対面については何の進展もないまま、ウラディミール邸での暮らしも三日目を向かえようとしていた。
 あさとは二日ほど床に伏せていたが、その朝は旅に出て初めて気分爽快で、ようやく船酔いも取れたのか、食事の進み具合も、同席したセルジエが驚くほどに回復した。
「近日中には、ミシェル様をお迎えすることができるでしょう」
 セルジエも安堵したのか、朝食の席で、初めてそんなことを打ち明けてくれた。
「この館が、いかに優れた備えを有しているか、私にもよく判りました。これならば、三鷹家をお迎えしても、陛下の安全を確保することが叶いましょう」
「青州の貴族は、昔から皆、用心深いのよ」
 それは、青州という土地柄と、    かつて頻繁に民衆の反乱、強盗が相次いだことから来ている。忌獣が頻繁に出ることでも知られ、あさとがシュバイツァ城    青州公の居城に滞在していた頃でも、夜に外出する者は殆どいなかった。
 今は、忌獣の害がうんと減ったと聞いているが、それでも夜間絶えることのない篝火や門扉の護衛の厳重さは、その当時の名残なのだろう。
「ミシェル様は私と違って、ナイリュの国政を統治されているのよ。……一日も早く、ナイリュにお帰りになりたいと思っておられるはずだわ」
 セルジエがなお慎重に対面の時を図っていると知り、あさとは、控え目に訴えた。
 きっとユーリは苛々しているはずだ。こちらから呼び出したようなものなのに、もう三日も足止めを食らわせているのだから。
 それには、答えないセルジエだったが、その日の午後になって、ようやくあさとが泊まっている部屋にやってきた。彼は    正装姿だった。
「これから、中嶌カイルらと共に、タタルの三鷹様の元へ参ります」
 では、セルジエは、黒竜隊にユーリが来ていることを打ち明けたのだ……。あさとは、わずかに不快な気持になったが、セルジエの立場を考えると、それは最もな判断だった。
「三鷹様のご様子次第では、明日にでも、ご対面の運びとなりましょう。長らくお待たせして、大変申し訳ございませんでした」
「いい知らせを待っているわ」
 黒竜隊を引き連れて向かうセルジエを、果たしてユーリはどう思うだろう。
 互いの立場が以前と違っていることは承知している。それでもあさとは、傷つきやすいユーリの心中を思い、内心穏やかでないものを感じていた。
 ウラディミールにお願いして、私一人を、密かにタタルまで連れて行ってもらえないだろうか……。
 そんな馬鹿なことを思い、慌てて首を振る。
「クシュリナ、みてみて」
 その時、白い花を胸一杯に抱えたルナが飛び込んできた。
「お庭の水仙、今が盛りなんだって。気分がいいなら庭に出てみようよ」
「そうね、でも」
 セルジエから、必要がなければ、極力部屋から出ないようにと言われている。
「ウラディミールの奥様が、クシュリナを案内したいんだって。ねぇねぇ行こうよ。セルジエだって、この屋敷の中なら、自由にしていいって言ってたもん」
 いつになく執拗にせがまれ、結局あさとは、ルナに連れられるままに美しい造作が施されたウラディミール邸の庭に出た。
 夫人を始め、侯爵家の女官や侍女たちがたちまちあさとを取り囲み、結局皆で、広い庭園を散歩することになった。
 金羽宮顔負けの見事な造作が施された庭園は、一日で歩ききれる広さではない。
 やがて疲れたあさとは、温室のテーブルで休憩を取った。
