第三章  再会
 
 
 
 
 
                 
 
 
 

 揺れる船の甲板で、果てしない波の蠕動を見つめながら    あさとは、羽帽子を深く被りなおした。
 むせかえるような潮の香り。
 眩暈がして、わずかによろめいた身体を手すりで支える。
    ラウル侯爵」
 少し離れた背後から声がかけられる。
 あさとは振り返り、気遣わしげな視線を向けている青年に、微笑を返した。
「もう、ご気分はよろしいのですか」
 切りそろえた肩までの髪が初々しい。十八歳にしてはどこか童顔の青年は、ゆっくりとこちらに歩み寄って来た。その手には、銀色の小さな杯が恭しく捧げられている。
「先ほど、乗組員にもらってきました。船酔いにとてもよく効くそうです」
 差し出された杯には、爽やかな果実の香りが溢れていた。
「……ありがとう、セルジエ」
 あさとは、杯を受け取ったものの、口につける気にもなれなかった。ひどい船酔いのせいで、もう二日も水さえ飲めない状態が続いている。
 セルジエは、生真面目そうな瞳に、あからさまな不安を浮かべた。
「何か、お口になさいませんとお身体が持ちません。まだ青州まではしばらくございますから……」
 気遣わしい言い方が、ラッセルにどこか似ている。
 あさとは苦笑し、吐き気をこらえて、杯の縁に唇をつけた。
 あさとと同い年のセルジエは、もとはカタリナ修道院でディアスに仕えていたが、アシュラルの要請で文官として金羽宮にあがった。
 ジュールの出立後に文官からフラウオルド付の第一騎士となり、今は、イヌルダの侯爵、<葵ラウル>の従者として、あさとの傍につき従っている。
 アシュラルとジュールの信頼が厚いこの青年は、シュミラクールのあらゆる言語に通じ、経済、政治、歴史、全てを熟知した秀才らしい。
 いわば、将来イヌルダを背負って立つ存在    ゆえに、あさとは、この旅にセルジエを巻き込んでしまったことだけが心残りだった。
「美味しい」
 あさとは無理に微笑を浮かべ、空になった杯をセルジエに返した。本当は口にしたもの全てを、嘔吐してしまいそうだった。
 皇都の港を出てから、すでに十日近くがたっている。
 青州へ向かう帆掛船。戦時下のためか、乗り合わせているのは、貿易商人や、青州に戻る旅の者ばかりである。
 あえて民間の船を選んで出立したのは、こたびの青州行きについて、他国にわずかな不審も与えないためであった。
「ラウル様、ご気分は、よろしいので」
 背後を通り過ぎる乗組員の一人が、そう言って声をかけてくれる。
 あさとは、微かに笑んで、それに答えた。
 ラウル侯爵。それが、この船内での、あさとの通り名だった。
 皇都の貴族で、夫を亡くした未亡人    不吉な仮姿ではあるが、実在の女侯爵の名を借りたもので、身分の証も、女皇が発行する旅券証も、全て本物が揃えられている。
 従者はセルジエ、黒竜(ドゴン)騎士隊部隊長の中嶌(なかじま)カイル。他にも、葵家の侍従として十数人の男女がついているが、その正体は、全て屈強な黒竜騎士であった。
 が、一人、あさとの心を和ませてくれる存在がいる。
「クシュリナ!」
 駆けて来る小さな足音。――その持ち主である日向ルナ。
 ルナは、甲板に並び立つあさととセルジエを見上げ、あっと小さく叫んで口を閉じた。
「ルナ、呼び方には気をつけなさい」
 あさとは囁くような声で叱責した。
 
 
                   
 
 
