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 雨のせいかな。
 あさとは、寒さに身をすくめながら、殆ど花をつけない木々を見上げた。
 昨日、東京は季節外れの大雨だった。春の嵐というやつなのかもしれない。
 桜は、固い芽とわずかな花弁だけを残したまま、どこなく寂しい春の景色が広がっている。
      そうだ、ここだ。
 高台の上から見下ろした街の風景。
 何年か前、小田切と二人で見下ろした夜の街並。    今は昼だから、あの時とは随分感じが違って見える。
     この街は汚い)
 何年か前、闇のような眼をした男は吐き捨てるように言った。
     でも、人間はもっと汚い、クソみたいな生き物だ。)
 あさとは、隣に立っていた長身の男の面影を見上げる。その途端、突然、既視感のような感覚に襲われた。
     この国はきれいだ。)
 彼の声。
     住んでいる人の心も、それに負けないように美しくなればいいと思う。)
 もう、二度と会えない……夢の中にしか存在しない人……。
「…………」
 その感覚は、すぐに消えた。儚く、まるで夜に吐く息のように。
「相変わらず、汚い街だな」
 背後で、小田切の声がした。
 あさとは、夢から覚めたような思いで振り返った。
「よ、お互い時間どおりだな」
長身の男は、わずかに笑って片手をあげた。
 グレーのスーツに薄手のハーフコート。少し髪が短くなっている。言い方は冷たいのに、どこか優しい眼差しで、彼は眼下の街を見下ろした。
「変わらないな、ここも」
 それは、小田切直人の横顔だった。
     そうだね……。
 どこか切ない、寂しいような気持で、あさとは彼の横顔を見続けていた。
 そうだね、アシュラル、あなたはもう、どこにもいないんだね。
 振り向いた男の顔に、一瞬夢の面影が揺らいで消えた。
「桜、咲いてないんだな」
 どこか寂しげに微笑して、男は言った。
「いつもだったら、すごいんですけど」
「うん……まぁ、そんなもんだろう」
 彼の表情に、少しも喜びがないことが、あさとには判った。
 その横に並んで立ち、同じように景色を見下ろす。風が少し冷たかった。空は雲ひとつなく晴れている。
「小田切さんは、私のこと、……本当に好きなんですか」
 それを訊くために、確かめるために、今日あさとはここに来たのかもしれなかった。
 彼が自分を、ただの瀬名あさとを好きになったなんて、どうしても信じられない。ずっと怖くて、考えないようにしていたけれど、彼もまた、私と同じで    夢の中で……私のことを、瀬名あさとだと認識していて……。
「それとも、夢の中の」
「夢の記憶に、こだわるのはやめておけ」
 小田切は煙草を取り出して火をつけた。
 言葉に詰まり、思わずあさとはうつむいている。
「……なんの意味もない、今お前はそこにいるお前でしかない、俺も、真行も」
 眼をすがめ、彼は再び、眼下の街に眼を向けた。
「あれが前世だなんて、思いこむ方が馬鹿げている。仮にそうだとしても、だから何だ。それが、今の俺たちになんの関係がある」
「…………」
「俺はお前といると、単純に楽しいんだ」
「あまり、ときめく言葉じゃないですけど」
「……喜ばせるために言ってるわけじゃない」
 憮然と言葉を切り、小田切は考えるように首をかしげた。「まぁ、傍にいてくれたらいい程度の……」
「ちょっ、いきなりトーン下がってるじゃないですか」
「俺と来るか」
「…………」
 彼は、あさとの顔を見ないままだった。あさともまた、前を見つめたまま、動けなかった。
 少しだけ動悸が高まる。もう答えは出ているし、彼もそれを……待っているような気がした。
「決めるのはお前だ、お前自身の気持ちで決めろ、夢の中のお前でなく、……今、そこにいるお前の気持ちで」
 あさとは小田切を見上げた。
 綺麗な眼をしていると、初めて思った。
 こんなに綺麗で、優しい人だということを、どうして昔は判らなかったんだろう。