「こちらでお茶にいたしましょう。すぐに用意させますからね」
 美しい白髪の老婦人は、まさにウラディミールの伴侶にぴったりという気品溢れる風情の持ち主だった。
 開け放たれた天窓から、初夏の風が涼やかに舞い込んでくる。
 あさとは、首に浮いた汗を拭って立ち上がった。
 ルナが途中から見えなくなったのは気づいていたが、ふと気付くと、広い温室の中、一人きりで取り残されている。
 かさり、と背後で足音がした。
「ルナ……?」
 何気なく振り返ったあさとは、白百合を背に立つ男性の姿を見て、眼を見開いた。
「クシュリナ……」
 懐かしい声がした。
 それでもまだ、あさとには信じられなかった。
 ユーリが、そこに立っていた。
 
 
               
 
 
 白い堅襟のシャツ、滑らかなシルクのクラバット。襟幅の広い細身の膝丈コートとチェニック。上着は漆黒のビロウドで、それは、ユーリの煌く銀の髪によく映えていた。
 月の雫のような銀髪は、短く切られ、額の片側を覆っている。女性のように優しい灰色の目。弧を描く美しい眉。
 再会した幼馴染を見つめたまま、あさとは、しばらく動くことができなかった。
 何をどう口にしたらいいのか、頭の中が混乱して、言葉が何も出てこない。
「クシュリナ」
 けれどユーリは、すぐに表情を明るくさせた。
 躊躇なくあさとの傍に駆け寄ると、たまりかねたように両手をとって握り締める。
「驚いた、本当に君なんだな、本当にここまで来てくれたんだな?」
 情愛をこめた暖かな笑顔は、一瞬感じた戸惑いをあっという間に押し流してくれた。
「ユーリ……」
 あさとは、双眸を潤ませた。
「夢でも見ているような気持ちだよ。お互い生きていて、こうしてまた再会できるなんて」
     ユーリ……。
 私は、何を悪い風に想像していたのだろう。ユーリはユーリだった。昔と、何一つ変わってはいなかったのだ……。
「会いたかった、どれだけこの日を夢見ていたか君に判るか? ウラディミールに聞いても、まだ半信半疑だった。元気だったのか? 病気なんてしてないだろうな」
 変わらない声、少し皮肉めいた優しい眼差し。懐かしさで胸がいっぱいになる。
 その感情はユーリもまた同じなのか、綺麗な双眸がわずかに潤みを帯びている。
「一瞬、君ではない人かと思ったよ。こんなに痩せてしまって……。辛い旅だったんだな、……本当にすまなかった」
 苦しそうに眼を伏せ、ユーリはあさとの肩をそっと抱いた。
「皇都の連中が俺のことを信じられないのと同様に、俺もまた、君の連れてきた連中を信じることができなかった……。ウラディミール夫人には無理を頼んだ。どうか許してやってほしい」
「ううん、私も……早くユーリに会いたかったから」
 微笑したユーリの、長い睫が揺れている。以前より艶を増した頬は、肌質なのか透き通るほどに白い。一年を経て、彼の美貌はますます冴えきっていた。が、前と違うのは、そこに病的な匂いが感じられないことだ。
 あさとは、ユーリが今、少なくとも青州に居た頃よりずっと健康的に過ごしているのだと察した。
「ユーリは……少し太ったね」
 以前より頬のあたりがふっくらとしている。前の痩せ方が病的だったから、今がむしろ普通なのだろう。あさとは笑みを浮かべて、美貌の王の顔を見上げた。
「それって、幸せにやってるってこと?」