 この商船で、あさとは正体を隠し、<ラウル侯爵>として通している。
 長い髪はかたく結って背中に垂らし、羽帽子で深く顔を覆い、万が一、クシュリナの顔を知る者がいることを考慮して、極力、外へは出ないようにしている。
 イヌルダの女皇が、青州行きの商船に乗っていることを    その無謀な計画を知っているのは、皇室内でも、ごくごく一部の人間に限られていた。
 結局、貴族院の許可は下りなかった。いや、下りる前にあさと自身が、結論を避け、三笠ジョーニアスら賛成派を説得し、隠密に皇都を出ることに決めたのだった。
「ジョーニアスは、よく折れてくれたと思うわ……」
 波間を見つめながら、あさとは呟いていた。
 無謀すぎると最後まで反対しながら、結局ジョーニアスは、条件付きであさとの申し出を了解してくれた。
 葵家の身分を借り受け、中嶌カイルら黒竜隊を編成し、あさとの身柄を病気療養中だという理由をつけて、最初にアシュラルと結婚する予定だったクイーンズベリの別荘に移し    その上で、ひそかに皇都を出る算段を取り付けてくれたのだ。
「ジョーニアス様は、ディアス様が後継者にとまでお考えになった優れたお方ゆえ」
 セルジエが、微笑しながらあさとの着ているクロークの襟を直した。
「あの方もまた、予言の闇を切り開こうという、強い志を抱いていらっしゃいます。苦渋のご決断だったとは思いますが、今、アシュラル様がお亡くなりになれば、全ての希望が消えうせてしまうのですから」
「………」
 セルジエの言葉に、あさとは黙って、唇を噛んだ。
 ジョーニアスが出した条件とは、二つである。
 三鷹ミシェルとの会談の場を青州とすること。
 鷹宮家の仲立を持って双方の対面の場を整えること。
 それはあさとが考えても妥当で的確な条件であり、これであれば、仮に三鷹家に邪心があったとしても、あさとの身の安全だけは保障されるはずだった。
 青州鷹宮家へは、貴族院の代表であるラウル侯爵が、ナイリュとの和議のために赴くとだけ伝えてある。女皇自らが青州へ向かうと知れれば    万が一それが、ナイリュか薫州公の耳に入れば、道中、どんな危険があさとを見舞うか判らないからだ。
 今も、あさとの身辺は、黒竜軍の中でも精鋭中の精鋭である屈強な騎士たちが囲むようにして護っている。
 航路を選んだのは、いつ出るか判らない忌獣や、ヴェルツの残党ひしめく陸路を避けるためであったが、そうでなくとも、青州までは穏やかな海域続きで、頻繁に商船が行き来している最も安全なルートだった。
「ジョーニアス様は、……お命を賭けて、ご決断されたのだと思うわ」
 あさとは、辛い気持のまま、呟いた。
 あらゆる事態を想定しての、万全の策を取ったつもりではある。    が、それでも危険であることは間違いない。
 なにより恐ろしいのは    それは、あさと自身も覚悟していることではあるが、この決断を、それがたとえどのような結果を産もうとも、決して、アシュラルが喜ばないということだ。
 むしろ彼は、烈火のごとく怒るだろう。夫の気性が判っているだけに、あさとは貴族院を巻き込むのを避け、自らの判断という形で、皇都を出ることに決めたのだ。
「セルジエ……あなたまで来ることはなかったのよ。むしろあなたには、皇都に残って、私の代わりを務めて欲しかったのに」
「それは、ジョーニアス様がなんとでもなさるでしょう」
 セルジエは控え目な微笑を浮かべて、視線を下げた。
「それよりは、陛下のご正体を隠し抜くことのほうが重要でございます。ジョーニアス様も仰っておられましたように、今、皇都に陛下がおられないことが他国に知れれば……」
    他国や諸侯が、アシュラル様ご不在の隙をついて皇都に攻めてこないのは、ひとえに、陛下の存在があるからなのです。)
 その時のジョーニアスの言葉は、まだあさとの耳にも残っている。
    ヴェルツ公爵亡き後、皇室は法王庁との結託を強めてきました。アシュラル様が薫州灰狼軍に破れること、それは法王庁のみならず、皇室の敗北をも意味します。そうなれば、ウラヌスはむろん、沈黙を守っているタイランド、ナイリュなどは、……イヌルダに、一気に押し入ってきてもおかしくはないのです。)
    決してお忘れにならないでください。それを、見えない力で押しとどめているのが、女皇という神格化された存在なのです。陛下のご存在そのものなのです。……ゆえにアシュラル様も、再々皇都を空けることができるのです。)
     私は、今、とても大それたことをしているんだわ……。
 あさとも、自覚せざるを得なかった。
 ジョーニアスが、この決断を下すにあたって、自らの進退を賭けているのは明らかだ。彼だけではない、同行すると強行に主張したセルジエもまた、最初から命を賭けている。
 どこか険しい目をしていたセルジエの表情が、ふと緩んだ。
「あのような幼いものまで、陛下を御守りしたいと申しているのですから」
 あさとも、彼の視線の先を追っている。
「私がルナに負けるわけにはまいりません。いえ……命に代えても、陛下とルナを御守りいたします」
 ルナは、若い船乗りたちと、背びれを覗かせる魚群を見てはしゃいでいた。
 あさとと違って船酔いとは無縁の少女は、この旅で、すっかり船員たちの人気者になっている。
 あさとも、思わず微笑している。
 むろん、ルナの青州行きを認めるわけにはいかなかった。あさとは最後まで許可を出さなかったが、ルナは「じゃあ、ルナは薫州に行く。法王様に会って、クシュリナが皇都を出たって言いつけてやるんだから!」と、目に涙を滲ませて言い募った。
 ルナの思わぬ行動力を知っているあさとは、これこそ苦渋の決断で、ルナを旅に同行させることに決めたのだった。
 