「私……小田切さんに会うのが、本当はずっと怖かった。琥珀以上に怖かった」
「…………」
「会えばどうなるか、自分でも判らなくなりそうな気がしたから」
 あさとはうつむいた。
 胸がいっぱいになりながら、それでも、気持ちは不思議なくらい落ち着いていた。
 今日、私は、思い出の中の人と別れるために、ここに来たのだ。
 新しい明日に、進むために。
 この世界で、瀬名あさととして生きていくために。
「また、失敗するかもしれないけど」
「…………」
「それは怖いし……本当は、心細いけど」
「…………」
「琥珀のところに、行こうと思ってます」
「…………」
 人は汚いものかもしれない。私も、小田切さんも、そして琥珀も、みんな綺麗なだけの人間じゃない。沢山の葛藤と浅ましさを抱えて生きている。同じ失敗を繰り返して、何度も、何度も。    でも、それでも。
「馬鹿だな」
 うつむいた彼の横顔が苦笑した。
「だったらもっと早く行け。なんだって手遅れになってから、そんなことを言い出すんだ」
「あなたに会わなきゃ」
 あさとは微笑した。
「会って、自分の気持を決めてからじゃないと、琥珀に会う資格がないような気がして」
「…………」
「でも、よかった。会えて……今日会えて、本当によかったと思ってます」
 だからこそ、愛しい。自分の短い人生が、出会って、そして別れていく人が、本当に愛おしい。
 男の横顔が動く。彼もまた    思うことは、自分と同じなのだろう、とあさとは思った。
「桜が咲いてたらな」
 微笑して空を仰ぎながら、やはりどこか寂しげな口調で、小田切は言った。
「桜……ですか?」
 あさとは不思議な気持でそんな男を見上げている。
 彼は、そういえば最初から桜に拘っていた。それは、    何故だろう。
「死んだ妻が、……いつだったか夢物語に話してくれたことがある。桜の下で、俺たちは再会できるんだって」
「なんですか、それ……」
 小田切は苦笑する。
「なんだろうな。その時は適当に聞き流していたし、そもそもあいつが何を見ていたのか、俺にもよく判らない」
「私、あなたの奥さんじゃないですよ」
「判っている。……そういう意味じゃないんだ。多分、そういう意味じゃない……」
「…………」
「それでも俺は、どっかで奇跡みたいなものを、ずっと待ってたのかもしれないな」
「…………」
 あさとは、母の話を思い出していた。小田切が覚醒する刹那、あたかも彼の死んだ妻が、雅に憑依したかのような現象が起きたと   
「静那さんって……すごく変わった名前ですよね」
「性格も随分変わってたよ」
 母から話を聞いた時、一瞬胸をかすめた疑問を、あさとは口にしようとして、やめた。
 クィンティリスを愛したシーニュとマリス……。
 もちろん、そんなおとぎ話、誰も信じるはずがない。
 いずれにしても、今、私たちは、それぞれの過去と決別しようとしている。
「……小田切さんは、苦しいですか」
「……俺が?」
 その眼が、意外そうな色を浮かべる。あさとはようやく安堵していた。
「……琥珀に会うと、私はいつも苦しいんです。会う前から苦しくて、会ってる時はもっと苦しくて、別れた後は、涙、涙……苦しすぎて、息ができないくらい」
「…………」
「……でも、小田切さんに会うと、……今は、嬉しいだけなんです。それから、楽しい」
「…………」
「これって間違いなく、恋じゃないですよね」
 小田切の横顔に、耐えかねたような笑いが浮かんだ。
「それは単に、障害のある恋に燃えているとも、言うんじゃないか」
「なんですか、それ」
「完全な恋愛マゾ体質ってやつだ」
「ほんっと、失礼な人ですねぇ」
「何度も言うが、それは絶対にお互い様だ」
 互いに、声をたてて笑っていた。
 きっと。
 彼もまた、自分の気持ちに気がついているのだろうと、あさとは思った。
 彼もまた、私に恋などしていない。多分   
 それを、確かめるために、今日ここへ来たのだろう。
 