「クシュリナ……」
 男の眼の奥で、一瞬、さざ波のような感情が揺れた気がした。けれど、彼はすぐに笑みを浮かべ、あさとから手を離した。
「ああ、今までの人生の中で、一番幸せだと思っているよ」
 ベンチに腰掛け、おどけたような仕草で肩をすくめる。
「君も知っているだろう? 結婚したし、妻には子供が出来た。信じられるか? この俺が人の親だ」
「ユーリの子供なら、びっくりするほど綺麗な子が生まれるだろうね」
「今度、妻を紹介しよう。レイアと言って、それこそびっくりするほど綺麗なお嬢様だ。優しくて、思いやりがある。……俺にはもったいないような人だよ」
「おめでとう、ユーリ」
 改めて向き直り、あさとはそう言うと、ユーリを見上げた。
「クシュリナ……」
「本当に……よかったね」
「………」
「自分のことみたいに嬉しい……。勝手なことを言うようだけど、ユーリには、絶対に幸せになって欲しかったから」
 ユーリは無言のまま、あさとの手をそっと握った。
 零れる涙を、空いた片方の手で、あさとは拭った。
 心から、彼の今の幸福が嬉しかった。辛い子供時代を過ごしたユーリだからこそ    誰よりも幸せな、温かな家庭を築いて欲しい。
 ユーリはしばらく無言だった。うつむいた双眸にわずかな影がよぎったような気がしたが、あさとにその意味までは判らなかった。
「クシュリナ」
 やがて顔を上げたユーリの目は、以前と変わらず優しかったが、どこか思い詰めた風でもあった。
    僕らは同盟のために互いの誤解を解きにきた。でもその前に、ひとつ……正直に答えてくれないか」
「なぁに?」
 核心に触れる予感を覚え、あさとは微笑がわずかに強張るのを感じている。
「君は、アシュラルといて、本当に幸せなのか?」
「………」
 あさとは、自分を見下ろす幼馴染の、整いすぎた相貌を見つめた。胸が重苦しくざわめいたが、今こそ正直に、言わなければならないと思っていた。
「……私、あなたを待っていると……言ったわ」
「俺は、……後悔している」
 ユーリの眉間に、初めて苦悩にも似た皺が刻まれる。
「ユーリ、聞いて」
「あの時、無理にでも、君を俺のものにしておけばよかった。……連れて行くべきだった」
「ユーリ……」
「もう、時は戻らないんだな。……何も言わないでくれ、すべて知っている。君は、俺ではなく、あの男を選んだんだ」
 うつむいてしまった横顔、眉根がかすかに震えている。
 あさとは泣きたい気持ちになった。
「これでよかったのよ。あなたには私じゃなくて、レイア様という方が待っていたんじゃないの」
 膝に置かれたユーリの手に、そっと自分の手を重ねる。
「全ては結果だけれど、こうなることが私たちの運命だったのかもしれないわ。もう、時が戻らないなら    私たちは、今の生活を大切にしないといけないのではなくて?」
「……全ては、結果か」
 ユーリが低く呟いた。
 あさとはふと眉をひそめた。うつむいたままのユーリの微笑が、哀しいというよりは、ひどく陰惨に感じられたからだ。
「もう一度、答えてくれ。君にこんなことを聞くのは、これで本当に最後だから」
「…………」
「君は    アシュラルを愛しているんだな」
 まるで、念を押すような口調だった。
 あさとはすぐに口を開こうとして、その刹那、不思議な躊躇いを感じていた。
     愛している……?