 
                 
 
 
「それにしても、随分お痩せになられた……」
 セルジエはあさとの横顔に目をやり、再度険しく眉根を寄せた。
「ひどい顔になっているんでしょうね」
 あさとも苦笑した。最近は鏡を見ていないが、想像は容易にできる。
 船酔いのせいなのだ。あさとにとっては    これは瀬名あさととしてもだが、生まれて初めての長期に渡る船旅だった。乗船してからほぼ一週間、毎日のように嘔吐が続き、今でも酔うような眩暈と吐き気が残っている。
「でも、そのせいで、何処から見てもクシュリナ様とは思えないでしょう?」
 あさとは、わざと楽しそうに言った。
 触るだけで判る。頬はこけ、顎のラインが刺々しく突き出している。肩も腕も痩せてしまって、女性らしい丸みが削げ落ちてしまっている。
「少し波が荒れていましたから……初めてのご乗船であられるのなら、無理もございませんが」
 セルジエは溜息をついた。「法王様が戻られたら、驚かれるかもしれませんね」
「………」
「それまでには、ご健康を取り戻し、もとの御身体に戻っておられなければ」
 あさとは黙って波間を見つめた。
 アシュラルが、戻ってきてくれるのなら。
 驚かれようが、嫌われようが構わない。彼が    もう一度、戻ってきてくれるのなら。
     アシュラル……。
 彼の唇も、素肌のぬくもりも、痛いほどに記憶している。たった二夜、夫婦として過ごしただけなのに、喋り方の癖から笑い方まで……全部、思い出せる。
 私、馬鹿だ   
 あさとは、うつむいて唇を噛みしめた。
 アシュラルはアシュラルでしかない。小田切直人    あの、冷めた目を持つ、悲しい過去にとらわれた男ではない。
 いや、彼がアシュラルの中に存在しているとしても、少なくとも今のアシュラルは、あさとのよく知っているアシュラルでしかあり得ない。
 仮に小田切が覚醒したとしても、それを今憂うのは馬鹿げている。そうなったら、また、新たな段階に入っていくだけなのだ。この世界で    私と、そして小田切直人の、新しい関係を築けばいいだけなのだ。
 あさとは眼をすがめた。
 私は、いつも後悔ばかりしている。ラッセルの時も、アシュラルの時も……。
 肝心の言葉を、伝えられないままでいる。
     私……まだ、あなたに何も言ってない。
 好きだって、    本当に大好きだって……言葉では足りないくらい好きだって……言ってない。
 あさとの回想を遮るように、不意に駆け寄ってきたルナが、手を取って元気に振りまわした。
「ルナ、海が大好き! 大きくなったら、船乗りになるんだ」
「まぁ」
「そしたらクシュリナを、青州でも薫州でも、行きたいところに連れて行ってあげる」
「こらっ、ルナ」
 即座にセルジエが叱責する。ルナはべーっと舌を出して、再び船員たちの所に駆けて行った。
 あさとは微笑んで、ルナの背中を見送った。
 随分、背も伸びて、優しい体つきになっている。今……十三か、四になるくらいだろう。
 普段はお首にも出さないが、随分辛い目にあってきた少女である。早く恋をして、素敵な相手を見つけて欲しい。
 風は冷たかったが、雲ひとつ無い晴天だった。海原の果てに、うっすらと島影が見え始めている。
「……ナイリュです」
