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「何が、見えますか」
「泣いている……女の人……」
「その人は誰だか判る?」
「母です……俺の母。時折、俺を振り返って……そして、また、泣いています」
「あなたは誰?」
「ミーシャ……そう呼ばれています」
「ユーリではなくて?」
「……いや、違う。……ミーシャとしか、呼ばれていない」
「あなたは、タカミヤユーリではない?」
「いえ、僕です。それは……僕の幼名というか、愛称のようなものなのだと思います」
「そう。じゃ、話を続けましょう。ミーシャ、あなたは今、何をしているの」
「……多分……、母に手を引かれて、歩いています。雨……冷たい……すごく寒い……風の音がします。……真っ暗な、夜です」
「何歳くらいか判る?」
「三歳……四歳かな? それくらいだと思うけど」
「どんな服を着ている?」
「頭から……黒いフードみたいなものを……すっぽり被っています。まるで、人目を……そう、人目を避けているみたいに」
「それはどうして?」
「……わかりません……どこかへ……行こうとしているのかもしれない」
「どこへ?」
「……逃げて、いるんだと思います。多分、もう直捕まるでしょう。……母は小さな赤ん坊を抱えているんです。ああ、やっぱり、捕まってしまった」
「誰が、あなたたちを追っていたの?」
「わかりません……でも、敵ではないような気がします。僕一人が母から引き離されて 多分、追ってきたのは、父なんだと思います」
「お父様?」
「……母は父を嫌っていたんです。……母は美しい人だけれど、父は……獣のような男だった。でも、その日は……母は僕を護るために、父から逃げようとしたんです」
「どういう意味?」
「父が僕を……恐ろしいところに、連れて行こうとしたから……」
「それは、何処だか、あなたに判る?」
「判りません、ただ、恐ろしいところだとしか」
「では、少しだけ時間を進めてみましょう。 あなたは今、どこにいる?」
「…………暗い……」
「暗い場所?」
「心臓……石……」
「なに? それは、どういう意味?」
「わからない、僕には何も判らない。………僕のことを指差して……みんなが、口ぐちに何か言っている……僕には……その言葉の意味が、わからない」
「そこはどこ? あなたのよく知っている場所?」
「知らない 判らない、怖い、……怖い、怖い、怖い!」
「永瀬君、落ち着いて」
「わっ、……あ、っ……あ……」
「先生、これは……」
「大丈夫、……しばらく様子を見てみましょう」
「落ち着いた……? あなたは今、どこにいる?」
「暗い……場所です……小さな穴から、月だけが見えている」
「それは、さっきと同じ場所?」
「違います……一人だから。そう、思い出した……ここは、僕の部屋なんです」
「部屋?」
「……そうです、……母から引き離された僕は、ずっと……ずっとこの部屋で育てられた。暗い地下……月だけしか見えない……暗くて……とても寂しい場所」
「……そこには、君一人しかいないの?」
「いいえ、僕の世話をしてくれる男の人がいます。……背が高くて、碧い目、母と同じ亜麻色の髪……優しくて、僕に、色んなことを教えてくれた」
「どういう、人?」
「フレグ、と僕は呼んでいます。もともとは、母の……召使いみたいなことをしていた人です。母のことをよく知っている……だから、色んなことを、僕に話してくれました」
「どんなこと?」
「母は……高貴な身分を持つ人で、父よりはずっとずっと優れた血を持っていることや、今に母の味方が沢山やってきて僕を助けてくれるから、それまで何があっても辛抱しなければならないことや……そんなことを、繰り返し教えてくれました」
「お母様とお父様は、人種……身分が違っておられたということ?」
「そう……なのかな、わからない。父はこの国の王で、一番偉い人です。母は、もともと父より偉い血筋だったけれど、今はそうではないと……そんな意味だったと思います」
「それは、革命か何かがおきて、お母様の家に代わって、お父様が国を支配するようになったということ」
「多分……そういう意味だったと思います」
「フレグは、他に何を君に教えてくれた?」
「妹のことです。僕の妹……産まれた時は嬉しかった。母のおなかにいる時から、僕はずっと楽しみでなりませんでした。でも、地下に閉じ込められてからは一度も逢えなかったから……ずっと、フレグに妹の様子を聞いていました」
「名前はなんていうの?」
「エミル……母と同じ亜麻色の髪……でも、目は父と同じで夜みたいに黒くて、肌色も少しばかり違っています。……。母はすごく喜んでいた。僕も嬉しかった」
「君は、お父様とは、どこか似ているところがあった?」
「……わかりません……ないんだと思います」
「……だから君は、地下に閉じ込められていたのかな」
「…………」
「判らない? 思い出せない?」
「僕の、髪が」
