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〜5年後 春
「 小田切先生!」
小田切直人は、転寝のような浅い眠りから眼を覚ました。
ぼんやりと開けた視界に、雲ひとつない空が滲む。
空が、青いな……
何年か前も、こんな風に、似たような声に呼ばれて目覚めた気がする。
「どこ行ったんですか、小田切先生」
まだ、どこか夢現のまま、小田切は半身を起こし、うるさく伸びた前髪を払った。
日が高い、目を閉じるだけのつもりが、何時の間にか寝入ってしまったようだ。腕時計を見て、さすがに眉を上げていた。
まぁ、血相を変えて探しに来られるだけの時間ではある。
「あっ、発見! こんなとこでさぼってたんですか」
苛立った顔で、駆け寄ってくる白衣の女性は、小田切よりいくつか年下だが、医師としてのキャリアは倍近くになる。
女は、細い腰に両手をあてるようにして、ベンチに腰掛ける小田切を見下ろした。
「もう生徒が、講堂に集まってますよ。さっさと定位置についてください」
「……っす」
まだ眠気の残る身体で立ち上がり、とりあえず伸びをした。
「先生は午後から休診で何の予定もないでしょうけどね。小学校には午後の授業ってものがあるんです」
まだしつこく言い募る女は、島崎みさと、と言って、この町で小田切以外の唯一の小児科専門医だった。痩身で背が低く、銀縁の眼鏡を掛けている。外せば美人だろうに 一度そう言ったら、セクハラだと散々責め立てられたことがあった。
小田切は総合病院の勤務医だが、島崎は開業医だった。狭い田舎町で、たまに会合で出会っても、二人の合性は余りよくない。
今日は 小学校で行われる児童健康診断の日で、いつものように、二人揃って借り出されていた。
「……お前さ」
小田切は、ベンチの背に掛けていた白衣を羽織ると、島崎の顔をまじまじと見つめた。
「なんか、誰かに似てるんだよな」
「?……なんですか、それは」
「なんだろうな」
「えー、芸能人とか、モデルとか」
「間違ってもそっち系じゃない」
むうっと、女が頬を膨らます。
「何自惚れてんだ、身長152センチが」
「154です! じゃ、いったい誰に似てるって言うんですか」
「その口うるささが 忘れたよ」
そのままポケットに片手を突っ込み、小田切は髪を掻き分けながら歩き出した。 そうだ、誰かに似ている。誰だったろう。
最近、眠り続けていた頃の記憶が目に見えて薄れて行く。もう、あの時の誰の顔も、はっきりとは思い出せない。
自分が何をし、何を感じたのかも、曖昧に現実に呑まれていく。
馬鹿だな、俺も。
小田切は苦笑し、ポケットにあるはずの煙草を探した。
あの若造に散々説教しておいて、結局俺が……一番こだわっていたわけか。
体育館の表に出ると、すでに生徒たちが列をなしていた。賑やかな喧騒と、眠りを誘うような穏やかな日差しに、一瞬、自分の周囲だけ時が止まってしまったような、不思議な感覚に見舞われる。
学校ってのは、いいもんだよな。
こんな風に思えるのは、自分が年を取ってしまった証なのだろう。そんなことを考えていた時だった。
「直人!」
「………」
少し眉を上げて、小田切は振り返った。
校庭のネットの向こうで、えらくごついスーツ姿の男が、ぶんぶんと手を振っている。
「 風間か」
さすがに、少しばかり驚いて、小田切はその方に駆け寄った。
「なんだよ、その気持悪い呼び方は」
「悪い悪い、一度呼んでみたかったんだ」
「…………何故?」
「とある精神科医の分析によると、俺が結婚できないのは、どうもお前に惚れているからということらしい」
「帰れ、今すぐ」
「元気そうじゃないか、やっぱりお前には、白衣が似合うよ」
風間潤は楽しそうに笑った。
極端に大きな体躯と不釣合いな知的な容貌に、高校時代と変わらない面影が滲んでいる。
「五年ぶりだな」
何故か不思議なノスタルジーを感じ、小田切は言っていた。本当は……もっと前から、この男をよく知っていたような、そんな説明しがたい感情に囚われている。
が、それは一瞬で溶ける淡雪のように儚く消えた。
「何が五年ぶりだよ。ずっと連絡しやがらなかったくせに、水臭い奴だ」
「いやぁ、風間の親父さんに会わせる顔がなくてさ」
「嘘つけ、そんなこと、全然思ってなかったろ」
「で? いまさら同窓会のご連絡か?」
小田切は肩をそびやかした。吸うタイミングを逃してしまった煙草を取り出して火をつける。
「まぁ……ちょっと、直接報告したいことがあってな」
一拍おいて、風間は、言いにくそうに髪に手をあてた。
「ひとつはいい話題で、ひとつは……微妙だ。話してもいいか」
「いいかって、そのために来たんだろうが」
「長沼が、逮捕されたぞ」
「…………」
「ただ、静那さんの件じゃない、……覚醒剤取締法違反で摘発された。これから別件も洗うことになるだろうがな。 お前がいなくなってから、新宿署も一課も、本腰を入れて頑張ったんだ」
「………ふぅん」
静かな感慨を抱いたまま、小田切は空を見上げた。それは、この五年間、一度も会っていない男にも聞かせてやりたいような気がした。
「捨てたもんじゃないだろう、警察も!」
風間は何故か胸をはる。
「お前、それが言いたかったのかよ」
小田切も思わず笑っていた。警察も 人も捨てたもんじゃない。風間はそれを伝えに来てくれたのかもしれない。
「で、もうひとつの微妙な話は?」
「いや……うん」
風間は今度は、本当に言いにくそうな表情を見せた。
「お前が、悲しむんじゃないかと……」
「はい?」
「いや、……実は、結婚することになったんだ!」
風間は目をそらしたまま、早口で一気に言いきった。
結婚 。
小田切は、やや唖然として眉を寄せた。そりゃおめでたいが、そんなに珍しい話題ってほどでもない。何をこうも照れてるんだ、この男は?