 セルジエが低く呟き、緊張した面持ちで空を見つめた。
「くれぐれも念を押すようですが、三鷹ミシェル様以外の方の前では、決してご正体をお明かしになりませんよう。そして、絶対に無理な取引に応じてはなりません」
 セルジエが何を心配しているか、あさとにもよく判っていた。三鷹ミシェルはかつて、    同盟の条件として、イヌルダの姫との結婚を申し出ていたからだ。
「……イヌルダの皇室を汚してまで、ナイリュの手を借りようとは思いません」
 セルジエは力強く言い切った。意思の強さが、彼のまっすぐな瞳に現れている。
「心配しなくても大丈夫よ、セルジエ」
 あさともまた、きっぱりと言った。
「アシュラルを失望させるような真似だけは、絶対にしないと誓うわ」
     それに、……ユーリは、卑怯な振る舞いが出来る人ではない。
 三笠宮ジョーニアスを説得する時、そんな確かな自信があさとにはあった。
 別れの夜。あの切羽つまった状況で、ユーリは    その気になれば、たやすく<クシュリナ>を奪うことができたのに、そうはしなかった。
 それ以前にも機会はあった。今でもあの夜の出来事には様々な不可解な疑問が残るのだが、白蘭オルドで、二人が忌獣に襲われた夜のことである。
 二人で金羽宮を抜け出そう    冗談のように言っていたユーリは、あの夜、やはりその気になれば、クシュリナを自分のものにできていたはずだった。
 が、彼はそうしない代わりに、まるで自身を戒めるように、クシュリナを外に誘ったのだ。
 ユーリの悲しいくらいの優しさを、あさとはよく知っている。
 そんな優しいユーリが、しかも、結婚して子供まで出来たというユーリが、馬鹿げた真似をするはずがない。
 ただ   
 あさとはふと眉をひそめる。
「風が冷たい、そろそろ船室に戻りましょう」
 うながしてくれるセルジエから、不自然に眼をそらしていた。
 あさとには、ひとつだけ、このセルジエにも    三笠宮ジョーニアスにも、黙していることがある。
 それは、サランナのことだった。
 ナイリュにサランナがいることを、あさとは、セルジエにもジョーニアスにも、他の誰にも言ってはいない。
 騙すようで心苦しくはあったが、ユーリの周辺にサランナの影があると知れれば、ナイリュ行きは間違いなく反対されていただろう。
 サランナが犯した罪が……もし、アシュラルの言った言葉が本当なら……その恐ろしさは、あさとの想像の域を超えている。何のためにそんな恐ろしい真似をしたのか、できるなら、妹自身の口から聞いてみたい。
 ただ    それでもあさとは、サランナを信じたいと思っていた。
 あの晩聞いた悲鳴を、信じたいと思っていた。
 あさとを促しながら、セルジエが、思いつめた口調で言った。
「……閣下に何かあれば、私はいつでも、一命を投げ出す覚悟です」
「だめよ、セルジエ、そんなことになれば、私がアシュラルに叱られる」
 あさとは真面目な顔で言った。
 そう、決してアシュラルは許さないだろう。私のせいで、セルジエに万が一のことでもあれば。
「何があったとしても、私は絶対に死なないから、……あの人のためにも、そして」
 自分を信じて、この国の行く末を託してくれた    ジュール、ラッセル、ダーラのためにも。
 