「 髪?」
「フレグが教えてくれた。……僕の髪は銀で、眼は……青い灰色なんです。……それは、とても……僕の国にとって、とても恐ろしくて……忌わしいものの、証……」
「……だからあなたは、一人きりで閉じ込められていた?」
「そうです……そうだと思います。でもそれは、僕のせいではないのだと、フレグは繰り返し教えてくれました」
「そういう特徴の人が、あなたの家族にほかにはいた?」
「……母の祖父と同じなのだと……でも、僕は、その人を知りません」
「それも、フレグが?」
「フレグは、言いました。その証は、忌わしいものでもなんでもない、むしろ、素晴らしい……選ばれたものの証なのだと。だから、時がくるまで、じっと耐えなければならないと」
「時……?」
「わかりません……意味は、……まるで判らなかった」
「ほかに、証のことで、誰かに何か言われたことは?」
「………一度だけ……父が地下に来たことがあります。父は僕を見て、恐ろしい目で、こう言いました」
「なんて?」
「ヴァバ・ゴムル」
「……え? ババ、ゴムル?」
「魔獣を動かす、穢れたもの……お前を、生きてここから出すわけにはいかないと」
「少し、時間を進めるけど、いい?」
「はい」
「君が地下にいたのは、結局何歳までだったの?」
「……十の年まで……そのくらいだったと思います」
「どうやって、地下を?」
「……よく、判りません。僕は袋に詰められて……なにがなんだか判らない間に、地上に出ていた。母が、そこで待っていたんです」
「まって、それはどういうこと? あなたは地下から拉致されたということ?」
「拉致……? いえ、それは違います。フレグが、母と諮って僕を逃がしてくれたんです。何があったか判らないけど、僕には、危険が迫っていた。……」
「……危険って?」
「わからない……僕には、誰も教えてくれなかった」
「それで、あなたとお母様は、どこに逃げたの?」
「………どこに……? いえ、無理でした。すぐに追手に捕まって……、母は、僕一人だけでも逃がそうとしてくれた。フレグに僕を頼むと言って……最後に」
「最後に?」
「最後に、……ペンダントをもらいました。今は僕の……ものだからって」
「今は?」
「意味はよく判りませんでした。 銀の鎖で、赤い、血みたいに赤い石がぶらさがっています。僕が持つと、火がついたみたいに光って、それが僕を……護ってくれる光だと、母は言いました」
「……それで?」
「僕とフレグは、二人で港に向かいました。……その時にフレグは、言った。僕が地下に閉じ込められていた理由は、僕が持つ証のせいだけではないのだと。僕を……殺すように仕向けたのは……」
「仕向けたのは?」
「……ごめんなさい、思い出せない」
「…………」
「ど、してこんなに悲しいのか……わ、からない…………」
「フレグは……死んだのね?」
「……………」
「それで、あなたはどうしたの?」
「……………」
「永瀬君、落ち着いて、……大丈夫なのよ、それはあなたの過去でもなんでもないんだから」
「……………」
「泣かないで、本当にそれは、あなたとはなんの関係もない人の話なのよ」
「………それから、僕は……」
「……それから? それからどうしたの? 永瀬君」
「…………」
「どうした、気分でも悪いのか」
「風間さんは黙ってて、 どうしたの、永瀬君、何を思い出したの?」
「……言いたくない……とても、おぞましい……こんな……」
「言いたくなければ、何も言わなくていいのよ」
「……港で……死にかけていたところを、助けられた……」
「……誰に」
「……船乗り……沢山いた……」
「それから、どうなったの?」
「……僕は……逃げようと思った。あんな目にあって、 逃げなければ、……頭がおかしくなると思った」
「……永瀬君、それは」
「僕は……逃げて。……奴らが、追って来た……。……嵐の夜だった。一人で……懸命に船が停まっている所まで……逃げようとして」
「……永瀬君?」
「………ああっ、あっ、嘘だ、嫌だ、あー……っ……っ」
「永瀬君!?」
「せ、先生」
「止めます、風間さん、彼を押さえて!」
3
「大丈夫ですか、永瀬君は」
そう言った風間の表情は、ひどく強張っていた。
「ええ」
志津子は後ろ手に扉を閉めた。
締め切った部屋の中では、まだ、永瀬海斗が、ぼんやりと座ったままになっている。少しの間、一人にしておいた方がいい。志津子はそう思っていた。
「……なんだか……胸が詰まるような話でしたね。何があったのかは、想像するしかないですが」
うつむいたまま、風間が呟く。
「彼は最後……いったい、何を見たんでしょうか」
志津子は何も言えなかった。
全身を痙攣させ、意識を失いかけるほどの恐怖……。
門倉雅にも、似たような症状があらわれたが、その時とは根本的に何かが違う。もっと、凄まじい、人間が見せる根源的な恐怖の様。