何か裏でもあるのかと、念のため訊いてみる。
「お前の話か?」
「……まぁ、俺の」
「へぇ、それはおめでとう」
あっさりと言うと、風間は途端にもっと聞いて欲しそうな顔になった。
「冷たい奴だな、誰が相手だとか、興味ないのか?」
「どうせ俺の知らない女なんだろ?」
「……いや、……それが、そうとも」
「なんだ、はっきりしない奴だな」
「まぁ……その話は、夜にでも聞いてくれ。今夜はこっちに泊まるから」
そう言うと、背の高い警察事務官は、顔を背けて頭を掻いた。
「それはそうと、あの二人が結婚したの、知ってるか?」
「あの二人?」
小田切は時計を見ると、吸いかけの煙草を足元に捨てて、踏み潰した。校内が禁煙だということを きれいに忘れてしまっていた。こんなところを島崎に見つかったら、また やっかいなことになる。
「ほら、真行琥珀と……」
「ああ」
続きを言いかけた風間の言葉を、小田切は遮った。
「知ってる、ご丁寧に葉書が来たからな」
「……そうか」
風間は、遠くを見るような眼差しになった。
「真行が司法試験にパスするまで、いじらしく待ってたそうだ。これぞ純愛を貫いたってやつかね」
「……かもな」
「気の毒なのは、もう一人のお嬢ちゃんだが……あれ以来どこにいるか、行方が判らなくなってるらしい」
「ふぅん」
ふと気づくと、風間が、探るような目で見下ろしている。
「小田切の所に、連絡あったりしてないか? もしかして」
「はっ? なんで俺に」
驚くというより憮然として、小田切は眉を上げる。
「いや……神崎先生が、ひょっとしたら小田切に連絡があるかもしれないと、言っていたから……」
風間は口ごもる。
「神崎……?」
言いさして、小田切は言葉をきった。 神崎とは、瀬名志津子の旧姓だ。
「なんだ? お前、まだ瀬名先生と連絡とってんのか」
「いや、その……そういうわけでも」
もごもごと口ごもり、風間はごほんと咳払いをした。
「 小田切先生!」
その時、爆発しかけたような声がした。
振り向くまでもない、島崎だ。苛立ちをあらわにしたまま、彼女は小田切の面前に歩み寄ってくる。
「一体あなたは何をやってるんですか! ボランティアさんが手伝いに見えてますから、今日の手順をさっさと説明しに行ってあげてください!」
眉をつりあげ、口早にそう言うと、島崎はさっときびすを返した。
「……またお前、何かやらかしたんじゃ」
風間が、呆れたような目で小田切を見下ろす。
「ばーか、お前のせいで遅刻したんだよ。それにあの女は怒ってるのが普通なんだ」
まるでそれが聞こえたかのように、島崎はきっと振り返った。
「ああ、それからね。ボランティアさん、耳と口が不自由な方だから、そこんとこ気をつけてあげてくださいよ」
今度こそ、女はさっさと体育館の中に消えて行った。
「やれやれ」
小田切は嘆息した。「ま、行ってくるわ、お前今夜、こっち泊まるって言ったよな?」
「まぁ……な」
風間は何故か、どこか上の空で答える。
「後で連絡入れるから………なんだよ、お前」
風間は小田切の肩越しに、何処か遠くを見つめている。
「………?」
小田切は振り返った。
柔らかな春の日差しの中、子供たちの笑い声、はしゃぎ声、そして、何か言い争う声。それらがごちゃまぜになって、雑音のように空気に溶けこんでいる。
こちらに行進してくる幼い子供たちの行列の前に、それを先導している若い女性の姿があった。
周囲の木々は満開の桜。
風が、甘い花片を舞いあげる。
彼女は長い髪を緩く結い、それを片側の肩にかけていた。白いブラウスにカーディガン、アイボリーのスカートが、風をはらんで揺れている。
彼女は笑顔を浮かべたまま、身振り手振りで、子供たちに何かを伝えている。
既視感……?