 
                   4
 
 
 青州の港カラムに着くと、すぐに鷹宮家の騎士たちが、迎えのためにやってきた。
 青州鷹宮家の紋章である、白水仙を刻んだ(あま)色の甲冑。その美しい軍の通称をコンチェランと言う。
 夕霧が濃かった。忙しなく港を行き来する商人たちにまじり、あさとの一行は、二重、三重の輪に護られ、迎えの馬車が待つ場所へと案内された。
「ルナ、ここがあまり好きじゃない」
 傍らのルナが、どこか不安そうに呟いた。
「暗くて冷たくて、なんだか怖い」
「そうね……」
 青州は、あさとにとっては初めての場所ではない。が、港の様子も人の顔も、以前とはどこか違ってしまったように思えた。
 たとえて言うなら、あさとがいた頃はいかにも田舎街、田舎の港といった長閑な雰囲気だったものが、いきなり近代化されたような    そんな感じだ。
 戦時下だからかもしれない。ナイリュとは二日もあれば着く距離にあり、隣り合う甲州には、ヴェルツの残党がひしめいている。武装したコンチェラン騎士たちの雰囲気からも、いつにないものものしさが感じられる。
「ラウル侯爵様でございますね」
 馬車の行列の前、出迎えに現れたのは、豊かな白髪を持つ、鶴のように優雅に痩せた紳士だった。
「鷹宮家宰相、千住(せんじゅ)ウラディミールでございます」
 目を細めた老紳士は、恭しく頭を下げた。
「ダーシー様ご不在の折、おそれながら私が青州公を代理いたしまして、こたびの命を任される仕儀となりました」
 顔を上げたウラディミールは、あさとにだけに視線を向け、親しみを込めた微笑をそっと見せてくれた。
 懐かしさがこみあげてくるのを、あさとは感じた。
 ウラディミールとは、むろん顔なじみである。あさとが青州に預けられた時、その世話役だったのがウラディミール侯爵であり、誠実な人柄はよく知っていた。
 ダーシー擁立派だったゆえに、グレシャムが青州公となった後、一時は不遇が伝えられたが、今は宰相としてダーシーに重宝されているのだろう。
「ご一行様にはご不自由をおかけすることと存じますが、今宵はどうか、我が屋敷にておくつろぎくださいませ。粗末ながらも精一杯のもてなしをご用意させていただきました」
 慇懃な態度でにこやかに促され、それまで何処か警戒していた皇都黒竜軍も、幾分か緊張を解いたようだった。
「三鷹様は、いつごろお着きに?」
 馬車に乗り込む直前、この一行の警護責任者でもある中嶌カイルが、声をひそめて確認した。
「近日中には」
 目を細めたウラディミールは、唇に温厚な微笑を刻んで答える。
「すでに内諾を得ております。三鷹ミシェル様におかれましては、陛下との対面のため、近々この青州においでになられるでしょう」
 では、全てが予定どおり進んでいるのだ。    あさとは航海の間中囚われていた不安から、わずかに解放された気分だった。
 が、セルジエと共にあさとが馬車に乗り込むと、ウラディミールも同乗し、はじめて、老宰相は顔から慇懃な笑みを消して振り返った。
「陛下、実は、三鷹ミシェル様におかれましては、昨日より青州入りしてございます」
「えっ」
「それは、真でございますか」
 息を引いたあさとの隣で、セルジエが鋭く口を挟んだ。
 ウラディミールは、深く頷く。
「私が使者を送りましたところ、御返事に代えて、ミシェル様本人が……陛下と同じく身分を偽り、青州においでになったのです。それもまた、ナイリュにおいてはごくわずかな重臣しか知らぬこと。鷹宮家では、私しか存じ上げないことでございます」
「……それは」
 判断に窮したのか、セルジエが唸る。
 動揺を感じたのは、あさともまた同じだった。
「ミシェル様は、すぐにでも陛下に謁見したいと……今夜にでもお会いになりたいと申されております」
 ウラディミールも、不測の事態を憂慮しているのか、難しい目をしている。
「ナイリュは未だ蒙真との内乱が収まらず、ミシェル様は多くの暗殺者に狙われております。青州に長く留まることを望まれてはおりません。    いかがいたしましょう」
「ユーリは、どこにいるの?」
 あさとは、堪らずに口を挟んでいた。気持が大きく揺れている。ユーリが今、自分と同じ思いでいることに、嬉しいような苦しいような焦燥を感じている。
 一刻も早く会いたかった。会えば、もつれていた何もかもが、解けて溶けていくような気がする。
「タタルの、私の別宅に」
「すぐに行きます。今夜が無理なら、明日にでも」
「なりません」
 即座に遮ったのはセルジエだった。
「面会の場は、陛下のお泊まりになられる屋敷でなければなりません。こちらの用意が整い次第、ミシェル様をお呼びになっていただきます。ご正体を周囲に漏らさぬ代わりに、ミシェル様お一人でおいでになられることを希望します」
「無茶なことを言わないで」
 今度はあさとが遮っている。仮にも一国の王たる人を一人で行動させるわけにはいかない。そんな不利な条件を、三鷹家が飲むはずがない。
「ミシェル様は、それでもお出でになられるでしょう」
 が、ウラディミールは、どこか憐れむような口調で言った。
「私がご拝見するに、ミシェル様は……いえ、ユーリ様のご気性は青州にいたご幼少の頃のまま。お慕いしている陛下に危害を加えるとは到底思えませぬ。……むしろ、今の御身分をお捨てになられてでも、こたびの会見に挑もうとなさるひたむきなお気持ちをお察しいたしました」
 この老紳士は、ユーリを幼い頃から知っているのだ。
 彼の横顔に、ユーリへ憐憫と深い愛情を汲み取ったあさとは、何も言えなくなっていた。ウラディミールが使者に立ったからこそ、ユーリは自ら危険を冒してまで、単身、青州に赴いたのかもしれない。
「ダーシー様も、現在、薫州にて窮地に立たれております。……私とて、一刻も早くイヌルダの内戦を終わらせたいのが偽らざる本心。そのためにも、こたびの会談を必ずや成功させなければなりません」
 どこか悲壮な決意を漂わせ、ウラディミールは馬車を降りた。
 
