13
 
 
 東京の夜空も曇天だった。
 あと数日で新年度だというのに、今にも白いものがちらつきそうなほど空気は冷えて、吐く息を凍らせている。
 列車を降りて視線を巡らすと、すぐにその人は見つかった。
 際立って背が高いから、どんな人ごみの中でもよく目立つ。
 黒いジャケットに、オーバーシャツとジーンズ。
 背を壁に預けたまま、腕を緩く組んでいる。少しうつむいていた視線が、ふと上がった。
 端整で、綺麗な眼差しが、まっすぐに見つめている。
 あさとは駆け出した。駆け寄って、    少し、間を置いて立ち止まった。
 まだ、信じられない。
 まだ    少し、怖い。
「……雅に会った?」
 琥珀は少し、優しい目になる。
 頷くと、琥珀は黙り、わずかな距離を置いたまま、二人は無言で足元の空間を見つめた。
 今までずっと置き続けて来た距離、それを突然取り払うことに、あさとも、そして目の前の人も、戸惑っているような気がする。
「どっか、行く?」
 琥珀が不意に顔を上げて言った。
 あさとは少し驚いて彼を見つめる。
 琥珀は    自分の言った言葉に困惑したように、腕を上げて、時計に視線を落とした。
「……ああ、すごい時間だな。ごめん、家の人が心配するよな」   
「う、ううん」
「またにしよう、……送るよ」
 あさとは琥珀の腕を、そのコートの袖の端を掴んだ。
「……い、行きたい、かな」
 ぱぁっと自分の顔が熱くなるのが判った。
「今日は、……その、友だちの家に泊まるって言ってあるから」
「……………」
 一瞬、驚いたように上がった琥珀の眉が、次の瞬間均衡を崩したように笑ったので、あさとは少し驚いていた。
「え、な、なんで笑うの?」
「いや…………結局俺か、と思って」
「……?」
「どっか、泊まる?」
 あさとは、自分の言った言葉の意味に気がついて、たちまち耳まで赤くなる。
「あ、ちが……、そういう意味じゃなくて、あの、……ちょっとくらいなら、遅くなっても心配されないって意味だから、本当に!」
「もう十分遅いと思うけどな」
 肩をすくめた琥珀の声は楽しそうだった。
 ぽん、と頭を叩かれる。
「帰ろう、送るよ、こんな時間にどこにも行けない」
「あの……」
 確かに誤解なんだけど   あさとは、掴んだ琥珀の袖を離せなかった。
「……あの、まだ、大丈夫だから」
「…………」
「琥珀と……もう少し、一緒にいたい……」
 顔が上げられなかった。そのまま、彼に腕を振りほどかれるのではないかと思った。
 けれどそうしなかった代わりに、琥珀は緩く、あさとの手を手のひらで包み込んだ。
「……俺が、家に電話しとくよ」
「………」
「最初から、下手な嘘で信用失いたくないからな」
     うん……。
 あさとは喜びを噛み締めて、頷いた。   
 
 
 
               14
 
 
 
