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 どこかから、クリスマスソングが聞こえてくる。
     気が早いな……。
 あさとは首をすくめ、マフラーもう一度巻き直した。
 そう言えばもう十二月だった。暖冬になると聞いていたが、今夜は底冷えするほどに冷える。ブーツを履いたつま先は冷え、吐く息は白く濁っていた。
 少し前かがみになって歩みを速める。
 商店街の通りを行くと、すれ違うカップルの多さが目をついた。ふいに可笑しくなった。自分は今、……一体、誰に会うために急いでいるのだろう。
 彼は恋人ではない。夢の中で愛した人は、もう、何処にも存在しないというのに。
 わき道にそれ、道場の近辺まで出ると、ネオンも人通りも、同時に途絶えた。
 銀杏並木の坂の上には、目指す道場しかない。
 あさとは、ふっと顔を上げた。
 白い吐息が視界を遮る。
 視界がはっきりした時    街灯が乏しい淡い闇に、滲むように人影が浮き出しているのが、ようやく判った。
 黒のコートで全身を包むようにして立つ彼は、街灯の下で立ち止まり、煙草に火をつけているようだった。
 伸びた前髪が右の額を覆い、片方の眼に宿る眼差しに、確かな夢の記憶が一瞬よぎる。
「…………」
 彼が自分に気づき、自分も彼を見つめていることに、それすらも意識できないまま、あさとはその場から動けなくなっていた。
「……よう」
 男は静かに片手を上げた。
「久しぶりだな、意外と元気そうじゃないか」
     小田切さんも。
 ようやくあさとはそう言った。
 小田切はわずかに笑んで、それから顔を背けたまま、煙草の煙を吐き出した。
「今、真行と会ってきた」
「…………」
「真面目な奴は始末に終えない。久しぶりに動いたから、明日は間違いなく筋肉痛だな」
 あさとは眉をひそめていた。
「……何か、琥珀と」
「奴に聞くんだな」
 そう言うと、小田切は煙草を足元に投げ捨てた。
「まだ、真行は道場に残ってる」
 射抜くような眼差し。けれどそれに、かつての冷たい    人を拒絶するような壁はない。
「俺は、帰るところだが、お前はどうする」
      どうする……?
「道場へ行くか」
「…………」
「俺と来るか」
 それは    どういう意味なのだろうか。
 言葉に詰まり、あさとは黙ってうつむいた。正直言えば、彼に対する感情を、自分の中で、どう整理していいのかわからない。
 判っている、夢で愛した男は、決して彼そのものではない。
 けれど    やはり、彼は……。
 黙ったままでいると、ポケットに手をつっこんだ男は呆れたように眉を上げた。
「おい、言っとくが、あまりおかしな想像をするなよ」
「え?」
「遅い時間だから、家まで送ってやろうと言っているだけだ。……別の意味で、期待してるなら」
「しっ、してませんよ、別に」
「ふぅん、どうだかな」
「わ、私が何を期待するっていうんですか」
 顔を上げて小田切を正面から見た途端、ようやく、緊張がわずかに解けていた。
 男の片頬に、微笑が浮かんだ。
「やっと笑ったな」
「………」
 それは、あさとが彼を見上げて思ったことでもあった。
 胸が切なく高鳴った。
     アシュラル……。
 彼の中に、あの人の記憶が残っている。
 もう、二度と会えない人の記憶が。
 琥珀の手を取る資格がないのは、もうあさとも同じだった。
 認めたくはなかった。でも、アシュラルの思い出をこの人に追う限り    二度と、琥珀に逢う資格はないような気がする。
      琥珀は。
 だから私を、この人と会わせようとしたのだろうか。
「じゃあ……送って……もらえますか」
 あさとは、呟くように、そう答えた。
 