 
 
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「あの、少し急いでもらえますか」
 タクシーの窓から見た外は、延々と雪景色が続いている。
 信州は雪だと聞いて、覚悟は決めていたものの、こんな景色を目の当たりにするのは初めてのことだった。まだ夕方には間があるのに、人通りは殆どない。
「お客さん、ここらですけど」
 少し訛りのある声で、運転手が振り返る。
 あさとは手にした地図を片手に、タクシーを降りた。
 目指す屋敷は、すぐに見つかった。高い塀が延々と続く一際大きな家の門扉に「斎藤」「門倉」と二つの表札が掛かっている。
 雅の母の実家だった。そこに今、門倉の家族が同居しているという。地元でも有名な資産家だと聞いていたが、さすがにそれらしく、玄関には警備用のカメラが備え付けてあった。
 インターフォンを鳴らすと、すぐに懐かしい声がそれに答えた。
 あさとは、玄関の門扉をくぐった。
 
 
 
「雅、もうすぐ帰ってくるから」
 門倉祥子は、みちがえるほど肉付きのよくなった顔で、微笑んだ。
 まるで、十歳は若返ったような笑顔に、今の門倉家の状況が現れているような気がした。
「今ね、大学に行っているの。耳も声も不自由なんだけど、そういう子でもちゃんと勉強できるようになっているのよ。雅は頭がいいから、手話もあっという間に覚えちゃって」
 その言葉にも表情にも、娘に障害が残ったことに対する悔悟や不安は微塵も無い。本当に    祥子は喜んでいるようだった。
 応接間に通され、あさとは、少し躊躇してから、祥子に聞いた。
「あの、……真行君は」
「………」
 初めて、祥子の顔がわずかに曇った。
「あさとちゃん、琥珀さんに会いに来たの?」
「え、いえ」
 あさとは少し戸惑った。「そんなわけじゃないですけど」
「琥珀さんは、もうここにはいませんよ」
 祥子は冷たく言いきった。
 それは小田切から聞いて知っている。あさとは彼がどこに行ったか知りたかった。今日の午前の便で、すでに日本を発ってしまった彼が   
「あの、真行君は」
「もうその話はやめましょう。雅が帰ってくるまで、ここで待っていて頂戴ね」
 お茶を持ってくるわ、そう言って祥子が立ち上がりかけた時、廊下から足音が響き、応接室の扉が開いた。
 あさとは立ちあがっていた。
 雅がそこに立っていた。彼女は声のないまま、息を弾ませ、嬉しそうに笑っていた。 
 髪が、随分短くなっている。ショートボブに近い。
 厚手のセーターはくすんだ臙脂、それと、ストレートのジーンズ。長年彼女と一緒にいるが、こんなにボーイッシュで、飾らない姿を見たのは初めてだ。
     雅……。
 琥珀の言う通りだと思った。
 雅の笑顔    それは、まるで、別人になったような笑い方だった。綺麗な笑い方だった。
 あさとは今、心の底から、この友人を美しいと思っていた。
 
 
 
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 祥子が運んでくれたコーヒーとケーキ。そして、筆談用の紙とペン。
 あさとはどうしていいか判らず、目の前で、微笑している雅を見つめた。
 あさとの視線を受けると、何? とでも言うように、雅はわずかに首を傾ける。
 言いたいことも、聞きたいことも沢山ある。けれど、何から話していいかわからなかったし、今の雅が、まるで見知らぬ他人に見えた。
「………」
 あさとが黙ったままでいると、雅はふいにペンを取り、紙にさらさらと字を綴った。
 琥珀を迎えに来たんでしょ。
 すっと、指で指し示す。その顔は、何か問いかけるように、かすかな笑みを浮かべている。
 あさとはしばらく黙って……そして、自分もペンを取り、字を綴った。
 雅、ごめん。
 私は今でも彼が好きです。それだけを伝えにきたの。
 すぐに言葉が返される。
 伝えるだけでいいの? 
 少し躊躇ってから、あさとは書いた。
 今日が、結婚式なんだと思ってた。
「…………」
 二人の前できちんと自分の気持を言って、それで終わりにするつもりだった。
「…………」
 雅はペンを持つ手を止めたまま、しばらく逡巡していたようだった。けれどすぐに、次の文字が綴られる。
 綺麗事だね、あさと。
「………」
 あさとは、雅の顔を見上げた。
 彼女は穏やかに笑っていた。そして、さらにこう綴った。
 そんな言葉で、人の心が動かせると思ってる?
     雅………。
 本当は、私から琥珀を奪いにきたんでしょ。
 人の幸せ壊しにきて、終わりにするだなんて、笑わせないで。