 
 ウラディミールが去った後、動き出した馬車に揺られながら、セルジエはじっと沈思したままだった。
 隣に座る青年の胸の裡が、あさとには手にとるようだった。
 この旅の    いわば、全権を担うセルジエとしては、ナイリュの使者と事前にやりとりを交わし、万全の安全のもとに、今回の対面を実現させたかったに違いない。彼にとっては初対面であるウラディミールに、何もかも預けてしまう不安もあるのだろう。
「……セルジエ、ウラディミールはとても信頼できる方よ。私のこともユーリのことも、昔からよく知っておられるの」
「昔から、よくご存知であるということが」
 視線を下げたまま、セルジエは控え目に呟いた。
「逆に、真贋を定める目を狂わせてしまうこともございます。なれど、ここまでくれば、三鷹様のお立場も考慮せねばなりますまい」
 言葉を切ったセルジエは、苦い目で顔をあげた。「相手方の出方に不審があれば、すぐに帰国いたします。判断は私に任せていただけますね?」
「……わかったわ」
 ユーリが……今、青州に来ている……。
 緩やかに流れていく街並みを横目で見ながら、あさとは不安と期待を同時に噛みしめていた。
 ユーリは、今、どんな気持でいるのだろう。
 それまで信じきっていたユーリへの疑念が、再会の時が近づくにつれ、いまさらにように胸をざわつかせている。
     私は、ついて行くと、彼に言った。
     そして彼は、必ず迎えに来ると言った。私を……アシュラルから奪い返すと。
 なのに、「三鷹ミシェル」としての彼の求婚に、あさとは応じることができなかった。妊娠などという見え透いた嘘をついたアシュラルを、彼は内心どう思ったろうか。
 いまだ女皇に妊娠の兆しすらないことくらい、当然ナイリュでも承知しているはずだ。
 が、ここまで来た以上、もう、後戻りはできない。
 ユーリと、元の信頼関係を取り戻すまでは。
     自分が犯した過ちと、対峙するまでは。
 
 
  
 
 
 

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