「永瀬君も、ひどくショックを受けているようでしたね。退行催眠の間……泣きじゃくる彼を見て、僕は正直驚きました。あれが本当に、ただ、他人の思念を受けているだけだと言えるんでしょうか」
「風間さん」
「僕にはまるで、 本人が過去を語っているようにしか思えなかった」 「………」
志津子は黙って、閉じていたカーテンを開けた。
少なくとも、もう退行催眠はやめるべきだと思っていた。
これ以上続けたら、永瀬の人格が壊れてしまう。夢の記憶自体がトラウマになって、重大な精神疾患を起こしかねない。
外には薄く夕闇が降りている。
あれは……夢の記憶だ。
志津子は自分に言い聞かせた。彼個人の前世などではない。そんな そんなはずはない。
気を取り直すように、風間が口を開く。
「時期が早すぎたのかもしれませんね。ミーシャがユーリだとして……、彼がクシュリナ姫と出逢うのは、もっと先の話になるのでしょうか」
「……そうですね」
どこか虚ろな気持ちで、志津子は頷いた。
風間の言うとおり、今回の催眠療法は、全く関係ない部分に終始してしまった。
もう少し年齢を進めてみれば……が、今の永瀬にそれは、危険すぎるような気がした。
それこそ、どんな過去が出てきて、どんな影響を永瀬に及ぼすか判らない。
「いずれにせよ、今回は、私の失敗でした。……性急にすぎたのかもしれません。安易に夢の記憶を引きだすのではなく、もう少し、慎重に考えて対処すべきだったんです」
カーテンを握りしめ、志津子は、言葉を途切れさせた。
雅ちゃんで懲りていたはずだったのに……、催眠療法には……。
あの時、引き出された前世の記憶。あれが……門倉雅の異常を助長させた可能性だってあったというのに。
そうだ、やはり私は焦っていたのだ。一刻も早くあさとの様子が知りたくて……ただ……焦っていた。 そう、精神科医ではなく、母親として。
医師としては最悪だ。だとしたら、私は、永瀬にどう詫びたのいいのだろうか。
「先生」
その時、背後で、比較的はっきりとした声がした。
志津子は驚いて振り返っている。
「すんません、迷惑かけて。でも、もう大丈夫です」
永瀬海斗は、来た時とさほど変わらない表情のまま、扉の前に立っていた。
片手を頭にあて、照れくささを隠すような眼をしている。
「だ、大丈夫なのか、君は」
風間が慌てて駆け寄ろうとする。永瀬は苦笑して、片手をかざした。
「ホント、平気です。てか、眼覚めた時に誰かが傍にいてくれるって、結構嬉しいもんですね」
髪をかきあげ、永瀬は気丈さをアピールするような笑顔を見せる。が、さすがに疲れたのか、倒れこむようにソファに腰を下ろした。
志津子はすぐに台所に行き、グラスと缶ジュースを持って戻る。
礼を言ってグラスを受け取った後、永瀬はかすかな溜息をもらした。
「……怖かったけど……色々思い出せたこともあって、……」
すがめられた綺麗な目は、夢で体験した世界を睨んでいるようにも見える。
グラスの中身を一気に空けると、青年は何かを振り切るように口を開いた。
「さっきの夢は、ユーリがグレシャムに拾われる直前のものなんです。この後、ミーシャは港でグレシャムに出会い、そして、彼に連れられて青州に渡ります」
「じゃ、ユーリとは、グレシャムがつけた名前なの?」
志津子もまた、慎重に質問を返している。
「そうですね……そうなのだと思います。名前には何か意味があったようですが、僕はそれを知りません」
「グレシャムとは……あなたの保護者で、……夢の中で、死んだ人ね?」
それにはわずかに黙り、永瀬は唇を結んだままで頷いた。
「……青州で、一番偉い人の息子でした。彼はユーリの身分を承知の上で、ユーリを匿い、密かに育ててくれたんです。彼にも色々な……政治的な思惑があったのかもしれませんが……それは、僕には判りません」
「ユーリは、それから一度も、産まれた国には戻らなかった?」
「いえ……戻ったんだと……思います。それは、前も話しました。すごく、大きくなってから」
「その時、お父様とお母様は?」
「……死んでいたと思います、……多分」
それは、永瀬自身にとっても辛い思い出だったのか、端正な眉が、わずかに翳る。
「ひとつ、僕のほうから聞いてもいいかな」
風間が初めて口を開いた。
「君が、催眠の途中で口走った言葉だが……魔獣を動かす、けがれた者とはどういう意味か、判るかい」
「父が、ユーリに言った言葉ですね。判りません……いや、判りたくないと、ユーリが必死になって否定しているのが、僕には感じられました」
「君が……その、最後に見たものは」
「………わかりません……、ただ、恐ろしいということしか」
さすがに永瀬は、物憂げに眉を寄せた。
「……ユーリは、その部分の記憶を、意識して封印しているのかもしれません。何もかも曖昧で、ところどころ散らばる感情の欠片が掴めただけだった。僕にも、あの前後何が起きたのか、 本当のところ、意味がよく判らないんです」
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