 
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      いつだったんだろう。
 助手席の窓から、流れて行く夜の景色を見つめながら、あさとはぼんやりと考えていた。
 小田切とは、前もこうして、同じ時を過ごしたことがある。
 あの時も冬で、同じルートで、そして、行先も同じだった。
 そんな思い出に囚われていたから、うっかり肝心なことを言い忘れていた    のに気付いたのは、車が高台を昇り切った時だった。
「しまった」
「どうした」
 ずっと無言だった男が、少し驚いたように視線だけを向ける。
「もう、そこ家じゃないんです」
「は?」
「売っちゃったんですよ。すみません、忘れてました」
「おいおい、わざとじゃないだろうな。普通忘れないだろ。そんなに俺と一緒にいたいなら」
「だっ、だから誰が! すみません、全く反対方向です。方向転換お願いします」
「…………」
 横顔が少し無言になる。
     小田切さん……?
 そのまま、しばらく車を進めた小田切は、ゆるやかにブレーキを踏んだ。
「知ってたよ」
「え……」
「風間に聞いた。もう一度、あの場所に行ってみようと思ったんだ」
「…………」
 あの場所。
 コンソールの灯りだけが照らす薄暗い闇の中、男の目が自分を見下ろしているのが判った。
 胸が、不自然な動悸を奏でている。
 私……私は、どうしたんだろう。
 私にとってこの人は、ううん、この人にとって私は、そういった対象じゃないはずなのに。
「でも、今はやめておく」
「…………」
「悪かったな」
(どこかへ、行こうか)
(お前の行きたいところにだ)
 優しかった彼の……幸せだった頃の短い記憶が、かすめて消えた。
 あさとはうつむいていた。なんて    なんて残酷なんだろう。
 夢の中では、現実の記憶に引きずられ、今、現実では夢の記憶に引きずられている。
 私の心    心はいったい、どこに定まればいいんだろう。
「お前、大学何年だ」
 再び車を走らせながら、口を開いた小田切の横顔はいつもの彼らしさを取り戻していた。
「……二年……留年確定しましたから」
「何学部?」
「人文です。心理専攻……」
 質問の意図がわからず、あさとは訝しく彼を見上げる。
「いかにも就職できそうもない分野だな。転部しろ、三年からなら出来るだろ」
「な、なんですか、いきなり」
「医学部なんてどうだ」
「はぁ??」
「医者になれとは言わない。お前の頭じゃ無理だろうしな。看護師の資格を取るなんてどうだ」
「あの、さっきから、なに無茶なこと言ってるんですか」
「俺は医者だからな。嫁さんは看護師のほうが都合がいい」
「…………」
「…………」
 しばらく黙った後「冗談ですか」とあさとは言った。
「半分はな」
「なんですか、それ」
 むっとする。一瞬、本気で悩んだ自分が馬鹿みたいだ。が、振り仰いだ小田切が笑っていたので、あさとも自然に苦笑していた。
「びっくりさせないでくださいよ。一瞬まさかのプロポーズかと思っちゃった」
 同時に、ふと、あさとは思っている。彼の夢の中で、<私>はどういう存在だったんだろう。一緒に異世界にトリップした認識はあっても、少なくともこの人は、私があの世界で<誰として生きていたか>までは知らないはずだ。
 彼はどうして……それを私に、聞かないのだろう。
「…………」
 もしかして琥珀が、彼に話したのだろうか    。だとしたら、それは……できれば目を背けたい想像だった。
「……小田切さんは」
 迷いながらも、それでもあさとは言葉を選んで訊いていた。
「覚えているんですか。眠っている間のことを」
 ステアリングを握る小田切の横顔が、わずかに笑ったような気がした。
「気持よく死にかけてる時、真行に何度もゆすぶられたことはな」
「……じゃあ、その時に」
「え?」
「……いえ」
 心臓が、今度は不安の動悸を打ち始めた。
 わからなくなる。この人は、クシュリナを私だと認識しているのだろうか?
 そもそも、この人は、    夢の中の人は、いつから小田切直人だったのだろうか。いつから   
     これが、あいつの、遺言だ)
 琥珀の最後の言葉、アシュラルの遺言、結局それを聞くことは叶わなかった。
 が、漠然と意味だけは理解はできた。
 あの石は、    アシュラルが大切に持っていた石は、レオナからあさとに移された青い石だったのだ。そう、私と小田切さんは、その石の力でシュミラクールに転生した。
 転生の過程で、石は私から彼に移ってしまったのだろうか。私たちは時空を隔て、彼はアシュラルとして石を抱いて生まれ、それから七年後に私が生まれた。
 私たちが定められていた二人なら、その運命は、二人で転生した瞬間に決まっていたのだろう。
 その石を、アシュラルは最後に、ラッセルに託した。
 彼は、……もしかして知っていた?
 石の力で    元の世界に戻れることを。
「…………」
 それの意味することを考えるのが恐ろしかった。ただ、ひとつだけ、はっきりと判っていることがある。
 この人もまた、自覚しているのだ。
 自分が夢の中で、誰の人生を生きていたのか。
「……それだけですか」
「何が」
「……小田切さんが……覚えてるのは」