 気持ちがぎゅっと、締めつけられるようだった。
 雅…………。
 こんなに残酷なことも、私たち、乗り越えていかなきゃいけないんだね。同じ人を、同じくらい好きになってしまった以上。
 あさとは再びペンをとった。
 琥珀が好き。
 さらに書いた。
 大好き、すごく好き、誰にも渡したくない。
 書きながら、涙が滲んだ。
 雅から奪いにきた。みじめに振られて、傷ついてもいいから、彼の心に私を残したかった、どうしても。
 だから   
 ごめん。
 ごめん、ごめん、ごめん……。
 あさとはうつむいた。雅の顔が見られなかった。
 他に、雅には言わなければならないことも、ねぎらわなければならないことも沢山あるのに    結局はこれだけしか伝えられない。それが、今のあさとの真実だった。
 琥珀の居場所を、教えて。
 あさとは書いた。
 琥珀に、会わせて。
 今日結婚するはずだった花嫁に、残酷で身勝手な気持を、書いた。
 雅はそのまま、しばらく無言だったが、やがて再びペンを走らせた。
 そんなお人よしだ思う? 私が
 あさとは息を飲み、顔を上げた。雅はうつむいたまま、何かまだ書き綴っていた。
 判ってないな、あさとは。なんのために、琥珀があの世界に残ったのかまだ判らないの?
「………」
 彼は、死ぬかもしれないのに私を拒否して。帰る方法を知っていたのに、四年もあの世界に残っていたんだよ。
「…………」
 顔をあげた雅は、わざとらしく眉をしかめた。
 それから、指で、あさとのバックを指し示した。
「………?」
 携帯、貸して。
     携帯……?
 あさとは不思議に思いながらも、新しく買ったばかりの携帯電話を雅に渡した。まだ、自宅と母の携帯番号しか入れていない。
 そういえば、新幹線の中から電源を切りっぱなしだった。
 電源を入れてくれた雅は、器用に番号を入力していった。
 琥珀の番号。
「………」
 今月いっぱいで解約してるから、あと少ししか通じないと思うけど。
「………」
 戻された携帯を見つめたまま、あさとは、どうしていいのか判らなかった。雅の言葉、その意味を、ただじっと考えていた。
 視界の端で、雅の腕が動いている。まだ    彼女は何かを書き続けていた。
 そして目の前に、すっと一枚の紙が差し出される。
 琥珀は、それでも、私のところへ戻ってくるかもしれないよ。
「………」
 あさとは顔を上げ、雅を見た。
 その笑顔の奥にひそむものを、無意識に読み取ろうとした。
 雅の眼は、動かなかった。
 それでも平気? いずれ、琥珀を失うことになっても、それでも、あさとはあの人が欲しい?
「………」
     いずれ……。
     失うことになっても。
「……欲しい」
 あさとは呟いた。書くのではなく、はっきりと雅の眼を見て、あさとは言った。
「それでも、私は、琥珀の傍にいたい」
「………」
 雅は、今度は本当に、すっきりとした笑顔をあさとに向けた。
 唇が、何かを訴えるように動いている。
 サ、ヨ、ナ、ラ……。
 唇は、そう言っていた。
 それは    夢の記憶の中で、妹の唇から漏れた言葉と重なって聞こえた。
 
 
 
 
 わずかな呼出音の後、聞きなれた懐かしい声が、それに応じた。
「……琥珀…?」
 駅のホームに、粉雪がちらついている。白い息を吐きながら、あさとは琥珀の声を待った。
『……瀬名…?』
「うん……」
 嘘みたい    通じた……。
 彼が飛行機の中だったら、まだ、繋がらないと思っていたのに。
『お前、……何やってたんだ、今まで!』
 が、いきなり受話器の向こうで怒声が聞こえた。あさとは吃驚して、携帯を耳から離している。
『何回、電話したと思ってんだ! 電源入れないくらいなら携帯なんて持つな!』
「………………」
 え、……てか。
「電話、した……?」
『…………』
 なんで……?
 携帯越しに沈黙が落ちる。
 それでも、この小さな機械を通じて、確かに琥珀と繋がっている。それがあさとには嬉しかった。
『お前……今どこ?』
「あのね、長野駅、今から帰るとこ」
『長野?』
 多分、なんで、と言いかけて、琥珀はしばらく黙っていた。
『今からだと、上野には十一時くらいか』
「そうだね」
『迎えにいく』
「えっ??」
『ホームで待ってろ、迷うなよ』
「ちょ、ちょっとまって、琥珀、今何処にいるの??」
『前の、お前ん家の近く』
「…………」
 え……。だって、……だって琥珀は……。
 電話を切り、滑り込んできた列車に慌ただしく乗り込んだあさとは、ようやく少しずつ……今の、信じがたい状況が飲み込めてきた。
     やっと、もうすぐ。
 あさとは、目を閉じた。
 やっと、あの人を捕まえることができる。
 もうすぐ   
 この列車が、雪国を抜けたら。
 
 
 
   
  

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