 港の外れ、海岸とも呼べない小さな浜辺にレンタカーを停め、琥珀はあさとの手を引いて歩き出した。
 海は街の灯りを受けて煌めき、空には青白い月が浮かんでいる。
「本当は、合宿所の海に行ってみたかったんだけど」
 独り言のように呟く彼の横顔を、あさとは見上げた。
「どうした」
「……ううん……」
 首を横に振り、あさとは琥珀の手を握りしめた。
     覚えていてくれたんだ。
 嬉しさで胸がいっぱいになる。二人で初めて歩いた海岸、手を繋ぐこともできなくて、琥珀の気持ちが判らなくて、嬉しいのに悲しくて、なのに苦しいほど幸せだったあの冬の日。
 自動販売機でコーヒーを買って、堤防の上に腰かける。
 静かで、優しさが胸に落ちてくるような夜だった。
「足に……」
「え?」
「キスしてくれたよね」
「はい?」
 プルタブを切った琥珀が、咳き込むのがわかった。
「今、言う?」
「だって、思い出したから」
 琥珀は片手で口の辺りを覆ったまま、もう片方の手をかざした。
「頼むから忘れてくれ。あの後、なんであんな真似をしたんだと思ったら」
「なんで? 素敵な思い出だったのに」
「あれを素敵って言うか? 女は」
 照れている琥珀が珍しいというより、信じられなくて、あさとはまじまじとその横顔を見る。
「見るなよ」
「だって」
 それでも見ていると、琥珀に肩を抱かれて引き寄せられた。
 少し横顔が怒っている。
 あさとは黙って、彼の温度を感じたまま、月を見上げた。
 そのまま、しばらく二人は無言だった。
「イギリスに行くんだ」
 やがて、静かな声で琥珀が言った。
 あさとは、前を見たままで頷いた。うん……知ってる。
「ロンドンだっけ」
 今度は、琥珀が頷いた。
「向こうで、仕事しながら学校に通うことになった。ワーキングホリデーってやつ」
「今日、行くんだと思ってた」
 それには答えない琥珀が、わずかに苦笑する気配がした。
「……あの家、出ることになった。全部話したんだ。おじさんとおばさんに、俺が雅にしてしまったことを、全部」
 あさとは息をつめて、瞬きをした。それで    祥子は、あれほど冷淡な眼をしていたのだろうか。
「その上で、出て行きたいと言った。死ぬほど身勝手で、恩知らずなことを言った。目立たないけど」
 琥珀は微かに笑って、唇の端を抑えた。
「おじさんには殴られた。……でも、あれは、わざとそうしてくれたんじゃないかと思う」
「わざと?」
 ああ、と琥珀は頷いた。
「きっと、その方が、俺が楽になると思ったんだろう」
 寄りそう琥珀の体温と香りが、そして心の内側のあるものまでが、全部あさとに伝わってくるようだった。
 傍にいる。こんなにも確かにそれが実感できたのは、今日が、この時が初めてだった。
「その上で、俺の死んだ親父の保険金とか年金とか遺産があるからって……色々説明してくれた。大学出るまでは、面倒みたいとも言ってくれた……俺」
「………」
「今まで、あの人の何を見てたんだろうって、自分が本当に馬鹿みたいに思えてきた。俺は今まで、一人で生きてきたわけじゃないんだ、それが判っただけでも……よかったと思う」
 琥珀の横顔は静かなままだった。こんなに落ち着いて、こんなに穏やかな彼を見るのもまた、あさとには初めてだった。
「雅は、ずっと俺に、お前のところへ行けって言ってくれていたんだ。……彼女は強い、本当に強くなった。俺は、やっぱり」
 琥珀は少しの間、黙っていた。それから思いきったように言った。
「雅のことが好きだったんだと思う。……卑怯な言いぐさだけど、それも本当の俺の気持だ」
 あさとはうつむいた。
 うん……わかってる……。
 不思議なほど、気持ちは冷静だった。むしろこの穏やかな気持ちを、どう琥珀に伝えていいのか判らないくらい。
 彼がいつから    夢の中で「琥珀」だったのか。
 それはもう、考えない方がいい。
 この人は、私を、そして同時に雅を愛したのだ。その事実だけは何があっても変わらないし、私もまた   
 夢の中で、彼ではない人を愛したのだから。
「いつ……日本に帰ってくるの?」
「…………」
 答えない琥珀は、黙ってあさとを抱きしめた。
 目を閉じて、あさとはその広い背に両腕を回す。強い力で抱きすくめられ、一瞬息が止まったような気がした。
「俺たちは、一度、離れたほうがいいんだ」
 耳元で琥珀の囁きが聞こえた。
「そのほうがいい……。お前じゃない、俺が、そうしなければいけないんだ」
     琥珀……。
「帰ってきて」
 あさとは言った。「絶対、私のところに帰ってきて」
「帰るよ」
「琥珀……」
「約束する」
 閉じた瞳に涙が溢れた。
 その約束は   
「琥珀……、琥珀」
 うわ言のようにあさとは繰り返し、泣きながら、何度も琥珀と唇を重ねた。
 その約束は、きっと、ダーラとラッセルも……同じように交わしたはずだった。そして、叶えられることはなかった。
 夢の因果は。   

「琥珀……」
 どこまで、私を縛り続けるのだろうか。
 この辛い繰り返しの連鎖を、それでも私は   
「忘れよう」
 涙をキスで拭いながら、琥珀がそっと囁いた。
「俺たちは、俺たちでしかない」
 彼が何を言いたいのか、あさとはしゃくりあげながら、理解した。
 この人もまた、私と同じ感覚に囚われている    今。
 そして、それを断ち切るために、一度離れようと……そう言ってくれているのだ。
 あさとは頷き、いっそう強く琥珀を抱きしめた。琥珀は髪を撫で、頬を寄せ、何度も閉じた瞼に唇を当ててくれた。
「好きだよ」
「うん……」
「……愛してる」
「……うん……」
     多分。……
 忘れない、私も、あなたも。
 あんなに苦しいほど恋をした。誰かを愛して、失う辛さを知ったあの十ヶ月の夢の記憶を。
 しっかりと身体にまわされ、抱き締めてくれる腕。でも今は、それが全て。この温もりだけが私の全て。
「瀬名……」
 私の名前を呼ぶあなたの声が、唇が、今はこんなにも愛しい。
 あさとは琥珀の身体を抱き締めた。強く、強く、これ以上ないくらいの力で。それでも広い背中はあさとの腕には抱き足りないほどだった。
「私の名前………呼んで」
 あさとは囁いた。今なら判った、いつかの夜の琥珀の気持ちが。自分の存在を、確かな想いを、言葉で確かめずにはいられない寂しさが。
「もっと、呼んで、いっぱい……呼んで……」
「……瀬名」
「大好き……」
 例えこの恋が永遠じゃなくて。
 そしていつか、運命のように、この人が雅のもとへ戻って行くのだとしても。
 どれほどの苦しみや辛さを繰り返すことになっても。
 かまわない。
 この至福のために、私は今、生きているのだから。      
 
 
 
 
  
 
 
  

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