小田切は、説明し難い不思議な気持ちで、その光景を見つめていた。ふいに胸が痛むような幸福と、そして同じくらいの寂しさを感じた。
彼女が、ふと顔を上げた。
小田切を見て、そして、花がほころぶような優しい表情になった。
……アシュラル。
彼女は一声叫び、春の木漏れ日のようなみずみずしい笑顔で、駆け寄ってくる。
小田切の中から、その刹那、蜃気楼のような何かが飛び出し、彼女の身体を抱きとめて、抱き締めた。
……クシュリナ。
日差しと、舞い落ちる桜の花びら。幻想と現実の狭間の夢。
「おい、小田切?」
風間の声に、ふっと我に返り、小田切は瞬きを繰り返した。
目の前を、白いブラウスとアイボリーのスカートが、風を受けながら通りすぎて行く所だった。
周辺には、先ほどと同じ喧騒が立ちこめ、子供たちが騒ぎ、泣き出す声が甲高く響く。
「ひょっとして、今の女の人……」
風間が、ぼんやりと呟いた。
小田切は遠ざかる女の背中を見つめた。編んだ長い髪が風に吹かれて、彼女は少しだけ足を止める。
殆ど無意識に、彼は足を踏み出していた。
「門倉雅!」
言ってから気がついた、……ああ、彼女、耳が聞こえなかったんだ。
けれど、門倉雅は、少しの間を置いて振り返った。
「………」
それから、ゆっくりと微笑した。
※
「……どうした」
あさとは、はっとして眼をこすった。
薄闇の中、気遣うような腕が、ゆっくりと肩を抱いてくれる。
「ごめん、……起こした?」
明日は早いと言っていたのに 気づかせてしまったことが申し訳なくて、小声であさとは囁いた。
「……ごめんね」
「いいよ」
寝返りを打って、あさとは彼の腕に頬を寄せた。
「……泣いてたのか」
「ううん……」
そのまま眼を閉じ、ぎゅっと彼の身体を抱き締める。
「どうした」
「うん………」
何も言えなくて、眠ったふりをする。彼はあさとの肩を抱いたまま、軽く額に口づけてくれた。
やがて、安堵したような吐息が、規則正しく聞こえてくる。
あさとは薄目を開け、眠る彼の横顔を見つめた。夢でみたばかりの面影を色濃く映した顔を、ただ見つめた。
最近、あさとは思うことがある。
あの世界は、本当に雅の精神世界だったのだろうか。母から見せてもらった雅の手記。聞かされた話。頭では理解した。でも 。
あれは本当に私たちの前世で、私たちの過去の姿だったのではないだろうか。
そしてクシュリナは。
雅の前世というだけでなく、私自身の前世でもあったのではないか……。
クシュリナの アシュラルを愛する心とラッセルを愛する心。二つに引き裂かれた心がそれぞれ別の形となって、転生してしまったのかもしれない……彼女が、一番羨んでいた女の姿で………。
あさとはもう一度眼を閉じた。
脳裏には、先ほど見た夢の光景が、なお色鮮やかに残っていた。
穏やかに晴れ渡った空の下を、一組の男女が、手を取りあって歩いている。
女は、短い髪を風に揺らし、時折、幸福そうに寄りそう男を見上げている。彼らは旅の道中なのか、男は背にわずかばかりの荷を背負い、とても簡素な服を着ている。
二人は、片時も繋いだ手を離さない。時に笑顔を交わし、肩を寄せ、無口な男は、女の話に、時折頷いて相槌を打っている。
時は春なのか、甘いようにたゆたう花びら、やわらかな日差し、道行く人はみな穏やかで、優しい笑顔を彼らに向ける。
彼は彼女の顔を見つめる。厭きることなく見つめ続ける。いつまでも続く愛の言葉に、彼女が語る将来の夢に、ただ、微笑して耳を傾ける。
夜は星の下で眠り、朝は日ざしを浴びて目覚める。木漏れ日の下で口づけを交わし、音楽を聴きながら静かに寄り添う。
そして、夕闇。
紺青、紫紺、赤銅色の雲間の下、沈む太陽と輪郭を現す月。
彼の胸に背を預けたまま、女はいつまでも話し続ける。彼女の話は尽きることなく、いつまでも、まるで離れていた時間を埋めるように、夢を、希望を、そして二人の未来を語り続ける。
やがて彼女は静かになる。静かな呼吸、静かな寝息。
彼は彼女に口づける。その閉じた目蓋に、頬に、額に、唇に。
太陽が沈んで行く、彼方に、彼方に、世界の果てに。
そして月が二人を静かに照らし出す。
永遠のように動かない二人を、静かに、静かに照らし続ける。
太陽と月の果て、美しい十ヶ月の夢の記憶。
それが、あさとが見た、最後のイヌルダの夢だった。
太陽と月の果て(完)
長のご愛読、まことにありがとうございました。
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