「同じことを聞くんだな」
 少し、可笑しそうな声だった。
「真行と同じことを聞く。お前らにとってはそんなに重要なことなのか、夢の中の出来事が」
「…………」
 琥珀が……。
 琥珀が、なんのために。
 それもまた、確認するのが恐ろしかった。
「じゃあ、今」
 核心に触れるのをぎりぎり避けるような曖昧さで、あさとは彼の顔を見ないまま続けた。
「なんで、小田切さんは、私を送ってくれてるんですか」
「じゃあ、お前はなんで、道場に残らずに俺についてきた」
「…………」
 その質問に答えがあるなら、聞きたいのはむしろあさとの方だった。
「言っときますけど、小田切さんの人魚姫は私じゃないですよ」
 外を見たまま言うと、ぶっと隣の人が咳き込む気配がした。
「おいおい、なんだ? 今何か、とても寒いセリフが聞こえたが……」
「いっ、いいじゃないですか、リリカルな表現で。つまり私じゃないんです、小田切さんの命を助けたのは」
「…………」
「雅なんです。……聞いてると思いますけど」
「…………」
 車が停まる。
 国道は、うんざりするほどの渋滞だった。
「人魚姫は、声を失くして海の泡になったんだったな」
 自分で言いだしたこととはいえ、その皮肉な例えにあさとは言葉を無くしていた。
「王子様はその悲恋に気づかない。いいんじゃないか、それで」
「……小田切さん」
「てか、やめろ、その気色悪い例えは」
「……って、自分も結構のりのりだったじゃないですか」
「お前一人に恥ずかしい思いをさせるのが気の毒だったんだよ」
「一緒にしないでくださいよ。年も性別も違うんだから」
「……塞いでやろうか」
「え?」
「減らず口」
 少し驚いて顎を引く。手で顔を掴まれて、気がつけば顔が目の前にあった。
     どうしよう。
 綺麗な唇が、触れるほど近くにある。かすかな煙草の匂いがした。大きな肩と自分を覆う暗い影   
 このまま……眼を閉じれば、楽になれる気がした。
 このまま    この人を受け入れてしまえば。
 また、夢の続きを見ることができるのかもしれない……。
「ばーか」
 が、次の瞬間、拳で頭を小突かれるようにして、突き離されていた。
「何期待してるんだ。するなっつったろ、最初から」
「し、しし、してません。もうっ、なんて失礼な人なんだろ、サイテーですね。口も中身も印象も」
「言っとくが、お前ほどじゃない」
 確かに期待する……ような目をしていたのかもしれない。
 羞恥と悔しさから、あさとは唇を尖らせて視線を窓の外に向けた。
「……だいたい、最初に看護師になれとか言ったの、小田切さんのほうなのに」
「だから、半分冗談だっつったろ」
「誰も本気にしてませんよ」
「お前は馬鹿だな」
「はい??」
 さすがにむっとして振り返る。丁度車が、動き出した所だった。
「全部引く半分はなんだ、言ってみろ」
「は? 全部引くって……」
 残った半分は    本気だということだろうか。
「…………」
 言葉に窮してあさとはうつむく。小田切も何も言わなかった。
「さっきから意味不明ですよ……。口説いたり、突き離したり」
「まぁな、実は俺にも、よく判っていない」
「…………」
「それを、確かめたくて戻ってきたのかもな」
「…………」
 彼はどこまで記憶しているんだろう。
 あさとは、また同じことを考えていた。あさと自身、明確に思い出せるのは、自分が<瀬名あさと>だと認識した後の出来事だけだ。アシュラルの中の小田切は、おそらく死の間際まで覚醒はしなかった。だったら    彼の記憶も……。
 はっきりとそれを、小田切に聞きたいような気もしたし、聞けば    後戻りできないような気もした。
「あのあたりに生えてたのは、なんの木だ」
「え?」
「ほら、お前の前の家の……高台のあたりだ。ずらっと両面に並んでるだろ」
「ああ、桜ですよ。春はかなり綺麗ですよ、あの辺り」
「ふぅん、じゃ、春に会うか」
 なんでもないことを告げるように、小田切は言った。
「来年の四月には、北海道に行くからな、俺」
「……そう、なんですか」
「故郷だし、丁度大学病院に空きがあってな」
「へぇ……」
 不思議な寂しさが胸をかすめた。
 そうか。この人も行ってしまうんだ……琥珀と同じように、遠いところへ。が、小田切は特に気にする風でもなく続ける。
「三月の……そうだな、二十五日にあの場所で会おう。時間は十一時くらいでどうだ」
「そりゃ、いいですけど、……てか、なんですか、その遠い約束は」
「それまでに決めておけ」
 小田切は車を停めた。
「……決める?」
 何、を……。
 あさとは、彼を見上げている。
「……来なかったら、もうお前とは二度と会わない」
「…………」
     じゃあ……来たら?
 しばらく黙った後に、あさとは訊いた。
「どうして、あの場所なんですか」
 それだけで判る自分も不思議だった。
 何年か前、彼と二人で街の夜景を見下ろした場所   
 小田切はそれには答えなかった。
 春……三月二十五日。
 その日が琥珀と雅の結婚式だったことを、あさとはようやく思いだしていた。
 
 
   
 
 
 

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