 言葉に出すのは簡単で、気持ちを確かめるまでもない。でも。
 まだその言葉を、あさとは、アシュラルに伝えてもいない。
 なのに、最初に愛を口にするのが    こんな所で、そして、他の男の前であってはいけないのではないか……。
「……彼と結婚したことは、間違いではなかったと思っているわ」
 言葉を選んでそう言った。
 ユーリの眉が、微かに歪んだような気がした。
「いつか、あの人とユーリが、判り合ってくれれば、本当に素敵なことだと思うわ」
「…………」
 沈黙が怖かった。あさとは、何か、ユーリを怒らせるようなことを言ったのではないかと思い、言葉を探しながら顔を上げている。
 が、同じように顔をあげたユーリは、全ての憂いが晴れたような、はればれとした微笑を浮かべていた。
「クシュリナ、俺もそれを望んでいる。皇都とナイリュが真実信じあえる時が来れば、なによりだと思っている」
「ユーリ」
 立ち上がったユーリは、しかし、どこか残念そうな眼差しで、あさとを見下ろした。
「……そのためにも、もう少し君と話す時間が欲しかった。が、俺は明日、夜明けと共にナイリュに戻らねばならない。蒙真の連中との戦いがまだ続いている。これ以上国を空けるわけにはいかないんだ」
 そんな……。
「ただ、同盟のことは俺を信じてくれ。君の期待を裏切ったりはしない。重臣を説得する手間はあるだろうが、援軍を出せるよう、できるだけの努力はしてみる」
 ユーリの口からきっぱりと約束され、あさとは、安堵と嬉しさで、再び目が潤みだすのを感じていた。
「ユーリ、私……なんて、お礼を言っていいのか」
「クシュリナ」
 ユーリは、肩を震わせるあさとを見下ろしていたが、やがて、そっとその前に膝をついた。
「君に、頼みがある」
「頼み……?」
 涙を拭って、あさとは顔をあげた。彼の望みなら    それが、自分にできることなら、全てを叶えてあげたかった。
「今夜しか、もう俺に時間は残されていない。……難しいだろうが、どうにかして、タタルの屋敷まで来てもらえないだろうか」
「えっ」
 それは   
 難しい、というより不可能に近い。あさとの周辺は、いつもセルジエら黒竜隊が取り囲むようにして見張っているのだ。
「君の味方である皇都の騎士たちは、タタルの屋敷に足止めしておく。帰りは彼らと帰ればいい。ウラディミールは俺が説得する。どうしても……どうしても、君に会わせたい人がいるんだ」
 会わせたい人……?
 訝しく眉を寄せたあさとは、次の瞬間、ある予感を覚えてユーリの顔を見上げている。
「君が無理だというなら、無理強いはしない。援軍という卑怯な餌で君を困らせるつもりじゃないんだ。……そうじゃない。その人と君が会うには、今夜しかないし、この機を逃すと、生涯会えないかもしれないからだ」
「それは、もしかして」
 あさとの目の色を読んだのか、ユーリは、わずかに表情を翳らせて頷いた。
「サランナは、今、俺の第二夫人としてナイリュにいる」
「…………」
「誤解しないでくれ。彼女を俺の夫人にしたのは、匿うための口実だ」
 ユーリの目は、真剣だった。
「君も知っていると思うが、彼女は金羽宮で、窮地に陥った俺を皇都から逃がしてくれた。彼女にしてみれば気まぐれだったのかもしれないが、俺にとっては、命を救ってくれた恩人なんだ」
 サランナは……。
 グレシャム公を殺した首謀者だと、そのような言葉をアシュラルは確かに言っていた。
 何が真実なのか、あさとにはまだ判らない。が、手紙に書いてあったとおり、少なくともユーリにとって、それは真実ではないようだった。
「ナイリュに流れ着いてきた時、サランナはぼろぼろで……心も身体も、ひどく傷ついていた。皇都で彼女がお訪ね者になっているのは知っていたが、俺は、彼女を捨てておくことができなかった。……あまりにも、憐れすぎて」
 ユーリは言葉を切って、睫を伏せる。
     サランナ……。
 あさともまた、胸がいっぱいになるのを感じていた。
 信じられない、あのサランナが。   
 そう思う反面で、恋も立場も、全てを失って逃げるしかなかったわずか十七歳の妹が、もう可哀想でたまらなくなっている。しかも、そんな風に妹を追いこんでしまったのは、他ならない自分とアシュラルなのだ。
「サランナは……今、タタルにいるのね」
 会えるものなら、すぐにでも会いにいきたい。それはルシエから託された手紙を読んだ時から、ずっと思っていたことだった。
 互いに許されるものなら、言葉を尽くして許し合いたい。あさとにとってもサランナにとっても、たった一人きりの妹であり、姉なのだから。
 ユーリは、暗い表情に、わずかな笑みを浮かべて立ち上がった。
「……皇都でのことを、サランナはひどく後悔していて、君にどうしても会って謝りたいと言っている。わずかでもいい、その機会を作ってもらえないだろうか」
 
  
 
 
 

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