだろう。
 ふいに不安がこみあげる。
「あの夜……お姉様とラッセルが抱き合っていたところを、彼、見ていたらしいの」
 あっ……。
 一瞬、心臓が凍りつくかと思っていた。
 そうだ。
 あの夜、    私は何年振りかに発作を起こして、それで。……
 あまりにも久しぶりに、彼の温もりを感じたから、恋をしていることを隠そうともせず、……想いのままに見つめてしまった。
 あの時、まだ<瀬名あさと>は覚醒してはいなかった。それでも切ない抱擁の記憶は、<私>自身のものとしてなお生々しく息づいている。
「きっとラッセルに嫉妬していたのね。……アシュラルらしいと思ったわ。独占欲の強い、子供みたいなところがあるから、あの人って」
 もう、サランナの声も耳に入らない。アシュラルのひとつひとつの言葉を、態度を、あさとは思い返していた。
     アシュラルが、昔から私を見ていたなんて、そんなの、考えたこともなかったけれど……。
 あの夜、恋する眼差しをラッセルに向けていたあさとを見て、彼は何を思ったのだろう。何を感じたのだろう。
     私もまた、アシュラルからしてみればおかしな感情の変化を見せている。私が彼を判らないように、彼も    私が判らないのかもしれない。
 本音を言えば、あさとも、自分自身の感情の変化がわからない、掴めない。
 アシュラルを求め、ラッセルに恋し、そして琥珀が忘れられない。
 もしかすると、「あさと」と「クシュリナ」、ふたつの人格がひとつの身体で交じり合っているせいかもしれない。でも    仮にそうだとしても、こんな感情が許されるはずはない。同時に複数の男性に心惹かれるなんて、それが本当なら、自分は間違いなく最低の女なのだ。……
「お姉様、……私ね、本当はユーリ様の、夫人でもなんでもないのだけど……」
 サランナが、頬をかすかに赤らめながら言った。
「最近、彼のことばかり考えているの。彼のこと、本気で好きになってしまったのかもしれない」
 あさとは、少し驚いて妹の顔を見つめた。
 蝋燭明かりに潤んだ瞳が、きらきらと輝いている。
「馬鹿ね、私。彼には奥様がいるのに……それでも、彼の傍にいたいの、本当に、彼の夫人の一人になってもいいと思うくらい」
「サランナ」
 あまりに妹らしくない言葉に、あさとは驚いたまま、言葉を詰まらせている。
「お姉様、ねぇ、お願い。明日には帰るなんて、そんなつれないことを仰らないで」
 サランナは手を合わせ、懇願するような眼差しであさとを見つめた。
「どうか、私とユーリ様を取り持ってくださると、お約束して……」
 
 
 
 

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